後半高村パートはほぼオリジナルです。
夜の山道を、ヘッドライトが照らし出す。鬱蒼と茂った夏の緑が、コース外の夜闇を包み込んでいる。光の届かない遥か前方だけが、吸い込まれるように暗い。
走りながら空を見上げる。下弦の月を目前にしたこの夜、月はまだ上ってこない。太陽の残照はとうに消え失せ、頭上のヘッドライトの光すら貫いて、鮮烈な星の光が目に届く。
脚は、最近また痛むようになった。しばらく痛まなかったのに。でも、痛いくらいがちょうど良い。痛むくらいに自分を追い込まないと、次の菊花賞――3000mでは、勝てっこない。
川沿いの道と住宅街の中を通り抜ける北高尾アプローチトレイルを抜け、日影沢林道から城山天狗トレイルへと入っていく。よく整備された登山道を上り、途中の日影沢キャンプ場を経由して、城山方面へ。山が深くなり、アップダウン、平らな道、開けた道、狭い道、分かれ道、合流、木の根が張った道、砂利道、石段。バリエーション豊かな登山道の中、ペースを保って走る。息が上がって、鼓動が早まる。右わき腹に、刺すような痛みが走る。これで良い。
ベンチが設置された広場を通り抜けた。左の眼下には、真っ暗闇が横たわっている。構わず、頂上への道を進み続ける。休憩なんて、私には不要だ。
夜の山道は、昼間走るよりも長く感じる。昼間は遠くの景色が見えるから、自分の位置を把握できる。でも、夜の山道は遠くが見えない。レースによく似ている。自分を客観視できなければ、位置を見失って、勝てなくなる。でも、私に必要なのは、自分の位置を見失っても勝てる、圧倒的な強さだ。
一歩踏み出すたびに左脚に走る痛みを無視して、長い山道を走る。ようやく、小仏城山頂上手前の分岐に着いた。いつものように、左から上っていく。林間コースが終わり、ようやく頂上。
昼間は6割くらい埋まっている広場のベンチも、この時間帯は誰も居ない。独りきりだけど、それが心地良い。売店は閉まっているから、持参した水筒を取り出して水分補給をした。
南を向くと、神奈川県のほうの夜景の光が微かに見える。地上の星とでも言うべき、弱々しい光。そして、少し気の遅いはくちょう座流星群が、時折視界をかすめていく。夜景と星空を眺めて、何分かベンチに座っていると、妹に声を掛けられた。
「これが、お姉ちゃんが見ている景色?」
私は、振り返らずに答えた。
「・・・うん。そうだよ、
「綺麗だね」
妹は、しばらくの沈黙の後に、再び口を開いた。
「楽しいね、お姉ちゃん」
「え・・・?」
思わず、後ろを振り返った。広がる草原の中、勝負服姿で立つ妹は、笑っていた。
「去年から、本当にずっと、楽しい。お姉ちゃんが、私のために走り続けてくれたから。トゥインクル・シリーズにもデビューできたことも、GⅠレースを走れたことも、クラシック三冠に出れたことも、全部!・・・なのにお姉ちゃん、最近は謝ってばかりだね」
妹からそんなことを言ってもらえる資格は・・・ない。存在することさえ許されなかった妹のことを忘れ、ただ楽しみのために走ってしまったのは、自分自身の存在意義そのものに対する違反だ。
「・・・だって、私は、あなたのことを忘れて・・・楽しんでしまって・・・!」
「謝ることなんてない。言ったよね、私。ずっと楽しいって。だって――お姉ちゃんと一緒に楽しめたから。レースだけじゃない。トレーニングも、高校生活も、全部。それに、嬉しかったんだよ。お姉ちゃん自身が、純粋に楽しんでくれていたから」
「私はっ・・・あなたの為に走らないといけないのに・・・」
妹は、構わず話し続ける。
「トップロードさんと、オペラオーさん。それに、他のたくさんのライバルとのレースを走ったこと。目標に向けて導いてくれるトレーナーがいること。そして何より、お姉ちゃんが、私への償いのためじゃなくて、お姉ちゃん自身のために走ってくれたことが、私は嬉しかった」
違う。あなたに償う事が、私の生きる意味と目的そのもの。そして、願い。私自身だけの願いなんて、無い――あってはいけない。
「私はお姉ちゃんに、これからもずっと、自分自身のために走って欲しいな――私のためじゃなくて。だから、謝るのはこれでおしまい!」
6月、日本ダービーの後から、そのために走ってきたのに。――違う。生まれた時から、私はあなたのために存在してきたのに。
「そんなこと言わないで!あなたにも見放されたら――私は、何のために・・・!」
「違うよ、お姉ちゃん。見放すんじゃなくて、託すの。お姉ちゃんを見ているのは、私だけじゃないから。だってほら、空を見て」
「・・・え?」
空を、見上げた。涙にぼやける視界の向こう、空の裾が少しずつ明るくなっていく。星の光が蹴散らされ、空に藍色のグラデーションが描かれていく――日の出が、近い。
「私はここまで。これから先のお姉ちゃんを導けるのは、私じゃない」
「待って!」
妹は、いつのまにか姿を消していた。声だけが、聞こえる。
「お姉ちゃん。振り返らずに、前だけを見て――そうすれば、道は拓けるから――」
その刹那――遥かな東から、太陽が昇った。地平線の彼方から放たれた光の矢が、私の目を灼いていく。眩しい。眩しくて、目が痛い。
――やめて。私を照らさないで。こんな明るい所に、引きずり出さないで。
何も見えない。何も聞こえない。視界が、真っ白に染め上げられていく――。
高尾山口駅周辺の住宅街を抜け、高尾梅郷遊歩道へ入る。左側に小川のせせらぎを聞きながら、西へと向かう。街灯は少なく、ヘッドライトが照らす範囲は狭く頼りない。心細さが募っていく。
小仏関跡を前に左折し、公園を通り抜けていく。山の裾を通るようなコースを抜け、旧甲州街道へと入った。左手に高尾山の暗闇がそびえる、細長い住宅街の中を抜けるコースだ。夕飯時なのか、食欲をそそる匂いがあたりに立ち込めている。10分ほどすると、右手側に八王子ジャンクションが見えてきた。はるか上を立体交差していく圏央道をくぐり、僅かな客と空気を輸送している中央線の走行音を右側に聞きながら15分歩くと、日影沢林道入口。北高尾アプローチトレイルの終点だ。教え子は、さらに先へ行ったらしい。ここから先は、本格的なトレイルランコース、城山天狗トレイルを構成する林道となる。
夜空を見上げる。月はなく、星空が広がっている。スマートフォンで月齢カレンダーを見ると、月の出は21時41分。2時間近く先だ。全てを飲み込むような真の暗闇が、目の前に横たわっている。意を決して、その中へと足を踏み入れた。
湿った土と、微かな葉の匂い。少しだけ、気温が下がる。無数の虫の鳴き声が響く夜の山の中だ。ヘッドライトをつけていても、物の怪が出てくるのではないかと思うほど暗い。人間の本能に刻み込まれている、暗闇に対する恐怖を抑え込みながら、山道を進む。ヘッドライトには正体も知れない虫が群がって来て、不快極まりない。虫から逃げるようにして、足を速めた。
小走りで10分。数百メートルは山の中に入ったけど、教え子は未だ見つからない。勢いのまま学園を飛び出してここまで追跡したものの、仮に見つけられたとして、どうするべきなのかは分からない。護身術を掛けて制圧し、無理やりにでも学園に連れ帰り、クラス担任や学年主任、体育科主任と共に厳しく叱責するべきなのか。それとも、なんとか宥めて信頼関係の再構築をするべきなのか。正解は分からない。そもそも、北高尾アプローチトレイルから城山天狗トレイルを経て小仏城山頂上で折り返すというルート推測が合っているのかすら、分からない。もし発見できなかったら、どこへ捜索しに行けばいいのか。捜索範囲は、あまりにも広大だ。
――自分の判断を信じろ。視野狭窄を起こしている人間は、慣れたルートを辿るはず。
自分を落ち着かせ、足を前へと運び続ける。途中のキャンプ場で、キャンプ客を見つけたので目撃証言を訊ねると、一人のジャージ姿の女性が城山方面へ走っていったのを見たという。ただ、夜なので耳も顔も見えなかったとのことだった。ジャージ姿、というだけでも大収穫だ。今の状況では、アドマイヤベガと見て間違いない。
そのまま城山方面へと歩を進める。広い、砂利道。まだ転倒・転落するような道ではない。しかし小走りを続けると、だんだんと道が細く険しくなり、道の横には崖も現れ、危険度が増していく。アップダウンに平らな道、激しく幅が変わる山道、分かれ道と合流を経て、去年自分が転落した石段を越えた。しばらく走ると、ベンチが設置された広場に出た。脚を止め、吹き出る汗を袖でぬぐい、コンビニで買っておいたスポーツドリンクを一口飲んだ。山の中で気温は下がっても、湿度は高い。1分だけ休んだあと、再び走り出す。最近は晴れ続きだから、去年の6月と違ってぬかるみが無いことだけは幸いと言える。
両側に、深い夜闇が横たわる道へと出た。恐らくは、左右共に深い森。迷い込んだら命は無いはず。教え子が道を外れていないことだけを祈りながら、頂上へと向かい続ける。進行方向が西から東へと変わり、再び西へと変わり、上り坂が下り坂に転じる。
そして――小仏城山頂上の目前。擬木が埋め込まれた階段を上ったところで、特徴的なジャージを着た女性が、うつ伏せに横たわっているのが見えた。彼女のヘッドライトが、あらぬ方向を照らしている。
全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。慌てて駆け寄ろうとして、上級救命講習の内容を思い出す。救命者側の安全が最優先。周囲に、不審人物や野生動物が居ないかの確認を真っ先に行う必要がある。震える体を動かし、ジャージの女性の周囲に、人影も、野生動物の姿も無いことを確認する。自分の後ろ側も確認する。周囲に誰も居ない。不審者や野生動物による襲撃を受ける恐れは低い。
脚がもつれそうになりながら、ジャージ姿の女性に駆け寄る。ヘッドライトでその姿を照らすと、後ろに結んだ黒髪、長い耳が目に入る。脚や腕は曲がっていないから、派手な骨折はしていないはず。ゆっくりと身体を仰向けにさせてみると、その顔は、間違いなく
自分の息が早くなっていることに気付き、慌てて深呼吸をした。次にするべきことは、意識の確認。両肩を叩き、名前を呼んだ。
「おい、
返事は無い。失神している。慌てて、胸を見た。――微かに上下している。自発呼吸は続いている。口元に手を近づけると、規則正しい鼻息を確認できた。つまり、死戦期呼吸でなはい。次は、脈拍の確認。手首では脈を読み取りにくいから、首に手を当てた。ひやりとした感触のなか、かすかに脈動が伝わって来る。
震える息を、吐きだした。少なくとも、人工呼吸と心臓マッサージは必要なさそうだ。もし心肺停止していたら、誰かが通りかかることを期待できないこんな夜の山道で、絶望的な救命措置を続けることになっていた。さすがに、AEDは持ってきていない。
その時、ふと違和感に気付いた。ウマ、特に若年ウマの平熱は約37.6度。しかし、手先から伝わる首元の体温は、もっと低いように感じる。手を自分の首元に当てると、彼女の体温と同程度だった。・・・体温の低下が始まっている。どこか負傷しているのかと思い、全身をくまなく確認しているとき、ツンと鉄っぽい匂いが鼻を突いた。匂いは、頭の方から漂ってきている。慌ててライトでそちらを照らすと、黒い染みが頭の横の地面にあった。震える手で頭に触れると、べたりとした生暖かい感触。全身の毛が逆立つ。
急いで背中のリュックを脇に下ろして、取りだしたアルコールティッシュで手を拭いた。続いて、簡易ネックコルセットを取り出した。首を痛めているかもしれない。念の為準備しておいて正解だった。負傷部位に触れないように後頭部を手で支えながら、コルセットを巻きつけていく。片手だからやりにくい。首に触れないよう、コルセットを膝で慎重に支え、後ろのマジックテープを留めていく。次に、リュックから包帯を取り出した。髪を切っている時間的余裕はない。負傷部位を確認し、髪の上からきつく巻き付けていった。
応急処置は、一旦これで終わりだ。救助を呼ぶためにスマートフォンを取り出すと、圏外だった。胸ポケットに仕舞い込み、紙の地図を確認する。現在地は、小仏城山頂上手前。最寄りの登山口は、北の小仏駐車場。下山ルートは1.5km。一人なら、20分ほどで下れる。しかし失神した人間を抱えている場合、40分以上はかかるかもしれない。自分で搬送するか、それとも救助を呼びに電波が通じるところに行くか。
両者を天秤にかけ、自力での応急搬送を決断した。自分だけ携帯電話が通じるところに戻れば間に合わないかもしれない。トレーナー研修に含まれている上級救命講習は、この時のためにあるはず。ファイヤーマンズキャリーをすることに決めた。綾部の体を引っ張り、崖壁に上半身を持たれかけさせ、左腕を肩へと回させる。彼女の腹に頭を突っ込み、左太ももの下に右腕を差し込む。右掌に伝わる冷ややかな崖壁を頼りに、脚へ力を込める。重い。膝を軋ませながら、ようやく立ち上がる。右腕を崖から離し、彼女の右脚と右腕を支える。左肩に、胸の感触が伝わって来た。
――こんな命の危機に一体俺は何を考えているんだ、この
自分の頬を心の中で思いっきりひっぱたき、一歩踏み出した。
ここから小仏駐車場までは、頂上付近まで登ってから下ることになる。右側にそそり立つ崖壁を頼りに、次の一歩を踏み出し、勾配を上る。重心位置を意識し、足の指を精一杯開いて地面に付けていく。
途中、分岐点が現れた。地図を見ると、左に行くと頂上で、右に行くと小仏駐車場方面。迷わず、右へと進む。数十メートル行くと、左側に向かう道が分岐していた。この道は、確か頂上に向かっているから、無視して直進。この先は、開けていて崖壁を頼れない。木材が埋め込まれた階段、木の根が張った道、草の中に消えそうになっている細い道を、ライトだけを頼りに進んでいく。
ようやく、道が下り坂になり始めた。ゆっくりと、一歩ずつ下る。次の着地先をライトで照らし、落ち葉が積もっていないか、泥が溜まっていないか、石がないかを確認し、ゆっくりと左足、右足と踏み出していく。
喉が渇いた。空いている左手だけでリュックからスポーツドリンクを取り出し、口に運んだ。しかし、ぬるい中身を2口飲んだところで、ペットボトルは空になってしまった。
「クソッ!」
悪態をついて、ペットボトルを地面に叩きつける。背中の教え子の安否を確認したいけど、顔が遠いから、息が続いているのかも確認できない。少しでも早く麓に下ろしたいのに、山道だから時間がかかる。焦りだけが、募っていく。背中にじわじわと広がる感触は、綾部の血か自分の汗かも判別できず、ただ重くてぬるい。
搬送開始から何分たったのか分からない。スマートフォンを確認するとまだ10分だけど、もう1時間経った気がする。頂上手前の分岐から何m進んだのか分からない。100mかもしれないし、500mかもしれない。
ふとステータスバーの右端を見ると、そこには、2本の縦線が立っていた。
――電波が来ている!
慌てて電話を立ち上げた。救急車を呼ぶには119。119にかけるためには、何番を押せば良いのか、記憶を探るけど、答えが出てこない。
――何を考えているんだ俺は。
パニックになりかけている自分を認識し、深呼吸してから119をプッシュした。
“はい、119番消防署です。火事ですか?救急ですか?”
「きゅ・・・救急です!」
かすれる声で、必死に叫んだ。
“救急車が必要ですか?”
何を当然のことを聞いているのか。必要だから電話しているのに。
「必要です、早く!」
“では、現在地を教えて下さい”
「高尾山の、森の中です。小仏城山から下っている最中で・・・行先は・・・小仏駐車場です!」
“分かりました。あなたの名前は?”
「た、高村啓一です。そんなことより――」
“はい、高村さん。状況を教えてください”
やっと本題に入れる。言葉を整える余裕もなく、現状を訴える。
「小仏城山頂上付近で、トレイルラン中に倒れた生徒を発見して、今麓に向けて運んでいる最中です。生徒はウマの高校生で・・・教え子です!意識がなくて、頭から血を流していて、それと、体温低下も!」
“分かりました。今救急車を向かわせました。生徒さんは何歳ですか"
綾部は高校2年生だから、16か17のはず。誕生日は――思い出せない。
「16か、17歳――高2です!」
"分かりました。次に、高村さんがおかけの電話番号を教えてください”
必死に、自分の電話番号を思い出して口に出す。了承の返事が来て、電話は切れた。震える手で、スマートフォンの画面を消灯させて再び歩き出す。気温が少し高くなってきた気がする。麓が近いのかも知れない。
その時、勾配が急になった。スリップが怖い。後ろを向き、股越しにライトで先を見ながら進む。上下が逆転した視界が、判断を揺さぶる。急勾配を抜け、前に向き直る。必死に前方の暗闇を睨みながら、足を前へと進める。電話してから何分経ったのかも分からない。救急車は、本当に来ているのか。自分は正しいルートを下っているのか。頭の中を思考が支配する。
その時急に、木の根に脚を取られた。重心位置が高くなっているから、簡単に転倒しそうになる。一気に血の気が引き、慌てて手を伸ばして木を掴む。綾部の体が大きく傾き――なんとか踏みとどまった。何度も浅い呼吸をした。危ないところだった。もしこれで綾部を落としてしまっていたら――想像もしたくない。今後も常に木を頼れる状況だとは、限らない。余計な考え事をしていると、目の前の景色への注意が向かなくなる。
息を整え、再び足を前へと進めた。階段状に木材が埋め込まれた、曲がりくねった道を下っていく。何メートル下ったのか、何分経ったのかも分からない。その時、唐突に階段が終わった。道が開けて、東屋のような屋根と、ベンチが並ぶ広場に出た。頭を振って周囲を確認すると、石碑のようなものが目に入った。彫られている文字を確認しようと、近づいた。
"明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所"
地図を尻ポケットから取り出して、該当する場所がないか探す。
「見つけた」
地図によれば、小仏城山頂上からは800mほど。ようやく、中間地点を過ぎたあたりだ。
――これから、同じ分だけ歩かないといけないのか。
心が折れそうになるのを、必死で奮い立たせる。時刻を見ると、搬送開始から25分が経っていた。
広場の隅に見つけた下山道を進むこと、数十メートル。再び道が広くなった。ライトが照らす先には、なぜかタヌキの信楽焼が3体。ユーモラスな姿だけど、暗闇の中だと不気味さすら感じる。その横を通ると、案内板が右手に見えた。ポケットから地図を取り出し、照らし合わせる。どうやら分岐点のようだ。左手に行くと景信山・陣馬山に向かうトレイルランコース。右手に進むと小仏駐車場への下山ルート。
広場を、ライトで照らす。何も見えない。少しだけ頭を上げ、遠く照らしてようやく、トレイルランコースと下山ルートの分岐が見えた。ここで方向を間違えると、二人とも遭難死の可能性が高い。何度も地図を確認し、下山ルートのほうに進む。
左手には、壁のようにそそり立つ山の斜面。右手には、深い闇を湛えた谷。細く、頼りない山道を、少しでも左に寄って下り続ける。足元には石や砂利が散らばっていて、滑りやすい。脚に、力を込めた。
道は左右に曲がりくねり、もはや自分が北上しているのか、南下しているのか、方向感覚を完全に失ってしまった。確かなのは、山道を下っていることだけ。その時、急に足元の感覚がしっかりとしたものに変わった。下を見ると、それまでの石が転がる未舗装の道ではなく、溝が刻まれた、コンクリートの簡素な舗装が施された道になっていた。人里が近いはず。つづら折りになっている坂道を、ひたすら下る。
つづら折りが終わると、舗装は途切れて砂利道に変わってしまった。しかし、道は広く、勾配が緩やかになった。険しい山道という風情ではなく、遠くから車が走るような物音も聞こえてくる――幻聴でなければ。自然と、足が速くなった。背中の綾部は、意識を失ったままだ。早く病院に運ばないと、手遅れになるかもしれない。
悲鳴を上げている脚を動かしてしばらく歩くと、水音が聞こえてきた。近くを川が流れているのかもしれない。喉が渇いている。もう何十分も水分を口にしていない。川の水でも良いから飲みたい。水音がどこから響いているのか、周囲を探った。
そのとき、遠くから誰かの声が聞こえた。フクロウの鳴き声か、幻聴ではないかと思い、耳を澄ませる。しかし確かに、こちらの名前を呼んでいる。一歩ずつ、脚を踏み出す。何度目かも分からない曲がり角を過ぎると、遠くに、ライトの微かな明かりが見えた。その瞬間、全身を重力に捕らわれたかのように力が抜けていく。地面に伏し、抱えていた綾部の重みに押しつぶされながら、位置を知らせるために叫ぼうとした。しかし、喉からは乾いた音しか出てこない。『たすけて』のたった四文字すら発することができない。慌てて頭のヘッドライトをもぎ取り、滅茶苦茶に振り回す。涙に滲む視界の向こう、複数のライトが接近してくるのが見えた。
オレンジ色の服をきた人たちがこちらに走り寄り、声を掛けてきた。でも、何を言ってるのか分からない。音は耳に届いているけど、でたらめな音の羅列としか解釈できない。日本語を話しているとは、思えない。そもそも言葉なのかすらも怪しい。
やはり、これは幻聴・幻覚なのか――このまま二人揃って死ぬのか――。嫌だ、死にたくない、死なせたくない――