2週間の集合研修を終えた4月後半からは、
研修は、トレーナーとしてのキャリアパス・人事制度の詳細を最初に受講した。ここで初めて2年目以降の年収の詳細を知った。初年度基本給28万、初年度ボーナスは初年度3か月分で年収400万円、2年目以降はボーナスが6ヶ月分で年収500万円となり、さらに担当生徒と契約しているトレーナーに限ると裁量労働制となり固定残業代が支給され、人数に比例した
人事研修に続いて、3週間に渡るURA公認トレーナー講習を受け、さらに上級救命講習、護身術、一人または少人数の
一方で、着任してすぐにでも指導を始められると思っていた理想のトレーナー生活とのズレが大きくなりはじめたことを認識しだしていた5月末―。ようやく2か月の研修が終わり、翌6月1日をもって、
新人トレーナーの動きは、最初に担当する
大学時代のサークルの2学年上の先輩がトレーナーとして就職していたので、彼に担当
「杉崎さんはなんで中等部
そう尋ねてみた。トレーナーという職は、指導契約を結んだ
一方個人トレーナーの場合は、一人目を無事送り出して初めて複数の
そして中等部生徒は、競技参加期間が長い一方で自分の将来性が不安定であるため、実績がない新人トレーナーよりも、中堅以上のトレーナーに長い目で育成されることを望む。だから中等部
「俺1年目は
やや三白眼気味の、しかし親しみやすそうな顔からそんな言葉で出てきた。なるほど、後が無かったのか。そういえば、先輩は3年目なのに、契約
「あー・・・そういうことですか。契約生徒が長いこと見つからないと、教官コースのキャリアになりますもんね」
「そういうことだ。新人からずっと教官してると、生徒側からは専任トレーナーとしては避けられがちになる。それに向こうからスカウトしてきてさ。それで契約したんだ」
「向こうからスカウトですか。珍しいですね」
トレーナーと
「そういうことだ。それに、妹と同い年だったから放っておけなくてな」
「・・・先輩、裏口入学なのに要領良いんだか悪いんだか分からないですね」
「ふふ、裏口って言うな勝手口って言え」
裏口、というのは、大学の付属高校からの内部進学者に対する一般入試組からの揶揄である。要領が良い一方、自由な高校生活を送ったことに対する羨望や、大学受験を潜り抜けたことへの自負から、一般入試組からは見下される傾向にある。そして、内部進学者たちは、高校受験で高い倍率を勝ち抜き、長期間在籍している自分たちこそが正当な学生であるとして「勝手口」を自称している。もちろん、今回のやりとりは本気ではない。単なるじゃれあいのようなものだ。大学時代からのお決まりのやりとりでもある。
杉崎に別れを告げ、ターフに向かった。この時期、未契約
高村が、ターフ利用申請が出ている生徒の名簿を業務用スマートフォンで確認しているときだった。後ろの座席の方から、中堅トレーナーたちの声が聞こえてきた。
「おおっ!今の末脚のキレ、素晴らしいな!」
しまった、名簿を見ていて競技の方から目を外してしまっていた。誰のことを話しているんだ、と思ったら、思わぬ助け船が現れた。
「仕掛けどころも見極めも抜群。アドマイヤベガ、ますます今後の選抜が楽しみですね」
アドマイヤベガ。慌てて名簿表示順をあいうえお順に変更し、上の方を確認する。
・・・あった。アドマイヤベガ。アドマイヤというのは、おそらくは冠名。有名な冠名でもある。小学生対象のウマ専門レースクラブ「近藤シューティングスターズ」出身であることを示すもので、既に何人もの重賞馬を輩出している名門だ。相当な有望株に違いない。学年は・・・高等部1年生。
高等部?
おかしい。「アドマイヤ」を冠し、中堅トレーナーたちがざわめくほどの資質を持つようなウマなら、既に中等部時代に担当トレーナーを獲得しているはず。なぜ高等部でありながら担当トレーナーが居ないのか。そこまで考え、ふと理由に思い至る。慌てて生徒情報確認アプリを立ち上げる。IDとパスワードの入力を求められた。くそ、もどかしい。
「アドマイヤベガ, 高等部1年A組所属, 入学区分:高等部一般入試」
やはりだ。高等部入試は、中等部入試より遥かに厳しい資質検査が実施される。高等部卒業まで3年しかない以上は当然である。その入試を潜り抜けた一人が、アドマイヤベガだ。中等部入学をしていない理由が気になったが、重要な問題ではない。相当な有望株であることには間違いない。指導契約の倍率は高いだろうが、有力候補の一人に入れておいて損はない。
ターフに目をやる。アドマイヤベガらしき
評判通り、素晴らしい加速力だ。そして、モチベーションも高い。
どんな
夕日が長い影を落とす観客席を抜けて、
調べていたのは、アドマイヤベガの過去についてだ。高等部1年で入学したてだから、学内の情報は、入試成績のうち体育実技の成績くらいしか分からない。それ以外の情報へのアクセス権限はトレーナーには無い。だが、一つだけ面白いことが分かった。彼女は、中等部入試も受けていた。しかし、体育実技ではタイムが伸びず、不合格となっていた。そして、もう1つ。アドマイヤという冠名から思い当たった、近藤シューティングスターズの公式サイトからも情報が得られた。写真こそ掲載されていないが、彼女は確かに過去の所属者一覧に掲載されていた。所属時期と年齢も一致する。ポニーカップでの成績も掲載されていて、相当に競技成績もよかったらしい。
――精神面に不安があるか?
近藤シューティングスターズでの優秀な競技成績と、中等部不合格という事実。これはおそらく、本番に弱い、緊張しがちな人間であることを示している。だが、厳しい高等部入試を潜り抜けていることから、そこは克服したのかもしれない。
なんにせよ、選抜レースの結果を見てからだな。
そう考え、パソコンの電源を切った。もう19時40分を過ぎている。トレーナー寮に帰らないと。教員室を出ようとしたが、フロア最終退出者になってしまったようだ。教員室の照明を全て落とし、退出チェックリストを確認して署名し、施錠して退出した。
すっかり日も落ち、東京特有の弱々しい星空に覆われたターフには、誰も居ないように見える。だが、一人だけ練習を続けている
――あれは、アドマイヤベガだ。まだやっていたのか。
そのペースに衰えは見られない。さすがはウマ、なんという体力だろう。だが、その様子は、何かに追い立てられているようにも見えた。
10分ほど見守っていると、彼女の足が止まった。さすがに疲弊したらしい。膝に手をつき、前かがみになる。肩が大きく上下する。そうやって、しばらくクールダウンを続け、ようやく息が落ち着いた。彼女は背筋を急に伸ばすと、口を閉じて上を向いた。目線の先は空だ。瞳に星が映り込む。表情からは、感情は読み取れない。まるで、星空ではなく、その先にあるものを見ようとしているかのようにも見える。
彼女の姿からは、勝利への渇望というよりも、何か悲壮な覚悟が感じられた。
いくらモチベーションが高くても、休養しないと良い成績は取れない。だが、そんな当たり前のことすら考えられないほどに追い詰められる何かがあるのかもしれない。
「・・・大丈夫か?」
彼女の目が、こちらをゆっくりと捉える。
「え?」
「・・・随分と長く練習をしているようだったから」
なぜ、彼女のことをそこまで気にしたのかはよく分からなかった。
「・・・平気です。いつもやっていることですから」
「いつもこんな時間まで?」
「だいたいは」
「きつくはないの?」
「・・・いえ、勝つために必要なことですから。私は、勝つ。走って、勝つ。勝ち続ける。それだけです。トレーナーとしてお話があるなら、選抜レースのあとでお願いします。・・・では」
その瞬間、夜間練習用の照明が落ちた。夜、8時。アドマイヤベガは、ゆっくりとターフから去り、夜闇に溶けるようにして、生徒寮へと帰って行った。なんとなく目を逸らせず、彼女が見えなくなるまで見送ってしまった。何かひどく重い覚悟を背負い、身を削るようにして練習に身をささげる様子が、心に残った。
数日後。レース当日、14時。
夏の選抜レース、午後の部。
ターフ横の観客席にはトレーナー陣が詰めかけ、期待の目線を送っていた。将来のスター誕生の場ということもあり、メディア取材や実況まで行われている本番レースさながらの空気だ。
周囲の話題は、もちろんアドマイヤベガだ。高等部入学組、そしてアドマイヤ冠名ということもあり、新人トレーナーからベテラントレーナーまで皆視線をアドマイヤベガに送っているのが分かる。自分もまた、確かにアドマイヤベガには期待している。午前中から通して観ていても、アドマイヤベガは頭一つ抜けた存在に思える。
だが、先日垣間見た、彼女の危うさがどうしても気になる。・・・嫌な予感がする。
中距離部門に出走している
14名がゲートに入る。場内の緊張が一気に高まった。
僅かな沈黙ののち、ゲートが開き、レースがスタートした。彼女らの競技人生を運命づける1600m走が始まった。
アドマイヤベガに注目する。彼女のゼッケン番号は、1番。
「さあスタートしました。14名、中央トレセン夏の選抜レース午後の部。まず飛び出したのは11番―」
先頭集団が飛び出していく。その後ろに食らいつくようにして、アドマイヤベガが追いすがる。現在、次位集団の先頭。そしてじわじわと位置が遅れ、3位集団に飲み込まれようとしていく。だが、そこから粘り続ける。カーブに入ると、内側を維持し、無駄な距離を走らない堅実な走りを見せた。そして、位置を維持したまま第4コーナーへと突入していく。
「さあ、いよいよ第4コーナー曲がりまして最後の直線。ハナを切ったのは9番、注目のアドマイヤベガは現在5番手」
アドマイヤベガが、勝負に出た。前方の僅かな隙間を抜けるようにして内に出て、4位。だが――
「まずい」
思わず、小さな声が出た。周囲のトレーナーたちもざわめく。もしかすると、今のは進路妨害になるかもしれない。
だが、レースは続く。アドマイヤベガは、内から3位選手を抜かすと、そのまま一気に加速し、1位・2位の間を割り込むようにしてゴールへと駆け込んでいく。
「ゴール!夏の選抜レース午後の部、一着はアドマイヤベガ!」
最後の直線の恐るべき加速。その凄まじさに、トレーナー以外の観客が一斉に沸き立つ。だが、それはすぐに不穏なざわめきへと転化した。
「ただいまのレースにつきましてお知らせです。1番アドマイヤベガ、最終直線での斜行を進路妨害と認定、4位に降着とします」
やはりか。昨日見せた精神的な危うさといい、やはり本番に弱い点は、克服できていないようだ。周囲のトレーナー陣も首を振り、それぞれ別の生徒との契約に向けて動き出したようだ。だが、高村はアドマイヤベガから目を離せなかった。すると―
アドマイヤベガは、一瞬俯くと、どこかへと走り出していってしまった。目で追う。行先は、校舎や生徒寮の方向ではない。そのまましばらく見ていると、裏門の方へ駆けていくのが見えた。
――まずいな。
多感な思春期だ。衝動的に学外に出て、事件や事故を起こす可能性がある。そうでなくとも、失踪、自殺、遭難なども考えられる。
周囲を見渡すと、誰もアドマイヤベガのことを気にかけている様子はない。アドマイヤベガのことを気にしているのは、自分だけだ。
――誰もあいつのことを気にしてないのか?
一緒に朝から選抜レースを見に来ていた同期の方を振り返ると、彼は目当ての生徒のもとに行き、ベテラン・中堅トレーナーたちに混じって名刺を渡そうとしている最中だった。
――あいつを放っておけない。俺が対応するしかないのか。
そう考え、走り出した。行先の当てはないが、生徒たちなら何か知っているかもしれない。生徒を探して校舎へと向かった。
用語解説 『トレーナー記章』
URAの認証を受け、競技指導を行う資格を有することを示す記章。トレーナーライセンスはあくまで民間ライセンスであるため法的効力を持たず、さらにライセンスカードが別途存在するため、記章は身分証としての役割を持たず、着用義務もない。
デザインは星と蹄鉄をあしらったもの。
銅製三ツ星は1人まで指導可能な個人トレーナー、銀製二つ星は5人まで指導可能な中規模チームトレーナー、銀製金メッキ一つ星は指導対象人数に制限が無い大規模チームトレーナーであることを示す。