病室に駆け付けてきた医師による検査が進むのを、デイルームで待っていた。綾部の両親に連絡を入れてからしばらくすると、遠くから慌てた足音が聞こえ、綾部の両親が病室へと走り去るのが一瞬だけ見えた。そして約十分後、両親もデイルームにやってきた。
「高村トレーナー」
母親に、声を掛けられる。こちらを探していたらしい。
「娘は、事故の時の記憶の混乱がある程度で、それ以外に異常は無いそうです」
「・・・そうですか。良かった」
直後、両親がそろって頭を下げてきた。
「娘は、あと数時間発見が遅かったらどうなっていたか分からなかったそうです。そして高村トレーナーの応急処置が適切だったからこそ、後遺症もなく回復できたそうです。この度は、本当に何とお礼を申し上げればよいか・・・」
「・・・頭を下げてお礼を言われる資格は、自分にはありません。トレセンのトレーナーは、皆救命講習を受講しています。自分でなくても、トレーナーであれば誰でもあの対応はできます。自分は、娘さんの行動を制止しきれなかった・・・トレーナー失格です」
こちらも深く、頭を下げた。
「改めて、今回は本当に申し訳ありませんでした」
そして、綾部の両親と三人で、病室へと戻った。4日ぶりに言葉を交わした綾部は、どこか存在感が希薄で、抜け殻のようにも見えた。泣きながら娘の覚醒を喜んでいた両親は、しばらくした後に綾部の着替えを取りに行くため家へと帰っていった。再び、病室で綾部と二人。彼女は、気まずそうに目を逸らしている。
声を掛けるべきか、悩んだ。昏睡から覚めたばかりという状態を考えると、混乱させてしまうかもしれない。それでも、言わずにはいられなかった。
「・・・だから、あれほど過剰な自主練はやめろと・・・何度も言ったはずだ。夜の山道で倒れている君を見つけたときに、俺がどう感じたか、分かるか」
綾部の顔が、下を向いた。表情が髪で隠れる。一度出てしまった言葉は、止まらない。
「頭から血を流している君を、必死になって手当した。携帯電話も繋がらないから、君を麓まで背負って下ろした・・・険しい山道を、ろくに明かりもない中で。だんだん冷たくなっていく君を抱えながら、二人揃って谷に転落したらどうしよう、下山に成功しても君が死んだらどうしようって、ずっと考えていたんだ。実際途中で何度か転びかけた」
彼女の顔から、涙がこぼれ始めた。こちらも泣き出してしまいそうになるのを、必死に抑える。
「なんとか救急隊に君を引き渡して、病院で命に別状は無いと聞いたのに、受付では面会謝絶だと言われて・・・訳も分からずお母さんに状況を訊ねてみたら、昏睡状態で・・・せっかく助けた命が、消えてしまうかも知れないと知って、俺がどれだけ後悔したか、分かるか。3日も目を覚まさない君を、ご両親と交代で見守ったんだ。俺が、君のご両親が・・・どれだけ心配したと思ってる」
「・・・ごめん・・・なさい」
蚊の囁くような、綾部の声が聞こえてきた。
「次、また過剰な自主練をしてみろ。俺は菊花賞への出走を取り消す。君の健康に関する責任は、少なくとも学園では俺にかかってる」
その後綾部は、しばらく泣き続けた。涙の理由は分からない。迷惑をかけてしまったことへの罪悪感なのか、それとも『”あの子”に見放された』という悪夢による絶望感なのか。でも、これ以上彼女を叱ることも、問い詰めることもできなかった。こちらの言葉は、届いたと思ったから。
彼女の涙が止まるのを待ち、枕元のティッシュ箱を渡した。そして、ベッド脇の椅子から立ち上がった。
「去年は俺が高尾山で助けられた・・・これで貸し借り無しだな」
綾部は、気まずそうな微笑を浮かべた。それを見て、ドアへと歩みを進めた。これ以上、この部屋にいる理由もない。ドアを開ける直前、伝えなければならない現実だけを伝えることにした。
「これから学園に君の回復を報告してくる。場合によっては俺は責任を問われて懲戒解雇もありえる。そうなれば当然、君はトゥインクルシリーズへの出場権を失う。脅しでも何でもない。覚悟しておいて欲しい」
反応を確認せず、足早に病室を出た。廊下の角を曲がったところで壁に背を付け、教え子が後遺症もなく回復してくれたことへの安堵を噛み締めた。
そして、今後のことも考えた。最悪の場合は、懲戒解雇。そうでなくとも、契約解除は免れないだろう。仕方がない。指導者でありながら、教え子の逸脱行動を制止しきれなかったのは事実だ。指導者失格の烙印は免れないだろう。それより懸念するべきは、綾部の今後。レース参加権を失った彼女が、どんな行動に出るか分からない。失望の末に、破滅の道を歩むかもしれない。それだけは、絶対に避けたい。
ここから先は大人の
「すべては、自分の指導力不足によるものです。全責任は自分にあります」
学園長、理事長、学年主任、クラス担任、体育科主任が顔をそろえた会議室で、事態の報告をしたのち、頭を下げた。この事態を招いたのは、自分の責任であると。下げた頭の上から、学園長が静かに言葉を投げかけてきた。
「生徒に対する責任感の強さは君の美点だと考えている。しかし君一人が自己申告で責任を負って終わりとすることを許せば、臭いものに蓋をするだけだ。全てを自分で背負い込もうとするのは、美徳ではない。それに、今回の事案の責任がどこにあるかを決めるのは、君ではない。事態の検証と、責任の所在解明と、再発防止を図るため、既に学内で調査委員を組織している。これから君のこれまでの全指導資料を提出してもらう。当然、パソコンも。生徒、教職員、保護者に対する聞き取り調査も実施予定だ。その間、自宅待機とする。君も調査対象であるため、電話には出られる状態にしておくことを求める」
「・・・はい」
綾部の次のトレーナー確保に関する交渉など、切り出せる状況ではなかった。重大事態であることは認識していたけれど、その現実を目の当たりにする覚悟はできていなかった。『ここから先は大人の
重い足取りで体育科主任と共に
自室の中、時折かかって来る電話での聞き取り調査以外には特にすることがない日々が続く。念のため、転職先探しを始めた。懲戒解雇なら、次の就職先探しは難航するだろう。特に教員を続けることは難しいかもしれないから、民間企業も視野に入れることにした。新卒2年目なら、第二新卒扱いしてもらえるかもしれない。大学のサークルや研究室の同期たちがどこに就職したのかを思い出しながら、転職サイトを眺め続けた。
そして自宅待機発令から10日後の月曜日、出勤命令が出された。会議室で伝えられた処分内容に、耳を疑った。
「・・・本当ですか?」
「嘘を言う訳ないだろう。それとも、さらに重い処分を望むか?異議申し立てなら受け付けるが」
「いえ、そういうわけでは・・・」
驚きを隠し切れずにいるところに、さらに追い打ちを掛けられた。
「それと、担当生徒の処分に関しては、君の口から伝えなさい」
「・・・分かりました」
きっとこちらに拒否権は無いのだろう。現実を噛み締めながら学園を出て、綾部が入院している病室へと向かった。
「俺の懲戒処分が決まった。それと、綾部の処分も」
「・・・」
綾部は、肩と目線を落としている。これから伝える言葉の重みを、覚悟しているらしい。
「俺は
「・・・契約は?」
「契約は、とりあえず継続になった。だけど、この一件で完全に目を付けられている。何かまたトラブルがあったら、今度こそ本当に強制解除かも知れない」
「・・・ごめんなさい」
「謝罪はもういい。俺の人事評価にも、綾部の成績表にも、傷がついた。だから、菊花賞では真っ当な努力で優勝を果たしてくれ。そうすればマイナスを取り戻せるかもしれない」
「・・・はい」
何か気遣いの言葉を掛けるべきかと思ったけれど、止めておいた。今の彼女の状況を考えると、適切な言葉が出てこなかったからだ。
伝えるべきことは、全て伝えた。無理に余計なことを言うべきではない。病室を出て、学園へと戻った。思いのほか軽い処分になってしまい、拍子抜けだった。しかし、これは思いもしなかった機会でもある。トレーナー室の椅子に深く腰掛け、二度とトラブルが起きないように今後の指導方針の立案を進めた。綾部の競技キャリアと、自分のトレーナーキャリアの両方が、それに懸かっている。
会議室で渡された懲戒処分通知書を鞄から取り出し、眺めた。
『懲戒処分通知書
体育科所属競走競技指導教員 高村啓一 殿
貴殿は、指導契約生徒の度重なる指導逸脱および問題行動に対する十分な指導を行わず、結果として当該生徒が生命の危険に晒されるという重大事態を引き起こした。
一方で、調査委員会による調査の結果、貴殿が当該生徒に対して警告を含む指導を継続的に行い、問題行動の抑制および重大事態の未然防止に努めていた事実が確認された。また、当該生徒が高尾山で転倒・失神した際、貴殿は迅速な捜索と適切な応急処置・搬送を行い、指導者としての救護義務を履行したことも確認された。
以上を総合的に勘案し、貴殿に対し、教職員就業規則第32条第3項に基づき譴責処分を科す。よって、再発防止策を盛り込んだ始末書を作成・提出することを命ずる』
これは、自分の指導に対する明確なバツ印だ。新任トレーナーが生徒に対する対処を誤った末の、当然の帰結。これを忘れるわけにはいかない。机の中に仕舞い込むのではなく、室内に掲示することにした。
テープを引き出しから取り出し、壁に通知書を貼り付ける。今後対処に迷った時のための戒めとしなければならない。そうでなければ、綾部との契約が継続となった意味がない。