星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第五章 -近日点通過-
第五章第一節 "接近軌道"


 9月最終週、後期が始まった。始業式は学園長の挨拶から始まり、夏休み期間中に開催されたレースの上位入賞者の表彰が行われた。その後、各クラスでの挨拶となり、それが終わると、各トレーナーの指導が始まる。綾部は運動禁止令があと2日残っているから、指導方針の伝達だけ行った。

 

「今まではある程度自主性を尊重してきたけど、その結果があの事故だ。残念だけど、綾部の自主性を尊重することはできない。今後は管理主義が強まることは覚悟してほしい。異議があるなら都度俺に直接言うか、言いにくい内容ならインストラクターの児玉かスクールカウンセラーの渡辺先生を通じて間接的に伝えてきても良い」

「はい」

 

 さすがに最初から異議申し立ては無いらしい。死線を彷徨う経験をしてなお『一人で練習させろ』なんて言って来た時の対応も考えてはおいたけど、無駄になって良かった。これまでの指導逸脱を反省してくれているようだ。

 

 10月初旬の京都新聞杯は、出走登録を見送らざるを得なかった。運動禁止令明け直後という時期に、本番レースは走らせられない。今できることは、11月の菊花賞の出走枠が綾部に回って来ることを信じてトレーニングを積ませることだけ。そして、そのトレーニングには事故防止のための制約を掛けざるを得なかった。

 ジムとプールには事前に話を通して、綾部の利用を制限してもらった。担当トレーナーの承認が確認できなければ利用禁止。専用の申請システムがあるわけではないから、業務用チャット(Members)で事前申請を出させて、こちらが『承認します』と送信することでその代替とした。ターフは綾部の利用申請権限を停止してもらい、今後はトレーナーの自分が利用申請を一括で行う体制にした。業務負荷が高くなるけれど、仕方がない。そして土日の運動は厳禁。カレンチャンだけではなく、退院祝いのキャンプに来ていた3人、そしてクラス担任と学年主任にも話を通し、管理外の自主トレをしないように監視体制を敷いた。友人たち4人は心理的に綾部に寄り添ってしまって隠蔽に協力することもあり得るけど、何もしないのは怠慢だ。やれることは全部やることにした。指示違反が発覚したら即菊花賞への出走方針は撤回すると本人には通告してある。

 

 運動禁止令が明けた直後は、プールトレーニングから始めさせた。浮力が働くから全身への負担が小さく、負傷リスクが低い。溺れるリスクもあるけど、監視員がいるからターフで倒れられるよりはマシだ。プールの側まで行って逐一指示・監視することもできるけど、止めておいた。水着姿の女子中高生がたくさん居るところに行きたくないし、単に筋肉の使い方を見ているだけのつもりでも本人に理解してもらえないリスクもある。何より一番怖いのは、視線が本当にあらぬ方向に滑ってしまい言い逃れ出来ない状況が発生することだ。小学生以下の子供なら何も意識することはないけど、さすがに中高生だと話が違ってくる。だから、プールトレーニング中は2階の観客席から窓越しに監視しつつ、事務仕事をやることにした。水泳選手じゃないから、管理するのは時間と消費カロリーだけで良い。

 10月に入り、後期2週目。児玉の元でのダンスレッスンも再開させた。腹筋を使う筋トレに関しては術後1〜2ヶ月が目安らしく、個人差がある。安全策をとって菊花賞直前に解禁することにした。それまでは腹筋を使った筋トレを行わないよう、ジムの室外見学席から監視を行い続けた。後期3週目からは、少しずつ走り込み練習もやらせていく。

 意外なことに、走り込みのタイムは予想よりも落ちていなかった。2000mを131秒92。さすがに10代だけある。とはいえ、クラシック三冠レースでは最下位確定のタイムだ。特に、菊花賞は3000m。2000mで132秒弱なら、3000mには単純計算で3分18秒ほどかかる。一方で去年の菊花賞優勝タイムは3分3秒2。綾部の体力を回復させるだけではなく、増加させる必要がある。頭が痛い。

 

 京都新聞杯は、ナリタトップロードが1位だった。距離は2200m、タイムは2分12秒3。綾部が出走していたら、結果はどうなっていただろうか。考えても仕方のないことを考えてしまう。

 

 10月末、筋力が回復したころを見計らい、プールトレーニングの比重を下げ、低酸素トレーニングと走り込み練習へと本格的に移行していく。メイショウドトウやハッピーミーク相手の併走では負けが続くものの、タイムは2000m126秒台後半まで回復してきた。そして、ここから本格的に3000mに向けた練習メニューへと切り替えることにした。次のレースが2000mなら、そのままスピード重視のトレーニングを続ける。しかし菊花賞が3000mである以上、トップスピードよりスピード持久力を重視した長距離向けトレーニングを積ませなければならない。菊花賞まで、時間は無い。純粋な体力養成だけでは間に合わない可能性もあるから、フォーム改善も併せて実施していく。トレーニング時の走行フォームを動画撮影したあと、トレーナー室に綾部を呼び出した。

 

「ストライドをもっと大きく。ナリタトップロードみたいに」

 

 過去の並走練習動画から作成した二人の比較画像を表示し、要改善項目の指摘を進めていく。3000mという距離では、2000mよりもランニングエコノミーが重要になる。ウマ陸上、男子陸上、女子陸上いずれにおいても、距離が延びるほど総走行時間に占める接地時間の割合が低い選手の成績が良い。綾部はこれまで2000m前後での競技に適した走り方をしてきたから、そのままでは勝てない。

 

「地面を蹴った脚を一度大きく後ろにスイングさせて、そのあと膝だけを引き戻すようにして脚を前に戻すんだ。脚を畳むような形になるから、上がった足先が股関節付近を通過して、脚の慣性モーメントが小さくなる。だから体力を消耗せずにストライドと速度を長時間維持できる」

 

 URAや日本陸上競技連合(JAAL)のコーチングブック、スポーツ科学の論文を参考に、イラストも交えながらトレーナー室での指導を行っていく。モニターを見つめる綾部の顔は真剣そのものだった。聞き慣れない単語が出てくると、そのたびに単語の定義の説明を求めてくる。

 

「慣性モーメントって?」

 

 普段から当たり前のように資料で目にしている単語に疑問が飛んできて、一瞬沈黙してしまった。そういえば、慣性モーメントを習うのは大学低学年の基礎物理のはず。高校物理では基本的に質点の運動しか扱わない。ホワイトボードに絵を書いて説明することにした。

 

「・・・一言で言うと、物体の回転運動しにくさを表す物理量。例えば、重さの無視できる長さLの棒の端に質量mの質点がくっついているとして、その棒の反対側の端を中心として回転させるとき、慣性モーメントの大きさは$mL^{2}$となる。式から分かるように、質量が同じでも回転中心から質点までの長さが変われば慣性モーメントの値は変わる。慣性モーメントが大きいほど、回転させるのに必要な力も増える」

 

 綾部の反応を見ると、目線が左上を向いている。いまいちピンと来ていないようだ。数式は理解しているものの、それを物理現象に結び付けた理解をできていないらしい。何かいい説明道具が無いかとトレーナー室を見回し、ふと思い出した。1階の集合教員室の工具箱に、丁度いいのがあったはず。

 

「ちょっと待ってて」

 

 それだけ伝え、集合教員室に急いだ。目当てはハンマーだ。質量が打撃部に集中しているから、慣性モーメントの説明に丁度いい。

 工具箱の横にある申請書に、氏名・目的・持ち出し場所・持ち出し日と返却予定日を記入する。ハンマーを持ち出し、トレーナー室に戻った。

 

「まず普通に持ち手をもって、軽く振って。手は離すなよ、飛んだら危ないから」

 

 綾部は、ハンマーを軽く空中で振り回す。表情は怪訝そうだ。

 

「次に打撃部分を持って同じように振ってみて」

 

 綾部は怪訝そうな表情のまま、打撃部に手を持ち換えてハンマーを軽く振るう。一瞬で表情が変わった。

 

「あ、動かしやすい」

「それが慣性モーメントだ。質量が同じでも、重心位置が回転中心に近いほど動かしやすくなる。脚も同じだ」

 

 綾部の表情を伺う。数式と物理現象が繋がったという顔をしている。

 

「脚を伸ばしながら前に戻すより、畳みながら戻した方が早い。慣性モーメントが小さいからだ。そして慣性モーメントが小さければ、同じ動きをする場合でも消費エネルギーが少なくて済む。だから体力を後半まで維持できる。最後は残った体力を尽くして追込みを掛け、上位陣を抜かすんだ」

「はい」

 

 相変わらず、学力の高さがありがたい。指導要領範囲外の概念であっても、説明すれば理解してくれる。引退後の進路をどう考えているのか知らないけれど、難関大学も狙えるだろう。

 


 

 11月。保健室での定期検査では、最大酸素摂取量(VO2Max)は215ml/kg/分。3月の弥生賞直前と同程度の値に戻ってきている。そして、菊花賞の出走枠は幸いにも綾部に回って来た。プールトレーニングからは引き上げることにして、予約しておいた低酸素室へと綾部を呼び出した。

 

「菊花賞の出走枠が回って来た。腹筋を使う筋トレを解禁する。来週水曜日までは低酸素室での筋トレと、走り込みトレーニングをやる。自主練も今週の土曜日だけ、学内でして良い。来週の木曜日は軽い練習で済ませて、金曜日と土曜日は休養。日曜日の本番までの超回復の時間を確保する」

「分かりました」

 

 菊花賞出走が決定した綾部の表情には、安堵と緊張、そしてクラシック三冠最終戦に向けた覚悟が滲んでいるように見えた。夏の事故前の、焦燥と拒絶が入り混じった表情ではない。

 菊花賞で勝てるかは、分からない。それでも、制約の中で出来ることは全てやらせたい。そうしなければ、本人の中に悔いが残るだろうから。

 そして平日8日間の本格的な練習を経た木曜日。菊花賞前最後の保健室検診の結果が養護教員から送信されてきた。BMI、体脂肪率はいずれも規定値をクリアし、最大酸素摂取量(VO2Max)は220 ml/kg/分で、ギリギリ目標値。間に合わない可能性が高いと思っていたものの、意外にも目標を達成した。夏休み明け以降、運動量と食事を徹底的に管理する指導体制というのは互いにストレスと疲労を抱え込むことになったはず。時間的にも、安全面の観点からも、練習量を稼ぎにくい中ここまで持ってこられたのは、かなり難易度が高かった。もう一度やれと言われても、出来ないかもしれない。検査結果の報告をパソコンで見ながら、深い息をついた。

 トレーナーとして、やれることは全てやった。あとは、綾部本人に全てを託すほかない。

 

 

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