星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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RTTTの4話冒頭にあった三強の菊花賞直前特集番組へのアドマイヤベガ出演は、高村がトレセン広報部職員に掛け合って白紙にさせました。

「手術明け2ヶ月、本番直前という状況で心理的に不安定なので、トラブル防止のためにも余計な雑音を聞かせたくありません。担当トレーナーとしてはテレビ出演に同意できません」


第五章第二節 ”菊花賞”

 土曜日、午後。新横浜駅から東海道新幹線に乗り込み、一路西へ。10号車2番D席が自分、9号車14番A席が綾部。当然、トラブル防止のためグリーン車。1年前のエリカ賞以来の関西遠征となる。車窓に見える太陽は列車を追い越して行き、2時間半後には夕暮れに染まる京都駅へと辿り着いた。巨大な吹き抜けのコンコースを通り、京都タワーが見下ろす街へ。目的地は駅前のビジネスホテル。チェックインを済ませ、翌朝10時までしばしの別れとなる。

 

 翌朝、朝食を済ませ、10時丁度にチェックアウトして再び京都駅へ。JR奈良線で東福寺駅に向かい、京阪本線に乗り換え約20分で京都レース場。半年以上続いたクラシック戦線の最終戦、菊花賞。挽回できる『次』は無く、どのような結果となろうとも、これが最後となる。綾部は未だ一勝も手にできておらず、さらに開腹手術明けで体力回復はギリギリ。勝てなくとも不自然ではないというより、勝てる方が奇跡に近い。それでも、トレーナーとして、教え子の前で弱音は吐けない。勝てるつもりでいなければならない。これまでの本番レースと同じように、控室で他選手の情報やレース場の特徴、走行中の注意点、そしてレース戦略の最終確認を進めていく。

 

 菊花賞は3000mという長距離。とにかくインを保って無駄な距離を走らず体力温存を徹底する。そしてインを走るために、終盤までは下位に控える。副次効果としてスリップストリームによる体力温存も狙える。そして、第三コーナーに入る前にやや外に出るか隙間を縫って首位集団を抜かし、最終直線までに再度インへと入り込むのが基本戦略。その後は、速度を維持して最後まで走り抜ける。『追い込み』よりは『差し』に近い。

綾部の体力は不足している。スピード持久力はなんとか仕上がったものの、トップスピードは落ちている。だから早めに勝負を仕掛けて先に前方へ進出し、その後は後方をブロックしてしまえば、トップスピードを出さないまま勝利を狙えると考えた。ただ、やはり話は単純ではない。今回の出走選手に逃げ型は不在で、追い込み型ばかり。綾部にとってはやりにくいレースとなり、勝負を仕掛けるタイミングは難しくなる。しかしそれは他の選手も同様。もしもライバルたちが序盤からスローペースで走るのであればのであれば、こちらはそれを体力温存に利用させてもらうまで。そうすれば、体力の不利は消える。

 

 これは、チキンレースだ。勝負を仕掛けるタイミングが早過ぎるとゴール前で体力を使い果たす。かといって判断が遅れると、加速に必要な距離が足りずに勝てない。

 最初に勝負を仕掛ける選手は、ハイリスクハイリターンな役回りを演じることになる。しかし、綾部にそのリスクは取らせたくない。だから、2番目に動くように指示した。序盤は徹底的に後ろに控え、焦った他の選手が最初に動くのを待つ。それに呼応して勝負を仕掛け、前へ出る。それ以外に勝機は無い。考えられる動きを何パターンか記入したイラストをもとにした説明が終わったころ、応援観戦に来ていたカレンチャンが控室へ激励に訪れてきた。これまでと同様、友人同士の会話を邪魔しないように廊下で待ち、二人が出てくるのを待ってから施錠する。教え子をパドックへと送り出し、関係者席へと重い足を運んだ。

 

 勝って欲しいのか、怪我さえなければ良いのか。自分でも分からない。教え子が、自らに絶望しない結果でありさえすれば良いと思うものの、それは1位しかありえないのかもしれない。腕を組んで、準備が進むターフを睨みつけた。出走者は15名。綾部は、外から2番目。インに入るには、最初から思い切った低速で走り出す必要がある。

 


 

 地下道で、オペラオーがトップロードさんのお尻を叩いているのが見えた。私の通っていた中学でも、似たようなことが女子の間で流行った時期がある。やっぱりオペラオーは、中学生だ。

 二人を横目にターフへと向かう私の後ろで、二人は笑いながら勝利宣言を交わした。その声を聞いて、振り返った。二人は、既にクラシック一冠を手にしている。この場にいる三人のうち、クラシック未勝利は私だけ。

 

「・・・私が勝つ」

 

 二人は、黙って微笑んでいた。互いに勝ちを譲る気のない、競技者同士の、表情だけのやり取りだった。

 ターフのほうへと向き直り、脚を進める。後ろからは二人が追いついてきて、三人横並びで地下道を抜けた。既に西に傾きかけている太陽の光が照りつけてくる。

 

 京都、芝、3000m、右回り、晴れ、良バ場。レース条件としては最高。心配なのは、自分の体力と、他選手の出方。ゲートに入り、出走の時を待つ。息を、深く吸い込んだ。

 

 ゲートオープン。真正面から、西日が急に目を突き刺して来て、一瞬幻惑された。目を細めて、走り出す。速度は、これまでで最も遅くすることを意識した。それなのに、右側の選手たちは少しずつ後ろへと下がっていく。そして最内付近にいるオペラオーやトップロードさんたちは、前に出ていく。思いがけず、中位集団に入ることになった。やっぱり、スローペースの展開だ。それも、想像以上の。でも、無理な減速はしない。体力を無駄にするから。中位集団先頭に弾き出された私の右前に、オペラオーが下りて来る。その横顔は、涼し気だ。

 

 一週目第三コーナーが接近してくる。上り坂を利用して自然に減速をしたけど、他の選手も同じ動きをしてきた。そろそろインに入りたいけど、隙間が無い。脚を緩めて右後ろに向かって下がろうにも、そこからは大きな足音が響いてくる。ブロックされている。このまま、外を走らされるしかない。ほとんど順位に変化がないまま、第四コーナーを抜けて 正面(ホームストレッチ)へ。大外から8番選手が駆け抜けて来て左側を塞がれた。前方には、12番選手が居座っている。右側には、オペラオー。真後ろからは、大きな足音。前後左右を完全に塞がれている。

 まだ、慌てる時じゃない。速度は未だスローペース。体力は残っている。少しずつ選手の列が伸びていく。この先、複数の集団が形成されて、どこかで十分な隙間が出来るはず。

 ゴール板を過ぎ、第一コーナー。オペラオーを先に出したくない。この子は、先行か差しを主戦法に使うから、今のうちに抑え込んでしまいたい。少しずつ内に寄って、プレッシャーをかけることにした。

 前の方では、少しずつ順位の入れ替わりが起きているのが見える。だけど、大きな動きはない。少なくとも前方では、まだ勝負をかけている選手は居ない。耳で後ろを探っても、勝負は始まっていない。なら、付き合うまで。

 

 第二コーナーを抜けて、二度目の向こう正面(バックストレッチ)。ここから、少しずつ勝負のタイミングを伺わないといけない。トップロードさんは、前方の最内を走っている。急に、オペラオーが外に出てきた。ぶつかりそうになり、距離を取るためにこちらも外に出た。直後、オペラオーが微かに加速して、右前にようやく出来始めていた隙間を埋めてしまった。こちらの戦略を読まれている。トレーナーの指示通りのコース取りが出来ない。余計な距離を走らされて、肺の底が痛い。テイエムオペラオーが空けた最内に5番選手が入ってきて、横に並んだ。完全にインへの道を塞がれている。深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。大丈夫。左脚は痛くない。右わき腹も痛くない。私の体は、壊れない。

 不気味なほどのスローペースで直線を抜け、二度目の第三コーナー手前から始まる坂を駆け上る。まだ誰も勝負に出ていない。私の体力は残っているけど、このままだと、そろそろ加速距離が足りなくなってくる。

 第三コーナーに入った。内側の隙間は僅か。前方にも、隙間は無い。外から15番選手が抜けて、そのまま左前へと覆いかぶさった。完全にブロックされている。包囲網を抜けられない。

 第三コーナーも既に中盤へと差し掛かってしまった。相変わらずのスローペースで、焦れったい。だというのに、勝負に出る選手はまだいない。このままだと、順位が変化しないままゴールに向かうことになる。視界のなか、太陽が左後ろへ追いやられ、長い影が右から回り込んでくる。前も、外も、内も、全部ブロックされている。このまま第四コーナーまで抜けてしまえば、残りは直線だけ。挽回は難しい。勝ち筋が見えない。

 

 やはり、手術明け2ヶ月でのクラシック最長レースなんて、無謀な挑戦に過ぎないのかもしれない。ライバルたちは、こちらの都合を考えて手を緩めてくれるわけじゃない。私が逆の立場でも、手を抜くことはしない。所詮、私はトレーナーの指導を逸脱した末に事故を起こした問題児に過ぎない。今だって、トレーナーの指示通りの動きを出来ていない。そんな選手が、3000mで勝てるほど勝負の世界は甘くない。敗北を覚悟して、下を向いてしまった。

 そのとき、折り重なった選手たちの隙間を抜けた西日が、左手の芝を照らしているのが見えた。目でその光を追い、自然と頭が前を向く。西日に照らされた芝の先は、誰も居ない大外へと繋がっていた。

 高尾山の城山山頂で明海に言われた言葉が、脳裏に蘇った。

 

『前だけを見て――そうすれば――』

「・・・道は、拓ける」

 

 耳を(ろう)する風切り音で、自分の声すら聞こえない。だけど、ここしかないと思った。インも、前も、外もダメなら、大外しか無い。トレーナーの指示とは違うけど、進路を大外に変更した。構わない。今日のレースでは、最初からトレーナーの指示を守れていない。ここで事前指示にこだわっても、目の前のチャンスを逃すだけ。遠心力に身を任せて選手群を抜ける。目の前に、誰も居ないターフと、オレンジ色が差し始めた青空が見えた。そして、その先には、トレーナーと、クラスメイト達と、ルームメイトと、そして家族が観戦している巨大な観客席。

 今までと同じ、終盤で大外に出てからの追い上げ。それが、私の勝ち筋。明海が最後に示してくれた、私の道。

 

――ありがとう、明海。・・・どうか、安らかに。

 

 零れた涙が、風で後ろへと舞った。勝負だ。

 第四コーナーに入った。右前に、オペラオー。その遥か前方最内に、トップロードさん。負けない。負けられない。暴走した私の命を救い、退院してからもずっと指導してくれた高村トレーナーと、心配をかけ続けた家族と、そしてルームメイト(カレンさん)の期待を背負って、今、私は走っている。ストライドを大きく。地面を蹴った脚を大きく後ろに上げて、膝だけを前に戻す。畳んだ脚を戻して、つま先を地面に突き刺す。何度も指導された、フォアフット走法。重力を味方につけて、加速していく。

 

 手術したお腹が痛い。首の筋肉が悲鳴を上げる。振るい続ける両脚両腕が、もげてしまいそうになる。前方では、他の選手たちが続々と外へ膨らんでいく。カーブを抜けた。ゴールまで、あと300m。右手に、首位集団。オペラオーと、トップロードさんの姿が、揺れる視界の端に確かに見える。脚に、力を込める。一歩ごとに、景色が加速していく。息を吸って吐くのがもどかしい。鳥のような、一方通行の呼吸器が欲しい。ゴールまで、あと200m。首位集団が、視界の外へと追いやられていく。大外に居る私とは距離があるから、順位が分からない。視界が色を失い始めている。こんな時だと言うのに、涙が流れて止まらない。ゴールまで、あと100m。右を走っているはずの選手群の足音が、聞こえない。

 


 

 遠く向こう正面(バックストレッチ)を走るルームメイトの先輩(アヤベさん)を、祈るような気持ちで見守る。ずっとブロックされている。前も、外も、内も。ずっと中団位置に抑えつけられている。きっと、私がターフに居ても、同じようにアヤベさんを抑えるはず。だけど、私は今、観客席からアヤベさんの勝利だけを願っている。

 

“アドマイヤベガ、さらに外から前に出ました”

 

実況の声に、少し焦りを感じた。確かに、アヤベさんが前に出ている。勝負を仕掛けるのが、早い。退院から2ヶ月で、あんな差しみたいな走りをできるんだろうか。ゴール直前で沈んでしまうんじゃないかと思う。

 首位集団を見る。アヤベさんのクラスメイト、ナリタトップロードさんも勝負を仕掛けていた。インから一気に前方へと出ていく。その大外から、アヤベさんが順位を上げていく。

 胸の前で握った両手に、力を込める。どうか、アヤベさんが、勝ちますように。

 


 

“アドマイヤベガ、さらに外から前に出ました”

 

 最初に勝負に出たのは、他でもない教え子だった。教え子に対する巧みなブロックが続き、スローペースのまま誰も勝負を仕掛けず第三コーナーに突入していた。だから、あのままだと綾部は前に出ることすらできずにゴールを迎えてしまう。勝負に出るという判断は、確かに間違っていない。しかし最初に勝負に出る選手は、ハイリスクハイリターン。他の選手も体力を残している中、賭けに勝てる体力は、綾部に残っているのか。

 

“大外から上がって来たアドマイヤベガ、先頭ナリタトップロードへと追いすがります”

 

 最後の正面(ホームストレッチ)。最内前方ではナリタトップロードがスパートをかけ、その外からテイエムオペラオーと、ラピッドビルダーが並んで猛追をしている。そして大外から、今まで見たことが無いほどの大股のストライドで、綾部が駆け抜けていく。インにいる首位集団を大外から追い上げ、ゴールまで残り50m。首位集団の後ろに並んだ。残り30m、順位を上げていく。残り10m、ナリタトップロードとテイエムオペラオーと横並び。そのまま、ゴール板を通過していく。激しく動く双眼鏡の視野では、厳密な結果が分からない。確定板を見ると、点灯していない。写真判定だ。永遠にも思える一瞬の静寂の直後、確定板が点灯した。

 1位、アドマイヤベガ。続いてハナ差の2位、ナリタトップロード。そしてクビ差3位、テイエムオペラオー。

 

“菊花賞1位、一等星ベガを冠するアドマイヤベガ!かつての西の一等星の娘、東生まれの彼女が、西の空を制しました!”

 

 止めていた息が、肺の底から漏れていった。体から力が抜け、慌ててテーブルに肘をついて上体を支えた。指導契約を締結してから1年半の、想像を裏切られ、限界を試され続けた日々が、一瞬で脳裏を駆け抜けていく。同じことを2度やれと言われても、無理かもしれない。少なくとも、同じようにレースで勝たせる自信は無い。

 テーブルの上の双眼鏡をもう一度持ち上げ、ターフの上に居る綾部の横顔を見る。彼女は涙を流しながら、呆然としたように実況に耳を傾けていた。

 その横で、歌劇少女(テイエムオペラオー)が、拍手をしていた。精神的な余裕が、並みの中学生ではない。そして、亜麻色の髪のナリタトップロードがゆっくりと歩み寄って、何か言葉を掛けているのが見えた。次の瞬間、アドマイヤベガは振り返り、観客席全体に手を振った。そして、関係者席に向かって、深く礼をしてきた。関係者席の窓には太陽光が反射して、綾部から屋内側は見えないはず。それでもきっと、あの礼は、自分に向けられたものなのだと思った。

 

 双眼鏡を机の上に置き、肉眼でターフを眺める。厳しい勝負の世界。下位に沈んだ選手たちが、涙を流しながら控室に繋がる地下道へと引き上げていくのが見える。そして、彼女たちの担当トレーナーは、関係者席で肩を落としていた。

 後ろから、声を掛けられた。ナリタトップロードの担当トレーナー、沖田氏だ。

 

「すげえな。おめでとう」

「・・・ありがとうございます」

「なんだよ、もっと喜べよお前さん」

 

 確かに、教え子がクラシックレースでようやく勝利を勝ち取ったことは、喜ぶべきことのはずだろう。だけど、1月以降の日々の記憶が脳裏に蘇り、喜びの感情より先に安堵の気持ちが湧き出てしまっていた。

 

「・・・はい。トレーナーとして、ちゃんと祝福してあげないと」

 

 沖田トレーナーは、笑ってから軽く肩を叩いてきた後、控室へと歩いて行った。教え子が2位になり、クラシック二冠を逃したばかりだというのに、精神的な余裕がある。ベテランは、やはり違う。その背中を見送ってから、自分も教え子を迎えに行くため、席を立った。

 

 レース後の記者会見では、当然ながら優勝を勝ち取った綾部に対して多くの質問が投げかけられた。『3000mで勝利を掴むためにどのようなトレーニングを積んできたのか』『この勝利を誰に報告したいか』『今後の競技活動の展望は』など、ごくごく当たり前のものだ。しかしその中に1つ、指導者として看過できないものがあった。

 

『アドマイヤベガ選手、今までと比べて表情が明るくなりましたね。何か良いことがありましたか?』

 

 明らかに、選手のプライバシーを詮索する質問だ。綾部の高尾山での事故は、未公表。当然、彼女の家庭事情や心の内も未公表だ。それを嗅ぎつけられると、世間はお涙頂戴の物語として好き勝手に消費し尽くした挙げ句、飽きれば選手本人のことなどお構いなしに次の獲物を探すだろう。絶対に避けたい。綾部が口を開くより前に、マイクを手に取って答えた。

 

「選手のプライバシーに関する質問には対応できかねます。ここではレース及びウイニングライブに関する質問のみでお願いします」

 

 口を開きかけていた綾部が、驚いたようにこちらを向いた。

 その日、それ以外に無用な質問は出なかった。クラシック最終戦で掴んだ勝利に対する感想や、ウイニングライブへの意気込み、そしてライバル選手たちの走りの感想などを求められ、会見は終了した。

 


 

 関係者席でウイニングライブを見ているとき、インストラクターの児玉が声を掛けてきた。

 

「すごいじゃん、アヤベちゃん」

「・・・問題児だけどね、綾部」

「確かに。でもおめでとう。私が担当してる生徒の中だと、アヤベちゃんが一番レース実績良いよ」

「・・・そうなんだ」

 

 全校生徒は2000名を数えるとはいえ、レースで活躍できる生徒は、そう多くない。インストラクターにとっては、数名担当しているうち活躍する生徒は1~2名程度だろう。手のかかる生徒とは言え、一握りのG1勝利選手を担当できたことは、トレーナーとしては貴重な経験のはず。

 

「高村君さ、東京優駿の時に『何か奢るよ』って言ってたじゃん?」

 

 急に話題が変わった。確かに、惨敗した綾部とカレンチャンを車で学園まで送ってもらう時、そう言ったはず。

 

「年末にさ、どっかご飯行こうよ。奢ってね」

 

 一瞬、その言葉の意味を考えた。周囲を見る。皆、ステージに注目している。誰もこちらを見てはいない。口元を児玉の耳に近づけ、声を抑えて訊ねた。

 

「・・・二人で?」

「そうだけど」

「・・・良いよ。苦手なものとかあればあとでLANEで教えて」

「分かった。高級フレンチのコース料理奢ってよ~」

 

 児玉は、冗談めかした口調で笑う。

 

「何万円出させるつもりだよ・・・」

 

 苦笑いしながら、答えた。とはいえ、この手の駆け引きは嫌いではない。年末の予定を、空けることにした。

 姿勢を戻したあと、目線の先では、アドマイヤベガと、ナリタトップロードと、テイエムオペラオーがファンへのサービスを振りまいていた。

 


 

 翌日は月曜日だから、アスリートである以前に高校生の綾部たちは授業がある。だから、ウイニングライブが終われば慌ただしく帰京の途につくことになる。担当トレーナーは代休を取得できるけど、府中までの引率はしなければならない。スーツケースを引きずり、予約していた新幹線に飛び乗った。8号車1番A席に綾部を座らせ、自分は8号車13番D席へ。

 

 普通車のものより分厚く柔らかいグリーン車の座席に体を沈め、ようやく教え子が手にしたクラシック一冠を噛み締める。こんな日くらい、少し贅沢をしたい。車内販売が来るのを待ち、硬く凍ったアイスを購入した。真っ暗な車窓の中、自分が生涯に渡って訪れることがないであろう街や、かつて旅した街の灯りが通り過ぎていく。あの光一つ一つに生活があり、その傍らを無関係の1300人の乗客が時速270kmで通り過ぎていく。互いの光は目で見えているのに、交わることはない。大学生の頃と同じことを、久しぶりに考えた。思えば大学を卒業してから1年半の間、仕事が忙しくて当たり前のことも考えていなかった。プラットフォーム上の駅弁屋で購入した牛肉弁当をゆっくりと噛み締めるようにして食べ終えた頃には、硬いアイスも溶けて丁度食べごろになっていた。そして食べ殻をデッキ部のごみ箱に捨てて座席に戻り、車窓を眺める。普通車よりも抑制された振動が心地よく、いつの間にか寝入ってしまっていた。

 

“間もなく、新横浜です。横浜線と、横浜市営地下鉄ブルーラインはお乗り換えです――”

 

 途中駅到着予告チャイムと、それに続く案内放送で、目を覚ました。残り数分で、降車駅に着く。エリカ賞の時は寝過ごしてしまい、東京駅から中央線で府中に帰る羽目になった。日中ならまだしも、夜遅くに乗り過ごすと府中に帰れなくなるかもしれない。東京市部というのは、こういうとき不便だ。

荷物棚に上げていてたスーツケースを下ろしたとき、通路を挟んで反対側の13番A席で綾部が眠りこけているのが目に入り、少し困惑した。1番A席に座らせていたはずなのに、なぜ。もしかすると、エリカ賞の時のように寝過ごさないかを監視しに来たのかもしれない。しかし当の綾部本人が寝入ってしまっているから、立場逆転だ。

どう起こそうかと思い、少し悩んだ。周囲を見回すと何人もの客が下車の準備を進めているし、その中には他のトレーナーや生徒の姿もある。目を引きたくはない。数秒の逡巡の後、綾部が座っている座席のリクライニングを戻して起こすことにした。ひじ掛けの先端にあるレバーを前にスライドすると、微かなモーター音と共に背もたれが前に戻った。綾部が、低く小さい声で驚く。

 

「うわっ・・・なに?」

「そろそろ新横浜。寝過ごすと府中に帰るのが大変だ」

 

 綾部は、目をまぶしそうに細めていた。ここから二度寝をするような奴ではないだろうから、荷物を片手に持ってデッキへの行列に並んだ。直後、綾部が荷物を荷棚から下ろす音が客室内に響き、絨毯を踏む足音が背後に並んだ。

 列車は減速を続け、数分後に新横浜駅に着いた。狭いプラットフォームに降り立ち、在来線乗換改札を通りJR横浜線へ。そして八王子で西王線に乗り換え、府中へと向かった。

 

 西王線府中駅を降り、徒歩15分。歩き慣れたトレセン学園への道。クラシック三冠レースの最後でようやく掴んだ優勝。8月末の事故からわずか2か月半の結果とは思えない。それなのに、言葉少な気に隣を歩く制服姿の教え子の表情からは、勝利の喜びを感じ取れないことに気づいた。何か抱え込んでいるような気がする。無理もない。事故以来、綾部は抜け殻のような状態から回復しきっていない面がある。心中は推測する他ないけど、まだ完全にはサバイバーズギルトを克服できず、勝利を受け止めきれていないのかもしれない。

 

 空を見上げると、微かに天の川が見える。都心から少し離れた府中市では、気候条件が良く目が暗さに慣れた状態なら、天の川が見えることがあると最近気づいた。天の川から離れたところには、上弦の月。1週間もすれば、満月の光が天の川をかき消すだろう。

 トレセン学園にたどり着き、仕事道具をトレーナー室に置きに行く間、教え子を体育科教員棟の入口で待たせることにした。業務用パソコンや双眼鏡が入った鞄を執務デスクに置き、すぐにトレーナー室を出た。階段を下り、教え子のもとに戻る。

 

「綾部、改めておめでとう」

 

 普段通り、彼女の苗字を呼んだ。教え子がクラシック一冠を掴んだことをようやく実感する一方、初戦のエリカ賞の時のような高揚感は湧き上がってこない。当然かもしれない。この勝利は既に4勝目。それに、今後のトレーニング上の課題や、クラシックの次に向けた戦略について考える必要があるからだ。彼女にとっても、この1位がゴールではない。しかし、このタイミングで彼女にそんなことをいうのは野暮だ。月明かりに照らされた綾部の表情がどこか曇っている気がしたけれど、純粋な称賛の言葉が、口から出た。

 

「退院からたった2ヶ月なのにすごいな」

 

 彼女は、こちらを向いた。そして突然、雰囲気が変化した。何らかの決意と覚悟を固めたように、表情が引き締まった。

 

「高村トレーナー・・・その、話があって」

 

 その言葉を聞いて、普段の落ち着いた振る舞いとは違う様子であることに気付いた。どこか緊張しているような口調。何か重要なことを伝えようとしている。今後の競技の路線の話だろうか。もしかすると、引退時期を決めたのかもしれない。

 

「どうした、綾部?」

 

 こちらも、彼女の決意を受け止めようと、声をかけた。綾部の指導期間は、最長でも残り1年4ヶ月。決して長くはない。来年には高校3年生になる。有終の美を飾らせるための準備を、そろそろ始める時期だ。

 

「アドマイヤベガではなく、綾部明里(あやべあかり)として・・・」

 

 アスリートとしての競技登録名ではなく、本名での発言。卒業後の進路に関わる話題だろうか。姉が辿った進路や、教職員向けポータルで見たことがある進路指導資料のことを頭に思い浮かべた。そもそも、綾部は文理選択をどうしていたのかと考えていた、その時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トレーナーのことが好きです」

 

 




菊花賞レース結果
15:35発走 京都 芝3000m(右) 晴 良

順位選手名タイム着差
1アドマイヤベガ3:07.6
2ナリタトップロード3:07.6ハナ
3テイエムオペラオー3:07.7クビ
4ラピッドビルダー3:07.7クビ
5モンベツランナー3:08.01.3/4
6メジロクジュウ3:08.0クビ
7カラスノヌレハ3:08.21.1/4
8アクアオーシャン3:08.41.1/2
9ラムアタック3:08.5クビ
10シンボリモンタナ3:08.5アタマ
11ローズ3:08.71.1/4
12コンキスタ3:08.7クビ
13テイエスサミット3:08.81/2
14モーニングタイ3:09.33
15メイラッシュ3:09.5アタマ
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