星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第五章第三節 "告白"

 高村トレーナーが、体育科教員棟の入口に吸い込まれていく。その間、入口横の壁に背中を預けて彼が戻って来るのを待つことにした。

 

 空を見上げながら、やっとの思いで手にしたクラシック一冠を噛み締める。この勝利と、ここに至るまでの3勝は、トレーナーの指導のおかげだと思う。そして、あの人がいなければ、私は8月にこの世を去っていたかもしれない。今の私の存在そのものが、彼に拠って立っている。あの人は、年明けからずっと、明海のことを知っても私を支えてくれていた。東京優駿の後に暴言を吐いた私を、それでも見捨てずに居てくれた。あの人がいなければ、こうして、自分のために菊花賞を走ることも無かった。記者会見で、答えにくい質問から毅然と守ってくれた姿を見た瞬間、トレーナーは私の全てを――命を、心を、将来を、守ろうとしていることに気付いた。

 

 だけど、高村トレーナーは、最近なんだか距離を感じる。レース前のあっち向いてホイ(ルーティン)も、金色のネクタイピン(お守り)の貸し出しもなかった。勝利後の控室でも、少し反応が薄かった。私がここまで来るのに、どれだけのものを抱えてきたか知ってるくせに。勝ったのに。・・・それに、『最後まで見てて』って言ったのに、ウイニングライブ中には私のインストラクターと親しげに話していた。二人は同期だと聞いている。仲が良いのも当然だ。でも、それは本当に仕事場だけでの話なの?もしかして、二人はプライベートでも仲が良いのでは?だから、クラシック三冠最後のレースで勝利を掴んだ私の方を、見てもくれなかったのかもしれない。私には、あんな笑顔を見せてくれた事はない。

 

 なぜこんなことを考えてしまうのか、帰りの新幹線の中でずっと考えていた。そして、気付いた。この気持ちは、単なる信頼や感謝じゃない。もしそうなら、インストラクターとの様子を見ても何も思わないはず。これは、もっと根源的な感情だ。

 

 高村トレーナーは大人で、公私分離を徹底している。だから、私から伝えないと、何も変わらない。明日は、平日。トレーナーも、インストラクターも、校内にいる。今伝えないと、手遅れになってしまうかもしれない。

 彼が階段を降りて来る音を聞きながら、拳を軽く握る。トレーナーとは1年半近くも同じ道を歩いてきたのに──彼の存在はあまりに遠い。少しずつ信頼を寄せ、距離を縮めてきたと思う。でも、それは月が地球を1年で離れる距離と同じくらい僅かで、引力定数の定めのように加速を許してくれない。だから、言葉にしようと思った。物理法則を越え、不可能を可能にできるのは、言葉だけだから。

 月を、探した。上弦の月だ。なんて綺麗なのだろうと思う。あの光はきっと、百年前も千年前も、誰かの夜を照らしてきたはず。だけど今この瞬間、あの光が私達を照らすのは、きっとこの一度きり。

 

「綾部、改めておめでとう」

 

 トレーナーは、普段通りに本名で呼んでくる。でも、その響きは愛称『アヤベ』と同じで、呼ばれるたびに心が高鳴る。・・・私らしくもない。

 

「退院からたった2ヶ月なのに、すごいな」

 

 心の底から勝利を喜んでくれていることが分かる、微かな笑顔と低い声。その声が、どうしようもなく胸をざわつかせる。

 

「高村トレーナー・・・その、話があって」

 

 一歩、また一歩と近づく。思いを言葉にしようと、深呼吸をした。トレーナーは一瞬目を見開いたけど、すぐに落ち着いた表情を見せる。

 

「どうした?」

 

 その声に、覚悟を決めた。月の光に背中を押され、ためらいを勇気に変えていく。どうすれば気持ちが伝わるのか、言葉を選び、少し迷いながらも口にする。

 

「アドマイヤベガではなく、綾部明里として・・・トレーナーのことが好きです。・・・信頼しているから・・・でも、それだけじゃなくて、もっと・・・」

 

 言い終わる前に、胸が締め付けられるような感覚に包まれる。その言葉が高村トレーナーにどう響くかを恐れながらも、気持ちを言葉にしてしまった。今すぐ付き合って欲しいとは言わない。返事は、卒業してからでいい。断られてもいい。ただ、この気持ちを知って欲しいだけ。

 

 トレーナーは少しの間、何も言わずに立ち尽くしていた。顔から表情が消えていき、何かを探すように目が動く。息は浅くなり、額にはなぜか冷や汗が浮かび始めた。その表情は、困惑というよりも、恐怖と焦りのように見えた。

 返答を待つ時間が、永遠のように感じられた。

 

――どうして、そんな反応をするの?

 

 そう尋ねたかったけど、怖くて何も訊けなかった。

 

「返事は――」

 

 今じゃなくて良いから。そう言おうとした瞬間、高村トレーナーは深く息を吸い、低く硬い声で言った。

 

「・・・アドマイヤベガ」

 

 公の場でしか使わない、正式なターフネーム。二人きりなのに、『綾部明里として』と言ったのに、その名で呼ばれることに、思わず凍り付く。

 

「勘違いするな。君はアスリートで、俺はその競技指導者に過ぎない」

 

 その言葉には、強い決意と心の距離を感じさせるものがあった。表情は、氷のように冷たい。怒りの感情すら、透けて見える。

 

「その感情は、君自身の人生も、俺の人生も、トレセン学園も、全て巻き込んで破壊しかねない危険なものだ。それを無邪気なままに差し出して、俺が受け入れると、そう思ったのか」

 

 顔が、一瞬で青ざめていく。もしかしたら告白を受け入れてもらえるかもしれないと、心のどこかで期待していた。彼に感じていた自分の気持ちが、まるで罪悪だったかのように思えてしまった。彼の言葉に、氷水を浴びせられたように心が凍りついていく。

 

「でも、私・・・」

 

 言いかけた言葉が、喉の奥で詰まる。こちらの言葉を遮って、彼は言葉を続ける。

 

「冷静になれ。俺にとって、アドマイヤベガという人間は単に職場での指導相手に過ぎない。退勤後に君のことを考えることも、無い。俺の私的な領域に、君の居場所は無い。指導関係と、恋愛関係が両立することはありえない。絶対に。君が俺にそんな感情を抱いた時点で、健全な指導関係すら成立しなくなる」

 

 彼は見たこともないほど怖い顔をして、こちらの目を見ながらはっきりと言った。明確で、絶対的で、徹底的な、拒絶と断罪。気づくと、視界が涙にぼやけていく。

 

「君は、単に一番近くにいる年上の異性に対する信頼を、恋愛感情と混同しているだけだ。俺がそれに付け入ることは許されない。指導者として、今以上の関係を持つことは、絶対にありえない。応じない。高校生なら、未成年ではあっても子供じゃない。自分の誤解を自覚できる年齢のはずだ」

 

 涙を拭うこともできず、ただ高村トレーナーを見つめる。彼の返答をどうにか受け入れようとしても、どうしても受け入れられない。

 彼は一歩後ろに下がり、再び言葉を続けた。

 

「『アドマイヤベガではなく、綾部明里として』と言ったな。なら、なぜ俺をトレーナーと呼んだ。俺を職掌名で呼んだ時点で、それはアドマイヤベガとしての発言だ」

「違っ・・・」

 

 単に、慣れている呼び方で呼んだだけなのに。何て呼べば、綾部明里として発言していると認めてくれるのか、分からない。

 

「俺は、アドマイヤベガが出会う人間の中の一人で、単なる競技指導者に過ぎないし、そこから逸脱することはない。俺は、アスリートとして、そして高校生としての君なら、全力で支える。だから、トレーナー命令だ。二度とこの話をするな。この話を繰り返すのであれば、契約解除も本気で視野に入れる」

 

 その言葉に、奈落の底に突き落とされたような気がした。なぜ、この想いをただ伝えたかっただけなのに、こんなひどいことを言われないといけないんだろう。私の気持ちは、そんなにも罪深いことなのだろうか。

 涙の向こうのトレーナーの目を見て、言葉を絞り出した。

 

「わかりました」

 

 そのまま彼の脇を通り、振り返らずに走り出した。

 ばかみたいだ、私。高村トレーナーが、生徒の好意を受け入れるはずがないなんて、分かりきっていたはずなのに。勢いのまま気持ちを伝えて、また高村トレーナーを怒らせてしまった・・・また、大切な人を失ってしまった。

 


 

「トレーナーのことが好きです」

 

 ・・・最初は、聞き間違いかと思った。しかし、何度言葉を思い出しても、聞き間違いの余地はなく、綾部の眼差しは本気だった。血の気が引き、一瞬、思考が停止した。

 

「信頼してるから・・・でも、それだけじゃなくて、もっと・・・」

 

 全く想定していなかった言葉に、思わず体が硬直した。綾部の言葉が終わる前に、これまで思い出さないようにしていた過去の様々な記憶と感情が渦巻き、言葉が詰まった。目の前の教え子からの唐突な告白に驚き、動揺した。答えは、当然決まっている。しかし、どう伝えるのが正解なのかが分からない。

 一瞬の逡巡の後、最も重要なのは、指導者としての立場を絶対に崩さないことだと判断した。呼吸が苦しくなる中、冷静さを取り戻して周囲に誰も居ないことを確かめる。この会話を他者に聞かれるのは、綾部にとっても、自分にとっても、最悪の結果を招きかねない。

 何かを期待するかのような眼差しを向けるアドマイヤベガの顔を、じっと見詰め返す。深呼吸をした。

 

「・・・アドマイヤベガ」

 

 校内ではしばらく使用していなかった、正式なターフネーム。今は、徹底的に距離を取らなければならない。彼女の心を傷つけたい訳ではない。しかし、未成年の生徒を預かる身としては、絶対に守らなければならない一線がある。あくまで自分は彼女の指導者であり、それを逸脱することは許されない。何があっても。

 何度も深く息を吸って吐き、冷静さを取り戻してから、静かな声で続けた。

 

「・・・勘違いするな。君はアスリートで、俺はその競技指導者に過ぎない」

 

 アドマイヤベガの目が、大きく見開かれる。その瞳を、力強く見返した。

 思春期の精神は不安定だ。深く関わった大人への信頼を恋愛感情と誤認することはよくある。特に、トレセンという特殊な環境では。そのことをよく知るトレーナーが、その感情に応えることは、絶対に許されない。天地がひっくり返ろうとも。

 

 特に、彼女は単なる高校生、単なるアスリートではない。有名人でもある競走バだ。小さな話題にも尾ひれがつき、世間は好奇の目で彼女を見るだろう。そうなれば、彼女がどれほど傷つけられるかは明白だ。

 過去にも、他愛のない微笑ましい青春の一ページを悪意ある切り取り方で報じられ、ターフを去ったウマを間近で見ていたことがある。この会話も、誰かに聞かれていたら大スクープとして世間に消費されるはず。そうなれば、教え子の人生と、自分の人生と、そしてトレセン学園を揺るがす大騒動に発展する。そんな事態を、起こしてはならない。絶対に避けないといけない。

 

 今から口にする言葉が、アドマイヤベガを傷付けることは分かっている。それでも、言わなければならない。一分の隙も無く、勘違いや、危険な希望の芽すら一片も残さず、正しい道に戻れるように。

 

「その感情は、君自身の人生も、俺の人生も、トレセン学園も、全て巻き込んで破壊しかねない危険なものだ。それを無邪気なままに差し出して、俺が受け入れると、そう思ったのか」

 

 彼女の唇が震え、何かを呟きかけた。何を言おうとしているかは分からない。しかし、それを聞く必要はない。彼女は今、冷静さを失っている。こちらの言葉を確実に伝え、正論を説き、冷静さを取り戻させることが先決だ。

 

「冷静になれ。俺にとって、アドマイヤベガという人間は単に職場での指導相手に過ぎない。退勤後に君のことを考えることも無い。俺の私的な領域に、君の居場所は無い。指導関係と、恋愛関係が両立することはありえない。絶対に。君が俺にそんな感情を抱いた時点で、健全な指導関係すら成立しなくなる」

 

 綺麗な顔が歪み、目には大粒の涙が浮かぶ。大切な教え子を傷つけてしまったことに、ひどく胸が痛む。それでも、担当トレーナーとして正しい答えを示さなければならない。

 彼女の目から視線を外さず、はっきりと伝える。どれほど彼女の心を傷つけようと、恋愛感情を拒否し、否定し、誤解を自覚させることが、指導者としての責任だ。そうしなければ、彼女の将来に取り返しのつかない傷をつけてしまう。人生を、歪めてしまう。

 

「君は、単に一番近くにいる年上の異性に対する信頼を、恋愛感情と混同しているに過ぎない。俺がそれに付け入ることは許されない。指導者として、今以上の関係を持つことは、絶対にありえない。応じない。高校生なら、未成年ではあっても子供じゃない。自分の誤解を自覚できる年齢のはずだ」

 

 トレセン学園の個人指導契約は、生徒とトレーナーが不適切な関係に発展するリスクを抱えている。学園と保護者から信頼されて指導を任されている以上、そのリスクを自ら証明するようなことは、絶対にあってはならない。雨が降っても、槍が降っても、一線を越えることは許されない。

 特に、アドマイヤベガは夏に事故を起こし、それが原因で自分たち二人は処分を下されている。何があっても、もうこれ以上の問題は起こせない。ただでさえ失いかけている信頼を、完全に失ってしまう。そうなれば、信頼は二度と取り戻せなくなってしまう。

 

「『アドマイヤベガではなく、綾部明里として』と言ったな。なら、なぜ俺をトレーナーと呼んだ。俺を職掌名で呼んだ時点で、それはアドマイヤベガとしての発言だ」

 

 アドマイヤベガ自身が自覚していないであろう矛盾を指摘すると、彼女の顔がさらに歪んだ。彼女の心の傷を直視するようで、思わず目を逸らしそうになった。それでも、この言葉を選んだ己の責任として、最後まで目を逸らす訳にはいかない。今はこの指摘を受け入れられないかもしれないけれど、時間と共に正しいと理解するはずだ。彼女の口が戦慄き、何かを呟こうとしているのが見えた。反論しようとしているのかもしれないけれど、それを許す訳にはいかない。口論になると、互いに冷静さを失う。

 

「俺は、アドマイヤベガが出会う人間の中の一人で、単なる競技指導者に過ぎないし、そこから逸脱することはない。俺は、アスリートとして、そして高校生としての君なら、全力で支える。だから、トレーナー命令だ。二度とこの話をするな。この話を繰り返すのであれば、契約解除も本気で視野に入れる」

 

 サバイバーズギルトを抱えていたアドマイヤベガに、これ以上辛い思いをさせたくはない。それでも、この言葉が必要だ。彼女が誤った方向に進まないように、世間の悪意に消費されないように、冷徹で、冷酷で、しかし冷静な判断をしなければならない。それが、責任ある大人の義務だ。

 彼女からは、震える声が返ってきた。

 

「分かりました」

 

 その言葉が終わるとともに、彼女はこちらの目も見ずに走り出した。振り返ってその姿を目で追う。追いかけることはできない。捕まえても何もできないし、するべきではない。きっと彼女も、それを望まない。




高村がここで強烈に拒絶しておくことで終章の『アドマイヤベガが前向きに歩いていける結末』に繋がるような構造になってます。
高村がなぜここまで強烈な反応をしたのかは後々分かります。

アドマイヤベガからの告白に対して、高村は

  • すぐ受け入れると思った
  • 「卒業したら良いよ」と言うと思った
  • 「卒業したら考える」と言うと思った
  • 優しく断ると思っていた
  • 事務的に冷たく断わると思った
  • 苛烈に拒絶すると思った
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