星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第五章第五節 "高村啓一"

 後輩の高村とその教え子の様子がおかしい。菊花賞で優勝した直後から、ターフで見かける二人は会話がほぼなく、アドマイヤベガは高村の方を見ようともしない。しかも、呼び方が本名『綾部』からターフネーム『アドマイヤベガ』に戻っていた。僅かな会話の口調も互いに硬く、雰囲気がギスギスしている。高村に何かあったのかと訊ねてみても、彼は『何もありません』としか言わない。高村は無理に聞き出そうとしても絶対に口を割らないタイプだから踏み込めないし、こちらもわざわざ深入りする義理もない。とはいえ、同僚として、そして後輩として気になるのは確かだ。

 

 二人と交流があるカレンチャン(教え子)にも訊ねてみたけど、『知らない』の一点張りだった。口調からすると何か怒っているらしいけど、こいつもこいつで頑固なところがあるから踏み込めない。

 

 そして菊花賞から2週間後の金曜日、高村に夜のサシ飲みに誘われた。珍しい。しかも、場所は麻布だ。トレセン学園がある府中どころか、西王線や中央線の沿線でもないし、場外観戦会場(ウインズ)のある街からも離れている。明らかにトレセン学園関係者やその顔見知り、さらにはダービーファンが居そうな場所を徹底して避けている。しかも、指定された店は個室居酒屋だ。一体何の用だ。食われるんじゃないか。まさかな。

 


 

 ・・・事態は予想外に深刻だった。サシ飲みと聞いていたのに「今日は酒を飲むな」と言われ、ある程度注文したものが届いてから急に「絶対誰にも言うな」と口止めをされたから、かなり深刻な事態だとは思っていたものの、まさか後輩トレーナーが担当生徒から告白されていたとは思わなかった。そして、それを担当のルームメイトに目撃されていたという。誰がルームメイトか知らないけど、まずい事態だ。噂話が広がるかもしれない。

 

 トレセンは全寮制女子校。ただでさえ生徒は異性との接点が極度に少ないから、男性教職員に憧れを持つ生徒が一定数いるのは事実だ。しかも、生徒は若いウマ、すなわちウマ娘。彼女らは有力武将や上流貴族を始めとする権力者の中核戦力・護衛役として運用されてきた歴史が長いから、人為選択の結果として進化心理学的に指揮官的存在へ好意を抱きやすいとする説もある。実際、リーダーシップがあるタイプの若いトレーナーには人気が集中する。

 密かにファンクラブが存在するトレーナーもいるとは聞くものの、しかし実際の告白に至るのは稀だ。そもそも、ファンクラブを作るという行為自体、本気で結ばれたいのではなく、遠くから無邪気に眺めていたいだけであることの証明だ。女子校にはよくある話でもある。だからこそ、特に教職員の側から一線を越えることは許されない。

 現代社会においては、労働安全衛生法などの例外を除けば、ウマであっても法律上の扱いは他の女性と変わらない。指導者という存在には高い倫理性が求められるし、相手が未成年であれば尚更だ。その掟を破った者に対する制裁は強力である。しかし、そんなことは高村も分かりきっているはず。いくら告白された側とはいえ、どう対応するべきかなんて、悩むまでもない。まさか、告白を受け入れたのか?

 

「・・・そんなわけないでしょう」

 

 対面の高村が苦々しげに吐き捨てる。当然か。彼は公私混同を極度に嫌う。大学生の時、サークル内恋愛を周囲に完全に隠していたもんな。結局、それを不満に思った彼女に振られてたけど。

 

「じゃあ相談ってなんだよ。担当のルームメイトが噂ばらまいた時の対処法?」

 

 高村の顔が、ますます苦々しそうになる。相談しに呼び出したんじゃないのか。

 

「違いますよ。ルームメイトの子には『なんでそんなこと言うんだ』って怒られましたし、次の日には強く口止めもしておきました。さすがに言いふらすようには思えない。相談したいのは、担当との今後の関係ですよ。知ってるでしょう?完全に噂になってるんです俺ら」

 

 確かに、彼らの雰囲気が菊花賞の後から悪化した件は、校内の話題の1つになっている。優勝して険悪になる理由が分からなかったけど、道理で。

 

「ああー確かにな。喧嘩したんだろうとは思ってたけど、まさか告白とは思わなかった。なんて断ったの?」

 

 高村の性格からすると、つけ入る隙もない正論で断ったはず。『申し訳ないけど、教員としては応じられない』みたいな感じだろう。

 

「単に信頼を恋心と誤解しているだけだ。そして、それは君自身の人生も、俺の人生も、トレセン学園も、全て巻き込んで破壊しかねない危険なものだから絶対に応じないって、そう伝えました」

 

 ・・・想像以上だった。感情を完全否定した上に『絶対応じない』なんて言ったのかこいつ。思春期女子相手に。さすがに厳しすぎる。

 

「うっわ言葉強いな・・・。そりゃアドマイヤベガも落ち込むだろ」

「名前を出さないでくださいよ、誰がどこで聞いてるか分からないんだから。タイミングよく店員来てそこから情報漏れたらどうするんですか」

「悪い、気を付ける」

 

 相変わらずの徹底ぶりだ。リスク管理意識の高さが成層圏どころか熱圏すら突き抜けている。

 

「それで、今後どうしたいの担当と」

「まともに指導できる程度には関係を修復する必要があるんですよ。今あいつ、必要最低限の返事しかしてくれないからパフォーマンスの把握も難しいし、こっちの指示が伝わっているのかもよくわからない状態で」

 

 『どうしたい』という質問に『〜する必要がある』。思考が硬直してるな。職業に過剰適応を起こしてそうだ。

 

「そりゃそんな強い言葉で拒絶されば仕方ないかもな。すぐに元の関係に戻るのも難しいだろ。お前だって好きな人に告白して振られて、『あんたとは絶対ムリ。友達のままでいて』って言われて『ハイわかりました』って言えるか?」

 

 そう尋ねると、彼からは相変わらずの正論が返って来る。

 

「それは未成年同士、成人同士の恋愛の場合の話でしょう。俺らは大人で、あいつらは未成年。しかも担当している生徒ですよ」

 

 実に真面目だ。彼らしい。倫理感の強さは彼の教員適性の高さを示す一方、やはり硬直気味な気もする。

 

「確かにな。その通りだ。でも、夜の高尾山まで追跡するなんて、生徒本人から見たら特別扱いだと受け止められるし、山奥からその生徒を救助して救急隊に引き渡した後に自分も失神して搬送されるなんて、自己犠牲精神に溢れた英雄に見えるに決まってんだろ。好かれる理由は十分過ぎる。高2なら成人も近い。小学生じゃないんだから、『子供の勘違い』で片付けられる話じゃなくなってくる」

 

 かつての自分も、レースで落鉄した翌日に失踪したカレンチャン(教え子)を捜索しに向かったから、強く人のことを言えた立場ではない。しかしあれは日中だし、懐かれはしても好かれてはいないはず。一方で高村は夜間に山奥から自力搬送までやってのけ、事実として好かれている。

 

「自己犠牲じゃなくて職務遂行と言って欲しいですね。それに、真の英雄ってのは、トラブルを全て事前に防止して最後まで平穏を保った人のことです。『無事これ名バ』って言うでしょ。ピンチを救う人を過剰に英雄視するから、マッチポンプなんて概念が成立するんですよ。そこに由来する恋愛感情なんて、誤解以外の何物でもない。だいたい、俺が失神したことは本人に伝えてません。親御さんにも言わないようにお願いしてます」

 

 よく口が回る。確かに筋は通っている。燃え盛る火の中から人を救うより、火事を未然防止するほうが、より多くのものを守れる。しかし人間は落差の大きさを認識する生物だ。平穏無事を守られるより、どん底から救い出されるほうに喜びを感じてしまう習性がある。

 それはそうと、『失神したこと』を本人に伝えていない場合、それは失神した人間を平然と山奥から搬送する『完全無欠の英雄』として見られることになるわけだけど、分かってんのかな、こいつは。英雄視されたくないなら、そもそも救助の事実自体を丸ごと伏せるべきだったんだ。

 

「高村がどう考えるかとは無関係に、生徒はお前をそう見る。『英雄』の態度が急変して冷徹に拒絶してきたら、誰だって傷付く。伝え方ってものがあるだろ」

「だから、それはこの場合成立しないんですよ。教員と生徒、大人と未成年ですよ。先輩は甘いです。リスク管理が不十分だ。駄目なものは絶対に駄目と示さないと」

 

 正しすぎるくらいに正しい。しかし、相手の気持ちを考えていなさすぎる。思春期の女子というこの世で一番難しい存在を扱う上では、時には相手の気持ちを考えた対応も必要だと思う。

 

「担当もそれを分かったうえで勇気出して告白したんだろ?だったら高村もそれなりの対応をした方がいいと思うよ。教員と生徒という枠組みを意識するのは大事だけど、相手の感情も考えないと」

 

 高村は、首を振りながら反論してきた。

 

「その感情が危険物に等しいからこんなことになってるんですよ。年明けからこっち、過呼吸、食欲不振、体重低下、過剰な自主トレ、指導逸脱、そして高尾山での事故。トラブル続きで、しまいには譴責処分。俺は信頼を失いかけてるんです。もうこれ以上問題を起こせないんですよ。よりにもよって色恋沙汰だなんて、最悪も良い所だ。絶対に色眼鏡で見られるし、取り返しがつかない」

 

 体育科教員室での高村の評判は『地雷のような指導困難生徒を引き当ててしまった苦労人』だ。一般的に新任トレーナーにとって指導しやすい相手とされる高等部新入生でありながら、度重なる指導逸脱、偽装報告、ナイトトレイルランという危険行動の末に事故を起こし、担当トレーナーに譴責処分を食らわせたアドマイヤベガは、トレーナー達からの評判が悪い。問題行動の原因も不明だから、高村との契約が継続になると発表されたとき、皆安堵の息を吐いていた。

 

 高村は独断専行気味という危うい面はあるものの、新任トレーナーの手に余る生徒をギリギリで制御し、クラシック一冠を含む4勝を積ませたという点では高く評価されている。統計学を用いて偽装報告を看破した手法や、救助の際の周到な事前準備はナレッジデータベースに登録されている。単独救助こそ問題視されているものの、高村はよくやっている方だ。だからこそ、懲戒処分は譴責で済んでいる。明らかに高村への懲罰よりも再発防止を主目的とした形式的なもので、人事評価上の傷口は浅い。他のトレーナーなら事態はもっと深刻だったかもしれない。

 他者からの評価を素直に受け入れられず、高村自身の自己評価が低い。認識の大きな乖離の裏には、何かがあると思った。

 

「まあ心配になる気持ちは分かるけどさ。あいつは確かに問題児だし。・・・昔から気になってたんだけど、なんでそんな潔癖なのお前」

 

 かねてから抱いていた疑問を尋ねると、高村は数舜目を閉じた。そして、心底嫌そうな顔をしながら話し出す。

 

「・・・8年前、彼氏の家にお泊り疑惑が出て引退した競バ選手がいたの覚えてます?」

 

 競バ選手。なんて堅苦しい言い方だ。一部の公式文書でしか見ないぞそんな表現。

 

「ああ、居たな。ネットでも結構話題になって―」

「名前はいいです。彼女、俺の進学塾の同級生で、友達だったんですよ」

 

 名前を言おうとしたわけではないのだが、遮られた。それにしても初耳だ。トレーニングとダンスレッスンに加えて進学塾か。彼女、かなり忙しかっただろうな。

 

「彼女、本当はお泊りなんてしていないんです」

 

 高村は、一瞬の沈黙を挟んでから一部始終を語り始めた。

 

「彼女は、デビュー戦では優勝したんですけど、そのあとは戦績が低迷して、大学ウマ娘駅伝に出るために、受験対策を高1から始めていたんです。スポーツ推薦は使えなさそうだから、一般入試で頑張らないと、って。・・・彼女は、確かに塾の同級生の男子と付き合ってました。休日の昼に彼氏の家に遊びに行って、夕方には寮に戻ったと聞きました」

 

 確かに、かつてネットで見たまとめサイトの情報とは違う。

 

「・・・そうなのか」

 

 高村は言葉を続ける。

 

「昼に玄関に入る瞬間を、後をつけてたパパラッチが盗撮して、それを週刊誌に売ったんですよ。夕方に寮に帰るところは載らなかったから、それでお泊り疑惑が出たんです」

 

 いかにも週刊誌が好みそうなやり口だな、と思った。切り取り、偏向報道、印象操作はマスコミのお家芸。週刊誌なら尚更だ。部数のためなら何でもするはず。

 

「それで炎上しちゃって、彼氏宅が特定されて嫌がらせが起きたんで彼氏は家族ごと引っ越したそうです。それだけじゃない。塾まで特定されて、週刊誌記者やファンが集まってきたんですよ。あの頃はいつも父か母に塾まで送ってもらっていました。塾側の推奨でしたからね。通塾経路は裏道を通らされて、入るときも裏口です。カーテンはいつも締め切っていて、周囲には警備員が配置されました。おかげで1か月もすれば元通りにはなりましたけど、しばらくは人混みが怖かったですよ。何人か塾を辞めた同級生も居ました」

 

 高校生にとっては相当な恐怖だっただろうと思う。ファンや記者が暴走したら、何をされるか分かったものではない。群集心理の恐ろしさは、想像を絶する。

 

「それは・・・怖いな。だからそんなに厳格なのかお前」

「むしろそんな経験して教え子からの好意を素直に受け止めるやつが居たらバカですよ。結局、彼女は学園の慰留を振り切って競技引退、自主退学までして、普通科高校に転学しました。塾も別の教室に転属していって、それ以来会ってません。風の噂で大学は文学部に行くとは聞きましたけど、今どうしてるのかは・・・。連絡先も知りませんし」

 

 思いのほか、ひどい話だった。青春の1ページを悪意的に切り取られて、それだけで人生が大きく歪むというのは、やるせない。

 

「あの頃はいつも泣いてましたよ、彼女。高校生の俺には何もできませんでしたけどね」

 

 高村は、自嘲気味に笑った。

 

「塾に集まってきていたファンや記者は、彼氏が誰なのか探し出してやろうって目をしてました。・・・正直、生きた心地がしませんでした。初担当で、クラシック選手のあいつを、あんな目に合わせるわけには絶対いかないんです。俺の行動一つに、あいつの人生も、トレセンの信頼もかかってる。世間の悪意は、個人の人生も、組織も破壊しかねない。同級生同士の恋愛であの騒ぎです。仮に本当にお泊りがあったとして、他人が口を挟むことじゃないはずなのに。恋の相手が指導者なら、問題は本人の手を離れる。疑惑が出ただけでも、俺たち二人は未成年淫行トレーナーとふしだら女子高生扱いで週刊誌のトップ記事に載るでしょうね。当然、俺は実名入りで。学園の周囲には記者やファンが集まって来て、俺の出勤風景が報道されて・・・最終的には夏の事故や俺の譴責も明るみに出て、俺の実家には記者や怒ったファンが押しかけて来ますよ。俺は指導者不適格って叩かれて、学園だって管理責任を問われるかも」

 

 長い言葉とともに、高村の目が遠くなっていく。少し考え過ぎな気もするけど、ありえないとも言い切れない。『疑わしきは罰せず』の原則は、しばしば踏みにじられる。『火のない所に煙は立たぬ』とばかりに、よってたかって袋叩きにされるリスクは確かに存在する。

 そして、そこまで聞いてふと気になった。なぜ、高校時代にそのような経験をしてなおトレーナーという道を選択したのか。

 

「・・・ところでなんでトレーナーになったんだっけ」

 

 高村は、話の転回に面食らったような顔をした。

 

「なぜって・・・姉が学園のOGで、かなり強かったんですよ。8歳上だから、姉が走ってるとき俺は小学生で、その・・・憧れの姉で・・・」

 

 知らなかった。年の離れた姉がウマで、強い選手だったのなら、確かにトレーナーを目指す動機にはなる。姉が誰なのか気になったけど、脱線するから訊くのはやめた。それに、高村の潔癖な性格も根源は分かった。

 

「なるほどなぁ、そりゃトレーナー目指すよな。・・・で、生徒のことだけど、だったらこれからも事務的に接すれば良いんじゃないか。最低限の会話はできているんだから、それで指導を拒否するなら、お前の担当だって悪い」

 

 関係性を誤解されるのを避けたいのであれば、今後のやり取りは最低限のものでも良いはず。しかし、彼の目は少し泳いだ。

 

「それは・・・そうですけど・・・でもそれじゃ、あいつにとって良くない。次のレースでも勝てる様にしないと、トレーナーとしての責務が果たせないし、俺のキャリアにも傷がつく」

 

 妙に担当に対する意気込みが強い。トレーナーにとっては、必ずしも初担当の生徒が好成績を残すことがキャリア形成上必須なわけではない。そもそも、勝負の世界は厳しい。2000名を数える全校生徒のうち、レースで活躍できる生徒は2割程度だ。本人の資質や、トレーナーとチームメンバーとの相性が特に物を言うこの世界では、ベテラントレーナーであっても確実に生徒を上位に入れることは困難を極める。新人トレーナーにとっては、初回で担当した生徒がいきなり上位入賞まで行く割合は多いものではない。高村はむしろ優秀な方だ。残酷な事実だが、生徒(ウマ娘)たちにとってはチャンスは一度きりでも、トレーナーには『次』がある。そう考えて、少し意地悪を言ってみた。

 

「別にそこまで気にしなくてもいいと俺は思うよ。一度でもレースで上位入賞を果たしていれば、新人トレーナーとしては上位層だ。そうすれば、その後の戦績とは関係なく、担当が引退した後には次の指導相手を探せるようになる。アド・・・高村の担当生徒は、確か6戦4勝だっけ?残りの2戦も上位だよな。戦績は十分積んでる」

 

 しかし、彼は軽い怒気をはらんだ声で返してくる。

 

「それじゃダメなんですよ。親御さんから未成年を預かっている以上、担当の人生を大きく左右する人間がそんな態度であって良い訳がない。メンタルが崩壊した状態で、悲惨な成績でみじめにレースだけだらだら続けさせて引退したらさようなら、なんて許されない。担当している以上、ちゃんと勝たせて、晴れやかに引退と卒業を迎えさせてやるべきだ」

 

 これは担当に入れ込んでいる可能性が高いように思う。理想的な哲学ではあるものの、理想主義的過ぎる。生徒の半数近くは、担当トレーナーがつかないまま高い学費だけを払って卒業していくか、途中で引退、転学の道を選ぶ。彼が言うような指導をできているトレーナーは多くない。2年目の高村には過剰な目標だ。4年目の俺にも難しい。

 

「あまり生徒に誠実に向き合いすぎると自分が消耗するだろ。融通が利かなすぎるんじゃないか。例えば『卒業したら考える』とか言えば、向こうもとりあえず納得するだろ」

 

 妥協案を出してみても、彼はまたもや正論を吐く。

 

「そんな無駄な期待を持たせるのはダメですよ。そんなこと言えば、あいつは俺に対する感情を捨てられなくなる。そしたら、誰かが絶対に気付く。見てくださいよこれ」

 

 高村がカバンから何かを取り出した。週刊誌のようだ。ページを開いて、ある記事を見せてきた。

 

『高潔なる師弟愛(トレウマ)――騎士(ナイト)高村、質問ピシャリ!「プライベートに踏み込むな」』

 

「うわ」

 

 あまりの下世話な見出しに、声が出た。記事を読み進めていく。

 

『――菊花賞で優勝を果たしたアドマイヤベガ選手(16)の記者会見で、とある記者が「アドマイヤベガ選手、今までと比べて表情が明るくなりましたね。何か良いことありましたか?」という質問を投げかけた。すると、アドマイヤベガ選手を守るかのように、トレーナー高村氏(24)が「プライベートに関する質問は受け付けない」と跳ね除けたのだ。美しき姫を守る騎士(ナイト)のような態度に、本誌は敬意を表したい。そして、彼の『護衛』を受けたアドマイヤベガ選手が彼に向けた目線に注目してほしい。自分を守った若きトレーナーに対する、熱を帯びたその目線は、指導者に対するものというよりも、別の強い想いが籠っているようにも見えた。同じ感想を抱いたのは、本誌記者だけではなかったはずだ。二人の関係がどのように変化していくのか、そしてアドマイヤベガ選手はどのような競技生活を送るのか、今後注目が集まりそうだ――』

 

「・・・」

 

 思わず口の端が歪んだ。これは、タイミングとしては最悪だ。よりにもよってこの記者会見の後にアドマイヤベガが本当に告白していたことが知られれば、世の中がどんな反応をするかは想像もしたくない。

 

「これは確かに、今は完全拒絶するしかないよな」

 

 高村は深く頷くと、再び口を開いた。

 

「週刊誌の記者どもは、トレーナーとウマたちの間に少しでも親密な空気を感じ取るとすぐこれだ。無責任に煽りやがる。何だよトレウマって」

 

 口調が感情的になってきた。彼を落ち着かせて、状況を整理させることにした。

 

「まあ、そういう事を言う連中はいるよ。禁断の恋なんていつの時代も人気の題材だ。『源氏物語』然り、『ロミジュリ』然り、『ローマの休日』然り。それで、何が最優先事項なんだっけ?高村のトレーナーキャリア?担当の競技キャリア?それ以外?」

 

 彼からは、予想外の答えが返ってきた。

 

「担当の人生ですよ。中高生時代の経験は一生を左右する。例え短期的に傷つけようと、将来を守るのが俺たちの義務です」

 

 これは完全に生徒に入れ込み過ぎている。生徒の人生を左右しかねない自覚を持つことは重要だけど、人生を背負い込むのはやり過ぎだ。チームトレーナーになった途端に重圧で潰れる。

 

「さすがに抱え込み過ぎだ、それは」

「でも・・・!」

 

 反抗する高村を目で制して、言葉を続ける。

 

「高村は、高校時代の同級生を傍観するしかなかった悔しさを、担当生徒相手に投影してないか?」

「・・・」

「最初に言ってたように、『まともに指導できる程度には関係を修復する必要がある』んだろ。なら、担当がある程度納得する形の提案をして、その先の決断は相手に任せるべきだ。その先まで背負おうとするのは、トレーナーの仕事の範囲じゃない。俺たちはあくまでも、競技指導教員だ」

 

 高村の顔は、ますます苦々しげに歪んだ。

 


 

 その後も職務倫理、職責範囲、現実的な妥協案についての応酬が続き、3時間が経った。退店してから時計を見ると、既に夜10時過ぎ。翌日は土曜日だから、府中には戻らず練馬の実家に泊まることにした。久しぶりに会う妹は、少し冷たい態度だった。中学生ならそんなものだけど、ちょっと寂しい。

 

 翌週月曜日、学内から教職員向けポータルにアクセスして、8年前の対外公式文書の中から、例の生徒に関するものを発見した。名義は当時の理事長で、生徒のプライバシーを無遠慮に報じるマスコミに対する抗議文書だった。およそ公式文書としては最大限の怒りと批判を込めたもので、学園が本気で彼女を守ろうとしていたことが伺えた。それを振り切って競技引退、自主退学、普通科高校への転学をしたということからも、彼女が当時感じた恐怖と絶望は察するに余りある。

 当時の自分は、大学付属高校特有の自由な生活を謳歌していた。同じ時期に、2歳年下の彼女は、たった16歳で人生を歪められて表舞台から姿を消していた。そして高村は、それを傍観する他ない立場に置かれていた。

 

 確認できる範囲では、学籍データベースに当該生徒の情報は無かった。当然だ。退学した生徒の学籍情報へのアクセス権限は競走競技指導教員(トレーナー)には無いし、退学届などの重要書類は紙面媒体での管理となっている。彼女のその後の動向が気になったけど、調べるのは止めておいた。必然的に当時のまとめブログやSNSでの炎上祭りを見ることになるからだ。記憶が正しければ、暴走したファンや、炎上を煽るアフィリエイトブログ主たちは過激な人格否定のコメントを並べ立てていた。

 他人事だった当時と違い、トレセンのトレーナーとなって生徒のウマ娘たちを指導する今は、そんな情報を目にしたくもない。そして仮に彼女の行く末が最悪のものだった場合、自分が負うであろう精神ダメージも計り知れないはず。SNSでインフルエンサーをやっている教え子に対して過保護な態度を取ってしまうかもしれないし、そうなれば『何かあった』と察されるだろう。教え子に、心配されたくはない。

 




補足解説

読者の方は忘れていると思うので解説します。

・第二章第十一節の『高校時代の嫌な思い出』
・第三章第九節の『塾の同級生だった友人を失った時のこと』
・第五章第三節の『これまで思い出さないようにしていた過去の様々な記憶』『他愛のない微笑ましい青春の一ページを悪意ある切り取り方で報じられ、ターフを去ったウマを間近で見ていたこと』

以上4つの記述は、全て高村の高校時代の塾の同級生にいたウマ娘の炎上事件にまつわる記憶です。

高村が乙名史記者(第二章第九節初登場)を初対面から強く警戒していたことや、第二章第十一節でノーザンウインド選手の経歴『過去に妹を亡くした』『トゥインクルシリーズと大学駅伝両方に出ている』のうち後者のにみ反応したこと、東京優駿や菊花賞でのレース後にメディアに対して警戒の目を向けていたのも、全てこの記憶が原因です。

ちなみに高村の父親は消防副署長(第二章第十一節)。元消防士で、悲惨な火災・自然災害現場に出動した経験も多い人物です。家庭では仕事の話はしないのですが、事故や災害を取り上げたテレビ番組などを見ながら「事が起きてから救う奴じゃなくて、未然に防ぐやつが本物の英雄なんだよ」と度々呟いていたことが高村の価値観の源流です。

アドマイヤベガからの告白に対して、高村は

  • すぐ受け入れると思った
  • 「卒業したら良いよ」と言うと思った
  • 「卒業したら考える」と言うと思った
  • 優しく断ると思っていた
  • 事務的に冷たく断わると思った
  • 苛烈に拒絶すると思った
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