先日の練習で併走していた生徒を運よく見つけた。そして、もう一人、アドマイヤベガと親しい生徒も一人話に加わってきた。二人から情報を聞き出すと、どうやら高尾山のトレイルランコースでもよく自主練をしているらしい。
――滅茶苦茶芝居がかった話し方をするやつだったな、後から会話に加わってきた方。
時計を見ると、15時を過ぎていた。こんな時間から、いくら身体能力が高いとは言っても、女子高生が一人で山に入るのは不自然だ。立夏を過ぎ、日が長い時期とはいえ、日没まで4時間ほどしかない。
――ますます危ないな。
一度
高尾山口駅に着き、真っ先に高尾警察署 高尾口駐在所へと向かった。入山届が出ていないか確認したかったのだ。名刺を渡してトレセン学園の教員であることを示し、アドマイヤベガの顔写真を見せながら尋ねた。
「トレセン学園所属の、ウマ娘の高校生が来ていませんか。この写真の子なんですが。どうやら今トレイルランをしているようで」
人のよさそうな警察官は、笑顔で話し始めた。
「今日は入山届は出てませんけど、よく来てますよ。毎回同じルートです」
となると、今日も来ている可能性がある。慌てて訊ねた。
「コースは?!」
「えーっと、高尾北アプローチトレイル、天狗トレイルを経由して、城山で折り返してここに戻って来るルートですね」
「ありがとうございます!」
そう言って飛び出そうとすると、駐在所の警官が慌てて止めてきた。
「今から登る気ですか?! 遭難しますよ!!」
「今すぐ追いかけないと取り返しのつかないことになるかもしれないんですよ!」
「なら、せめて地図を持って行ってください! 明日朝までに連絡が無ければ遭難したとみなして救助を出しますから」
「分かりました!ありがとうございます!」
「ああちょっと、連絡先を―」
「名刺に書いてます!」
そのまま、地図を見ながら教えられたルートに向かって駆けだした。今ならまだ、間に合うかもしれない。
だが――
「はあ・・・クソッ」
そういえば、アドマイヤベガの併走相手も言っていたな。
未舗装の山道、激しいアップダウン、石段、見通しの悪い道、積もった腐葉土、水たまり。全ての条件が最悪だ。スーツで走る場所じゃない。
「こんな・・・ところで・・・練習しているのかよあいつ・・・はあ・・・」
滑落や自殺の線も考えて、崖の下をのぞき込んだり周囲の林にも気を配って走ってきたせいもあり、予想以上に時間がかかってしまった。時間はすっかり夕刻で、真っ赤な日焼けが空を染めている。
しばらく、肩で息をする。そして落ち着いてから再び走り出す。
「・・・っ」
遥か遠くの上の方の山道に、ちらりとアドマイヤベガが走る姿が見えた。よかった。どうやらまだ無事らしい。足を速めて、彼女の姿を追う。
しかし、どれだけ走っても距離は縮まらない。それどころか、あれ以来一度も彼女の姿を目に捉えられていない。そうするうちに、あたりは夜闇に包まれていき、足元すらおぼつかなくなっていった。
「足元、よく見え―」
脚が滑る感覚。それに続く浮遊感。まずい、本当に俺の方が遭難する。そう思った直後、頭に、強い衝撃が走った。
・・・・・・少しずつ、意識を取り戻した。目をゆっくり開けると、そこには満点の星空が広がっていた。都内とは思えない、星の海。微かに天の川が見える。
――俺、死んだのかな。
そう思った瞬間、誰かが声をかけてきた。
「痛むところは?」
目線を声の主に向けた。暗くてよく見えない。声からして女性、それも若い女性だ。目を凝らすと、頭頂部付近に、特徴的な長い耳。そして、トレセン学園のジャージを着ている。
「・・・あれ、アドマイヤベガか?」
「質問しているのはこっち。痛むところは?」
痛い所といえば、全身が痛い。だが、
「・・・大丈夫だ。君が助けてくれたのか?」
「普通、放っておかないでしょう」
彼女は、眉根を寄せて深いため息をつき、そして訊ねてきた。
「なぜ、私にこだわるの?・・・選抜レースはあんな結果だったし、私があなたを知らないように、あなたも私のことをほぼ知らないはず」
「・・・着任式で挨拶はしたぞ」
「話、聞いてなかったから。質問に答えて。どうして?」
こいつ、俺はガチガチに緊張して話したのに、何も聞いてなかったのか。
「・・・分からない。でも─」
「でも?」
「君を一人で放っておくのは、危ない気がしたから」
アドマイヤベガは、表情を変えないまま呟いた。
「私は・・・独りでいい。独りが、いい」
「なぜ?」
「走ることも、勝つことも、私が独りで背負うべきことだから・・・だって・・・」
その先の言葉を待ったが、それっきり彼女は黙ってしまった。
彼女に支えられるように、長い時間を掛けて下山した。駐在所に顔を出すと、警官は心底呆れたような顔をした。言わんこっちゃない、そう言外に滲むような表情だった。そして次に、安心したように微笑んだ。
「生きて帰って安心しましたよ」
笑えない。もしかしたら本当に死んでいたかもしれないから。
駐在所で手当てをしてもらってから、西王線で府中に戻った。
駅からトレセン学園までの帰り道。言葉少なくアドマイヤベガとともに歩く。思い切って、声を掛けた。
「君を担当させてもらえないか。個人指導契約を結びたい」
彼女は、一瞬の間の後に少しだけ顔をこちら向けて口を開いた。
「・・・突然、何?」
「君が一人で競技したいというならそれでもいい」
「え?」
「契約したからといって、常に指導しなければならないという規則はない。トレーナーというのはもともと裏方の職だ。こっちは勝手に君を支えるし、君はそれが邪魔なら一人で練習していい」
嘘ではない。精神的に自立した
それに、おそらく今日の選抜レースに出た生徒たちはもう、ほかのトレーナーと指導契約を締結してしまっただろう。自分も、午後第二部門"長距離"を見ずに学園を出てしまった。こちらの選択肢は、アドマイヤベガを担当するか、秋の選抜レースを待つかのどちらかだ。そして、選抜レースからの逃走という問題を起こした彼女と契約したがるトレーナーもいないはず。利害は一致している。
「なに、それ・・・・」
アドマイヤベガは、下を向く。そして
「門限だから、帰る」
そう言い残して、生徒寮の方に駆け出してしまった。
――チームに入るつもりは、ない。大勢での練習は、煩わしい。
馴れ合いも、指図も、必要ない。
しかし彼は、恐らく、それをしない。
契約は個人指導と言っていた。そして、新人トレーナーだ。
過剰な干渉もなければ、過剰な期待もないだろう。
それでいて、最低限の義務は果たしてくれる。
─―それなら、悪くはない。
翌日、アドマイヤベガが
ためらいがちなノックの後、おずおずと足を踏み入れてくる。
「スカウトの話、受けてくれるのか?」
「どちらにせよ、トレーナーがいないとトゥインクル・シリーズには出られないから。だから、選ぶなら、あなたにしておく」
「・・・ありがとう。よろしくな。個人指導契約書を渡すから、ちょっと待っててくれ」
そう彼女に伝えて、体育課主任の元へと駆け寄り、個人指導契約書をもらう。自分の名前を記入し、印鑑を押してから彼女に渡した。
「これだ。君本人の署名だけじゃなくて、保護者の方の署名も要る。土日で実家に行くか、郵送でサインしてもらってくれ」
「・・・分かった」
彼女は静かに頷いた。
週が明けた月曜日、アドマイヤベガが
「両親のサインをもらってきました。私の記入欄も署名済みです。確認してください」
彼女が、両手に契約書を持って言う。
「分かった。一緒に確認していこう」
アドマイヤベガから受け取った指導契約締結書類を確認する。これから最大3年間担当することになる、大切な教え子だ。万が一にも間違いの無いよう、しっかりと口に出して本人と読み上げていくことにする。個人情報が含まれるから、教員室のドアを閉めた。まず、彼女のご両親が記入した欄。
契約締結日、住所、緊急連絡先、保護者同意署名。
彼女と自分の認識の一致を、1行ずつ積み上げていく。
次に、トレーナー記入欄。
『担当トレーナー名 :
最後に、本人記入欄―。
『所属クラス : 高等部1年A組
所属寮 : 栗東寮
本名 :
「改めまして、
彼女の凛とした声に、背筋を伸ばして応える。
「ああ、よろしく。アドマイヤベガ」
登場人物 No.01
中央トレセン学園 体育科所属
第一部開始時点(トレセン着任時点)では22歳。誕生日は6月6日。
東京都西東京市出身。消防士の父と、ドッグトリマーの母の元で生まれ育つ。
8歳年上の姉は元中央トレセンの重賞バで、大学ウマ娘駅伝でも活躍したフィジカルエリート。
都内に本部がある私立大学のスポーツ科学部を卒業後、トレセン学園新人トレーナーとして着任。
幼いころの夢は、ウマ娘になること。