第六章ではトレセン高等部卒業までを描きます。
杉崎先輩との密談があった翌週の金曜日の練習後、アドマイヤベガをターフの観客席に呼び出した。周囲に誰もいない状況で、かつ閉鎖的な空間を避けるために、ほとんどのチームの練習が終わったあとのターフを選んだ。念のため、カレンチャンを見えない位置に待機させている。カレンチャンにはかなり嫌味を言われた。代金は杉崎先輩の大学時代のエピソード10個。いつかバレる気がする。泥酔の末に高田馬場駅のロータリーで半裸で寝て警察のお世話になり出席必須の講義の単位を落としたことと、本キャンの大隈銅像に登って訓告処分を受けたことを教えたのはまずかったかもしれない。
ため息をついて、空を見上げた。秋は日暮れが早い。既に空は真っ暗で、夜間照明だけがターフを闇の中に浮かび上がらせている。先ほどまで自主練をしていた生徒たちも引き上げ、誰も居ない。新月の空には、微かな天の川が見える気がした。
遠くから、学生靴がコンクリートを踏む硬い音が響いてくる。その音とともにアドマイヤベガが歩み寄ってくるのを見たとき、普段とは少し違う緊張感が胸に広がる。アドマイヤベガを自分から呼び出した身でありながら、何をどう話すべきか頭の中でうまく整理がついていない。彼女も、きっと今も自分にどう接すれば良いか分からない状態だろう。こちらが拒絶したことに対する反発もあるはず
「・・・話がある」
声をかけると、彼女は少し驚いたような顔をして立ち止まった。彼女の表情には、期待と不安が入り混じっているのが見て取れた。その表情を見て、心の中で少し痛むものがあったけれど、話は続けなければならない。彼女がベンチの反対側の端に座るのを待って、話を続けた。
「この間のことについて、もう一度話したい」
そう言った瞬間、彼女は軽く頷き、静かに見つめてきた。その瞳に何かを期待する気持ちがあることは、言葉にしなくても伝わってきた。しかし、今の自分の立場で、その期待に応えるわけにはいかない。
「まず、この前は、言い過ぎた。冷静じゃなかった。ごめんな」
間違ったことを言ったとは、今でも思わない。言うべきことを言ったと思う。仮に今の自分が3週間前に戻っても、全く同じことを言う。それでも、杉崎先輩の意見は聞こうと思った。
アドマイヤベガは、何も言わずに見つめてくる。
「その上で言うけど、アドマイヤベガの気持ちに応えることはできないし、しない。俺たちは生徒と教員であって、それ以上でもそれ以下でもない」
言葉が思ったよりも重く響いた。アドマイヤベガの表情が一瞬で変わり、傷ついたような顔を見せた後にそのまま下を向いてしまった。慎重に言葉を選んだつもりだったけれど、彼女には思ったよりも深く突き刺さってしまったらしい。
「だけど、卒業してしばらく経っても気持ちが変わらないのであれば、その時に話は聞く」
アドマイヤベガが、ゆっくりと顔を上げる。その瞳を見た瞬間、苦い感情が胸に広がる。
これが最良の答えなのか、自信は持てない。期限は曖昧で、さらに『いいよ』『考える』ではなく、『話を聞く』。これは、事実上の拒否を誤魔化しているだけだ。自分に対する気持ちを忘れてくれるまでの時間稼ぎに過ぎない。
実際のところ、卒業して新生活が始まれば、彼女は自分に対する感情などすぐ忘れるはず。自分も、大学に入学してすぐに高校時代の教員たちは『過去の人』となった。しかし、もし仮にそうならなかったら、どう返事をするべきなのか?その答えもないまま、このような提案をするのは指導者として不誠実なのでは? ・・・それでも、今は教え子の精神的負担を和らげることを優先した方が良いのかもしれない。杉崎先輩の言うように。
しばらく沈黙が続く。彼女は一言も発さない。少し、時間が止まったような気がした。何か言葉を待っているのだろうか?それとも、納得してくれているのか?
長い沈黙の後、彼女は小さく頷いた。その一瞬、言葉にできない思いが胸に込み上げたけれど、言葉を発することはできなかった。
「分かりました」
ようやく返事が聞こえ、心の中で一瞬、安堵の気持ちが広がる。しかし直後、アドマイヤベガの内に去来しているであろう感情を想像すると、どうしても心は沈んでしまった。
数秒後、綾部明里は、そのまま無言で立ち上がると、振り返ることなく、静かに去って行った。その背中を、何も言わずに見送る。
心の中を、無力感が満たしていく。今はこれが必要な答えだったと信じているけれど、最善の答えでもないはず。こんな中途半端な妥協案しか取れなかった自分が、ひどく情けない。しかし、これ以上無理に何かを言うことはできない。せめて、土日の間に心の整理をつけていて欲しい。
週末の練習後、高村トレーナーに呼び出された。
少しだけ心がざわついた。ただの練習の振り返りだと思いたいけれど、不安が胸を押し上げてくる。もう3週間もまともに口を利いていない。そのことに痺れを切らして叱責されるのか、あるいは契約解除を通告されるのかもしれない。そうでなくても、何か重要事項を伝えられる気がする。
歩きながら、その不安を拭おうと必死に考えたけれど、彼が何を伝えようとしているのかが分からない以上、気分は沈んだままだった。
観客席のベンチに座っている高村トレーナーの姿が目に入り、思わず足が止まった。すぐに足を進めたけれど、何を言われるのか想像すると怖くて、足取りはどうしても重くなってしまった。
「話がある」
トレーナーの声は、硬いままだった。一度深呼吸した後、ベンチの反対側に腰を掛けた。
「この間のことについて、もう一度話したい」
その言葉を聞いて、思わず視線を落とした。『二度とこの話をするな』と言ってたくせに、自分からその話をするのは卑怯だと思う反面、少し期待してしまった。もしかしたら、違う答えが返ってくるんじゃないか、と。
「まず、この前は言い過ぎた。冷静じゃなかった。ごめんな」
謝罪されるとは、思っていなかった。この人は、何を言うつもりなのだろう。
「その上で言うけど、アドマイヤベガの気持ちに応えることはできないし、しない」
その言葉が耳に入った瞬間、あまりにもはっきりとした答えに、胸が痛んだ。
――やっぱり。
この人が私の想いを受け入れてくれないことなんて、分かっていたはず。むしろ、受け入れられたら困惑していたかもしれない。それでもやはり、心の中で少しだけ期待していた。わざわざ呼び出されてまで二度目の拒絶を受けるのは、正直辛い。
地面に目を落とした私の耳に、言葉の続きが届いた。
「――だけど、卒業してしばらく経っても気持ちが変わらないのであれば、その時に話は聞く」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
頭の中で、言葉が渦を巻く。すぐにはその意味が飲み込めない。『卒業してしばらく経っても気持ちが変わらないのであれば』。
卒業してすぐでは話を聞いてくれない理由と、それを今伝えて来た理由は、何だろう。
少しだけ間をおいた。
高村トレーナーの顔を見る。3週間前から変わらず、怖い顔をしている。その間、胸の中でいろいろな感情が交錯する。最初はトレーナーの言葉が理解できなくて、ただ思考が空回りするだけだったけれど、彼の言葉が、私の中で少しずつ形を成していく。もしかすると、この先もまだ可能性が残っているのかもしれない。まだ終わりじゃない。
その一瞬、心の中に小さな光が灯った。今は無理でも、将来には可能性があることを理解した瞬間、気持ちが少し軽くなるのを感じた。でも、それが本当に正しいのかどうか、今の私には確信が持てなかった。いつかその時が来たとして、彼は私の気持ちに応えてくれるんだろうか?不安が再び胸に湧き上がったけれど、黙って頷いた。
「分かりました」
その一言が、この人にどう伝わったのかは分からなかった。私の声は少し震えていたけれど、それでも言わなきゃいけないと思った。立ち上がり、握りしめていたスカートを直し、トレーナーの方を見ないままその場を後にした。
前回の精密検査から1年。過酷なクラシック戦線を走り終わったアドマイヤベガの身体の状態を確認するため、再び精密検査を受けさせた。
検査から数日後、沈んだ顔の教え子から検査結果を受け取った。
『両足の繋靭帯に、炎症の兆候が認められます。繋靭帯炎の本格的な発症を予防するため、長期休養を強く推奨します』
人類のうちウマにのみ存在する組織の1つ、繋靭帯の炎症。
「無期限休養だ。少なくとも、春休みまでは競技活動を中断する」
登場人物 No.05
中央トレセン常駐スクールカウンセラー。職員番号1033416。
中等部入学組トレセンOG。現役時代には「ブロンズコレクター」とも呼ばれた重賞選手で、優勝経験は少ない。35歳既婚者。
アドマイヤベガからの告白に対して、高村は
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すぐ受け入れると思った
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「卒業したら良いよ」と言うと思った
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「卒業したら考える」と言うと思った
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優しく断ると思っていた
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事務的に冷たく断わると思った
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苛烈に拒絶すると思った