高村トレーナーからは、完治祝いとしてドゥーブルをもらった。濃厚なクリームチーズベースのベイクドチーズケーキの上に、ふわふわのマスカルポーネチーズのレアチーズムースの二層構造。私がふわふわしたものが好きだということは、あの人には伝えていないのに。
カレンさんには、いちごのフレジエが贈られていた。明らかにSNS映えを狙ったチョイス。カレンさんは、高村トレーナーと時折やり取りしているらしい。変な情報を漏らされてないと良いけど。
使い慣れたマグカップを出して、二人分の紅茶を淹れた。その写真を、カレンさんはすぐにSNSに投稿していた。
「高村トレーナーって贈り物のセンス良いですね。妹さんかお姉さんいるのかな」
「さぁ・・・聞いたことないから・・・」
ケーキを食べ終わり、紅茶も飲み終わったころ、カレンさんに声を掛けた。
「中等部卒業、おめでとう」
「・・・覚えててくれたんですね!」
彼女の目は、丸くなっていた。
「それくらいは、さすがに覚えてる。ルームメイトだから」
「ありがとうございます。やっと義務教育卒業ですよ。高校でも、文武両道で頑張ります!」
両腕でガッツポーズを取るカレンさんの顔は、出会ったころから少しだけ大人びていることに気付いた。当然だ。この子と出会ってから、2年。中学2年生になったばかりの頃と、高校進学を目前にした今では、全然違う。普段から顔を合わせている相手だからあまり意識しないだけだ。
「・・・うん、頑張って。応援してるから」
「アヤベさんは、来年には卒業で、あと1年しか一緒に居られないんですね」
ふと、話題が変わった。
「・・・寂しくなりますね」
「・・・すぐ新しいルームメイトが来るでしょ」
「そうですけど、その子はアヤベさんじゃないです」
その目は、窓を見ている。
「あなたのレースは観に行くから」
そう伝えると、カレンさんはこちらを向いた。
「本当ですか?絶対ですよ」
「うん・・・約束するから」
テーブルの反対側に座るルームメイトの表情は、いつにもなく真剣だった。
5月。走り込み以外の筋トレは続けていたからか、夏の事故後のトレーニングよりもずっと楽に、早く、アドマイヤベガの体力は回復した。
予想通り、安田記念は出走権を得られなかった。優先出走権を得られるレースに出ているわけでもないし、実績も不足していた。やはり、4か月間のブランクは大きい。アドマイヤベガは、落ち込んでいた。
そして翌6月、宝塚記念の出走者が発表された。アドマイヤベガの名も、そこにあった。思わず、トレーナー室でガッツポーズをしてしまった。しかし、他の出走者を確認して、大きな不安がよぎった。出走者は、テイエムオペラオー、サブマリナー、ステイゴールド、メイショウドトウ、マチカネフクキタル、スーパープラネット、ロイヤルラン、ラピッドビルダー、アクアオーシャン、インフレーション、グラスワンダー、そしてアドマイヤベガの合計12名。
『強豪揃い』としか表現しようがない顔触れ。中距離適性がある選手の上澄みばかりだ。クラシック三冠に出走していた選手も複数いる。激戦は確定と言える。そして、友人のテイエムオペラオーとメイショウドトウも名を連ねている。精神的な重圧は計り知れないはず。
唯一の安心材料は、大外枠であること。追い込みを主戦法にするアドマイヤベガにとっては、状況を俯瞰しやすく、かつ序盤から後ろに入りやすい位置でもある。しかし、強豪揃いのこの一戦で、それが吉と出るか凶と出るかは分からない。
既に引退手続きと公表は終えている。宝塚記念での引退は、確定している。どのような結果になったとしても、正真正銘最後のレースとなる。理想とする『晴れやかな引退』を迎えさせてやることができるのか。優勝は別としても、掲示板に入れるのか。全く読めない。それでも、トレーナーとしては、担当生徒に有終の美を飾らせてやりたい。
ここ3か月の指導記録を見直した。一般準備期、専門準備期、それぞれ十分なトレーニングは積ませている。併走練習のタイムは、優勝圏内。スマートウォッチが記録している消費カロリーは、正規分布。友人や教職員による監視網から、不審な報告はない。隠れての自主トレーニングの兆候はない。保健室健診の結果にも、懸念点は無い。渡辺スクールカウンセラーからも、『精神状況はかなり改善されている』と報告が来ている。優勝は、不可能ではないはず。
『宝塚記念に出走できることが決まった。ここから二週間は負荷を下げてテーパリングしていく』
アドマイヤベガからは、数分後に返信が来た。
『分かりました。最後のレースだから、気を抜かずにやります』
6月25日、阪神レース場。芝2200m、良バ場、だけどあいにくの雨。梅雨時の重い雨が、ターフに降り注いでいる。
スターティングゲートに向かう途中、控室で高村トレーナーから言われた言葉を思い出す。
『好きなように走れ』
このレースが、私の引退戦、集大成。悔いの無いように、ということらしい。だったら、トレーナーから指導されてきたことを、完璧にこなしてみせる。
ゲートに入って、左手やや遠くを見る。観客席は、カラフルな傘やレインコートに彩られていて、灰色の雨がその色を曇らせている。
どんな結果になっても、このレースが私の生涯最後のトゥインクルシリーズ。私にとっての引退レースだろうが、他の選手には関係ない。他の選手の事情も、私には関係ない。この場で最も早く走った選手が勝つ。単純明快で、厳然としたルール。ただ、悔いの無いように走るだけ。吸った息を吐く。高村トレーナーに渡されてからずっと握りしめていた
ここまでの2年を思い出す。妹のために独りで走り続けた1年半。家族にも、トレーナーにも、ルームメイトにも、クラスメイトにも、ひたすら心配と迷惑をかけ続けた。そして、引退レースに出れないんじゃないかと気を揉み続けた最後の半年。誰のためでもなく、ただ自分のためだけに走りたいと思い続けた。走りたいだけじゃない、勝ちたい。勝利の喜びを、他の誰でもなく、自分自身で噛み締めたい。
拳を握りしめて、前傾姿勢。右足の親指に、全体重を込める。
ゲートオープン。それと同時に、右手の選手たちが一斉に内へと入り始める。内側では2番選手サブマリナーさんが前に出ていくのが見えた。ドトウは三番手、
前を行く選手たちが蹴り上げた泥が顔にかかる。それを避けるため少しだけ外へ出ると、ラピッドビルダーさんがじわじわと前へと進んでいき、その陰からステイゴールドさんが姿を現した。
重力が否応でも減速を強いる上り坂を抜けて、第一コーナー。叩きつける雨が、髪から額へ、額から顔へと流れていく。遠心力に抗うため、身体を傾けた。脚が滑らないよう、親指に力を込めた。足裏のスパイク蹄鉄と踵が地面を噛む感触を確かめながら、コーナーに入っていく。
前方の選手たちが蹴り上げた泥と雨水が遠心力で飛んでくる。少しでも目に入らないよう、顔は下を向けて、目だけで前を睨みつけた。前には、9番アクアオーシャンさん、7番ロイヤルランさん、8番ラピッドビルダーさん、11番グラスワンダーさん。さらにその前に、涼しげな表情のオペラオーが居る。風になびくマントは、雨水を弾いていた。かっこいいな、と思ってしまったのが悔しい。
――ほんと、腹立つ。
第二コーナーに入ると、斜めになった視界の中で、少しずつ選手群が伸びていくのが見える。トップは、サブマリナーさん。その後ろに、ドトウとオペラオーが追いすがっていく。速い。
第二コーナーを抜けて、
1000m地点を通過した時、ステイゴールドさんが、僅かに加速した。その足音を聞いたグラスワンダーさんと、オペラオーも動いた。中間地点を過ぎたタイミングで、一斉に勝負を仕掛けてきた。
選手群の先頭を見る。第二コーナーを出た時よりも、近い。そして、気付く。最内が空いている。雨でぬかるんでいて、皆避けている。一瞬だけ、悩んだ。このままいつものように大外から追い上げるか、それとも、最内を走って
第三コーナーは目前に迫ってきている。悩んでいる時間は無い。賭けだ。進路を右へ。ステイゴールドさんの後ろを通り、一気にラチ沿いに入る。それと同時に、脚に力を込めて、歩幅を広げた。後ろに蹴り上げた脚を、畳んで前へ。ミドルフットからフォアフットへ。やっぱり、ラチ沿いのバ場は悪い。ぬかるんでいる。フォアフットでもコーナーで滑らないように、足の先にさらに力を込めた。蹄鉄のスパイクがしっかりと地面を噛み込む。脚に痛みはない。右も、左も、大丈夫。私の脚は、靭帯は、壊れない。
視界が大きく傾く。ラチ沿いには選手が居ないから、他の選手に蹴り上げられた泥も雨水も掛かってこない。顔を上げた。視界が広い。先頭は、サブマリナーさんに代わってラピッドビルダーさん。先頭だけを見据えて、一歩一歩に力を込める。
第四コーナーに入ると、少しずつ選手群が外側に広がり始めた。オペラオーも、ドトウも、サブマリナーさんも。一人だけ内側を走るラピッドビルダーさんとの間に、大きな隙間が空いた。その向こうから、カラフルな観客席が迫って来た。
教え子は、引退レースで初めての戦法に出た。序盤は後方に控えるのはいつもと同じ。しかし、第三コーナーに入るあたりで外ではなく内、それもラチ沿いに進路を変更して最短距離をショートカット。
最初は、焦りから無謀な賭けに出たのかと思った。しかし、あまりに鮮烈な走りに、思わず目を見開いた。夏の事故と開腹手術から十分な時間が経過し、精神状態も改善され、恐らくは競技デビュー後初めてと言って良い、万全の状態。最初からこんな走りをしていたら、どのような戦績を残していたのか。後期もレースに出るのであれば、どんな戦績を残すのか。そう思わざるを得ないほど、見たことも無い鋭い末脚だった。
一歩ごとに加速し、前を走る選手を抜く。泥と雨水の航跡を残しながら、まるで流れ星のように選手群の間を駆け抜けていく。想像以上のポテンシャルを秘めた選手が、そこに居た。
あれが、アドマイヤベガの真の走り。一等星ベガの名を冠する高校生ウマアスリートの、ベストコンディション。順位を確認するために他の選手を見ようとしても、アドマイヤベガから目を離せなかった。
レースが終了したあとの記者会見で、雑誌や新聞、テレビの記者たちからの質問に答え続け、終了時間が迫って来た頃、乙名史記者が最後の質問を投げかけてきた。
「もしもお二人が出会わず、指導契約を結んでいなかったら、どうなっていたと思いますか」
歴史にifは無い。それでも、もしも自分より指導力に長け、メンタルの問題にも適切に対処できるベテラントレーナーとアドマイヤベガが組んでいたら、どれほど恐ろしい戦績を残す強豪選手になっていただろうか。そして、その”ifの世界”で自分は、どんな生徒と指導契約を結び、アドマイヤベガ相手にどう対策を練らされることになっていたのか。少しだけ、考えてしまった。
すぐ横に座る教え子が、マイクを手に取り答えた。
「・・・きっと私は今でも、2年前の選抜レースの失敗から抜け出せず、どん底から世界を見つめていたと思います」
「なるほど、やはりアドマイヤベガ選手にとって、高村トレーナーは唯一無二の指導者でしょうか」
「・・・はい。そう、思います」
アドマイヤベガの返答内容を聞いて、己の考えを全て打ち消した。生徒が自分を唯一無二の指導者と認めてくれているのに、指導者が”if”を考えていたら、笑われてしまう。それに、やはり『思考リソースはこれから出来ることに』だ。何度も、この言葉を指針に生きてきた。
「過去に関しての仮定の話にはお答えできません。事実として彼女は競技の世界で結果を残し、本日の引退を無事迎えられた。それが全てです」
乙名史記者は、いつもの笑顔だった。演技なのか本心なのか分からない、しかし記者としてのプロフェッショナル精神を感じさせる、相手に警戒心を抱かせない笑顔。その表情のまま、彼女は言った。
「さすが、高村トレーナーは現実主義でいらっしゃいますね」
記者たちの間から、小さな笑い声が漏れた。
名前だけ出てくるウマ娘も実装済みキャラに関しては全員本名を設定しています