星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第六章第四節 "契約満了"

 宝塚記念から一夜明けた6月26日。

 個人指導契約を締結してからほぼちょうど2年となるこの日を以て、高村トレーナーとの契約が満了を迎えた。競技を引退した生徒(ウマ娘)とそのトレーナーは、指導関係から、ただの無関係な生徒と教員に戻る。

 2年前に署名した個人指導契約締結書類をトレーナー室で返還された時、高村トレーナーからこんなことを言われた。

 

「逆評価シートを書いておいて。引退した生徒からのトレーナーに対する評価が、俺の人事評価の参考にされる。俺本人は見れないから正直に書いていいけど、生徒がトレーナーを選定するときの参考にもされるから、変なこと書くなよ」

 

『逆評価シート』

 

 その堅苦しい言い方に、内心少し笑ってしまった。自分より先に競技を引退した同級生たちから話は聞いていたけれど、皆『逆評価シート』という言い方はしない。中学からの内部進学組が多数を占めるこの学園では、必然的に新人トレーナーよりも中堅・ベテラントレーナーと契約した生徒が多い。つまり、皆は書くより先に『逆評価シート』を読んでいる。そして、皆『逆評価シート』を別の名前で呼ぶ。トレーナーや、チームメンバーとの相性によっては、自覚していた適性とは異なる適性を開花させることがたまにあることが、その理由だ。まるで前任の生徒の適性を引き継いだかのようだということで、皆は『因子継承ノート』と呼ぶ。

 

「はい。・・・今後もたまにここに来ていい?」

 

 そう訊ねると、トレーナーは苦い顔をしながら返事をしてくれた。

 

「たまにならな」

 

 2週間後、逆評価シートを提出したことを高村トレーナーに直接伝えに行くと、2階のトレーナー室ではなく、珍しく1階の集合教員室で何か事務仕事をしていた。教員室に入ろうとして、張り紙に気付く。

 

『期末試験問題作成期間中につき、生徒の立ち入りを禁止する』

 

 仕方ないので校舎に戻った。期末試験後に伝えれば良いと、そう考えた。だけど、期末試験が終了しても高村トレーナーは姿を現さなかった。業務用チャットアプリ(Members)で連絡を取ろうとしても、ステータスは常に『不在』を示していた。

 何かあったのではないか。そう考えてトレーナーを含む体育科教員たちに話を聞くと、『有給休暇取得中』としか答えてくれなかった。有給休暇取得理由について訊ねると、『個人情報だから誰も知らない』とのことだった。事情を知っていそうな杉崎トレーナーに聞きに行くと、『指導契約が終わった教員とは必要以上に関わらない方が良い』と硬い声であしらわれた。

 せめて、いつまで有給休暇を取得しているのかだけでも知りたいと考えて体育課主任を訪ねたけど、『指導契約相手以外には、本人でないと教えられない規則になっている』と、申し訳なさそうに言われてしまった。

 

 2年間通い続けた体育科教員棟206号室の前に立つ。窓から覗く室内は暗く、ドアノブからは固い感触が伝わって来た。

 


 

 8月に入り、夏合宿に参加した。引退済みの身ではあるけど、後輩や、引退前の同級生たちの練習相手をするためだ。走ることは好きだし、急に運動を止めると太る気もしたし、何より受験勉強のストレス発散にもなるから。1年生と2年生の時は気付かなかったけど、合宿所の布団は、あの手の宿にしてはしっかりと手入れされていた。

 夏合宿に、高村トレーナーは姿を見せなかった。指導契約相手が居ないトレーナーが夏合宿に来る理由はないけれど、やっぱり気になった。

 

 夏合宿が終わり、お盆も明けて、本格的な受験勉強のためにトレセン学園近くにある塾へと通い始めた。朝から夕方まで夏期講習が続く中、朝と夜の2回は必ずトレーナー室の様子を見に行った。高村トレーナーが出入りしていた痕跡が無いかを確認するためだ。日中にあの人が来ていても分かるよう、ドアの下の方に透明なテープを貼っておいた。もし誰かがトレーナー室に入れば、テープがドアからはがれ、ドア枠だけに残るはず。でも、そのテープはいつまでも貼り付いていた。

 

 お盆が明けて、さすがにおかしいと思った。大人が何週間も続けて休むなんて普通じゃない。お母さんに連絡して、高村トレーナーから実家に届いていた年賀状の住所を教えてもらった。

 教職員寮606号室。

 生徒寮に教職員が立ち入ることは原則禁止だけど、教職員寮に生徒が立ち入ることは禁止されていない。少なくとも、校則には書かれていなかった。それを確認して、今まで一度も足を踏み入れたことがない、教職員寮へと足を運んだ。生徒寮とは違う、マンションのような作り。誰にも見られないよう、慎重に歩を進める。エレベーターで6階へ上り、目の前が618号室。案内板を見ると、606号室は左の方だった。あの人の部屋に、たどり着く。インターホンを、勇気を出して鳴らした。

 

「・・・・・・」

 

 誰も出ない。寝ているのかと思って、もう一度インターホンを鳴らした。だけど、やはり反応が無い。

 

 耳をドアにピタリとつける。空調の音すら聞こえない。嫌な予感がした。玄関横の電気メーターを確認すると、ほとんど動いていない。少しだけ息が早くなる。もう一度耳をドアにつけて、震える指で3度目のインターホンを鳴らした。呼び出し音は、部屋の中で微かに反響していた。

 後ずさりし、玄関全体を眺める。表札入れが空だ。左右隣の部屋を確認すると、表札入れにちゃんと表札が収められている。

 念のため、6階の全部の部屋を確認したけれど、606号室以外は全てに表札があった。そして『高村』の文字は、どこにも無かった。

 

 9月になった。ドアの下のテープには、微かに埃が積もっている。

 『卒業しても気持ちが変わらないなら話を聞く』と言っていたのに。『たまになら来ていい』と言ったのに。あれは全部、嘘だったのか。なぜ何も言わずに消えてしまったのか。・・・高村トレーナーは、このまま学園を辞め、どこかに転職してしまうのではないか。そんな不安と、苛立ちが心を揺さぶる。

 揺るがない現実として、高村トレーナーは大人で、私は未成年であることを痛感させられる。いくら『もう子供じゃない』と主張しても、それは生物学上の話に過ぎず、現代社会における制度上、成人年齢未満は一律で『子供』扱いされてしまう。どんなに理不尽だと思っても、そのルールに拠って立つ社会に生きる一員である以上、強固なルールが私の行動を縛る。

 高村トレーナーは私の実家も、家族も、ルームメイトも、本名も、誕生日も、過去も、心の内も、医療情報も、身体能力も、体調も、何もかも把握している。でも私は、あの人の苗字と、普段の振る舞いしか知らない。下の名前だって曖昧だし、誕生日も、年齢も、家族のことも、過去も、心の内も、全く何も知らない。どうしようもなく、制度の境界線が私とあの人の間を隔てている。

 それでも、せめてあの人が辞めてしまう前に、一度だけ会って、言葉を交わしたい。いつかの未来のため、実家の電話番号でも良いから連絡先を教えて欲しい。そんなことを考えていた9月第4週、夏休み明け。放課後、もはや習慣と化した206号室の確認時だった。ドア下のテープが剝がれていた。ドアの窓からは蛍光灯の光が漏れ、人の気配がする。

 

――高村トレーナー?

 

 慌てて、ドアを開けた。

 




教職員寮運営規則第10条第3項
入居者は、各専有部分に生徒を立ち入らせてはならない。また、共有部に生徒を立ち入らせる場合においても、必要最低限に留めなければならない。
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