星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

46 / 54
第六章第五節 "トレーナー室"

 最初の異変は、6月27日の朝に起きた。2年間担当してきた生徒との契約が終了し、担当生徒を持たない身となった日の朝、どうしてもベッドから起き上がれなかった。

 その日、初めて有給休暇の当日申請をした。

 さらにその翌日になると、どうにか体は動いた。しかし、出勤して業務用パソコンの電源を入れても何もする気にならず、気付くと退勤時間になっていた。本来であれば、元担当生徒の指導資料の整理や、次の担当生徒選定の方針固めなどをしなければならないのに。

 定時に出勤し、トレーナー室内でパソコンをなにもせず眺め、定時に退勤するだけの日々が、数日続いた。次の担当生徒獲得のために夏の選抜レースを観に行こうとしたら、急に脚が動かなくなり、トレーナー室から出られなくなってしまった。これでは完全に給料泥棒だ。

 今の自分に近い状態を指す言葉は、知っている。元担当生徒の精神的問題に対応するために心理学に関する本を読んだときに、一章丸々割いて解説されていた。

 

『燃え尽き症候群』

 

 しかし本当に燃え尽き症候群になっているのだとしたら、出勤できないはず。とりあえず出勤はできているのだから、自分は違う。クラシック三冠で一勝を獲得した重賞選手を、理想とする晴れやかな引退に導くことが出来たのだから、自分は達成感に満ち溢れているはず。そうでなければならない。

 それに、もし仮に燃え尽き症候群になったら、『生徒の次はトレーナーが不調か』などと他の教職員たちに不安視される。生徒も、精神に不安があるトレーナーなど指導者に選んではくれない。毎朝鏡の前で自分にそう言い聞かせ、心の硬度を高めてから出勤する日々が続いた。

 幸いと言うべきなのか、7月第2週からは期末試験問題作成期間が始まった。問題作成業務は、担当生徒探しや元担当生徒の指導資料整理などよりもよほど楽しく、癒しのように感じてしまったほどだった。

 そして、期末試験期間の最終日。試験監督業務が終わって退勤し、寮の自室の窓から入道雲を眺めている時だった。気付くと、顔が濡れていた。何かと思って手で顔を触ると、目から涙が溢れ、止まらなくなっていた。悲しいとか、悔しいとか、そういった感情があるわけでもないのに。

 限界だと思った。

 翌週月曜日、採点期間終了と同時にこれまで溜まっていた有給休暇を一気に消化したいと体育科主任に申し出た。担当生徒が途切れたタイミングで一気に有給休暇を消化するトレーナーやインストラクターは多いから、特に何も言われずに申請は認められた。ただ、主任には不審な態度を見透かされたらしい。

 

「しばらく羽を伸ばしてきた方が良いよ。お疲れ様だったね。高村の元担当生徒の成績評価はこちらでやっておくから、ゆっくり休んで」

 

 腫れ物に触るような口調だった。

 採点期間が終わった翌日には寮を引き払い、実家に戻った。そして、大学生時代に使い慣れたスーツケースとバックパックに荷物を詰め込んで、飛行機で北海道へ向かった。とにかく府中から、東京から、離れたかった。担当していた生徒を引退まで導けた今となっては、仕事のことなど全てがどうでも良いと感じた。

 後先考えず、無計画な旅を繰り返した。新千歳からディーゼル特急で七時間かけて根室に向かい、そこから路線バスを乗り継いで北上することにした。標津、知床、網走、紋別、枝幸。オホーツク海沿いに、稚内を目指した。

 稚内からは乗り捨て料金を払って借りたレンタカーで三日かけてオロロンラインを南下し、新千歳から関西空港経由で沖縄に飛んだ。最西端の与那国島に三泊してから、最南端の波照間島へ向かった。波照間島滞在中に小笠原諸島の父島と母島へと行くことを決め、さらに海外旅行の計画も立てた。北米、南米、オセアニア。日本に途中帰国しない、環太平洋地域一周の旅。まるで自傷行為のような旅だな、と自分でも思った。

 旅費は、全て貯金を崩して賄った。幸いにして元担当生徒の好戦績のおかげで高いボーナスが振り込まれていたし、忙しくて貯金ばかりしてきたから、残高に余裕はあった。

 広大な原野と湿原、どこまでも青く透き通る海、オーロラ、古代遺跡、天空の鏡、満天の星空。誰とも会わずただ一人で黙々と広大な地球に向き合い、自分という人間の輪郭をなぞり続けた。

 

 九月、ニュージーランド。南半球の中緯度地帯にあるこの国は、南北に細長く複数の気候帯を跨ぎ、緑豊かな大地の中に都市が散在している。日本によく似ている一方で、季節と星空は真逆。晩冬の島国から見上げる星座は逆さまで、デネブ・アルタイル・ベガ(夏の大三角)は地平線の下だ。

 

 広大な牧羊地帯の中にある湖の畔の小さな町に数日間泊まり、ひたすらに景色と星空を眺め続けたある日、ホテルのフロントに居た同世代の女性から声を掛けられた。

 

"Kia ora, whereabouts are you from?(こんにちは、あなたどっから来たの?)"

 

 数日間滞在していたから、興味を持たれたらしい。早口で独特の訛りがあるニュージーランド英語も、ある程度は理解できるようになってきていた。

 

"Kia ora. Ah...from Japan.(こんにちは。えーっと、日本から)"

 

"Sweet as. (良いね。)We get Japanese guests here now and then, (日本のお客さんもたまに泊めるけど、)and every time they keep the room real tidy.(みんな部屋を綺麗に使ってくれるの)"

 

"Is that your way of telling me not to mess the room up?(それは遠回しに部屋を散らかすなって意味?)"

 

"Nah, straight up — (まさか、本音だってば。)that’s my honest take. Anyway, are you on holiday?(ところで、あなたバカンス中なの?)"

 

 『バカンス』なんて陽気なものではない。仕事を放り出して地球の反対側に逃げて来ただけだ。でも、そんなことは初対面相手に伝えることではない。

 

"Yeah...something like that.(まあ、そんなところかな。) After visiting all extreme points of Japan,(日本の東西南北の端全部行ったあとに) I left Japan and went through North and South America. (日本を発って、北米と南米を周ってきた。)Been off since early August,(8月頭から休んでるから、) so it’s just over a month now.(そろそろ1ヶ月少しになるかな)"

 

"Japanese folk taking that much time off? Sounds a bit sus. (日本人がそんなに長く休むなんて怪しいな。)You're an Asian Kiwi, aren't you?(あなたアジア系ニュージーランド人でしょ)"

 

"No way. My Engrish tells you that I’m not a Kiwi.(まさか。この日本訛りの英語で分かるだろ)"

 

"Then, did you stuff up at work or something?(じゃあ、仕事で何かやらかしちゃったとか?)"

 

 痛いところを突かれたと思った。仕事に入れ込み過ぎて心を病むだなんて、まさしく典型的な日本人(ワーカーホリック)だ。ごまかすため、冗談を言う事にした。

 

"Haha, I'm in New Zealand, right?(あはは、ここニュージーランドでしょ。) I must not be in Australia penal colony.(お隣の流刑地に来た覚えはないよ)"

 

"Only a Kiwi would crack (そんな冗談言うなんて、やっぱ)a joke like that, eh?(ニュージーランド人でしょ)"

 

 彼女は少しだけ笑った。咄嗟に言ったジョークは、少し攻め過ぎていたかも知れない。

 その後もしばらく会話を続けると、かつてターフで走っていた時の思い出話をしてくれた。生き生きと昔のことを語る彼女に相槌を打ち続け、話がひと段落してから日本でトレーナーをやっていると話した。すると、彼女は目を大きくして『オー!』と声を上げた。

 

"Sweet as, that’s solid mahi.(素敵な仕事だね。) Gotta recharge so you(しっかり充電して) can give your best to your students.(生徒に向き合わなきゃ。) Enjoy Aotearoa while you’re here.(ニュージランド楽しんでね)"

 

"Ta.(どうも)"

 

 久しぶりに、人と長く話したと思う。咄嗟のこととはいえ、ジョークを言ったのはいつ以来になるだろうか。記憶を探っている時、ふと気付いた。心の弾力が戻って来ている気がする。カレンダーを見ると、9月15日。有給休暇の終わりと、夏季休暇期間の終わりが、十日後に迫って来ていた。

 その日の夜、星を眺めながら今後のことを考えた。仕事を辞めて、転職するか。それとも、仕事を続けるか。見慣れぬ星座を眺め、流れ星を数え、自問自答を続けた。

 翌朝、三日後の飛行機を予約して日本へと帰国することにした。旅の最後はファーストクラスに乗ろうかと思ったけれど、さすがに高すぎて手が出せず、ビジネスクラスで我慢した。

 黒塗りの(オールブラックス)旅客機で久しぶりの母国へ戻ると、実家の両親は特別な様子も見せずに迎えてくれた。そして、職場に復帰するための準備を、数日かけて進めた。

 

 9月25日。休暇が明けて、二ヶ月ぶりに足を踏み入れたトレーナー室は、少しだけ懐かしく感じた。

 業務用パソコンを起動すると、予想通りメールボックスには大量のメールが届いていた。一つ一つ開封し、不要なものは削除し、重要なものはブックマークを付け、緊急性が高い物は即座に返信をする。その繰り返し。目が疲れ、肩が凝る。今日はここら辺にして、そろそろ退勤しようと考えていたとき、大きな音を立ててドアが開いた。

 

"Woah!(うわっ!)"

 

 予想外の訪問客に、思わず変な声が出る。目を入り口に向けると、そこにはほんの二ヶ月前まで担当していた生徒が居た。

 

「・・・どうしたの」

 

 警戒しながら、声をかけた。元担当生徒は何も答えず、こちらを見つめてくる。目を大きく見開き、信じられないものを見るような表情だ。

 

「・・・高村トレーナー?今までどこに・・・」

 

 ようやく元担当生徒が口を開いた。そして、彼女の態度に納得がいく。

 

「・・・契約が終わったから、有給休暇を消化してた。ほとんど使えてなかったから、40日も貯まってて。タイミングも良いし、色んなところ旅行しようと思って」

 

 後ろを向いていた耳が、徐々に前に戻って来る。

 

「・・・じゃあ、引っ越ししたのは・・・」

「・・・なんで知ってんの?まあいいけど。職場と家が近すぎるのがストレスだったから、ついでに引っ越すことにした。今は調布に住んでる」

 

 そこまで伝えると、彼女は長い長い息を吐いた。

 

「なんだ・・・辞めちゃうのかと思ってた・・・」

 

 生徒は、担当トレーナー以外の有給休暇取得情報は基本的には知ることができない。心配をかけてしまったらしい。辞める可能性は、確かにあった。

 

「・・・いや、辞めないよ。ここ私立校の中でも給料高いから」

「じゃあ、業務用チャット(Members)のステータスが不在だったのは・・・」

「ああ・・・業務用スマホの電源切ってた。労働者の権利だ」

 

 元担当生徒の全身が脱力していく。数舜後、下を向いていた顔がこちらに向き、力強い口調で話しかけてきた。

 

「旅行、どこ行ってたの。話、聞かせて」

 


 

 高村トレーナーは色んな話をしてくれた。国内外様々な場所に行ったらしい。北海道の雄大な原野と湿原。小笠原諸島や沖縄の、天藍石(ラズライト)のように澄んだ青い海。カナダ・イエローナイフのオーロラ。ペルーのマチュピチュ遺跡。ボリビア・ウユニ塩湖の、天空の鏡。ニュージーランド・レイクテカポの、上下逆さまの星空。旅行中に撮影した写真もたくさん見せてくれた。

 

 行ったこともないのに不思議と既視感がある気がした。理由は、たぶん明海()だ。1年前まで、たまに夢の中で妹と対話していた。高村トレーナーが見せてくれる写真は、その時の景色によく似ている。本当にあれが妹の魂なのかは分からないし、他人は否定すると思う。でも、私はあれが本物だと信じる。あの子が世界を旅して、風景の記憶を見せてくれていたのだと思う。それがきっと、既視感の正体。

 

「・・・これが、レイク・テカポの善き羊飼いの教会(グッドシェパード・チャーチ)。南半球はまだ冬だから、夜は寒くて」

 

 そう言って見せてくれた写真に、目を奪われた。小さな石造りの、質素な教会。その教会を、天の川に浸されたみなみじゅうじ座が上空から見守るような構図。神聖な祈り、静かな誓いの象徴。まるで、私の心の中の風景を写したような、そんな写真だった。

 

「これ、後で送って」

 

 気付くと、声が出ていた。

 

「分かった」

 

 高村トレーナーは軽く口角を上げてからそう言い、写真を次に進めた。

 映し出されたのは、牧羊犬(シェパード)だった。高村トレーナーとのツーショット。その写真に、思わず噴き出した。失礼と思われてしまうかもしれないけど、高村トレーナーが、シェパードとよく似ていたのだ。『迷える子羊』を導いた、その指導者としての在り方が。きっとこの人は、今後も迷える生徒(ポニー)を導いていくのだろう。

 

「何笑ってんだよ」

 

 高村トレーナーは怪訝そうに訊ねてくるけど、さすがに理由は言えなかった。

 2時間も続いた思い出話と写真は、それで全てだった。ニュージーランドから先週帰国したばかりと言っていた。

 トレーナー室を出るとき、もう一度訊ねた。

 

「今後もたまにここに来ていい?」

 

 高村トレーナーは、3か月前と同じ顔で、同じ答えを返してきた。

 

「たまにならな」

 


 

 後期が始まり、秋の選抜レースが近づいてくる。生徒を一人、無事引退まで導けたのだから、中規模チームトレーナーへと昇格できることは確定している。しかし、ターフの観客席(スタンド)に行く気にはなれなかった。サバイバーズギルトという重大な問題を抱えていた生徒を引退まで導いた後、すぐに次の生徒を担当する気にはなれなかったからだ。それに、しばらくは本格的な競技指導からとにかく身を引きたいとも思っていた。

 2ヶ月の有給休暇消化で多少は心に余裕は出て来たものの、いつ不調が再発するとも限らない。しばらくはトレーナー業務から身を引き、専任トレーナーが居ない生徒の集団指導を行う教官業務を務めることにした。

 

 集団指導をしていると、専任の担当生徒がいた頃とは違い、いろいろなことが見えてくる。生徒同士の人間関係、複数人での併走によるパフォーマンスや戦略眼への影響、そして、専任トレーナーが付かない生徒の特徴。トレーナー業務に復帰するとしたら、選抜レースではなく教官業務中に見つけた生徒から何人かスカウトするのもいいかもしれない。

 

 何人か顔見知りの生徒もでき、一対一ではなく一対多の信頼関係も構築できてきた10月下旬、体育科主任からの指示で通うことになった産業カウンセラーとの面談の帰りのことだった。いつものようにトレーナー室に戻ると、鍵が開いていた。警戒しながらドアをゆっくり開けると、会議テーブルに元担当生徒の姿があった。

 

「・・・何してんだ?」

 

 問いかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 

「受験勉強。たまになら来て良いんでしょ」

 

 確かにそう言ったけど、自習室として使って良いとは言ってない。

 

「ここは俺の仕事場だぞ。自習したいなら図書室行けよ。それと、鍵を勝手に開けるな」

 

 しかし、元担当生徒は平然と反論してきた。

 

「ここ、広いし静かだし空調もあるから自習環境が整ってる。椅子の質も良い。図書館はほかの人もいるから気が散るの。鍵は開いてたから、トレーナーが閉め忘れてたんじゃないの」

 

 言われて気付いた。確かに、鍵を閉めた記憶が無い。鍵を探ると、ポケットにちゃんと入っている。合鍵の使用には相応の理由が必要だから、指導契約関係すらない生徒に貸し出される可能性は低い。

 

「だからと言って、ここに入り浸るのは受け入れられない。指導契約関係にない生徒を――」

「当然寮や図書室でも自習する。クラスメイトともたまに勉強してる。ここに来るのは一人で静かに勉強したい時で、トレーナーが居る時だけ。たまになら良いんでしょ。それに、お母さんから聞いてるから。『娘さんが事故に遭ってしまったのは、自分の指導が至らなかったせいだ』って謝ってたって。あの事故で推薦が取れそうになくて一般入試ルートなんだから、責任取って」

 

 一気に捲し立てられて、面食らった。確かにご両親には『自分の指導が至らなかったせいで、娘さんを危険な目に遭わせた』とは言ったけれど、それを元担当生徒本人が言うのは筋違いだ。外部に示す形式上の責任と、実際の責任の所在は一致するものではない。しかし、反論する隙を与えず元担当生徒は畳みかける。

 

「高村トレーナー、去年言ってた。『高校生としての君なら、全力で支える』って」

 

 かつての自分の発言を持ち出され、言葉に詰まった。交渉が上手くなっているのは、誰に似たのだろう。

 

――言質を取られがちなのは、どうにかして改善しないとな。

 

 そして、ここまで頑なな態度を取る理由にも想像がついた。元担当生徒は、まだ『安全基地』を必要としているらしい。残り半年、進路指導や受験勉強のサポートをするのも、元トレーナーの責務かもしれない。どうせ今は担当生徒もいないのだし。

 

「・・・分かったよ。本当にたまになら、自習で使っていい」

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。