星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第六章第七節 "大学受験"

 元担当生徒――アドマイヤベガは、週2回の頻度で放課後にトレーナー室での自習を続けている。時折受ける進路相談や過去問への質問から推測するに、第一志望は東大理科一類――おそらくは天文学科志望。そして第二志望は早稲田先進理工学部物理学科、第三志望以降はマーチ各校の理学部物理学科。学力の高さが伺える布陣だ。受験勉強も順調らしく、模試の結果はB判定以上ばかりだと言う――C判定の東大を除けば。

 塾講師やクラス担任、一般科目担当教員でもない自分に出来ることは限られているし、受験勉強や進路選択に過剰に積極的に関わるつもりは無い。とはいえ、教え子には晴れやかに卒業して欲しい。質問対応と自習室提供という形でのサポートは続いている。

 

 師走。年末の足音が近付き、センター試験まで1ヶ月を切った頃。集合教員室での職員会議が長引き、すっかり日も暮れた18時30分。トレーナー室に戻ると、アドマイヤベガがソファで横になって寝ていた。会議デスクの上には、分厚い赤本と、参考書とノートが数冊ずつ。

 どう対応したものか考え、入口で立ち尽くしてしまった。在室確認表で最低限の透明性は確保しているものの、眠りこけている元担当生徒と密室で二人になるのはさすがに避けたい。その一方で、長時間の受験勉強の疲れを労うべきではないか、という考えも浮かんでくる。受験生に風邪をひかれても困るから、ブランケットを掛けるべきかもしれない。

 さらに数秒間考え込んだのち、教員としての一線を厳守することを優先した。ドアストッパーを下ろして、尻尾を抱え込んで無防備に寝入っているアドマイヤベガから距離を保ったまま執務デスクへと足を進めた。

 一気に廊下の冷気が流れ込んできて、足元が冷え込む。デスク下のヒーターの電源を入れてから、空調のリモコンを手に取り、『切』を押した。

 部屋の室温が急降下していく。スーツのジャケットすら冷気が貫通して来るように感じられ、思わず身震いした瞬間、ソファの方から微かな声がした。

 

「・・・寒い」

「起きたか」

 

 思ったより早いお目覚めだった。10分以上は寒さに耐えることを覚悟していたから拍子抜けだ。

 

「・・・最初から起きてる。こんなところで眠るわけないでしょ。 少し休んでただけ」

 

 苦しい言い訳には構うことなく、伝えるべきことだけ伝えることにした。

 

「『こんな所』を仮眠室として使って良いとは言ってない。あくまでも自習室としてたまに使うということで体育科主任にも話を通してんだから」

「だから、寝てない・・・えっもうこんな時間?」

 

 上ずった声が、アドマイヤベガの口から飛び出す。短時間の仮眠休憩のつもりだったらしい。慌てたようにソファから起き上がった。

 

「俺そろそろ退勤するから、アドマイヤベガも帰れよ」

 

 執務デスク上に広げていた書類や資料を引き出しに仕舞いながら帰寮を促すと、アドマイヤベガは素直に応じた。

 

「・・・分かった。続きは寮でやる」

 

 勉強道具をスクールバッグに入れ、トレーナー室を出ていく彼女の後ろ姿に、教員らしい言葉を投げかけた。

 

「寒いから風邪ひくなよ。受験本番、近いだろ」

 

 すると、アドマイヤベガは何やら不敵な笑みを浮かべた。

 

「どんなに寒くても、布団乾燥機を持つ私に死角はないから。今晩もふわふわの布団が待ってる」

「・・・?」

 

 唐突な言葉を発して、アドマイヤベガは廊下へと消えていった。

 


 

 年が明けると、一気に受験本番シーズンとなる。最初は2日連続で実施されるセンター試験。自己採点の結果、アドマイヤベガはどうやら東大のボーダーを超えたらしい。当然、滑り止め校のセンター利用入試のボーダーも。とはいえ、結果発表は1ヶ月後の2月中旬だから、気は抜けない。そして、2月中旬にはマーチ各校と早稲田の一次選抜。2月末には東大入試が控えている。

 僅か1点の間に数百人が居て、その1点で人生が大きく左右される。明確に、厳然と、冷酷に、合否という0か1かで結果が示される。どれほど合格最低点に近くても、1点足りないだけで入学が認められない。ある意味、レースより遥かに残酷な競争かも知れない。何よりも重い1点を得るために、全国の高校生たちは鎬を削っている。

 この時期になると、高3の生徒たちは自由登校となり、授業はほぼ実施されない。アドマイヤベガはさらに根を詰め、朝から夕方までトレーナー室で過去問や参考書との睨めっこを続けていた。

 

 その一方で、高校2年生以下の生徒たちは普段通りの授業が続く。教官として担当している高校1年生のあるクラスの生徒たちの競技記録を見ていて、少し心配な生徒が居ることに気付いた。

 入学以来、夏秋冬の選抜レースには皆勤。さらには授業での模擬レースに加え、種目別競技大会などにも頻繁に出場し、そして、ほぼ負けている。数えてみると、現在9連敗。10連敗の大台にリーチがかかっている。それほどまでに連敗しているなら相応の悲壮感が漂っているはずだと思って記憶を辿るものの、そのような生徒は見た記憶がない。

 ターフネームを確認すると、「ヒシミラクル」。いつもにこやかに友人と授業を受けている芦毛の生徒だった。何度か会話したこともあり、その時は『相当なのんびり屋で、闘争心に乏しい』という印象を抱いた。授業中の走りも、常にマイペース。

 なんとなく気になり、期末試験前最後となる授業の最中、併走の順番待ち中の彼女に声を掛けてみた。

 

「なんですか~高村教官(きょーかん)

「・・・ちょっと競技記録について確認したいことがあってな」

「あ~、もしかして10連敗しそうな件についてです?」

 

 あっけらかんと言い放つ。特に連敗を気にしている様子はない。

 

「や~、友達と誰が最初に2桁連敗するか賭けてたんですけど、このまま行くとわたしなんですよねぇ。まいったな~」

 

 10連敗を『参ったな』で済ませるあたり、端から競技を諦めているか、そうでなければ相当の大物だ。どちらなのか確かめてみようと、質問をしてみた。

 

「悔しいとかは?」

 

 目の前の生徒は、意外そうな顔をした。

 

「え~?いや、まあ実力相応じゃないですか?勝ち続きの子が居れば、負け続きの子も居ますよ。それが競技じゃないですか~。や~まいったまいった」

 

 競技の世界に対して、一歩引いた目線の言葉。そして、正しい。アドマイヤベガを担当していた頃に、競技の世界の厳しさは何度も痛感させられた。

 ふと、彼女が傍らのバッグからノートを取り出した。競走実技の授業の内容をわざわざ纏めているのだとしたら、意外に努力家なのかもしれない。

 

「英語のノートです。今回試験範囲めちゃ広くて。次の期末で赤点だったら結構ヤバいんですよぉ」

 

 絶句した。一般科目中に他の科目の内職をするならともかく、実技科目中に一般科目の内職をするなんて前代未聞だし、それを当の教員に伝えてくるのはどういうつもりなのかよく分からない。心臓に毛が生えているんじゃないかと思うくらいには神経が図太い。規格外の大物な気もするし、端から競技を諦めて学業に全振りしているようにも見える。評価は、とりあえず保留することにした。

 その時、併走練習を終えた生徒たちが次の組を呼ぶ声が聞こえた。その声に応えて、芦毛の生徒は駆け出して行った。

 

 期末試験が終わり、採点期間も終わった2月13日。体育科教員(トレーナー)棟の廊下の窓から、3週間前に会話した芦毛の生徒が走っている姿が見えた。学業優先の姿勢を見せていた割には、春休みにわざわざ友人と自主トレをしているあたり、やる気が無いわけではないらしい。

 やはり気になり、業務用パソコンをトレーナー室から持ち出した。そして、休憩エリアの窓から競技場(ターフ)の様子を見つつ、仕事の続きに取り掛かった。

 夕方まで競技場の様子を見ていて、分かったことがある。芦毛の生徒は、やはり相当なマイペース。他の生徒のペースに惑わされるでもなく、時折全速力を交えつつ淡々と走る。その他には、インターバルランニングなどの基礎的な内容をゆっくりと負荷を上げつつ行うのみ。クールダウンのストレッチは毎回欠かしていない。他の生徒が自主トレを終えても、気にする素振りもなくトレーニングを続けていた。

 3年前の、アドマイヤベガを初めて見かけた時を思い出した。しかし、アドマイヤベガが重く悲壮な覚悟を背負っている様子だったのに対し、芦毛の生徒はそうは見えない。

 椅子を立ち上がり、階段を下りた。競技指導でも授業でもない目的で競技場へ足を運ぶのは、2年半ぶりとなる。立春を過ぎ、少しずつ遅くなってきた夕陽が照りつける中、芦毛の生徒に声を掛けた。

 

「随分長くトレーニングしてるな」

「げぇっ。もしかしてお叱りですか高村教官。確かにダラダラやってるように見えたかもしれませんが・・・」

「『げぇっ』とはご挨拶だな・・・徐々に負荷を上げるトレーニングを無理ないペースでやっててすごいなと思っただけだよ」

「え?あ~、あはは。いつも時間かかるんで、せめて負荷だけは上げないとまずいと思って」

 

 やはり、競技にやる気が無いわけではないらしい。アスリートとしての素質もありそうだ。しかし、その割には闘争心の無さが気になる。

 

「アスリートの素質は結構ありそうだし、やる気がない訳でもないのに、その割に競技に全力投球って訳でもないんだな」

「え~?そりゃ、私たちはアスリートであると同時に、というかその前に高校生ですし。GⅠ連勝しちゃうような強豪選手でもない私みたいなのは、学業第一競技第二でやって、将来設計しておかないとダメですよ~」

 

 思わず唸った。アドマイヤベガを始めとして、競技に高校生活の意義全てをかけるタイプの生徒とばかり接してきたから、競技引退後のこともしっかりと考えているタイプの生徒が居るとは思っていなかった。

 

「ちゃんと考えてて偉いな・・・。進路はどう考えてるんだ?」

「うーんまあ、スポ薦か指定校もらうか、最悪一般入試で大学進学して、出来ればスポーツ系企業とかに就職して、安定した暮らしをする・・・。十分立派な未来だと思うんです」

 

 アスリートである前に高校生であることに自覚的で、無理をする気もなく、学業優先の姿勢が明確。将来設計に甘さはあるものの、高校1年の終わりならしっかりしている方と言える。学生としては正しいあり方だ。

 トレーナーに復帰するのであれば、こういう生徒を担当したほうが、無理なく続けられるかもしれない。

 

「・・・新年度から、個人指導契約結ばないか。スポーツ推薦取るならそっちのが有利だ」

「え~?高村教官って確かアドマイヤベガさんの担当トレーナーしてましたよね。ちょっとわたしには荷が重いかな~」

 

 露骨に嫌そうな顔をされたものの、理由には納得した。確かに、競技に全力投球するタイプの生徒の元担当トレーナーと、学業優先の生徒の組み合わせには違和感があるかもしれない。

 

「・・・いや、クラシックだのGⅠだのはアドマイヤベガの意向で、俺が強制したわけじゃない。本人の意向と自主性を優先するのが俺の方針だ」

「う~ん・・・そこまで言うなら・・・。あ、じゃあ、3月末の春の選抜レースで勝ったらでお願いできます?」

 

 条件を付けられたけれど、妥当なところだ。あるいは、遠回しの拒絶かも知れない。本人の意向を無視して契約を締結できるわけでもないし、トレーナーへの復帰意向を産業カウンセラーに相談したわけでもない。これ以上食い下がるのは止めることにした。

 

「分かった。まあ、期待してるよ」

 

 先ほどまでの走りを見ている限り、アドマイヤベガに似た追込みか差しに近いタイプ。エンジンさえ掛かれば、選抜レースでの上位入賞も現実的だと考えた。『期待している』というのは、お世辞ではない。

 

「はーい。それじゃ!」

 

 芦毛の生徒は、それだけ言い残して更衣室へと走り去っていった。

 


 

 翌日、2月14日。いつものように出勤すると、トレーナー室のドアノブに、紙袋がかかっていた。トレセンロゴ入りのもので、口はしっかりと閉じられている。

 業務関連の重要書類なら呼び出されて手渡しされるか、集合教員室での配布となるはず。室内に入ってから、戸惑いつつテープを剥がして口を開けてみた。中には、一回り小さな紙袋。”Joseph-Paul Hébert”のロゴが描かれている。フランス・パリ発祥で、東京都心部にも複数の店舗を持つチョコレート専門店だ。

 

――誰から?

 

 差出人が分からず、戸惑った。こんな高級なチョコレートを、間接的に渡してくる相手の心当たりがない。児玉なら、こんな回りくどい渡し方をする必要はない。

 紙袋を持ち上げると、指先に硬い感触が伝わる。メッセージカードが後ろ側に添付されているようだ。手首を返して、そのカードを確認した。

 

『チョコの返礼は不要です。私からトレーナーへの義理を果たしただけ』

 

 素っ気ない内容が、綺麗な文字で書かれていた。推測するに、アドマイヤベガから。わざわざ都心部の百貨店に出向いて、店舗で購入したらしい。受験で忙しいはずなのに。

 本命なら、有無を言わさず突き返そうと思った。高校生が購入するにしては高級過ぎる。しかし、メッセージの内容は明らかに義理。真意は、どちらか。

 数十秒間の逡巡の末、返さないことにした。受験勉強で忙しいだろうから、わざわざ呼び出すのも気が引けるし、受験に水を差すことになるかもしれない。それに、一昨年の拒絶はさすがに受け入れてくれているはず。元指導者への単なる贈答なのであれば、受け取っても問題にはなりにくい。

 紙袋の中から現れた箱の蓋を開け、一粒口に放り込んだ。

 

「苦っ・・・」

 

 舌全体に強い苦みが広がった直後、酸味と、カカオの鮮烈なフルーツ香が鼻へと抜けていく。ハイカカオチョコレートの味。文字通りの苦笑いがこぼれた。アドマイヤベガらしいフレーバーチョイス。これで良い。指導者と生徒という関係性にはぴったりの味だ。

 箱の蓋を一旦閉めて、紅茶を淹れることにした。砂糖は、多め。

 アドマイヤベガは、この週もその翌週も、一度もトレーナー室には顔を出さず、業務用チャット(Members)で滑り止め各校の合格報告だけをしてきた。

 そして、2月最終週。東大入試を終えた後のアドマイヤベガが、久しぶりにトレーナー室に顔を出した。手には、スマートフォンを握りしめている。

 

「・・・早稲田物理、受かった」

 

 教え子が、母校の別学部へと合格を果たしていた。

 

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