星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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第六章終了で、次は終章です。


第六章第八節 "卒業"

 産業カウンセラーには、月1~2回の頻度で通い続けている。通算8回目となる2月末の面談で、久しぶりに絵画療法を受けた。内容は、木の絵を描くというもの。10月初旬の最初の時は、ウユニ塩湖の畔で見かけた枯れ木を描いた。年末の2回目では、北海道の一本木を。そして今回は、ニュージーランド首都オークランドで見た桜の木。

 

「・・・うん。良いですね。だいぶ精神状況も良くなってきています」

「・・・また、負荷の高い業務・・・例えば、トレーナー業務にも?」

 

 勢いのまま契約オファーを出した芦毛の生徒のことを考えながら、トレーナー業務への復帰の可否を訊ねてみた。

 

「いきなりは難しいですが、徐々に負荷を上げていくのであれば。モニタリングは継続です」

 

 競技へのモチベーションが奇妙に高かったアドマイヤベガのような生徒を、また担当したいとは思わない。どんな地雷を抱えているか分からない。ただ、やはりトレーナー業務には戻りたい。自分の脚では到底到達できない速度で走る陸上選手を自らの手で指導し、勝利を重ねるというのは、やはり楽しい。

 あの芦毛なら、危ういモチベーションも無ければ、細やかな心理支援も要らないだろう。

 

「・・・分かりました。それなら、なんとか。先生、お世話になりました。これからも、お願いします」

 


 

 東京大学理科一類の合格発表日。手ごたえはある。自己採点では、ボーダーラインより少し上。

 多分、高村トレーナーは東大卒だと思う。質問対応できる範囲の広さや知識の深さ、それに進路相談の時の反応から見て、多分そう。学部は、スポーツ科学コースがある教養学部だろうか。私が行きたいのは、理学部天文学科だから別学部だ。でも、もし受かっていれば、トレーナーの元担当生徒から後輩になれる。

 落ち着かない足取りでアスファルトを踏みしめ、本郷キャンパスまでの道を行く。赤門を通り過ぎ、石造りの正門から、構内へ。既に沢山の受験生が、発表の瞬間を待ちわびていた。

 安田講堂を真正面に見ながら、銀杏並木の下を約140m。法学部2号館前。空の掲示板が、受験生を見下ろしている。

 微かに震える左腕を持ち上げ、腕時計を確認する。発表まで、あと5分。

 わずか5分の間にも、どんどん受験生が構内へと入ってくる。朝の通勤ラッシュの満員電車なみの混雑になった頃――、合格者一覧を印刷した紙が、職員の手で掲示された。

 受験生が一気に動く。

 私の番号は、A40625。合格者一覧を、辿っていく。A40615、A40619、A40620、A40623、A40624、A40627――。

 

「・・・無い」

 

 何度も確認した。けれど、私の番号は無かった。

 隣の受験生が、大学生たちに胴上げをされていた。

 


 

 3月12日。3年間を過ごしたトレセンとも、この日でお別れとなる。寮の荷物は既にほとんど実家に送り、赤道儀も高村トレーナーに返却した。教室に持っていける程度の、最低限の荷物だけが部屋に残っている。

 カレンさんは、寂しそうな顔をしていた。この子より後に入寮した私が、先に退寮する。私の方が上級生なのに、迎える方も、見送る方も、どちらもカレンさん。この子にしか分からない寂しさも、あるはず。

 卒業式は、学園長による開式の辞、国歌斉唱、レースで特に優れた戦績を上げた生徒に対する褒賞授与に続いて、各クラスの学級委員への卒業式授与が行われた。

 

「高等部3年A組、佐々木志歩(ささきしほ)

「はい!」

 

 トップロードさんの本名が呼ばれた。この学園で本名が公然と読み上げられるのは、卒業式がほぼ唯一だ。

 亜麻色の髪の彼女が、生徒たちの間を通り壇上へと向かう。

 

「卒業証書。本学園高等部の全課程を修了したことを証する。おめでとう」

 

 トップロードさんが、両手で恭しく卒業証書を受け取った。そして、一礼してから壇から下り、元の席へと戻っていく。

 同じ流れが、全クラス分行われていく。そしてその後は、学園長式辞、来賓式辞、在校生代表送辞、卒業生代表答辞、校歌斉唱、閉会の辞。全国どこの高校でも行われている、普通の卒業式だ。

 卒業式が終わった後は、3年間通い続けた教室に戻り、クラス担任の先生から全員に卒業証書を渡されることになっている。

 

「委員長って佐々木志歩って名前だったんだねー」

「ナリタトップロードからじゃ想像できないなー」

「あんたの本名もそうでしょ」

「ていうか全員そうだよ」

 

 クラスメイト達が、みんなより一足先に発表されたトップロードさんの本名について話していた。ほぼターフネームでしか相手を認識しないこの学園では、本名を知っても違和感が強い。私も、トップロードさんのことを『佐々木さん』『志歩さん』とは認識しづらい。

 黒板の前に立った先生が一人ずつ名前を呼び、卒業証書を渡していく。何人かの後、私の名前が呼ばれた。

 

「綾部明里さん」

「はい」

 

 立ち上がった私に、クラス中の目線が注がれた。

 

「・・・アヤベさんって綾部(あやべ)さんだったんだ」

 

 皆が、異口同音に囁き合っていた。本名の一部を含んでいるターフネームは珍しくないけれど、私みたいにターフネームの略称が本名と同じなのは、多分珍しい。

 卒業証書が全員に行き渡ってから、先生が再び口を開いた。

 

「皆さん、卒業おめでとう。このA組も、中等部1年生の頃から比べると、随分と顔ぶれが変わりました。高等部入学や、途中編入で加入してきた人もいれば、中等部卒業後に外部高校に進学していった人、途中で引退して転学していった人もいる。トレセンという、競技主体の中高一貫校だからこその厳しい現実です。でも、どんなにメンバーが入れ替わっても、どこに居ても、皆さんは同じ理想を抱いてきたはずです。"eclipse first, the rest nowhere(唯一抜きん出て並ぶ者なし)."」

 

 教室が、水を打ったように静かになる。私も、入学した時の隣の席は既に空になっている。私だけでない。誰もが、友達や、知り合いが誰かしら姿を消している。

 

「皆さんの卒業を一番喜んでいるのは、人によって違うと思います。保護者の方やご家族、トレーナーやインストラクター、友達、先生――。一人一人に違う人生があり、違う人間関係がある。目の前の友達にも、自分とは違う背景があって、自分には想像もできない過去があるかもしれない。そのことを想像できて、お互いに尊重できる人に、皆さんが成長してくれたことを願っています。この先の人生でも、どうかそれを忘れないで下さい」

 

 先生が、少しだけ涙声になる。中等部からの担任持ち上がり制のこの学園では、誰よりも多くの生徒の後ろ姿を見送ったのが、先生なのだとこの時気付いた。

 その後は、クラス全員からの先生へのプレゼントを贈り、一人ひとり先生にお礼の言葉を贈り、そしてついに、退出の時刻が来た。クラス全員で廊下に並び、昇降口へと下りていく。

 昇降口の外には、在校生と、教職員が勢ぞろいしていた。カレンさんも、高村トレーナーも、児玉インストラクターも、渡辺スクールカウンセラーも、皆。

 卒業生は、各自お世話になった教職員やルームメイトに駆け寄り、一人ひとり挨拶をしていた。そして、それぞれ花束を貰っていた。この学園の伝統だ。私も、カレンさん、渡辺スクールカウンセラー、児玉インストラクターの順に挨拶とお礼をした。三人からは、それぞれアルストロメリア、スイートピー、ガーベラの花束を贈られた、

 そして最後に、高村トレーナー。

 

「本当に、お世話になりました」

 

 深く、頭を下げた。この人には、単なる競技指導以上のことをしてもらった。命を救ってもらったし、心も救ってもらった。受験勉強のサポートまでしてもらった。この人が居なければ、私の存在そのものが成立していないと言っていい。この人の後輩になれなかったことが、本当に残念だ。

 高村トレーナーは、ゆっくりとした口調で話し始めた。

 

「・・・そうだな。アドマイヤベガの指導は本当に大変だった。だけどまあ、君を担当できてよかった」

 

 頭を上げた。この人は、もしかすると私を担当したことを後悔しているんじゃないかと思っていた。私は、この人にとって誇れる生徒になれたんだろうか。迷惑をかけ続けたのに。

 

「GⅠ選手を一人目から担当できるトレーナーというのも多くは無い。貴重な経験だ」

「そう言ってもらえて・・・嬉しいです」

 

 高村トレーナーは、微笑んでから話を続けた。

 

「俺の母校の校歌に、こんな一節がある。『集まり散じて人は変われど、仰ぐは同じき理想の光』・・・知ってるか?」

 

 聞き覚えが無い歌詞だった。東大の校歌なんだろうか?

 

「・・・いえ」

「そうか。まあ、そのうち聞くかもしれないから、覚えておくと良い。この歌詞は、同じ場所に居た仲間が別々の道を歩くことになっても、共通の理想や志を抱き続ける限り心は繋がっているし、同じ時間を共に過ごしたことは宝物であり続ける、という意味だ。中央トレセンという、ウマ陸上界の中心地で競技に打ち込んだことは、大きな宝物になると思う。ここでできた友人関係は、一生ものだ」

 

 クラス担任の先生みたいなことを言う。この人は。

 

「・・・トレーナー、先生みたい」

「教員免許持ってるんだから、正真正銘の先生だ」

 

 トレーナーが、呆れたような笑顔と共に花束を渡してきた。花は、黄色い菊だった。

 

「ありがとう・・・でも、どうして菊?菊って仏花でしょ?」

「菊花賞選手にはぴったりだろ?それに、黄色い菊の花言葉を知ってるか?」

 

 花言葉にはあまり詳しくない。軽く首を横に振った。

 

「・・・GⅠ選手なら花言葉は知っておいた方が良い。黄色い菊の花言葉は、長寿と幸福だ」

 

 『長寿と幸福』。確かに、私にぴったりだ。あの子の分まで生きなければいけない私には、ぴったり過ぎて、出来過ぎている。

 思わず涙が出そうになって、なんとか堪えた。

 

「ありがとう・・・ありがとうございます。高村トレーナー、本当に、お世話になりました」

 

 また、深く頭を下げた。

 

 その後もしばらくトレーナーと話をしたあと、仲のいいクラスメイト達と合流した。グループがだんだんと大きくなり、ついにクラス全員が揃ったところで、誰ともなく校門から外へ歩き出した。外で待ち構えていたメディアの取材に答えつつ、クラスメイト全員でカラオケに行った。

 隣の部屋には、別のクラスの卒業生も居て、完全にパーティー状態だった。部屋を行き来して、ウイニングライブで歌った定番曲や、ソロ曲、そして流行の歌や、小さい頃の懐かしい歌を、声が枯れるまで歌った。友達とカラオケに行くのは、これが初めてだ。でも、思っていたよりずっと、楽しかった。

 18時が過ぎて、カラオケを出た。そして、一人、また一人と、名残惜しそうにグループから離れていく。翌日の国際線で帰国するためホテルに泊まる留学生、新幹線で実家に戻る人、羽田空港から実家に戻る人、各方面へと伸びている電車で実家に戻る人、様々だった。

 

 西王線で世田谷区の実家に向かう途中、最後の一人と別れた。実家の最寄り駅で電車を降りてから、暗い空の下を一人で歩いた。

 なんとなくそのまま実家には帰りづらくて、途中の小さな公園に立ち寄った。ベンチに座り、もらった花束の花言葉を確認しようとスマートフォンを取り出した。

 カレンさんからもらったアルストロメリアの花言葉は、『未来への憧れ』『持続』『友情』。渡辺スクールカウンセラーからもらったスイートピーの花言葉は『優しい思い出』『門出』『別離』。児玉インストラクターからもらったガーベラの花言葉は、『希望』『前向き』『前進』。

 三人とも、それぞれの性格や、私との関係にふさわしい思いを込めてくれていた。そして、最後に高村トレーナーからもらった黄色い菊の花言葉を調べた。

 黄色い菊の花言葉は――『長寿と幸福』『僅かな愛』『破れた心』。

 

「なに、それ」

 

 思わず、声が出た。

 『僅かな愛』と『破れた心』。トレーナーも、私に少しは気持ちがあったんだろうか?あれほど苛烈に拒絶したのに。それとも、私の気持ちを、単なる失恋として完全に終わらせようとしているんだろうか?『話を聞く』と言っていたのに。

 高村トレーナーは『長寿と幸福』しか言っていなかった。あとの2つを知っていたかは、分からない。でも、知っていたならずるいし、知らなかったなら無神経だ。

 なぜか、涙が出た。涙が出て、止まらなかった。30分くらい泣き続けて、ようやく涙も枯れてから家に帰って、お風呂に入ってからまたベッドの中で泣いた。

 両親は、私に何も言わずに居てくれた。

 

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