星間境界 -アドマイヤベガの道標-   作:茶園真

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個別ストーリー第5話相当の小説化です。第二章はジュニア級G1 ホープフルステークスまでを収録予定。章末で、ついに物語が本格的に動き始めます。


第二章 -傾斜軌道-
第二章第一節 "様子見"


 契約生徒(ウマ娘)を獲得したことで、体育科教員棟の2階、206号室を専用トレーナー室として割り当てられた。広さは教室半分ほど。執務デスク、本棚、ホワイトボード、ソファ、さらに小さいながらも会議用テーブルまで備えている。単なる新人教員にこの待遇は、やはり普通ではない。トレセンにおける競走競技指導教員(トレーナー)という職の特殊性を再認識する。また、7月からは労働形態が裁量労働制へと移行した。これによりみなし残業代が40時間分支給されることになり、平日の残業という概念が消えた。さらにフレックスタイム制度まで適用されるため、原則として出勤・退勤時間は自由だ。

週一回の報告以外に上司たちの監視の目は無く、個室まである。さぼろうと思えばいくらでもさぼれる。高村は自戒を込めて呟いた。

 

「これは相当な自己管理能力が試されるな」

 

真新しいスーツに身を包み、朝10時に出勤した。前のスーツは捨てた。綾部明里(アドマイヤベガ)追跡の時に転倒・転落し、梅雨時特有の泥濘で泥まみれになったからだ。クリーニングに出すことも考えたが、その翌日には泥が固まってしまい、手の付けようが無い状態になっていた。せっかく奮発して買ったやつなのに、余計な出費が嵩んだ。

 

―将来出世払いで弁償させてやる。オーダーメイドの高いやつをな。

 

そうほくそ笑みながら、自分のトレーナー室にたどり着いた。まずは業務用PCを立ち上げる。勤怠はPCのログイン/ログオフで管理されるから、最優先で行う必要がある。そのまま、PCで業務メモをつけていく。といっても、すぐに終わった。彼女との契約成立から僅か数日しか経過していないし、現時点でアドマイヤベガとの間に信頼関係を構築できているわけでもない。だから、今できることは指導方針の立案と、彼女の走法の把握程度だ。そして、教室授業の時間帯は前者がメインとなる。学内の蔵書データベースにアクセスし、参考になる書籍がないかを探した。まず、コーチング関連の資料。次に、生徒との信頼関係構築の資料。・・・それと、心理学の資料。先日のアドマイヤベガの様子は、普通ではなかった。明らかに、何か心に傷を負っている。競技者としての技能より、メンタル面でのサポートが重要になるかもしれない。自分の指導が、彼女の今後の競技生活と高校生活、さらにはその先の人生に悪影響を及ぼすようなことはあってはならない。慎重さを期すためにも、必要だと考えた。

 

書籍の貸出予約を済ませ、図書室に向かった。体育科教員(トレーナー)棟を出ると、盛夏に変わり行く日差しが肌を突き刺す。誰もいないターフを見ると、陽炎が立っているのが見える。なるべく日陰を歩くようにして校内を歩き、10分かけて図書室にたどり着いた。この学園は、大学キャンパス並みに広い。実際、単科大学(カレッジ)もあるからキャンパスそのものだ。

 


 

 求めていた蔵書は、中等部・高等部の図書室ではなく、大学の方の図書室にあった。配架位置を確認しなかったせいで20分の無駄足を食らった。己の詰めの甘さを恨む。

 

3冊の本を全て机の上に置き、読み進めていく。最初に読んだのは心理学の本だ。彼女の指導に当たっての最大の懸念点―精神面の問題を考えた。だが、やはり彼女の心の傷の正体に迫る手掛かりがない以上、得られるものは少なかった。唯一の成果は、本人に直接質問をしたり、積極的に精神ケアを図ろうとするべきではないという事だった。あくまでも本人が頼ってくる姿勢を見せた際にのみ、それに応えるべきであるとのことだ。

 

続いてコーチングや信頼関係構築の本に目を通しているうちに、昼休みを告げるチャイムが鳴った。本の貸し出し手続きをし、トレーナー室へと戻って本をデスクに積み上げ、慌てて食堂へと駆け込んだ。久しぶりに他科目・他職種の同期とも話したい。

 


 

 今日は座学が午前中のみで終わる日なので、トレーニングは午後から始まる。ターフに向かうと、彼女は既にジャージに着替えて走り込みをしていた。彼女の走りを見ていると、やや踏み込みが甘いことに気付く。おそらく、適切な運動靴を履いていないか、筋力が足りていないかのどちらかだろう。気になった点をメモしていく。ただ、彼女自身「一人がいい」と言っていたし、自分も「一人で練習していい」と言った手前、積極的に助言もしにくい。軽いアドバイスであれば聞き入れてくれるかもしれないが、本格的な指導ができるようになるのは相当先になりそうだ。

 

アドマイヤベガが、こちらに気付いて近づいてくる。『見るな。一人で練習させろ』とでも言ってくるのかと思っていたら、想定外の言葉が飛び出してきた。

 

「・・・外、走ってきます」

 

意外なことに、一応はこちらを指導者として認識しているようだ。トレーニング内容を報告してくるとは思わなかった。

 

「・・・そうか」

「待つ必要、無いですから」

 

そう言い残し、彼女は学外ランニングへと駆け出して行った。

 

 トレーナー室に戻った。彼女が学外ランニングをしているのに付き合う必要もないし、そもそも速度が違うから追いつけない。男子陸上オリンピック選手ですら敵わない相手だ。トレーナー室で資料を読み進め、メモ内容をまとめた方が良い。

 

業務用PCをスリープから復帰させ、メモ帳の内容をまとめ、さらに過去のレース動画の確認、資料の読み込みを進めていると、いつの間にか夜になっていた。アドマイヤベガが帰校しているかは分からない。さすがにそこまではオンラインで管理はされていないからだ。ただ、彼女がちゃんと標識灯・尾灯と登録番号標(ナンバープレート)を着用していたかは気になった。府中市の特例として、道路左端に『ウマ専用通行帯』が設定されているが、装備品不足は道路交通法違反で補導対象となる。初の教え子のデビュー前に、いきなり出鼻をくじかれるような事態はあってほしくない。

さらに、7月ということは期末試験が近いはずだ。そろそろ試験に向けて勉強に専念させた方が良いのかもしれない。競技生活だけが彼女の人生ではない。初の教え子のために、自分がするべきことは何か。答えのない問いが頭の中を駆け巡る。

 


 

 いつの間にか寝てしまっていたようだ。さっそく特大のサボリをかましてしまった。ちょっとした焦りと、誰に向けるでもない苦笑を顔に浮かべて姿勢を正そうとすると、肩が重いことに気付いた。目をやると、ソファに置いてあったブランケットが掛けられていた。

 

―アドマイヤベガか?

 

彼女がそんなことをするとは思いにくいが、かといって他にする人も思いつかない。床に落ちないように丁寧にブランケットを肩から外し、畳む。元の場所に戻した。

時計を見ると、20時を過ぎていた。今日は10時間勤務をしたことになるが、果たして何時間寝てしまったんだろう。裁量労働制だから関係ないけど。

トレーナー室の電気を消し、施錠して退出した。ほかの部屋を見ると、まだ電気がちらほら点いているところもある。随分と熱心だ。自分の将来を見るような気持ちで、体育科教員棟を出て寮へと向かった。明日は土曜日だし、たっぷり寝よう。

 

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