満月が天の川を蹴散らす金曜日。府中からは離れた、西王線の駅ビル内の個室喫茶店に、約束の時間より10分ほど早く入らせてもらった。
頭の中をあてどのない考えがぐるぐると回り、やはり別の答えを伝えるべきではないかと考え始めた、その時。時間通りに綾部が来た。ちらりとこちらを一瞥すると、そのまま何も言わずにどかっと対面の席に座った。随分とふてぶてしい態度だ。
「・・・で?」
怜悧で、低い声。明らかに怒気をはらんでいる。今すぐ返事を求められているのは明白。しかし、この後のことを考えると、感情的なやりとりをしている最中に店員が来ることは避けたい。先に注文を済ませ、店員が来ない時間を確保することにした。
注文した飲み物がテーブル上に並ぶと、綾部明里は再び口を開いた。
「今日は返答を聞きにきたのだけど」
感情を感じさせない、硬く低い声。据わった眼には、怒りが籠っているようにも見える。しかし怯んではいられない。一週間悩みに悩んだ末の答えを、彼女に伝えなければならない。
「・・・本題の前に言ってしまうと、実のところ、現時点ではまだ、綾部のことを恋愛対象としては認識できていない」
その瞬間、彼女の目が吊り上がり、テーブルの上の拳が力強く握られる。カップのコーヒーが、微かに震えた。
――やべ、殴られるかも。
「待ってくれ。まだ続きがあるから、最後まで聞いてくれ」
綾部明里は、こちらを睨みつけたまま静かに言った。
「・・・続きを言いなさい」
息を、静かに吐いた。そして次の言葉を発するために、再び息を吸った。
ニュースの中の村瀬を思い出す。12年前、塾の廊下で泣いていた姿とは全く異なる、力強い姿。人生を破壊されたはずの彼女が、新たな人生を歩んでいた。人間は、人生は、思っていたよりも弱くなかった。
視線を上げ、目の前に座る相手を見つめた。彼女を初めて見かけた6年前の記憶が、脳裏に蘇る。この仕事に就いてから、ずっと生徒たちの人生の責任を負うことが最優先だと思っていた。
アドマイヤベガも、最初は初の担当生徒で、そして危なっかしい保護対象という認識だった。しかし、アドマイヤベガという高校生ウマ陸上選手は3年半前に既に活動を終了し、『かつて活躍した名バ』という過去の存在となっている。そして今、目の前に居るのは綾部明里だ。彼女の感情に真剣に向き合い、今まで考えてこなかったことを考えた。そして、その末の答えをしっかりと伝えようと、口を開いた。
「だから、少し待たせることになるとは思うけど、綾部のことを恋愛対象として見れるようにしていく。・・・綾部が、そこまで真剣なら」
その瞬間、綾部明里の表情が緩んだ。目が大きく見開かれ、口がわなわなと震える。そして、囁くような声が聞こえてきた。
「・・・・・・ほんと?」
綾部の目から、一筋の涙が流れていく。
「嘘じゃない」
これが正しい回答なのかは、分からない。でも、こう答えるべきだと思った。今の綾部は、未成年でも、現役の指導対象でもない。卒業後に連絡を取り合っていたわけでもない。倫理の境界線は何もない。卒業して3年が経ってもなお、自分のことを真剣に想ってくれていて、その原因が自分にあるのなら、責任を取るべきだ。それで目の前の綾部明里が喜んでくれるなら、こちらも一歩踏み出したいと思った。
一瞬だけ下を向いてから、最後にもう一言付け加えた。
「これから、よろしく」
歳差運動――地軸が動き、
不動の軸が、動き出す。