C108における本作頒布のお知らせ
2026年8月開催予定のコミックマーケットC108にて、本作に大幅な加筆修正を加えたものを文庫化して頒布いたします。スペースは1日目(土曜日)東3ホール ホ59aです。
文庫化にあたって、主に以下の修正点を加えています。
・挿絵の追加(イラスト + 写真)。※イラストはひとで様(twitter @hitode_admire)にお願いし、高村にもビジュアルが付きました。表紙はこちらを参照ください。
・各章にエピグラフを追加
・web連載では序盤と終盤で差のあった筆致を、可能な限り統一
・アドマイヤベガの競技戦績をif展開(エリカ賞優勝、ホープフルS優勝、弥生賞優勝、皐月賞2位、東京優駿6位、京都新聞杯欠場、菊花賞優勝、宝塚記念?)から、史実展開+α(エリカ賞優勝、ホープフルS優勝、弥生賞2位、皐月賞6位、東京優駿優勝、京都新聞杯優勝、菊花賞6位、宝塚記念?)に変更
・細かい設定の追加(ウマ娘の生物学上の設定、作品世界内の慣用表現、用語、文化風俗、尻尾に関する服飾構造など)
・一部登場人物の名前変更(児玉武美、グラスワンダー、ケイエスミラクル等)
・ヒシミラクル視点描写の追加
・終章の展開の中規模変更
・ファインモーションとエイシンフラッシュを主人公とする巻末短編の追加(構想中のファインモーション編とは別)
初の二次創作、初のコミケ参加で部数が読めないこともあり頒布数は少数(評判によっては増刷もありえるものの、予定は白紙)です。
以下は文字数制限(1000文字以上)をクリアするための冒頭(第一章第一節)の試し読みです。web連載版と大きく変わっていることが伝われば嬉しいです。
第一章"傾斜軌道"
第一節〝啓蟄〟
よそなれど 同じ心ぞ 通ふべき 誰も思ひの 一つならねば(新古今和歌集巻八 藤原実資)
み空行く 月の光に ただ一目 相見し人の 夢にし見ゆる(万葉集巻四 安都扉娘子)
本格的な就職活動の解禁を迎えた学生達で混みあうキャリアセンターで、掲示板に並ぶ求人票を眺める。商社、金融、インフラ、コンサル、メーカー、運輸、IT、公務員――。いずれも将来の華やかさ、可能性の実現、やりがい、社会貢献を謳っている。しかし業界が違えば魅力のあり方も求められる適性も違う。自分が何者になれるのかまだ分からない大学三年生の時点で、自分が向いている職業を判断するのは困難だ。どれも魅力的に見えるし、どれも向いてなさそうにも見える。
四十年近く働くことになる職場なのだから、慎重に決めたい。業務内容、勤務地、給料、将来性。考慮するべき要素は多い。どの業界も一長一短で、なかなかピンとくるものを感じられないまま、端から順に求人票を眺めている時だった。ふと、とある私立校の求人票が目に留まった。
『学校法人中央トレーニングセンター学園 トレーナー職新卒採用のお知らせ』
トレセン学園という文字を見て、八歳上の姉のことを思う。レースが府中の東京レース場で開催されるたびに親と一緒に姉の活躍を見守りに行き、学園までの帰り道は家族で歩いた。学園祭にも、姉に会いに毎年行っていた。姉が競技を引退し、翌年三月に高等部を卒業してからは足が遠のいたものの、多くの思い出のある場所でもある。今でもトゥインクルシリーズのレースがあれば中継を見るし、大晦日には帰省してきた姉たちと駅伝のテレビ中継を観るのが習慣だ。
姉のような存在を指導・育成する職業の詳細が気になり、求人票の詳細を確認した。
『初任給 : 三十七万二千円(大学院修了)、三十四万二千円(大学卒)、二十九万二千円(短期大学卒)
応募資格 : スポーツ科学、スポーツ心理学、体育学、身体教育学、生理学、医学・看護・栄養学、健康科学、その他文理問わず人体・スポーツに関する分野を専攻していることに加え、中等教育機関教育職員免許状(専修・一種・二種、教科不問)を取得済または見込みの者』
公立校より二割近く高い初任給に、まず目を惹かれた。そして次に、応募資格に目が留まった。スポーツ科学部に通い、バイオメカニクス研究室に配属され、そして教職課程の座学を終えて教育実習を控えている自分は、応募資格を満たしている。
不本意な学部に進学して失意に沈むなか、次の目標を見つけようと教職課程の履修を決めた過去の自分に、賞賛を送りたくなった。就職できなかった場合に備えての保険という意味合いもあり、本当に教職に就くかどうかはずっと保留のままにしてきた。
競バに関しては主役のウマたちばかりに目が行っていたけれど、しかし中高生が選手である以上、彼女らを指導する職業があるのは当然だ。姉のような存在に、今度は世に送り出す側として関わることができるかもしれないという高揚感が湧いてくる。
職員に相談することにして、混み合う相談窓口で順番待ちリストに氏名を書いた。トレセン学園のパンフレットをある程度読み込んだところで、名前を呼ばれた。
「
*
翌年四月一日。学校法人中央トレーニングセンター学園、通称中央トレセン。
午前中の着任式に臨んだ後に校内の案内をされ、午後は再び講堂で組織説明などの受け入れ教育を受けていく。
学園の総面積は約八十万平方メートル。中高一貫の全寮制私立女子校、全校生徒数は約二千名。座学の授業が実施される校舎のほか、
収益構造は、学費の他にレースやライブの入場料、放映権販売料、商標権使用料など多岐に渡る。実態としては、営利企業が、収益を稼ぐ手段や将来の教職員候補としてアイドルアスリート育成と中等・高等教育を同時に実施していると解釈した方が適切と言える。
新人教員にしては高い三十四万円という給料が出る理由も、利益率の高い収益構造によるものと納得できた。他職種も、トレーナーほどではないものの教員としては高い給料が出ている。そして教職員向けの食堂・寮も完備されているから生活コストは低く、貯金しやすい。
手渡された労働条件通知書を見ると、『体育科所属
翌週四月六日には始業式、そして七日には入学式が執り行われ、その両方で着任挨拶に臨んだ。二〇〇〇名の生徒全員が女子、それもウマというのは想像以上の圧があり、壇上でガチガチに緊張してしまった。しかし、それ以外には生徒たちとの接触はないまま、競走競技指導教員候補としての本格的な研修が始まった。
一般科目教員の同期達は四月から教壇に立ちつつ初任者研修を受ける一方、体育と音楽の教員は候補生として採用されてそれぞれ専門研修を受けてから教壇に立つことになる。一般的な中高生と異なる生徒を相手に、特殊な内容の指導をする以上、専門知識を身に着けるために必然的な制度だ。逸る気持ちを抑え、校舎の一角にある教員研修室での集合研修を受ける日々が続くことになる。
同期着任の他科目教員や、事務職員達とはしばらくお別れだ。とはいえ、職場は同じだ。教職員食堂などで顔を合わせることもあるだろう。
最初の研修は、トレーナーとしてのキャリアパスと人事制度についてだった。ここで初めて年収カーブの詳細を知らされた。
そして、トレーナーとインストラクターは、業績が互いの報酬に影響し合うことも説明された。インストラクターは担当している生徒がウイニングライブへメイン参加することで賞与が増える。ライブへの参加は競技結果によって左右されるから、トレーナーはインストラクターの賞与に影響を与える。一方、ウイニングライブでのファン獲得が生徒達の競技モチベーションにも繋がるから、インストラクターもトレーナーの報酬に影響を与えることになる。予想以上に責任が重い。
人事研修後、トレーナー候補生は二つに分かれ専門研修に進む。一方は既に保健体育の教員免許を持つ者で、そのままURA公認トレーナー講習に進むため「ストレート組」と呼ばれる。そしてもう一方は、同校種他教科免許を追加取得する「別表第4」向けの短期集中型教職課程をトレセン学園大学で履修してからトレーナー講習に進むため、「別表第4ルート組」と呼ばれている。
保健体育の教員免許を持つ自分は、当然前者だ。URA公認トレーナー講習は六週間強。内容は、主にスポーツ科学理論や、トゥインクルシリーズの制度について。講師を務める体育科教員、通称「教官」による指導の下、ウマスポーツ科学、スポーツ心理学、コーチング理論、競技指導実習、生徒との信頼関係構築手法、上級救命講習、護身術、職 務倫理、情報倫理を受講していく。
講義内容はいずれも高密度・高難易度。一般的な中高一貫校や教職課程で実施されるような研修内容とは明らかに異なる。莫大な利益を上げているだけあって、研修の手厚さと要求が桁違いだ。教官からは時折質問が飛んでくるから気が抜けない。
「では、嬉野さん」
「・・・はい」
背の高い同期トレーナー候補生が指名された。
「ウマ陸上選手の指導に当たって最も留意するべき健康上の注意点、
「女子アスリート三主徴はエネルギー不足・視床下部性無月経・骨粗鬆症、ウマアスリート三主徴は骨粗鬆症を伴わない疲労骨折・靭帯炎・腱炎です。合計六症状が相互に影響し合うため、深刻な健康リスクを生むことになります」
教科書を読むような滑らかな口調で、彼は答えた。
「完璧です。では桐生院さん」
「はい!」
小柄な女性トレーナー候補へ質問が飛んだ。
「ウマと一般的な人間を比較した際の形態差を答えてください」
「側頭部の高い位置に耳があり、尾があります。脚の骨格は筋肉構造とともに走ることに特化した身体構造に変化しています。呼吸器や循環器にも差異がある他、目には不完全ながら
「・・・良く知っていますね。優秀です」
その後も時折質問が飛び、同期達は皆正解を回答していく。定期的に理解度確認のテストも実施された。
中途で中央のトレーナーになるのが難関とされる理由がよく分かる。働きながらこの内容を全て独学するのは難易度と時間の両面から困難だし、しかも中途での募集人員は少ない。姉と同時期に活躍していたオグリキャップの担当トレーナー北原氏への畏敬の念が、今更ながらに沸き起こる。地方トレーナーという業務経験の基盤があったにしろ、相当な努力をしたはず。
日中は講義を受け、退勤後は自学自習。指導実習以外に生徒との接触は無く、ひたすらに研修をこなしていく生活が続く。思い描いていたトレーナー生活像とのギャップにフラストレーションが溜まり出していた五月末、ようやく二ヶ月の研修が終わり、ライセンス試験当日を迎えた。
そして翌六月一日をもって、ライセンス試験に合格したトレーナー候補生たちの人事上の肩書は「体育科所属
新人トレーナー達の動きは、最初に担当する生徒を求めて情報収集に動き出す者と、ツテのあるチームを頼りサブトレーナーの枠へと収まっていくものに二分される。チームトレーナーの伝手がない自分は、もちろん前者だ。
どのように担当生徒を選択すれば良いのか分からなかったので、トレーナーとして就職していた、大学時代のサークルの一学年上の先輩のトレーナー室を訪ねた。
「久しぶりだな高村。ライセンス試験受かったか」
三白眼の少々威圧感ある顔が、人のよさそうな笑顔を浮かべる。この人の少し雑でフレンドリーな接し方が、大学時代から付き合いが深かった理由だと思う。
「お久しぶりです。着任式以来ですね」
笑顔と挨拶を返しつつ、本題を切り出した。
「今月末、選抜レースありますよね。担当生徒の選び方が分からなくて。教えてもらえませんか、杉崎さん」
先輩は、少しだけ皮肉っぽい笑顔を浮かべてから口を開いた。
「単刀直入だな・・・。そうだな、まず高村は個人トレーナーだろ?俺にそういうこと訊きに来るってことは」
「はい。ツテもないですからね」
「ツテのあるやつなんてなかなか居ないからな。親子トレーナーとか、現役時代の担当トレーナーが作ったチームのサブトレーナーになる奴くらいしか居ないよ。個人トレーナーの場合は、最初は安全策を取った方が良い。担当生徒がある程度は結果を残してくれないと、チームトレーナーへの昇格が遅れるからな」
同期達の動向にそのまま当てはまる説明だ。チームのサブトレーナーはチーフトレーナーのサポートが受けやすく、将来的にほぼ確実に大規模チームを担当できるという点で人気ではあるものの、ほぼコネで埋まる。仮に杉崎先輩がチームのチーフトレーナーなら、自分もそこのサブトレーナーに収まることを狙うはず。
「だから、新人トレーナーは卒業までの期間が短い高等部生徒を契約相手として選んだ方が有利になりやすい。数は少ないけど、高等部入学組の生徒なら、中等部入試より厳しい合格基準をクリアしてるしな」
中等部入学組が本流で、高等部入学組は少数派の傍流。そして三年の差がある分だけ要求基準も上がる。中高一貫校ではよくある話だ。
「ええ、そうですよね。入学比率が中等部と高等部でだいたい三対一でしたっけ」
杉崎先輩は頷きながら話を続ける。
「そうだ。そして高等部組は年齢が高い分精神的に自立しているから、細かい干渉を嫌うし、指導内容が一定水準を満たしていれば満足しやすい。不足分は自主トレで補うか、自分からトレーナーに指導を要求する傾向がある。指導に対して生徒から指摘や注文をされるのが気にならないなら、高等部入学組と新人トレーナーは利害が一致しやすい。あくまでも一般論だけどな」
さすがに教育学部出身だけあって分かりやすい。こちらの反応を見て理解度を確認しながら話を展開している。
「じゃあ先輩も高等部生徒を?」
杉崎先輩は、少し気まずそうに顔を逸らした。
「・・・いや、俺は中等部生徒だ」
先ほどまでの説明とは相反する選択。理由が気になり、深く追求してみることにした。
「杉崎さんはなんで中等部生徒にしたんですか?不利でしょ、キャリア的に」
今の説明をひっくり返すと、新人トレーナーは中等部生徒を避けた方が賢明なはず。中等部生徒は、入学時点で一ヶ月前までランドセルを背負っていたような年齢だ。在学期間も最大六年に及ぶ。精神的な自立も途上で、競技参加期間も長い一方、アスリートとしての将来性は未知数だ。
生徒も、実績がない新人トレーナーより中堅以上のトレーナーに長い目で丁寧に指導されることを望むはず。ならば、中等部生徒と契約するのは、中堅・ベテランのトレーナーと、大器晩成型の発掘を狙うリスクテイク志向の新人トレーナーがメインになるはず。杉崎先輩は、そうは見えない。
「最初は
納得した。アベイラブルのまま二年目目前なら、中等部生徒であっても贅沢は言えない。
トレーナーと教官はライセンスが共通であり、特定の指導対象生徒を持つか否かの違いしかない。両者を行き来する教員も多いものの、しかしトレーナーは花形。そして教官は、トレーナーとしての一線を退いた管理職が、担当トレーナーを持たない生徒の集団指導や座学授業、新人トレーナーの教育を行う職掌という性質が強い。非管理職の教官は、指導契約生徒が途切れてアベイラブル中のトレーナー向けのポジションだと聞いた。
「あー・・・そういうことですか。最初から教官一本ってのは気が引けますよね」
「そういうことだ。長く教官ばっかりやってると、生徒側からもトレーナー候補として見てもらいにくくなる。向こうからスカウトしてきたから、都合も良かった」
「逆スカウトですか。珍しいっすね」
トレーナーと生徒の専任指導契約は、ほとんどの場合はトレーナー側から契約を申し出ると研修で聞いた。生徒側からのスカウトは禁止されてはいないものの、一般的ではないためトレーナー側は期待するな、とも。
「そういうことだ。それに、妹の幼稚園の同級生だったから放っておけなくてさ」
「・・・先輩、裏口入学なのに要領良いんだか悪いんだか分からないですね」
「裏口って言うな勝手口って言え」
「裏口」とは、大学付属高校からの内部進学者に対する一般入試組からの揶揄だ。要領良く受験戦争を回避して自由な高校生活を送ったことに対する嫉妬と羨望、そして厳しい大学受験を勝ち抜いたことへの自負から、一般入試組からは見下される傾向にある。一方で内部進学者たちは、高い倍率の高校受験を勝ち抜き、長期間在籍している自分達こそ正当な学生であるとして「勝手口」を自称している。もちろん本気の罵倒合戦ではない。単なるじゃれあいで、大学時代からのお決まりのやり取りだ。
互いに薄ら笑いを交わしながら杉崎先輩に別れを告げ、ターフに向かった。この時期、未契約の生徒たちは夏の選抜レース本番に向けてターフで練習に励んでいるらしく、多くの生徒を見かける。そして指導契約生徒候補の選定のため、多くのトレーナー達が観客席に詰めかける時期でもある。特に夏の選抜レースは、入学後初の選抜レースだということもあって、最大の盛り上がりを見せるという。
ターフ利用申請が出ている生徒の名簿を業務用スマートフォンで確認しているときだった。後方の座席の方から、中堅トレーナーたちの声が聞こえてきた。
「素晴らしい末脚のキレですね、あの新入生」
しまった、と思った。名簿を見ていて競技場の方からは目を外してしまっていたからだ。しかし思わぬ助け船が現れた。
「仕掛けどころも見極めも抜群ですね、アドマイヤベガ。選抜レース本番が楽しみです」
名前を聞いて、慌てて名簿表示順をあいうえお順に変更し、上の方を確認した。
「アドマイヤベガ」はすぐに見つかった。「アドマイヤ」は、小学生対象のウマ専門レースクラブ「近藤シューティングスターズ」出身であることを示す有名な冠名。既に何人もの重賞選手を輩出している名門だ。相当な有望株と見える。
遠目には年齢・学年が分からない。確認のため、生徒情報確認アプリを立ち上げた。IDとパスワードの入力を求められたことが、もどかしい。
『アドマイヤベガ 高等部1年A組所属 入学区分 : 高等部一般入試』
指導契約相手の有力候補を見つけたと思った。アドマイヤ冠名という有望株でありながら中等部入学をしていない理由が気になるものの、些末な問題だ。契約の倍率は高いだろうが、目を付けておいて損はない。
ターフに目を向ける。アドマイヤベガらしき生徒は、併走していた大柄な茶髪の生徒と何か話し込んだ後、一人で走り出した。
しばらく見ていると、他の生徒達が少しずつ練習を切り上げていく中、彼女だけが一人で寡黙に走り続ける。その走りからは、評判通りの高い加速力とモチベーションが伝わって来る。
どのような生徒なのかが気になり、本格的な情報収集をしようと決めた。夕日が長い影を落とす観客席を抜けて、体育科教員棟へ速足で向かった。
*
集合職員室で、「アドマイヤベガ」の過去について調べた。高等部一年で入学直後だから、学内の情報は入試成績のうち競走実技の成績くらいしか分からない。それ以外の情報へのアクセス権限はトレーナーには無い。ただ、興味深いことが分かった。彼女は、中等部入試も受けていた。しかし、競走実技試験の成績が悪く、不合格となっていた。
そしてもう一つ。アドマイヤという冠名から思い当たった、近藤シューティングスターズの公式サイトからも情報が得られた。写真こそ掲載されていないものの、彼女は確かに過去の所属者一覧に掲載されていた。所属時期と年齢も一致する。ポニーカップでの成績も掲載されていて、相当に優秀な競技戦績だった。
近藤シューティングスターズでの優秀な競技成績と、中等部不合格という事実。これは恐らく、本番に弱い、緊張しがちな人間であることを示している。しかし、厳しい高等部入試を潜り抜けているのなら、そこは克服したのかもしれない。いずれにせよ、選抜レースの結果を見ないことには何とも言えない。
思考に一区切りつけ、パソコンの電源を切った。時計は、十九時五十分過ぎを指している。
体育科教員棟を出て、ふとターフに目を向ける。すっかり日も落ち、東京特有の弱々しい星空に覆われたターフには誰も居ないように見える。しかし、一人だけ練習を続けている生徒がいた。
じっと目を凝らすと、日中に見かけた、アドマイヤベガらしき生徒だった。そのペースに衰えは見られず、豊富なスタミナが伝わってくる。しかし一方で、まるで何かに追い立てられているようでもあった。
五分ほど見守っていると彼女の足が止まった。さすがに疲弊したらしい。膝に手をつき、前屈みになった肩が大きく上下する。しばらくクールダウンを続けると、ようやく息が落ち着いたらしい。彼女は背筋を急に伸ばすと、口を閉じて上を向いた。目線の先は空だ。瞳に星が映り込み、しかし月が照らす表情からは感情を読み取れない。まるで、星空ではなく、その先にあるものを見ようとしているかのようだった。
夜のターフに一人立つその姿からは、勝利への執念というよりも、何か悲壮な覚悟が感じられた。いくらモチベーションが高くても、休養しないと良い成績は取れない。そんな当たり前のことすら考えられないほど、追い詰められる何かがあるのかもしれない。
「・・・随分長く走ってるな」
彼女の目が、こちらをゆっくりと捉えた。
「え?」
誰かが自分を見ていたことが意外だったらしい。驚いたような表情で見つめてくる。
「・・・夕方にも見かけたから」
なぜ、彼女のことをそこまで気にしたのかはよく分からなかった。
「・・・平気です。いつもやっていることですから」
「いつもこんな時間まで?」
「だいたいは」
となると、二ヶ月以上もこんなことを続けていることになる。普通なら、クラスメイトやルームメイトとの交流を深めて、校内の人間関係を構築することにも注力するはず。
「きつくはないのか?」
「・・・いえ、勝つために必要ですから。私は、勝つ。走って、勝つ。勝ち続ける。それだけです。トレーナーとしてお話があるなら、選抜レースのあとでお願いします。・・・では」
その時、ターフの夜間照明が落ちた。時刻は、夜八時。アドマイヤベガらしき生徒は、ゆっくりとターフから去り、月光が作る校舎の影に溶けるようにして、生徒寮へ帰って行った。なんとなく目を逸らせず、彼女が見えなくなるまで見送ってしまった。何か重い覚悟を背負い、身を削るようにして練習に身を捧げる様子が、印象に残った。
*
二週間後、六月末。選抜レース当日、十四時。
夏の選抜レース、午後第一部〝 一六〇〇メートル(マイル)〟部門。梅雨時特有の、重い湿気をはらんだ風がターフを撫でていく。
ターフ横の観客席にはトレーナー陣が詰めかけ、期待の目線を送っていた。将来のスター誕生の場ということもあり、メディア取材や実況まで行われている。
周囲の話題はアドマイヤベガだ。高等部入学組、そしてアドマイヤ冠名ということもあり、新人トレーナーからベテラントレーナーまで視線を送っている。自分もまた、確かにアドマイヤベガを気にしている。しかし、アドマイヤベガらしき生徒の危うさの方も気になる。
彼女達にとって、選抜レースは競技キャリアの登竜門であり、実質的には本番レースそのものと言える。アドマイヤベガは、どう立ち回るのか。
レースの準備が進むターフへと歩を進める生徒たちに、目線を向ける。「アドマイヤベガ」に注目すると、やはり先日見かけた生徒だった。彼女のゼッケン番号は、1番。
マイル部門第三レース、出走選手は十四名。そのうち、中等部生徒は九名、高等部生徒が五名。中等部生徒はキャリア形成上不利であるため今回は候補外とする。高等部生徒のうち、特に有望な二名と、次に有望そうな一名の順で契約オファーの優先順位をつけて、メモに書き残した。午前の長距離部門と中距離部門でとりあえず名刺を渡しておいた生徒と合わせると、既に十人近い。
全選手がゲートに入ると同時に、場内の緊張が一気に高まった。
僅かな沈黙の後にゲートが開き、彼女らの競技人生を運命づける一六〇〇メートル走が始まった。
『さあスタートしました。十四名、中央トレセン夏の選抜レース、マイル部門の第三レース。まず飛び出したのは11番――』
先頭集団が飛び出していく。その後ろに食らいつくようにして、アドマイヤベガが追いすがる。しかし次第に次位集団からも遅れ始めた。三位集団に飲み込まれようとしたものの、そこから粘り続ける。カーブに入ってからは、内側を保って距離ロスを抑えた堅実な走りを見せている。そして、順位を維持したまま第四コーナーへと突入していった。
『第四コーナー曲がりまして最後の直線。ハナを切ったのは9番。注目のアドマイヤベガは、現在五番手』
アドマイヤベガが勝負に出た。前方の僅かな隙間を抜け、内に出て四位。しかし――。
「あ~まずいな」
思わず、小さな声が出た。周囲のトレーナーたちもざわめく。もしかすると、今のは進路妨害になるかもしれない。後続選手が減速し、上体が大きく前のめりになったからだ。しかし、レースは続く。アドマイヤベガは、内から三位を抜かすと、そのまま一気に加速し、一位・二位の間を割り込むようにしてゴールへと駆け込んでいった。
『ゴールしました。一着、アドマイヤベガ』
最終直線の加速の凄まじさに、トレーナー以外の観客が一斉に沸き立つ。しかし、それはすぐに不穏なざわめきへと転化した。
『ただいまのレースにつきましてお知らせです。1番アドマイヤベガ、最終直線での斜行を進路妨害と認定、四位に降着とします』
やはり、先日垣間見た精神的な危うさといい、本番に弱い点は克服できていないようだ。周囲のトレーナー陣は首を振り、それぞれ別の生徒の品定めに移った。しかし、アドマイヤベガから目を離せずに見つめていると――アドマイヤベガは一瞬俯き、どこかへと走り出していってしまった。その姿を目で追う。行先は、明らかに校舎や生徒寮の方向ではない。彼女の向かう先には、通用門が見えた。
――え、まずくないか?
多感な思春期だ。衝動的に校外に出て事件や事故を起こす可能性がある。そうでなくとも、失踪、遭難、自殺なども考えられる。
周囲を見渡しても、誰もアドマイヤベガのことを気にかけている様子はない。アドマイヤベガのことを気にしているのは、自分だけだ。
――誰もあいつのことを気にしてないのか?
一緒に朝から選抜レースを見ていた同期の藤村を振り返ると、彼女は目当ての生徒のもとに行き、ベテラン・中堅トレーナーたちに混じり名刺を渡そうとしている最中だった。再びアドマイヤベガを見ると、通用門から校外へと走り去るところだった。そして、やはり誰もそれを気にしていない。メディア陣も注目していない点だけは、幸いと言える。
――嘘だろ。俺が対応するしかないのか?
レースでの失敗の末に逃亡するという生徒の危うさに誰も目を向けすらしないことに驚きつつ、行先の手掛かりを求めて観客席を見渡した。仲の良い生徒なら、何か知っているかもしれない。
少し離れたところに、先日の練習で併走していた生徒を運よく見つけた。行先に心当たりがないか尋ねていると、もう一人、アドマイヤベガと親しいという生徒も話に加わってきた。やたら芝居がかった迂遠で抽象的な話を要約すると、どうやら高尾山のトレイルランコースでよく自主トレーニングをしているらしく、恐らくはそこに向かったらしい。礼を言ってターフを後にした。
時計を見ると、時刻は十五時過ぎ。行先が高尾山なら、到着は十六時頃。いくら身体能力が高いとは言っても、そんな時間から女子高生が一人で山に入るのは流石に不自然だ。立夏を過ぎ、日が長い時期とはいえ、日没までは数時間。ますます危ないと考え、
京王線高尾山口駅に着いてから、真っ先に高尾警察署高尾口駐在所へと向かった。名刺を渡してトレセンの教員であることを示し、業務用スマートフォンでアドマイヤベガの顔写真を見せながら入山届の有無を尋ねた。
「中央トレセン所属の、高校生のウマの子が入山届を出していませんか。この写真の子なんですが。どうやら今トレイルランをしているようで」
「今日は入山届は出てませんけど、最近よく来てますよ。毎回同じルートです」
高尾山に今来ているかどうかは確証が取れなかった。しかし手痛い失敗の直後ならば、衝動的に慣れたコースを走る可能性はある。
「コースは⁈」
警察官は、デスクの中をしばらく調べて、数枚の入山届を取り出した。
「えーっと、北高尾アプローチトレイル、城山天狗トレイルを経由して、城山の山頂で折り返してここに戻って来るルートですね」
「ありがとうございます!」
礼を言って飛び出そうとすると、警官が慌てて止めてきた。
「今から登る気ですか⁈遭難しますよ‼」
「今すぐ追いかけないと取り返しのつかないことになるかもしれないんですよ!」
「なら、せめて地図を持って行ってください!明日朝までに連絡が無ければ、遭難したとみなして救助を出しますから」
警官の手が、紙の登山マップを押し付けてくる。
「分かりました!ありがとうございます!」
「ああちょっと、連絡先を――」
「名刺に書いてます!」
地図を見ながら教えられたルートに向かって駆けだした。今ならまだ、間に合うかもしれない。しかし――。
「はあ・・・クソッ」
アドマイヤベガの併走相手が言っていたことを思い出す。「
未舗装の道、激しいアップダウン、不安定な石段、見通しの悪い道、積もった腐葉土、水溜まり。全ての条件が最悪だ。スーツで走る場所じゃない。
「こんな・・・ところで・・・トレーニング、してんのかよ、あいつ・・・はぁ・・・」
滑落や自殺の線も考え、崖の下を覗き込んだり周囲の林にも気を配って走ってきたせいもあって、予想以上に時間がかかってしまった。時間は既に夕刻で、真っ赤な日焼けが空を染めている。
しばらく、肩で息をする。そして、落ち着いてから再び走り出した。
「・・・っ」
遥か遠くの上の方の山道に、白いユニフォーム姿の人物が走る姿がちらりと見えた。足を速めて、その姿を追う。
しかし、どれだけ走っても距離は縮まらず、姿を再び目に捉えることができない。身体能力の差は圧倒的だった。追いつけない相手を追いかけているうちに、あたりは深い夜闇に包まれていき、足元すら覚束なくなっていった。
「足元、よく見え――」
足が滑る感覚。それに続く浮遊感。直後、頭に強い衝撃が走った。
*
・・・少しずつ、意識を取り戻す。目をゆっくりと開けると、遥か彼方に見える空に焦点が合い始めた。木々に縁取られた視界に、満天の星空が広がっている。都内とは思えない、星の海。その中を貫いていく、微かな天の川。
一瞬、死んだと思った。
――星空が見えるってことは、地獄じゃなくて天国かな。
普段は考えもしないことを考えていると、誰かが声をかけてきた。
「痛むところは?」
目線を声の主に向けたものの、暗くてよく見えない。声からして女性、それも若い女性だ。目を凝らすと、側頭部の高い位置に、特徴的な長い耳。そして、トレセンの陸上ユニフォーム。
「・・・アドマイヤベガ?」
そうであって欲しい、という願望も入った言葉だった。追跡していた相手を、見つけたかもしれないから。
「質問しているのはこっち。痛むところは?」
自分の体の方へと意識を向けると、全身が痛い。特に、頭と首が強く痛む。しかし、生徒の前で泣き言を言うのは情けないと思い虚勢を張った。
「いや、大丈夫。・・・助けてくれたのか?」
「普通、放っておかないでしょ」
彼女は、眉根を寄せて深いため息をつき、そして訊ねてきた。
「なぜ、私にこだわるの?・・・選抜レースはあんな結果だったし、私たちは、互いのことを全く知らないはず」
「・・・入学式で挨拶はしたぞ。選抜レース前にも一度話した」
「・・・入学式では話、聞いてなかったから。質問に答えて。どうして?」
ガチガチに緊張して挨拶したのに、
「なんでって、それは、」
「・・・それは?」
「一人で放っておくのは、危ないと思ったから」
彼女は、表情を変えないまま呟いた。
「私は・・・独りでいい。独りが、いい」
「なぜ?」
「走ることも、勝つことも・・・私が独りで背負うべきことだから・・・だって・・・」
その先の言葉を待ったけれど、それっきり彼女は黙ってしまった。
しばらくして体が動くようになり、上体を起こした。スマートフォンのライトで周囲を照らすと、転落した石段から少し離れたところの、道が広くなっている場所だった。
彼女に支えられるようにして、長い時間を掛けて真っ暗な山道を下った。駐在所に顔を出すと、警官は心の底から呆れたような顔をした。「言わんこっちゃない」という言葉が、表情に滲んでいた。そして次に、安心したように微笑んだ。
「生きて帰ってきて良かったですよ」
笑えない。もしかしたら本当に死んでいたかもしれないから。
辛うじて苦笑いを返し、駐在所のパイプ椅子に腰を下ろした。その後、洗面所で顔と手に付いた泥を洗わせてもらい、傷の手当てをしてもらった。幸い大きな負傷はなく、かすり傷程度で済んでいた。頭を打ったことを伝えると、念のため後日病院で診察を受けるように言われた。
京王線で府中へ戻る最中、アドマイヤベガは一言も発しなかった。ただ気まずさだけが、
府中駅からトレセン学園までの帰り道の途中。三日月が沈みかけている空の下、アドマイヤベガに思い切って声を掛けた。
「君を担当させてもらえないか。個人指導契約を結びたい」
「・・・突然、何?」
「『一人がいい』なら、それでもいい」
「・・・え?」
「トレーナーというのは、競技指導者だ。ただ、競技指導だけがトレーナーの職務じゃない。出走手続きや安全・健康管理といった事務的業務も多い。直接的な競技指導が邪魔なら一人で練習しても良いし、必要な時だけ指導を求めて良い。トレーナーとしての義務は果たす」
嘘ではない。おそらく今日の選抜レースに出た生徒たちはもう、ほかのトレーナーと指導契約を締結してしまっただろう。全レース終了後の契約オファータイムは、とっくに終了している時間だ。
今の自分に残された選択肢は、アドマイヤベガと契約するか、他の契約相手を探すか、秋の選抜レースを待つかのいずれか。
アドマイヤベガは、少々危うさはあるものの精神的には自立しているように見える。トレーナーへの依存も少ないだろう。それに加えて、高等部の新入生だ。卒業までの期間が短いという点も、新人トレーナーにとって都合が良い。そして、選抜レースからの逃走という問題を起こした彼女と契約したがるトレーナーもいないはず。
互いの利害は、一致している。
「なに、それ・・・」
アドマイヤベガは、下を向いた。
「門限だから、帰る」
微かな沈黙の後、それだけ言い残して、生徒寮の方に駆け出してしまった。
*
・・・チームに入るつもりは、ない。大勢での練習は、煩わしいから。
独りが良い。
馴れ合いも、指図も、必要ない。でもあの人は、恐らくそれをしないように見える。契約は個人指導と言っていた。「独りで練習して良い」とも。
そして、新人のトレーナーだ。余計な干渉もなければ、無駄な期待もないだろう。主導権も私が握れそうだ。それでいて、最低限の義務は果たしてくれる。レース参加権も手に入る。なら、悪くはないのかもしれない。
*
翌日、アドマイヤベガが体育科教員棟を訪れてきた。
ためらいがちなノックの後、集合職員室におずおずと足を踏み入れてくる。
「契約オファー、受けてくれるのか?」
「・・・トレーナーがいないと、トゥインクルシリーズには出られないから。だから、選ぶなら、高村トレーナーにしておく」
「・・・ありがとう。個人指導契約書を渡すから、ちょっと待ってて」
体育課主任の元へと駆け寄り、白紙の個人指導契約書をもらった。自分の名前を記入し、印鑑を押し、アドマイヤベガに渡した。
「これだ。君本人の署名だけじゃなくて、保護者の方の署名と捺印も要る。土日で実家に行くか、郵送でサインをもらって欲しい」
「・・・分かりました」
アドマイヤベガは静かに頷いた。
週が明けた月曜日、彼女は体育科教員棟に再びやってきた。
「両親のサインをもらってきました。私の記入欄も署名済みです。確認してください」
「分かった。一緒に確認していこう」
受け取った指導契約締結書類を確認する。これから最大三年間担当することになる、大切な担当生徒だ。万が一にも間違いが無いように、しっかりと口に出して本人と読み上げていくことにした。個人情報が含まれるから、集合職員室のドアを閉めた。まず、トレーナー記入欄。
『担当トレーナー名 :
トレーナー種別 : 三種
指導形態 : 個人指導』
次に、彼女のご両親が記入した欄。
契約締結日、住所、緊急連絡先、保護者同意署名。互いの認識の一致を一行ずつ確実に積み上げていく。
最後に、本人記入欄。
『所属クラス : 高等部1年A組
所属寮 : 栗東寮
氏名 :
「改めて、高等部一年A組アドマイヤベガです。一等星ベガの名に恥じないように取り組みます。よろしくお願いします、高村トレーナー」
彼女の凛とした声に、背筋を伸ばして応えた。
「本年度新任となったトレーナーの高村です。これからよろしく」