8月。世間は夏休みだけど、労働者には関係が無い。大学生時代が既に懐かしい。8月9月2か月丸々休みで、遊び放題だった。まあ、4年生の時は研究があるから丸々休んだわけではないけど、それでも授業がないし
――あれ、でも今も裁量労働制・フレックスタイム制と有給休暇で同じことできるな・・・。
とはいえ、教え子を放り出して好きな時に休みを取れるわけでもないのが教員だし、夏休み期間の
8月後半には2泊3日の合同合宿がある。大規模チームだと単独で合宿に行くこともあるそうだけど、費用対効果の面で合同合宿に行くのが主流だ。一人当たりの宿・交通機関の料金を抑えられるし、併走相手を確保しやすい。スケジュール上可能である限りは合同合宿に参加するのが普通で、こうして自分も今バスに揺られて伊豆半島の先端を目指している。
念のため、合宿用メニューは考案してきた。種類は2つ。アドマイヤベガ自身の自主性に任せたものと、
正直、彼女の自主性に任せた練習はやらせたくない。未だ本格的な指導に入れていない身で言うことではないが、期末試験後の練習を見ても、彼女自身の練習は身体を酷使しすぎている。モチベーションが高いという範疇を超え、もはや強迫観念に突き動かされているとしか考えられない。あれでは早晩に故障を起こし、競技生活はおろか日常生活や将来にも支障をきたすことになる。
だから、恐らく彼女が黙々と取り組むであろう持久走を、普段の練習量より短くなるようにルートを事前設定し、そこに短距離ダッシュを組み合わせたインターバル走と、脚の筋トレを混ぜたメニューを作った。持久走の距離については、走り慣れていない道ならバレないだろうという目論見込みだ。練習というのは、単に距離を走りこめば良いものではない。ちゃんと一つ一つ意味を理解しなければ成果に繋がらない。念のため、メニューの意味についても記載しておいた。
そして、もう一つは完全に俺が管理するもの。これに関しては、練習時に毎回指示を出して意味を理解させることになるからメニューの意味の記載はない。内容は、脚の筋トレ中心に短めのインターバルをひたすら繰り返し、休憩も頻繁に取らせるもの。スマートウォッチを装着させ、心拍数から
果たして彼女がどちらを選ぶか。できれば、俺の管理下での練習を選んで欲しい。
「一人で取り込むメニューと、俺が管理するメニューのどちらでもいい。選んでくれ」
両手にメニュー表を持ち、彼女に選択を問う。
「・・・少し、考えさせて」
伏し目がちに、そんなことを言ってから両方のメニュー表を受け取って、合宿所に入っていった。
合宿所は綺麗な木造建築で、大きな別荘のような作りだ。トレセン学園の資金力が伺える。バスから降ろした荷物を自分の部屋に放り込み、畳の上に寝転がる。い草の匂いが鼻孔いっぱいに広がる。ああ、温泉入りたい。
そういえば、ここ海近いんだっけ。府中に居ると海は見えない。海を見たのは、3月の卒業旅行でオーストラリアのグレートバリアリーフに行った時が最後だ。部屋を出て、合宿所も出て、展望台から海を眺める。眼下には、真っ白な砂浜。そして、どこまでも広がる青い太平洋の水平線。サークルのみんな元気にしているかな、なんてことを考えていると、背後から声を掛けられた。
「高村トレーナー・・・メニューのことだけど・・・」
どちらを選んだのか、返答しにきたようだ。
「私は・・・」
その姿からは、どちらにするべきか、自分の感情と、理性、どちらを優先するべきなのか、という葛藤が見えるような気がした。
「その、私は・・・・」
「・・・」
どちらが感情の答えで、どちらが理性の答えなのかは分からない。だが、答えは聞かなければならない。
数秒間答えを待ったが、彼女はなかなか口を開かない。
ここで自分の考えを押し付けても、ただでさえ希薄な信頼関係をさらに破壊するだけだと判断した。それなら、彼女の選択を尊重するほうが長期目線では最適だ。
「アドマイヤベガ。自分で選択してほしい。本番のレースになると、俺は口出しできない。ペース配分をどうするか、どうコース取りするか、どこで勝負を仕掛けるか。無数の選択の積み重ねがレースだ。それだけじゃない。その先の人生も、常に選択の繰り返しだ。他人に流されず、自分の頭で選択できないなら、一番にはなれない。俺の考えを探ってはだめだ。もちろん俺にも意見はある。だけど、最終的に選ぶのはアドマイヤベガ、君自身だ」
自分でも驚くほどすらすら言葉が出た。新任教師向けの信頼関係構築ガイドブックを読み込んでおいたおかげだ。
「・・・高村トレーナー」
「大丈夫だ。どちらの選択をしても、君の健康管理だけは責任を持つ」
「・・・じゃあ」
そう言って、彼女は一人でこなすメニューのほうを選択した。
―残念だが、やはりまだ信頼してもらえていないか。
一瞬だけ下を向き、彼女に向き合う。
「じゃあ、練習を始めよう。俺は熱中症予防の監視と、あとは君の練習のメモを取るくらいしかしない。準備するから、ちょっと待っててくれ」
真夏の伊豆半島の先端だ。ギラつく太陽、30度以上の気温と、90%越えの湿度が容赦なく襲う。熱中症を起こされたら、その責任は自分にあり、懲戒処分を受けることになる。だから、20分に一度は必ず休ませ、長距離持久走に出る際には冷えた電解補水液入りのペットボトルを持たせた。当然、一人で持久走には出さない。誰か併走できるやつを捕まえて、最低2人で行かせる。それを徹底した。それ以外には口を出さず、ひたすら見守り、メモを取るだけ。
ようやく、1日目が終わった。日没後のトレーニングは厳禁。暗く慣れない道で事故でも起こされてはかなわない。絶対に外に走りに出るな、と厳命し、入浴の後にようやく夕食の時間となった。
運動でカロリーを消費した
あまり彼女たちの方を見ないようにして同期のトレーナー陣で夕食を囲んだが、トレーナーに一人ウマが居たせいで、こっちにも怖い光景が広がっていた。
――お前運動してないのになんでそんなに食うの?・・・生徒と併走したのかな。そうであってほしい。
夜、合宿所から出て一人で海岸に向かった。星を見たかったのだ。せっかく期末試験前に天文図鑑を買ったのだし。砂浜に座り込み、波の音だけが響く中、図鑑を開いた。たしか、プラネタリウムで解説していたのは夏の大三角。空を見上げる。あった。あれが、デネブ、アルタイル、それと・・・。
満月が出ていた。満月の光に蹴散らされ、天の川は見えない。そして、海には満月の光が反射し、月と自分の間に一直線の道を描いていた。その美しさに、一瞬、目を奪われた。
「デネブ、アルタイル、ベガ」
後ろから、声がした。
振り返ると、アドマイヤベガがいた。大きな目が、こちらを見つめてくる。
「・・・星を見に来たの?」
「・・・・・・はい」
「・・・そうか」
担当生徒と夜の砂浜で天体観測。ロマンチックな響きだが、正直周囲から見たら怪しいはずだ。立ち上がり、気付かれないようにじわりと距離を取る。目を合わせるのもまずい気がする。
「今日のトレーニング、とてもやりやすかった。達成感もあって、前に進んでいる感じがあって・・・」
当然だ。そう感じるように組んだんだから。
「・・・そうか、良かった」
それ以上、何か言葉を交わすのも良くない気がした。
「・・・今日満月出てるから、あんまり星が見えないな。俺戻るよ。アドマイヤベガも、あんまり遅くならないように戻れよ」
そう言い残して、合宿所に続く階段を上っていった。階段の金属音が、砂浜に吸い込まれていくのが分かった。
結局、2泊3日全て、アドマイヤベガは一人での練習を選んだ。安心したのは、自分のメニューから逸脱することなく、指示を全て守ってくれたことだ。それができるなら、今の時点で文句は言うまい。
次話以降は育成ストーリー・RTTT・史実競馬・オリジナル展開の混成で完結まで続きます。