舌打ちをされたこと、相変わらず過剰な持久走をやめようとしないことに腹が立ったので、併走練習をさせることにした。持ち前の実力と、最低限の筋トレ・インターバルトレーニングで筋力は維持できているが、選抜レースで見せた精神的な危うさは最大の懸案事項でもある。本番レースでやらかしてしまえば、精神的なダメージは選抜レースとは比較にならないものになる。せいぜい練習で取り返しのつく程度にダメージを負えば良い。本番2か月半前というのもちょうど良い。ターフの独占使用枠の予約を済ませ、アドマイヤベガに声をかけた。
「来週誰か併走練習の相手連れてきてくれ。ターフ1周、2000mをやる。誰でもいいけど、君と走り方が近い子だとベストだ」
そうアドマイヤベガに伝えたところ、連れられてやってきたのは明るい茶髪の素直そうな感じの子だった。聞けば学級委員長だと言う。
「頑張りましょうね!」
とアドマイヤベガに朗らかに挨拶をしている。アドマイヤベガとは真逆な性格。正直、内向的なアドマイヤベガと仲が良いのが意外だ。
トレーナーの沖田氏に挨拶をし、今日の方針について伝達をすることにした。
「沖田さん、ご足労頂きありがとうございます」
そう言うと、
「いや、こっちもありがたい。俺も今は個人指導トレーナーだから、併走相手捕まえるの大変なんだ。チームだと併走相手も自給自足できるだろ」
その通りだ。大規模チームの強みは、長年のノウハウの蓄積や、練習相手の確保のしやすさにある。そこを補うため、本来はライバルである個人指導トレーナーや小規模チーム同士はよく連携して練習を行う。学園の日常風景だ。
「そうなんですよ。特にうちのは一人で練習したがるから大変で。・・・で、今日の方針なんですが」
そこまで言ってから、声を潜めた。アドマイヤベガたちに聞こえないようにするためだ。
「アドマイヤベガを徹底的にブロックしてください。とにかく前に出さないように」
そう伝えると、沖田トレーナーの顔がいたずらっ子のように輝いた。
「いいのか?お前さん、後で恨まれても知らないぞ」
「良いんですよ。恨まれても本番で勝てばそれで良い」
「はっはっは、その通りだ。わかった」
そして、彼は大声でナリタトップロードを呼びつけた。
「おーいトップロード、こっち来てくれ」
トップロードと呼ばれた彼女が、「はーい!」と素直そうな返事とともに沖田氏のもとに駆けよる。その後ろから、アドマイヤベガも俺の方に駆け寄ってきた。
「・・・どう走れば?」
アドマイヤベガが訊ねてくる。
「いつも通り走れ」
アドマイヤベガは無言のまま頷いた。
沖田氏の方を見ると、彼の
学園のターフには普段ゲートが無いから、スタート合図は沖田氏の声で代用する。ゴール板の前からスタートで、ナリタトップロードを内側、アドマイヤベガを外側の枠とした。記録のため、俺は
ターフ至近に居る沖田氏に手振りで準備完了を伝えると、彼は二人に向き直り、腕をまっすぐ上に伸ばした。その腕が振り下ろされた瞬間、二人が一気に駆け出す。二人の後ろに、微かに土が舞った。
まず先頭に立ったのはナリタトップロードだった。アドマイヤベガは、スタート直後はナリタトップロードの前に出ようとしたが、ナリタトップロードとの衝突を避けるために進路を譲らざるを得ず、一瞬減速してから後ろを追跡する形になる。そのままホームストレッチを抜け、まず第一コーナー。両者ともにインを走り、順位は変わらない。アドマイヤベガはなんとかインを突こうとするが、なかなかうまく隙間を見つけられない様子だ。
第二コーナーに入るころ、アドマイヤベガが今度は外側からナリタトップロードを抜かそうとしたのか、コースが大きく膨らむ。しかしナリタトップロードは後ろに目が付いているようにそれをしっかりブロックし、そのままバックストレッチへと突入した。
遥か遠くを、黒と茶の二人が流れるような速度で駆け抜けていく。アドマイヤベガが何度かナリタトップロードを抜かそうとコースを変更する様子が見えたが、やはりナリタトップロードが完全にブロックしている。相当な技量のようだ。
第三コーナーに入るころ、アドマイヤベガの横顔には疲労の色とも焦りともつかない表情が浮かんでいるようにも見えた。第四コーナーに入ると、はっきりとアトマイヤベガの顔が歪んでいる。ナリタトップロードは余裕の色で、既にアドマイヤベガとは1バ身ほどの差が付いている。ホームストレッチに戻り、最後の直線。両者ともゴール板へ向かって最後のスパートをかけるが、差は縮まらないどころか開いていき―
2バ身差ほどの距離で、二人はゴール板を通過した。
カメラの録画を停止し、階段を走って下る。沖田氏にタイムを訊ねた。
「130秒54、もう少し速いと思ったけどな」
ナリタトップロードのタイムだ。アドマイヤベガは最終的に2バ身差ほどついてのゴールだったから、+0.2秒ほどだろう。去年のエリカ賞の優勝タイムは124秒4。6秒差というタイム差は大きい。ただ、スタンドに戻ってきたナリタトップロードは余力を残している。まだタイムが伸びる余地があるということだ。一方のアドマイヤベガは、疲労困憊だ。勝敗は、火を見るより明らかだった。
その日のトレーニングはそれで終了とし、敗因分析をトレーナー室で行うことにした。併走練習の動画を業務用チャットで沖田トレーナーに送信し終わったころ、アドマイヤベガがトレーナー室に入ってきた。シャワーを浴びて制服に着替えた彼女は、目が赤いような気がした。おそらく悔しくて泣いたのかも知れない。見て見ぬふりをして、会議用デスクに座らせた。
「なんで負けたか分かる?」
アドマイヤベガは、しばらく沈黙した後にようやく口を開いた。
「・・・ずっとブロックされていたから」
「そうだな。でも本質はそこじゃない。完全に君の弱みが出た負け方だ。・・・ブロックは俺の依頼だ」
そう言うと、アドマイヤベガがこちらをキッとにらむ。
「・・・卑怯!」
想定していた反応だ。大きな声が、開け放していたドアから廊下へと反響していく。
取り合うこともなく話を続ける。
「卑怯だろうがなんだろうが負けは負けだ。本番はもっと大人数でやるから、あんなものじゃないぞ。選抜レースで分かっているだろ」
アドマイヤベガが、こちらに冷たい目線を送って来る。意に介さず、業務用PCと大型モニタをHDMIケーブルで接続し、撮影した動画を再生する。一点一点敗因を指摘していく。
「・・・まずスタート。ナリタトップロードの先行を許したのは、明らかに脚の筋力不足だ。筋トレ不足と、長距離持久走偏重の結果だな。そして、ここでカーブを見越してインに入ろうとした時にナリタトップロードと衝突しそうになって、結局進路を譲る形になっているだろ。だから最初の時点でもう負けが確定していたんだ。インがだめなら、そのまま直線で駆けて意地でもカーブまで先行を許してはダメなんだよ。体力を温存して一時的な先行を許す場合でも、減速は禁じ手だ」
アドマイヤベガは不満げな表情だ。構わず続ける。動画を第一コーナーまでスキップする。
「次に、第一コーナー。ここでインから抜くことにこだわったのは判断ミスだ。ナリタトップロードを抜かすのなら、大外に出て加速するべきだった。それか、体力を温存して後半で勝負するという手もある。戦略眼の不足がここでもミスを誘発している」
「・・・」
「そして、第二コーナー。ここで初めて外に膨らんだな。最初は抜かすために外に出たと思っていたけど、これは遠心力に負けただけだな。証拠に上体が外側に振られている。体幹と脚の筋力が不足している証拠だ」
痛い所を突かれたのだろう。アドマイヤベガの耳がどんどん後ろを向く。
「ここで君のフォームを見ると、脚の動きがストライド走法からピッチ走法に切り替わっている。高速走行に特化した骨格構造と長い脚からくる大股のストライド走法が君たちウマの特徴だけど、ナリタトップロードのブロックでストライドを完全に封じられている。ピッチ走法は加減速やカーブに有利な走法だから中盤の、それも直線で使うものじゃないし、しかも体力を消耗する。だから既にここでバテ始めている」
アドマイヤベガは、不機嫌そうな表情で画面をじっと見つめている。話は真面目に聞いてくれているようではある。
「そして第三コーナーに入る時点で、既に君は息切れを起こしている。上体が起きて、脚も
そこまで言って、アドマイヤベガの顔にやや真剣な色が見え始める。
「最後の直線、ここでナリタトップロードは一気にスパートをかけた。君も負けじとスパートをかけたけど、上体が起きていたうえに体幹が弱いから、ヒールストライク走法からフォアフット走法への切り替えが遅れた。ナリタトップロードを見ろ。見事な前傾姿勢とフォアフットだ。結果として2バ身もの差をつけられた。アドマイヤベガの完敗だ」
アドマイヤベガの表情は固まっている。ようやく、自分の弱みを理解したようだ。ここまで事実を突きつけられると、反論の隙もないらしい。少しスッとした。ついでに、数式を使ってコース取りの理屈を教えることにした。
「遠心力の定義式知ってるか?物理でもうやった?」
アドマイヤベガは、無言のまま首を横に振った。
「そうか、高1ではまだだっけ。じゃあホワイトボードで説明するから見てくれ」
そう言い、ホワイトボードに遠心力の定義式を書き込む。
$$ F = \frac{mv^{2}}{r}$$
「Fが遠心力の大きさ、mが質量・・・この場合は君の体重だな。vは速度、rが曲線の半径だ。理解したか?」
そう問うと、アドマイヤベガは頷きながら答えた。
「はい」
「理解が早くて助かる。頭いいな。この式からは、速度が2倍になれば遠心力は4倍になること、半径が2倍になると遠心力は半分になることが分かる」
アドマイヤベガの反応を伺う。とりあえず、数式は理解できているようだ。
「君らの速度は時速60〜70kmくらいで、コーナー半径は180mだ。だから遠心力の大きさは重力の約0.15〜0.2倍だ。そして、半径180mに対してせいぜい1~2m程度外に膨らんでも遠心力はほぼ変わらない。だけど、1m外に膨らむと走行距離には一周で6.28mの差が生まれる」
「・・・つまり、体幹が弱いと、インを減速して走るか、外側で余計な距離を走るしかないってこと?」
やはり、地頭は良いようだ。
「その通り。相手との速度が同じなら6.28mがそのまま差になる。その差を埋めるためには加速が必要だけど、君は持久走ばかりやっていたから筋力不足で加速できず、差を詰められなかった。仮に加速できても、遠心力は速度の二乗で効いてくるからやはり体幹が弱いとさらに外に振り出される」
アドマイヤベガの顔に苦々しそうな表情が浮かんでくる。自分の未熟さを思い知らされたような顔だ。狙い通りでもある。良い薬になったはずだ。
「だから持久走じゃなくてインターバルと筋トレも取り入れて筋力をつけないとだめなんだ。今日はこれでトレーニングお終いにするから、あとは休むか、適切な自主トレをするかだな。どちらにするかは任せる」
『適切な』というところに力を込めて、アドマイヤベガに伝えた。PCを閉じようと、動画再生ソフトを終了させたとき、アドマイヤベガの目がモニターにくぎ付けになった。自分もモニターに目線を向けると、そこにはPCの壁紙に設定していた星空の写真が映されていた。3月の卒業旅行で、オーストラリアで撮影したものだ。
「・・・みなみじゅうじ座?・・・コールサック、ニセ十字と、大マゼラン雲も」
「・・・よく知ってんね。3月に、大学の卒業旅行でオーストラリアに行ったときに撮った写真なんだ」
みなみじゅうじ座を狙って撮影した写真だが、他にも彼女の興味を引く天体がいくつか映り込んでいたらしい。アドマイヤベガの顔を見ると、食い入るようにモニターを見つめていた。その顔は、6月の選抜レース前、夜間にもかかわらず過酷な自主練に身を投じていた時の顔に、よく似ていた。
「・・・写真要るか?要るなら、あとでMembersで送っておく」
「・・・えっ良いんですか。じゃあ・・・はい」
アドマイヤベガが退室したあと、業務用チャットアプリ"Members"を立ち上げた。普段彼女とのトレーニング関連の連絡を行っている個人チャットに写真を投稿し、すぐにパソコンの電源を切った。最近は夜遅くまでトレーニングに付き添っていたから、たまには早く退勤したいと考えたのだ。時計を見ると、まだ15時29分だった。
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