カツカツと歩く音だけが冷たい夜に響く。男はようやく仕事を終え帰路についていた。暑い時が過ぎ去り、涼しくなってきたと喜んだのも束の間、油断すればもうこんなにも寒い夜がやってくるのだ。夜遅いこの時間から音は消え去り、寒さと相まってまるで世界には己だけが取り残されてしまったのではないか、なんてセンチメンタルな事を考えてしまうが、今の男には帰りを待つ少女がいる。気まぐれで、突然突飛な事をする。そういうものを世間では天真爛漫と呼ぶのだろうか?
男にとって世間とは自らのテリトリーで起こる事が全てであり、それ以外の事を端に追いやってしまうのだ。そんな生活を続ければ一般常識的な物事に疎くなるのも仕方がなかった。
「……ふふ」
白い息と共に笑みが溢れる。だが、そんな今を男は悪くないと思っていた。少なくとも、帰って飯を喰らい、ただ寝るだけの空間だった乾いた家に温もりが宿ったのは、間違いなく彼女のお陰だ。出会いもきっかけも、突飛で、誰かに話したところで鼻で一蹴されるようなものだったが、これも悪くないと男は帰宅する。
「ただいまー……」
かつては言うこともなかった一言を告げながら家の扉を開け、普段と違う事に気がついた。こうして帰れば、玄関にシービーが迎えてくれていたのだが……今日はその気配がない。もう寝てしまったのだろうか?靴を脱ぎ、ネクタイを緩めながら家の奥へ足を運べば、シービーはこちらに気がついていない。ソファで体育座りのままテレビに映る映像に目を釘付けにされていた。
「シービー……?」
何事かと男もテレビに目を向ける。そこに映っていたのは、競馬だ。熱狂的なアナウンサーの実況と共に沢山の馬が走る、あの映像。
「いた……」
目を見開きその映像を食い入る様に見つめるシービーの口から漏れる声には、様々な感情があった。
「分からないけど、アタシはここにいたんだ」
そう言うシービーは混乱しているようで、自らの感情がどんな色をしているか掴みかねているようにも思えた。
「シービー?」
男はどうかしたのかと、夢中になっているシービーの肩を揺らして、ようやくその目がこちらに向いた。
「あ……おかえり」
「ただいま。どうしたんだ?」
勤めて冷静に、男は穏やかに尋ねた。何やら彼女にとって大事な何かである事を察して。
「……うーん」
尋ねられたシービーは、心の中で暴れそうになる感情がどんなものであるかを噛み砕こうとする。そうして数分悩んだ末に言った。
「アタシ、ここで走りたい」
そう言って、映像の中で走る馬に目を向けたのだ。
「そうか」
きっと、葛藤があったはずだ。シービーもこの世界で生活してそれなりの時間があった。自分が無理を言っているのも分かっていたはずだ。だが、それでも我儘を言ってくれた事が男は嬉しかった。シービーは気まぐれだが、よく気が利く。こちらの負担になるような事をあまり言わなかった。利口かもしれないが、男はもっと我儘になって欲しかったのだ。
そんな彼女の、初めての我儘を聞いてやらない理由が男にはなかった。
「誰かに呼ばれてるんだ……アタシの魂が、あそこで走りたいって叫んでる」
故に、男が返す返事は決まっている。
「任せろ」
「はぁ……」
シービーには、カッコよく言ったが前途は多難だ。男は一企業のサラリーマンである。競馬なんて関わったこともない。しかしああ言った手前、やっぱできなかった、なんて言うのは無しだ。
仕事場でパソコンを弄りながらウンウンと唸り考えるも、やはり良い考えが浮かぶことはなかった。
「おいおい、どうしたんだ?」
そんな男の様子を見かねたのだろう。隣で同じく仕事に従事する同僚が声を掛けてきた。横に目を向ければ、だらしのないヘラっとした顔がそこにあった。
「いや、少しな……」
このまま1人で悩んでいても解決法は生まれない。ならばいっそ隣のコイツも巻き込むか、と雑に切り捨てて男は、隠せる部分は隠して事の顛末を話し、どうすればいいかと尋ねてみた。
「んー?妙な事考えてんなぁ」
顎の青ヒゲを撫でながら同僚は考え、言った。
「俺も競馬はよくわからん。だけどよ、ここだけの話」
周りが聞いていないかを確認してから同僚は声を潜める。気のおけない同僚だが、噂話が好きな男だ。きっとその類の話だろう。
「そんな顔すんなよ、いいか?うちの社長は動物好きなんだ。もしかしたらそのスジとも伝手があるんじゃねぇか?」
ほら、馬って大金がいるみたいだし、それこそ企業の社長とかがやってそうじゃん?と。それを聞いて男は確かに一理あると思った。何もないよりマシくらいの情報ではあるが、相談してみるだけの価値はあるかもしれない。