どこまでも跳べると思っていた。そう信じて疑わなかった。周りの目なんて気にもせずに跳び続けた。
だからこそ、気付いてしまった視線怖くて仕方がなかった。
同情、嘲笑、憐憫。どの視線も、罅だらけの心を砕くには十分過ぎた。
だから逃げて、目を逸らして、俺の全てだった“これまで”を捨てた。
夢も、希望も、将来も、全部忘れてしまえと目を閉じた。
そんな時に父さんの転勤が決まって、やり直すチャンスなんだって、引き留めようとする母さんと妹を振り切ってこっちに引っ越してきた。
男二人暮らし。慣れない家事に最初は苦戦したけど、それも三日もすれば要領を掴める。
そして迎えた編入試験。受けたのは、家から一番近かった私立校。正直、勉強はてんでダメだし試験も一切自信が無かったから、今でもなんで受かったのか訳がわからない。
でもまぁ、受かったのだからそれで良い。
俺は──僕は、もう驕ったりはしない。
身の丈を理解したのだから、それにあった日々を送れるように努力する。目立たず、騒がず、平々凡々な一学生として、今はまだ暗くて先の見えない将来と向き合っていく。そう決意した。
今日は編入初日。皺一つないシャツに、いつものパーカー、まだ生地の硬いブレザーを羽織って姿見の前に立つ。
「変なところは無いし、寝癖もついてない。うん、どっからどう見てもただの高校生だね」
やっぱり僕、学ランよりブレザーの方が似合ってる。あとで自撮りして家族LINEに載せよっと。
ちょっと近付いて、顔の角度を変えてみたりして、弛む頬を両手で揉みほぐしていると、姿見に映る壁掛け時計に目が止まる。
「8時50分。わぁー、けっこう時間経つのは、や…ぃ…?」
ん? あれ? 入学式が始まるの、9時からだったよね?
家から学校まで、歩いたら30分くらい掛かるよね?
…おっ? んん〜?
「初日から遅刻確定!?」
姿見の前でポージングなんてしている場合じゃ無い!
文房具なりを詰め込んだリュックを椅子からひったくり、転びそうになりながら玄関へと駆け出す。
履き慣れないローファーに苦戦しながら扉を開くと、雲一つない青空に桜の花弁が舞い上がっていく。
「ひひっ、なんだか良い事ある気がする!」
こうして僕は、新生活に心を躍らせながら桜並木を駆け出した。
──まさか、僕の願いが何もかも叶わないだなんて、この時は微塵も想像していなかった。
「やっぱり始まってるよねぇ…」
乱れた呼吸を整えながら、講堂前のベンチに腰を降ろして青空を見上げる。
閉じられた扉の先からはマイク越し特有の振動混じりな声が聞こえていて、扉を開く勇気を僕は持ち合わせては居なかった。
時刻は9時10分。通学路にある信号機の全てに捕まったにしては早く着いたと思ったが、そもそも遅刻確定な時点で急いだとて無駄だった。
「にしても、本当に広いなぁ。ここ」
中学校、高等学校、専門大学が一体となった私立校。それがここ、初星学園。
この学園は国内最大級のアイドル養成校として知られており、数々のトップアイドルがこの学園から排出され、多くのメディアで活躍している。
ここでの成功は将来の確約とも言われ、アイドルを志す少年少女達からすれば夢を間近で見られる最高の舞台。
なら僕もアイドルになりたくてこの学園に来たのかって?
いいや、顔には自信あるけどアイドルになりたいだなんて一度も思った事無いし、今後も思うことは無いと思う。
ならどうしてかと問われると、単純に家から近かったから。アイドル養成校として有名だが、そういった事に一切関係の無い普通科がある。そして僕は、その普通科に3年生として編入する。
「ほんと、2度目の3年はしっかりやらなきゃなぁ…」
訳あって保健室登校になり、それすらしなくなり、素行も悪くなって…家族には迷惑を掛け過ぎた。
これからの学園生活では家族にも周りにも迷惑を掛けず、出来るだけ目立たず平穏な日々を送りたい。あと、友だち欲しい。前は居なかったから、切実に…
だってのに、初日から遅刻しているお馬鹿さんが居るそうです。どこですかね?
「はい、ここですねー…。なんばしよーとね…」
初日から遅刻、これが目立たない訳が無い。きっと先生には怒られるし、周囲からは“三年生にもなって編入初日に遅刻する間抜け”と笑われ、距離を置かれるに決まっている。
ドラ◯も〜ん、なんか道具出してよ〜! なんて叫んだ所で某ネコ型ロボットは実在しないし、居たとしてもの◯太くんのお世話で忙しいだろうけど。
せめて遅刻仲間とか居たら、講堂に入る勇気も沸くのに。赤信号みんなで渡れば怖く無いってやつ。だけど、都合よく遅刻仲間が居るわけ…
「す、すみませ〜〜〜んっ!」
居たよ、遅刻仲間。
視線の先にはピンクのカーディガンを着た少女の姿。
彼女はもの凄い勢いで僕の前に駆けて来て、慌てた様子で声を張る。
「入学式って、もう始まっちゃってますか!?」
2横指ぶんくらいまで近付けられた顔、柔軟剤と思われる甘い香り、息を整えようと肩で息をする度に頬を吐息が撫でてくる。
「…ぇ、あー…うん。時間通りに始まったなら、今は中盤くらいじゃないかな?」
初対面なのに、恋人並みの距離感。呆気に取られて反応が遅れた。
というか顔近っ! まつ毛なっが! すげぇ良い匂いするし、胸元に柔らかい感触が押し当てられてて…って駄目だろこの距離!
「うひゃ〜、入学式当日から大遅刻! 失敗したぁ〜! どうやって合流しよう〜!」
少女がこめかみを抑えて唸り始めた隙に一歩後ろに下がって距離を取る。パーソナルスペース、大事。
一度深呼吸して、視線を目の前の少女に向ける。
肩に掛かるくらいの明るい茶髪に頭頂部の浮き毛と右耳あたりで作られたお団子、毛先が明るいのは所謂毛先カラーという物だろうか。背丈は160cmくらいで新入生、高校一年生だと仮定すれば年相応の幼さを残した顔立ちに、年不相応の恵まれたプロポーション。
それ以上に、こちらを見つめる淡いオレンジの瞳が印象的な女の子。
気付けば、見つめ合っていた。異性の、それも初対面の相手だと言うのに身体をジロジロと見てしまっていた事に申し訳なさや気まずさが湧いて来て、顔ごと視線を横に逸らす。
すると彼女は視線の先に回り込んで来て、また顔を近付けてくる。いや、なんで?
「もしかして、貴方も遅刻ですか?」
「…まぁ、ね。時間見てなくて、気が付いたら遅刻確定してた」
「そっか〜、ならあたしと一緒ですね!」
新しい制服にテンションが上がっちゃって。そう言いながら、彼女は頬を掻きながら苦笑いを浮かべる。
なんて返せば良いのかわからず、かと言って無視するのも失礼なので、そっかと一言。すると彼女は満足そうに笑みを浮かべて、次に何かに気付いたのかハッとして一歩下がる。
「申し遅れましたっ! あたし、アイドル科の新入生で
少しうるさいくらいの元気な声で、花開くような可憐な笑顔で、握手を求めるように手を差し伸ばしながら彼女の自己紹介が終わる。
その手を取るべきかと中途半端に持ち上げた僕の右手を、佑芽の両手が包んで持ち上げた。
「お名前、聞いても良いですか!?」
ちょーい? きみぃ、アイドル志望なら異性との距離感は気を付けなさーい? 手繋ぎガチ恋距離とか論外ですわよ?
まぁ良いですわ。えーっと、名前? 名前ね…
「…うさぎ」
「えっ?」
「…名前。
自己紹介、検索ワードかよって? うっさいなぁ、自分でも思ってるよ! でも仕方ないじゃん、家族以外と話すの久しぶりなんだもん…。
ちなみに。嘘だと思われるかも知れないが、名乗った名前は本名である。
名前の由来は、祖母譲りな白い髪に、赤にも見えるアンバーの瞳が兎っぽかったから。要するに、見た目で決められたのだ。
子供の将来を祈ってだとか、こうあって欲しいだとか、そんな想いは一切無く、本当に見た目だけで決めたらしい。第一子の名付けがそんないい加減なもので良いのかとも思うけれど、そんな所が両親らしいし、僕自身気に入っているので不満は無い。
ついでに、妹の名前はことり。うちの両親は小動物が好きらしい。実際どうかは知らないし興味も無いけど。
「〜っ! はいっ! よろしくお願いしますっ、兎さんっ!」
「い゛っ!?」
不意の痛みに、迷走していた思考が引き戻される。放棄していた視界にはもはや彼女の顔以外に何も映っておらず、互いの鼻と鼻がぶつかっている状態に気が付き顔が一気に熱帯びる。
「その、花海…手ぇ痛い…」
「え? あっ、ごめんなさい!」
首の裏側の筋が伸ばされて痛いくらいに頭を後ろに引きながら、反対の手で佑芽の手を何度かタップ。握り潰されている僕の手に気付いた佑芽はあわあわと目を回しながら両手の力を緩める。
「これくらいなら、大丈夫ですか?」
「あー、うん、平気」
離してはくれないんだね。別に嫌って訳じゃ無いけど、そんな感触を確かめるみたいににぎにぎされるとどう反応すれば良いのかわからないよ…。
というか、この娘の距離感ほんっとうにおかしいよね!? 今までで絶対クラスの男子とか勘違いさせまくってたでしょ? そんでアタックしたら苦笑いしながらそんなつもり無かったとか言ってくるタイプだ!
「…って、あーっ! そう言えばお姉ちゃんの挨拶、もう始まっちゃうかも!」
「お姉ちゃんの挨拶って事は…もしかして生徒会長だったり?」
「いえ、新入生代表なんです! お姉ちゃん、主席で合格したんですよ〜!」
「それは凄いね」
「はい! 自慢のお姉ちゃんです!」
お姉ちゃんで新入生代表って事は、双子なのかな? 花海は外部受験っぽいし、たしか外部受験だと勉強面もだけどアイドルとしての適性も相当求められるって聞いたし、その中で主席と言うのはとても凄いのだろう。
まぁ僕は一般科だし、花海と別れたら今後アイドル科の生徒と関わる機会なんて無いだろうから関係のない話だけど。
「まだ間に合うかもっ! 兎さん、早く行きましょう!」
「へっ? あっ、ちょぉ!?」
ぐいっと繋いだままの手を引かれて、引き摺られないように慌てて脚を動かす。
困惑しながら視線を前に向けると、花海のオレンジ色の毛先がキラキラと輝いていて、急げぇ〜!なんて馬鹿っぽい叫び声が変に心地良くて、自分でもなんで怒ったり距離を取ろうとしないのかが不思議だった。
花吹雪を中を2人で思いっきり走って、気がつけば講堂に続く大きな扉の前。
ここで呆けていた思考が現実に引き戻されて、今から花海がとるであろう行動に背筋が冷たくなる。
「花海、ちょっと待って!」
「ほえ?」
──バンッ!
想像以上に勢いよく開いた扉が立てた爆音に元凶である花海すら肩をびくんと跳ねさせ驚き固まる。
未だに木霊する破裂音。集まる視線、息が詰まるような雰囲気。
突然トラウマそのものを叩き付けられて、思わず手から伝わる温かな感触に縋ってしまう。
「ぅ、兎さん、ちょっと痛いです…」
「ぇっ…。ぁ、ご、ごめ…」
今度は僕の方が力を込め過ぎた。花海の苦々しい声に思考が引き戻されて、慌てて掌を思いっきり広げる。だけど花海はこれでも手を離すつもりは無いみたいで、離さないの?と目で訴えても首を傾げてえへへと笑って見せる。
なんも伝わってないけど、可愛いからいっか。
そんな風に刺さる視線と重い空気から思考を逸らしていると、マイク越し特有のエコー掛かった声が講堂に響く。
『なっ…、なぁっ…、なぁあぁぁ──ーあぁっ!?』
ここで初めて講堂内に目を向ける。先ほどまで向けられていた視線も今は声の主へと向けられていて、周囲の視線を伝うと壇上の上の少女と視線が重なる。
ワナワナと震えながらこちらを指差して、頬を赤ながらも驚愕を顔いっぱいに貼り付けた小柄な少女。
「あっ、お姉ちゃんだ! お〜いっ!」
んな元気に手ぇ振っていい空気じゃねぇだろ花海ぃ…! お姉さんめちゃこっち睨んでんじゃん、主に僕を! そんな仇を見るような視線向けられる覚えないよ!?
『うっ、佑芽ぇ!? 誰よ、その男はぁあ──ーあぁっ!?』
こうして、僕の学園生活は最悪な形で幕を上げた。