グッドトリップ 作:平成
背を預けた椅子が錆びついた音を鳴らす。自分の背骨が軋んだ錯覚。長時間座っていたせいだな。
眉間をもみほぐす。疲れた目は、体積を膨張させるような熱を主張していた。
人相の悪い顔が、澱んだ瞳でオレを見ている。というかPC画面を死んだ顔で睨めっこするオレだった。にーらめっこしましょ、ファック・アップ。
時刻は23時。オフィスにはオレだけが取り残されている。寂しい。後輩はおろか上司も全員とっくに帰宅済みである。生きている人、いますか。いません。
企画職とエンジニアなんて兼任するもんじゃない。労働量が限界突破すっぞ!
「あとは打ち合わせ準備の資料だけ……いや、流石にこれは明日に回そう」
ぶつぶつと言葉を転がす。聞いている人がいないから、オフィスにやたらと反響する。
あー、虚しい。
液晶に表示された成果物をクラウドに上げ、メールを最終チェック。
げ、デザイナーから返信きてる。
内容によっては修正依頼出さなきゃ。
……あー、ちょっと企画段階と異なるデザインになっているな。仕方ないけど。書類上で伝えきれない仕様は、仮のデザイン案から徐々に推敲依頼をしていくしかない。
「ええ、と……製品の表示と文字のバランスをずらしてください、と」
チーム内のチャットにメッセージが行き交う。
キーボードに指を滑らす。入社当時はブラインドタッチなどできなかったけど、今では高級コースも難なくこなせるほどだ。*1
何度かのやり取りを経て、デザイナーの『では、修正分は3時間後にアップします!』の文字で決着。口がひきつく。チャット越しの彼女は残念ながら正気である。フリーランスに
やめだ。両手を挙げて卑屈に笑う。
「……もう終電過ぎちゃってるなー」
3駅先の自宅まで帰宅する気力はとっくに失せている。
勤怠を入力しながら、ボケーッとスマホを開いた。
溜まった通知欄。ほとんど動かないグループが今日はやたらと稼働している。
「同窓会かぁ。みんな元気そうだな」
グループにアップされたアルバムを見やる。
妙な気分だ。中学時代のクラスメイトが、酒の席を囲っている。あの頃の彼らと、現在の姿とが結びつかない感じ。
口が寂しくなって水を呷った。喉の渇きは治らない。むしゃくしゃする。
「老けたなぁ。酒なんか飲んでるし」
盛り上げ役だった彼。スポーツ万能なアイツ。女王的にクラスの実権を握っていた彼女。密かに想っていたあの子。悪友。なんとなしに、全員の薬指を確認してしまう。
結婚してる奴が一人、二人、三人……うわー、やばぁ。会社内だけじゃなくってライフステージ上でも取り残されるのぉ?
「彼女作らないとなぁ、でも仕事忙しいし転職からかなぁ」
スマホで転職サイトを徘徊する。
情報が頭に入っては抜けていく。
途端、迷路に踏み入った気分で項垂れてうなった。全部すぐには解決できない。
とんだ無理ゲーにハマっている。ドツボってやつだ。
まともに恋愛していれば、違う職業を選んでいれば。
たらればがいくつも泡みたいに浮かんでくる。
日々の疲労が増すごとに郷愁は強まる。
プレイリストは学生時代一色で、見るコンテンツの最新はほとんど廃れたものばかり。ずっと英雄学園ばっかり読んでるな。
後悔をやり直したい。
もう一度。あの時代に。
眼球が熱を持った。
視界に入ってくる文字体が脳に分解される。
ぐらり。
腹の中が気持ち悪い。
「なん、これ……!」
意識がぼやける。
現実が遠い。どこか、霧に包まれているような感覚。
鼓動がやけに響く。
心不全、脳卒中、過労死──
不吉な単語がめぐる。
「救急……車、ぁ」
スマホの光。
オフィスの照明。
光が目に痛い。
痛い! 痛い!
情報体が眼球の奥で結びつく。
瞼の裏。
思い出の景色がパノラマ上に捲られていく。
「走馬灯……?」
冗談じゃない!!
まだオレ、結婚もしてないのに!!
パニックになる感情とは裏腹に、脳は海馬を冷静に刺激する。
洗濯機の中にぶち込まれた気分だ……!!
高速化する景色。
切り替わっていく情景。
無制御に。無秩序に。
ほとんど、学生の頃。
カオスに演出された一生は、泣きたくなるくらい悔恨に塗れていた。
ちくしょう、オレってほんとちっぽけな人生だ。
「あぁ、もう一度、だけ……」
歪んだ視界。シャッター音。
焦点が脈絡なく引き結ばれる。
オレは、椅子ごと床に倒れていた。
痛みと鼓動が、全身に行き渡った。
「あれ……」
呆然と息を乱す。
顎を伝うよだれ。
嗚咽さえしながら、痛む体を起こす。
背を折り畳み、チカチカとした視界に目をこらす。
倒れた椅子のキャスターが回転している。
全身には、高所から墜落したみたいな痺れ。麻痺した感覚の中で、必死に胸を上下させる。
床、硬い……! 硬い、ありがとう……!
「し、死ぬかと思ったぁ!」
「デッけえ声出すんじゃねぇ!」
ドン! とドアが叩かれた。
え……?
目を白黒とさせながら、体を起こす。
なんだ? 誰の声だ?
「え、あ? なんだ?」
混乱の坩堝の中で、視界はしっかりと情報を伝えてくる。
見上げた天井。
見慣れた木目。
思春期真っ盛りで趣味が悪い壁紙。
小学生の頃から愛用していた勉強机。
本棚の上段。ブックカバーで擬態させた秘蔵本。
「ここ、実家……?」
荒げた息。肺に溜まってくる懐かしい空気。
汗がじっとりと滲んだ手で目を擦る。
オフィスなワケがない。
間違いない。気を失ったと思ったら、実家の自室に倒れ伏していたのだ。
「会社で気を失ってから帰省するまでの記憶が抜け落ちてるのか……?」
わからない、けど。
それなら説明はつく……はず。
寝汗で肌に張り付いた服を脱ぎ捨て、勝手知ったるクローゼットから服を取り出す。
「このTシャツ、まだ残ってたのか。とっくに捨てたはずだけど」
変なの。サイズ合わなくなったから捨てたのに。
お、ジャストフィット。なんだ、わざわざ新しく揃えたのか。
階下に降りると、都内の喧騒とはかけ離れた食卓の喧騒が耳を打つ。
まな板を叩く規則的なリズム。
なんだか安心する。さっき死にかけていただけに、いつもの帰省よりも胸が軽くなる。
「なぁー、オレのスマホみてない?」
「ようやく起きたの! 何その格好、今日は月曜日よ! 早く学校の準備なさい!」
「待ってくれお袋、まだ寝ぼけてるみたいで」
「何、お袋だなんて。イメチェンって感じ?」
「いやだって、学校なんていうから。スマホどこだよもー」
「休日気分が抜けてないのね! 受験控えてるんだから、学校サボるんじゃないの!」
「え……?」
いよいよわからない。食卓に置かれたトーストを頬張り、首をひねる。
キッチンで忙しなく弁当を作っているお袋の背中を見やった。
本気なのか冗談なのかどうかも判別できない。
……と。
違和感。なんだ?
視界にひっかかるものが多い。不自然だ。
旧式のテレビ。真新しく感じるダイニングテーブル。
15年近く使っているはずの食器だってピカピカだ。
あーくそ。スマホここにもないのかよ。ベッドにもなかったぞ。業務連絡溜まってたら後で厄介だぞ。
「お袋ーテレビ替えてなかったっけ。ほら、2年前だかに4Kとか不相応なものあつらえてたろ? またこんな古いのに戻したわけ?」
「何言ってるのっ! 早くご飯食べないと遅刻よ遅刻!」
「へいー。まあ、今から職場に向かったって間に合いやしませんがねー」
手持ち無沙汰だ。スマホで状況を確認したいのに。
トーストをサクサクと頬張る。気分はうさぎだ。
テレビのリモコンを操作し、電源をつける。お、懐かしい情報番組だ。星座占いってどう考えるんだろ。絶対乙女座あたりでネタが尽きるだろ。
「おい、まだそんな格好してるのか。早く制服に着替えろ」
「わかってるって…………え?」
聞き流そうとして、できなかった。
許されない、そんなの。
耳朶を撫でる低い響き。
何度、もう一度聞きたいと願ったか。
何度、孝行できなかった恩知らずを悔いたか。
「親父……?」
「父さんと呼ばんか、間抜け顔」
「ちょっと
親父は、なんでもないツラをしてリビングにいた。
呆然と立ち上がる。
ありえない。
親父は、
幽霊だ。
ふらついた手が、親父の肩に触れる。
「……どうした、おい」
「親父、どこも痛くないのか?」
「はあ? 何を言ってるんだ?」
「癌で、苦しいってずっと……もう、どこも痛くないんだな?」
親父との最新の記憶。最期の会話。
病室で看取ったあの日。苦悶のまま旅立った親父の姿が、目の前にいる幽霊と重なる。
悔恨が波濤の勢いで押し寄せてくる。
「本当に、親父なんだな? どこも痛くないんだよな」
「お前ちょっとおかしいぞ。なんだ、学校をサボりたいのか?」
「わからねえ、夢だよな、夢……! 夢サイコー……!」
制御できない。
歓喜と恐怖。
滂沱の涙が頬を垂れ流れる。
狼狽える親父もそっちのけで、伝えたいことが喉の奥から出てくる。
「オレ、あれから更生したんだよ……腐って蓋してたけど、しっかり大学行って卒業までして……結局ブラック企業に入っちまったけど、世の中の役に立つ人間になってさ……」
「そうか、ジュリは悪い夢を見ていたみたいだな、ハハハ」
「なあ、肩凝ってないか? 酒、一緒に飲みてえよ、オレ」
「か、母さん……! ジュリの思春期が全てのピークを過ぎた気分がするぞ……!」
「なんだかわからないけど、今が人生の瞬間最大風速ね……!」
「バカモン! まだコイツの花婿姿があるだろ!」
「うっせえ……ホームビデオ回すんじゃねえよクソ……! クソスマホどこだよクソが……!」
死別した親父との再会。こんなの、あの世でしか叶わないと思っていた。
だったらここがあの世ってこと? わからねー!
でも一つ。確信めいた感情が訪れる。
これが夢なら、醒めないままでいてほしい。
それから、半年後。
夢はまだ続いていた。現実の地平で、何食わぬ顔で。
タイムリープ、とネット検索は告げていた。
現代を生きていた人間が、意識の連続性を保ったまま過去や未来へと移動する現象。
有名どころでは『時をかける少女』
ようするに、創作物の類い。
なぜ、29歳のオレが中学三年生に戻ったのか。原因は不明だが、結果で過程を推察するしかなかった。
後悔のまま倒れたオレは、時間旅行を経験したのだ。正しくは、経験している。進行形である。
今日は分岐点。
彩南高校を受験する、その日がきたのだ。
平成どこだよー!!!!!!!!!!!