グッドトリップ 作:平成
あぁ、『元』でしたね
タイムリープから半年と二週間。入学して二週間。
オレは、ベンチプレスのMAX重量100キロオーバーを成し遂げた。確実に伸びる記録を実感し、日々の充実に胸を躍らせていたし胸を追い込んでもいた。若い体はいいね、限界を感じない。
ベンチプレスを100キロあげられるようになると、どんな人間だろうと殺められるという自負が根付く。常人では身につかない肉体を手に入れた自信と、凶器を手にしてしまった道徳的な恐怖。マッチョという生命体は、その背反した心理に苦しみながらジムへと誘われるのだ。
肉体の成長は順調。
だが、オレはいまだに学友の一人も作れていなかった。*1
体が仕上がるごとに、威圧感も増しているのだろう。
リンゴは壊せても……たったひとりの人間に話しかけることはできないようだな……
謹慎明けの月曜日。
オレは洗われた気持ちだった。御門先生との日々に思わぬ効果が現れたのか、自信に満ちている。ジムの常連の方々に「いい具合にパンプしてるぜ」と送り出されたオレは、通学路をウキウキで歩いていた。
「み、見ろよアレ……! 死神だ……!」「なん……だと……!?」
どうも死神が通ります。
半ば諦念に浸りながら、視線に気づかないふり。セルフでノイズキャンセリングモードをオンにした。
先週は裏門から登下校していたから、久しぶりの景色だ。四季のなかでも、春の移ろいは鮮やかに映える。
路面を埋める桜の絨毯。春景色の余韻。濡れた路面に花弁が張り付き、誰かの足跡で汚れている。
寂しくなった桜の枝。目の留まらない空白な景色の下。
校門のそばで、見知った人影を見とめた。
背中にかかる長い髪。
凛とした立ち姿。背筋をピンと伸ばし、<風紀委員>の腕章を通した腕を組んでいた。
入学から二週間。新生活に慣れ始めた生徒の、弛んできた空気を拒絶する態度だ。
くっきりとした直線的な眉。きつい表情で、登校する生徒に睨みを利かせている。
「古手川さん、おはよう。ちゃんと風紀委員になれてたんだな」
「え、あ──!」
「校門前の指導がんばってるね、さすが。じゃ、オレはこれで」
「秦野君!」
挨拶もそこそこに正門から抜けようとしたオレを、彼女は鋭い声で呼び止めてきた。
あまりの剣幕に、周りの生徒も振り返っている。
「どうかした?」
「ふ、服装が乱れています!」
「え、どこ……?」
ビシリと指をさされ、戸惑う。
指定のブレザーだし、シャツも特に着崩していない。
自分で検めるが、特にはわからない。
咳払いをしながら、古手川さんは固い靴音を立てて接近してくる。
「ネクタイ、緩んでます!」
「え、ほんと? オレ、毎日ネクタイきっちりして出勤してたから自信あるんだけど」
謹慎明けで特に気を遣ってきたし。
そんな綻ぶかなぁ。
指摘されるがまま、ネクタイの結び目に指を引っ掛けようとしたら、彼女は背中を反るようにしてオレを見上げてきた。
「なってません! 私がお手本を見せます!」
「いや大丈夫だって……」
「い、い、か、ら!」
「ちょっ、ちょっと、引っ張らないでくれよ」
馬の
あ、石鹸の匂いがした。
陽光を反射して
苦戦する少女の指先を、微笑ましく見守る。
「け、けっこう固く結んでるじゃない……!」
「あのー、古手川さん?」
「…………なによ」
それくらい自分でできるんだけど。
抗議の念を視線に籠めるが、古手川さんは唇を引き結び、鼻息を荒くしながらオレのネクタイの結び目に指を割り込ませている。
勝気な目は、眦を鋭くさせてオレからそっぽを向いてしまう。
うーん、潔癖な
まあ、問題児の身分だし、オレが変な抗議をしてまた問題を起こすのもうまくない。身を委ねた方がいいか。
「おー、樹理クンじゃんっ。お務めご苦労様でーすっ」
「いやいやオレ服役してたわけじゃないから」
背後から現れた平成ギャル、籾岡さんだ。
首を動かさず、視線だけで彼女を見やる。
ミルク色の髪を揺らしながら、古手川さんの様子を不思議そうに覗き込んできた。
「なになにー? 奥さんにネクタイ結んでもらってるの?」
「だ、誰がですか! 私のどこが彼が出勤する玄関前で弁当箱を渡しながら送り出す奥さんに見えるっていうの!!」
「そ、そこまでの解像度では言ってないにゃー」
「く、首しまってる……!!」
古手川さんの腕をタップ。
我に返った彼女が、ムッスリとした顔でネクタイを緩めてくれた。
詰まった息が回復し、オレは胸を撫で下ろした。
苦笑のまま、少女に首だけ向ける。
謹慎後にも気軽な挨拶をくれる籾岡さんは、春の日差しくらい柔らかく思えた。
「久しぶりだね、籾岡さん……元気してた?」
「チョー寂しかったよー! 樹理クン、今日からクラス戻るんでしょ?」
「うん、お騒がせしたね」
「でも羨ましいなー。御門ちゃんとずっとふたりっきりだったんでしょ?」
「そうなんだよ。御門先生がいろいろ良くしてくれたから、とても有意義な時間を過ごせたよ」
「は、ハレンチな……!」
「ちょ、また首しまっでるぅ……!!」
緊箍児*2かよ……!!
呻くオレの姿で我に返り、古手川さんが胸をこづきながら身を離す。襟元を探れば、綺麗な形で整えられたネクタイの触感が返ってくる。
誇らしげに胸を張り、挑戦的にオレを見上げてくる。
「私が風紀委員になった以上、学校生活での問題行動は全部、正式に取り締まっていくんだから」
「お手柔らかに頼むよ……」
「樹理クン早く教室いこーよ! ほらほら、連れてってあげるから!」
籾岡さんが腕に手を回し、有無を言わさず牽引し始めた。強引な足取りだ。
突然のスキンシップに戸惑った。
足をもたつかせながら、校舎へ向かう。
「ちょっと──」
肩越しに振り返ると、取り残されたように目を丸くする古手川さんの表情。
「ごめん! ネクタイありがとうー」
「ふ、不純です!」
顔を真っ赤にした彼女が叫ぶ。
少女の甘い香りに困りつつ、少し身を屈めて声をかける。
「籾岡さん、そろそろ腕を離してくれないかな。あなたまで悪い噂が立つよ」
「えー? たとえばたとえば?」
「素行の悪い生徒だとかで、教師陣から目をつけられるよ」
「へぇー。さっすが、裏番長だねー」
あまり響いていない様子。
楽しげに歯を見せてくる。
「先生って口うるさいもんじゃん? 中学から何も変わらないって」
「そういう問題じゃないよ」
「エロ校長を懲らしめたんだし、女子からけっこー評判いいんだよ?」
「エロ校長って……」
すっかり彼女のペースだった。
籾岡さんはしなやかな指を顎に置いた。
「先輩の間ではね、校長は隙あらばエロいことしてくるって周知の事実なんだってー」
「冗談だろ」
乾いた声が出た。
確かに、あの校長……オレが御門先生と揉み合ってる最中に「賛美」と唱えながら裸で突撃してきたし……眉唾ではないかもしれない。
頭を抱える。教育委員会案件だろ。
「胸張りなよ! かっこいいんだから!」
「いっ……!」
バチンと胸を叩かれ、呻いた。
筋肉痛がやばい。
息が止まる感覚だ。籾岡さんは目を瞬かせ、体を折ったオレを見つめている。
「鍛えてそうなのに貧弱なんだ、意外ー」
「今は筋肉痛なの……あと、気を張ってないと筋肉は柔らかいんだ」
「へー……じゃ、じゃあさ、力入れてみてよ。触らせて」
「恥ずかしいから駄目」
「……ケチ」
リップで艶やかな光沢の唇を尖らせた。
拗ねた表情の彼女が絡めた腕を離し、上履きに履き替える。
籾岡さんがこちらを振り返る前に、オレは足早に距離を取った。
「じゃあ、寄るところあるから失礼するよ」
「あ、逃げるなー!」
背中に届く非難を振り切り、廊下をツカツカと歩く。顔見られてないないだろうな。絶対に少し赤くなってるぞ。
年甲斐もなくドキドキしてしまった。若い子同士の距離感って心臓に悪すぎるよ。おじさんを戯れで弄ばないでほしい。
廊下をすれ違う生徒の目。
意識的に目を配ってみる。
怯え、腫れ物への視線。マイナスな感情ばかりだと思っていたが、それだけじゃない気がする。少し、オレを見る目が変わっているような……?
籾岡さんの言葉が耳の奥で反芻される。
──「エロ校長を懲らしめたんだし、女子からけっこー評判いいんだよ?」
「…………」
自重しろ。人を傷つけたくせに、良い思いに浸るなんて、とんだ思い上がりだ。勧善懲悪が賞賛されるのは舞台上でだけ。好都合に自分の行いを解釈するのは、責任感を持つ大人としてあってはならないと感じた。
「こうして謝罪の機会をいただけること、本当にありがたく思います。二度とこのような暴力沙汰は起こさないと戒めました」
「この通り、本人も反省しておりますので……どうか大目に見てあげてください」
「…………」
生活指導の鳴岩先生に同席していただいた上で、校長室に訪れていた。
頭を下げたまま、校長の様子を窺う。
沈黙が降りている。
「むむむ……顔をあげなさい」
促され、顔をあげた。
校長の顔面は形状記憶合金でできているのか?
すっかり彼の顔は元通りになっていた。傷ひとつない。
椅子に腰掛け、特徴的なサングラスの前で指を組み合わせている。オレは唾を飲んで言葉を待った。
「えっちなこと……したのかね?」
「はい、今なんと?」
「たわわボディーの御門先生とえっちムフフな青春イベントをしたのかねと聞いているっ!」
「はぁ?」
オレは心の澱となって溜まっていた罪悪感が吹き飛んでいくのを自覚した。
「ええと、オレは生徒で、御門先生は教師です。万が一にも、校長が憂慮されているようないかがわしい行為は、絶対に起こり得ません」
「嘘だッッッ!!」
「!?」
身を乗り出し、校長は息を荒げた。
「君の年代の男児が御門先生に劣情を懐かないなどあり得ないねっ!」
「ええまあ、白状しますと好意というか、敬意はございますが」
「キィー!! 不良に
「す、すまん秦野。もう行っていいぞ。これ以上は我が校の品位を損なうと見た」
あっぱれな慧眼だ。
鳴岩先生に促され、オレは一礼と共に退室する。
扉越しに響く声は、あまりにも聞くに堪えなかった。
「わしにも、たわわっぱいをおくれぇぇ──!!!」
つい先程まで良心の呵責で気を揉んでいたのが恥ずかしい。変態にかける情けは不要。オレは絶対的な正義を遂行したのである。今後もあのようなセクハラがあれば、鉄槌となって校長を撃退する必要があるのだ。
教室に入ると、話し声が一気に失せた。
誇張でなく本当に、全ての視線を集めた。
籾岡さんがオレに手を振ってくる。イタズラっぽい表情に苦笑で応じた。
一週間ぶりだ。オレは自分の席で息を吐く。
心境に変化がもたらされたとはいえ、周囲からの評価はいまだに最悪だ。
自分も危害を加えられるのでは、と怯えられている。
校長への暴行が決定的だった。不良のイメージがすっかり定着してしまった。これを塗り替えるのはなかなか骨が折れそうだな。
いっそ一発ギャグ百連発を披露して爆笑の渦に包み込むか?
「あ、あのー……」
「……忘年会以来だな、ひりつくね」
「秦野くん?」
「え、あ、なんだ?」
びっくりした。考え事に耽っていたオレは、少女の接近に気づかなかった。
顔を上げると、短髪の少女が肩を震わせた。
名前は確か、西蓮寺さんだ。
おずおずと、彼女は用件を口にする。クラス中の注目が集まっているのか、他に声は聞こえなかった。
「えっと、骨川先生から提出物集めるように言われててね」
「ほんと? 待ってね、確認する……ええと、預かってないかもしれない。どの資料か教えてもらっていいかな」
「あ、PTAの加入手続きに関するものなんだけど……」
「全く覚えがないね。助かったよ、後でかけあってみる。書類は直接提出することにするよ」
あのおじいちゃん先生、若干忘れっぽいんだよなぁ。
西蓮寺さんは頷き、そのまま籾岡さんの元へと戻っていった。
ふふふ……クラスメイトと会話しちゃったぞ。
オレは机の下で握り拳を作った。幸先がいい。この流れでクラスの雰囲気と打ち解けよう。
「秦野、だよな」
「…………」
「え、聞こえなかったか。秦野?」
幻を見た。
やおら顔を上げると、茶髪の少年が傍に立っている。
結城リトくんである。
オレは目を細めたり擦ったりして、遠近感のズレた視界に修正を試みた。
「な、何してるんだよ」
「現実と妄想との位相関係を調整しているんだ」
「はあ?」
よし、ピントが合った。
これでオレの視界から結城くんが消えるはずだ。
まだ彼はそこにいた。
目を疑う。どういうことだ。目どころか頭も狂ったのか?
「エ、あ?」
「うお、固まった!? おい、どうしたんだよ!?」
「結城くん、何か用かな」
なんとか再起動。
驚愕でのけぞる結城くんは、どうにもオレへと話しかけているみたいだった。
「ノート、写すだろ?」
「え……!?」
当たり前のように確認され、オレは戸惑った。
確かに、先週分の授業は自主勉強がほとんどだった。ノートを確認したい気持ちはある。だけどまさか、それを尋ねられるだなんて、夢にも思わなかった。
驚愕に満ちた心中で、理解が徐々に浸透してくる。
「いいのか、オレ、色々煙たがられてるけど」
「そんなの関係ないだろ、困ってるだろうし。それに、オレだってちょっと浮いてるからなぁ」
頬をかき、人の良い笑みを作った。
結城くんはノートを差し出してくる。
何も障害なんてなかったみたいに。当然のように、彼は飛び越えてきた。
ノートを受け取りながら、悟る。
クラスメイトとの距離感は、オレが勝手に作っていた距離だったんだ。
自分と相手とは違う。オレは29歳で、彼らは学生だと。無意識のうちに相互理解を諦めてしまっていた。
結城くんは、簡単に踏み越えてきた。
打算もなく、オレをただのクラスメイトとして扱ってくれた。
目線が合う。彼は、怯えこそ混ざっているが、決して逸らしはしなかった。
「助かるよ、結城くん」
「つっても、オレのノート読みづらいかもしれないからなー。というか、名前覚えてたんだな」
「クラスの子なら、自己紹介の時に覚えたよ」
「マジか? 記憶力すごいんだな、秦野って」
「それほどでもない。失礼がないように心がけているだけだ」
会話が弾む。応対が淀まない。
天井を仰いだ。歓喜が溢れていた。
どうやらオレ達は『親友』のようだな……
「結城くん、連絡先を交換しよう」
「え、急だな……!? ま、まあいいけど」
ガラパコス携帯を取り出し、連絡先を呼び出す。
結城くんもケータイを取り出してきた。
赤外線通信がふたりを繋ぐ。ふふ、星座みたいに美しいな?
「よろしく頼むよ、結城くん」
「君付けはよせよ」
「結城……」
「な、なんでしっとりと呼んだんだよ!?」
古手川さんは良妻賢母になるのは言うまでもありませんが、結婚からしばらくして訪れる夫婦間のマンネリを通販サイトのありえないコスプレグッズによって解消しようとしてくれるんですよね。素晴らしい提案をしよう。おまえも逆バニーになれ、杏寿郎
籾岡さんは学生時代の想い人と疎遠になったあと、同窓会や街中でばったり出会した後にカウンター席で「え〜? 奥さん厳しい〜。私なら、自由にさせてあげるのに、ね」と含み笑いをしながら横合いに太ももを触って誘惑するんです。本気になってくれないかな、なんて淡い期待を持っていていも叶わないと知っている。自分の惚れた男が、誘惑に揺らぐような人間ではないとわかっている。さっさと諦めるべきだ。焦がれた憧れは途方もない距離。それでも、星に手を伸ばさずにはいられない。たとえそれが、少女がヒールに履き替える程度の虚勢に過ぎないものだとしても。そのちっぽけな期待に縋る惨めなこゝろを、私は愛します
結城くんは私と一緒に星座を作ろう