「アンタが最近嘘ついてこそこそとしてたのは知ってたから、尾けてきただけ。案の定こいつと会ってたわけね」
玲は鼻白むような面持ちで言った。
とにかく俺と冬佳は目を合わせてプールサイドへ上がることにした。
「迷惑にならないよう端に行こ、お兄ちゃんと玲ちゃん」
「その、お兄ちゃんって言うの止めて」
キツく玲は冬佳を睨むが、冬佳は無視してスタスタと歩いていく。
「……チッ」
玲も小さく舌打ちをして冬佳の背を追う。何かが変わりつつあるとはいえ、基本的に現実の妹が物騒であることに変わりはないのだ。
「で、何で私達を尾けたのかな? 教えてほしいなー?」
プールサイドの端に存在するフェンスに背を預けた玲に向かって、冬佳がわざとらしく首を傾げた。玲はまた舌打ちしそうになったが口角を引き攣らせるだけに留めた。
その代わり、
「別に気になっただけだし……てかさ、年甲斐もなく気持ち悪いんだけどその口調。大学生なのに、なにその媚びた感じ。聞いてて鳥肌が立つから止めてくんない?」
全力で煽り散らかしやがったこの妹。やっぱ口悪ぃよ俺の妹。
対して冬佳はにこやかな笑みを絶やさない。
流石大学生、成人間近の貫禄すら感じられる余裕を見せつけて…………。
「んんー? 玲ちゃんこそ何時からお兄ちゃん大好きっ子になったのかな? まあ昔はブラコンだったもんね、分かるよー。思春期が落ち着いた頃合いでまたお兄ちゃんが好きになっちゃったのかなー?」
「うるさい! お前なんかに言われたくない!」
俺の勘違いだったようだ。冬佳さんも盛大に苛立ってらっしゃる。良く観れば顔に青筋がびきびきと浮かんでるように見えてきた。うん。ムカつくよなウチの妹、俺は分かるぞー冬佳。
俺の苦労を理解してくれる初の存在に後方から頷いていると、冬佳が俺へと視線を振った。
「お兄ちゃんも大変だね。こんな滅茶苦茶な妹に振り回されて大変でしょ?」
「なにが言いたいの」
「私は今お兄ちゃんに話しかけてるから玲ちゃんは黙っててねー?」
「……っ!」
歯軋りすると玲は俺へと厳然とした眼光を放つ。なんか冬佳のせいで俺へもヘイト向いてないか……って今更だな。ここ数日玲の態度が柔らかくなってたから忘れてたわ、元々こういう理不尽な奴なんだった。
それで振り回されて大変かって話だよな。
「そりゃ大変だが慣れたよ。俺はこいつの兄貴だぞ?」
「へーじゃあやっぱこんな口が悪い妹、嫌じゃない? クソとか言われて嫌だよね?」
流石にそれを玲の前で肯定するのは兄貴としてちょっとな……。
肩を竦めて黙りこくっていると、玲は怒気を滲ませつ凛とした声を発する。
「アンタには馬鹿としか言ってないから。クソはこの頭がおかしい従姉に言ったんだから勘違いしないでよね」
「うわ酷っ、私のこと頭がおかしいとか言うんだー。私と玲ちゃん、昔はあんなに仲良かったのに」
「捏造しないで。私とお前、昔から従姉同士以上の関係じゃなかった」
「まあ玲ちゃんってば小さい頃は私が話しかけても無視してお兄ちゃんとずっとベッタリしてたブラコンだったもんね」
「はあ!? てかそっちこそ兄はどうしたの! 兄いるでしょ!」
「玲ちゃんには関係ないよ」
ぴしゃりと。
この場の空気を切り裂くみたいに、その話だけは触れられたくないと断固たる意思表明をするみたいに、冷たく冬佳は言い放つ。兄妹契約を結ぶ前からよく話してきた仲ではあるが、こんな冬佳の声音、聞いたことがない。
それまで上から煽るような冬佳の口調が突然変化したことに玲もたじろいだようで、その合間を縫って冬佳が言う。
「体育祭の日にも言ったよね。お兄ちゃん貰うねって。玲ちゃんにとって不用品でも私にとっては必要なんだよ」
「……なんで私の兄を選んだの」
「彼も私も兄妹のあるべき理想像が現実とズレていて、それでも理想を追い求めていた……要するに利害の一致かな? あ、もちろん人間性的に好ましいってのもあるよ? 私のお願いに全力になって取り組んでくれるし。ほら、前より少しムキムキになったよね~玲ちゃんなら分かるよね?」
「…………。」
おい妹よ、何故俺の腹をそんな憎々し気に睨む。
「今日から私がご飯作るからアンタは部屋で寝転がりながらポテチでも食べてて」
「いや何故だ」
「アンタの筋肉、すごいムカツク」
「意味が分からねえよ?」
つかお前は料理出来ねえだろうに……。
こちとら兄貴だからって理由で、帰宅が遅い親に料理を無理矢理仕込まれて作るようになったんだぞ? 俺とお前じゃ年季が違うわ。それでもって言うなら怪我しないプラスチック製の包丁買ってやるからそれでまずは練習な。
「駄目だよ? それに玲ちゃんだってぶよぶよのお兄ちゃんより筋肉ある方が好きじゃないの?」
アマゾンで購入してやるかと考えていれば、また口論がヒートアップしてきたようで冬佳が小首を傾げた。
「当たり前のこと言わないで。デブ兄とか最悪だし想像もしたくない」
「おい」
何一つ謂れのない暴言に思わず声が出たが玲は俺を一瞥するのみに留めて言葉を続ける。
「でもこの筋肉はお前が育てたみたいで、見てるとお前の顔が透けて鬱陶しく感じるから私は嫌い」
どんな理屈だよ。俺の筋肉は俺が育ててるんだが?
しかし冬佳的にはこれもイラッとくる発言だったのか、微かに笑みが深まった。
「ごめんね? でも私のお兄ちゃんだからさ、血の繫がりしかない玲ちゃんには我慢してもらいたいな?」
「はあ? だからコイツは私の兄なんだけど。そっちこそ他人の家庭に割り込んでこないでくれる? 不愉快だから」
お互いがメンチを切り合う様子を見て静かに息を吐く。
ダメだな……二人を会わせると碌な会話にならないとは直感していたが、こうなるともう収拾が付かないぞ。どうすりゃいいんだよ。体育祭の件があったのに、俺は全然こうなった時の心構えがなってなかった。
だが、俺が割って入るのも何か変な感じになりそうだし……。
「けど玲ちゃんさ、料理出来ないよね?」
「藪から棒に何?」
この場を収めるために頭を捻っていれば、冬佳が更に種火を投下した。
「お兄ちゃんって何の料理が好きか知ってる?」
「……なにが何が言いたいの」
「知らないんだ~。いや、ふーんってだけだけね? 妹なのにお兄ちゃんのこと全然知らないじゃん。それで妹って今更じゃないかな?」
流し目で冬佳は玲を見た。玲の顔が忽ち赤くなっていく。
これ完全にダメな流れだ。
「それがなに!? そっちこそコイツが何歳までおねしょしてたか知らないでしょ!? 私は知ってる! お前みたいに中途半端にコイツの妹の真似事をしてきたわけじゃない! 私はコイツの隣で16年生きてきた!」
「共にした時間なんて兄妹関係の多寡を図る物差しにならないと思うなあ」
「違う! 関係あるに決まってる! 好き嫌い関係無く、妹の人生には常に兄が付き纏うんだ! お前だってそうなんでしょ!」
「ずっとお兄ちゃんを遠ざけていた玲ちゃんが今更何を言おうと、その言葉は薄っぺらいよ」
「…………なら聞くけど。一人暮らししてるお前は自分の、血の繫がった本当の兄を遠ざけてないって言えるの?」
おい、その話題は……!
玲の言葉にストンと冬佳の表情が抜け落ちる。
瞳から色を失われて、淡々と唇が戦慄く。
「黙ってよ」
「───黙るもんか。お前が私の弱点を突くのなら、私はお前の触れられたくない患部を触る。イーブンイーブンでしょ、これで」
今度は玲は真っ向から対峙した。
ここが押しどころであると考えている顔で、冬佳を崖際へと追い詰めるように一歩近づいた。一方で冬佳は下がる。仰け反るように足を引く。
「実兄は関係無いよね?」
「……私、知ってるけど、兄がニートなんだって?」
「……っ!? どうしてそれを!?」
「お前が来なくなってからは代わりに私がお婆ちゃんに延々と着せ替え人形にさせられて、その時聞かされた。偶には行きなよ、お婆ちゃんの家」
冬佳は目を見開いて、玲へ指を伸ばした。
冬佳の兄貴がニートだって?
俺は聞いたことないが……冬佳の反応からして本当なのだろう。俺は婆ちゃん家に行っても二言三言話すだけだけど、玲はリカちゃん人形みたく婆ちゃんに可愛がられてるからな。
不意に体育祭の日、冬佳が漏らした言葉が脳裏に過る。
『……冬佳はホントの兄貴をどう思ってるんだ』
『今は、興味ないかな。あっちも同じだと思う』
あの時は単に疎遠になっただけかと思ったが、なんとなく分かった。冬佳が理想の兄貴を求める理由ってのが。
昔の冬佳は兄貴に懐いていた記憶がある。典型的なお兄ちゃんっ子だ。
それが何故俺に兄妹契約なんて提案してきたのか。
……ニートになった実の兄貴に失望したんだな、お前は。
「別にお前の兄をどうこう言う気はない。親族だろうと、私にとっては他人の家庭だから。だからそっちもこれ以上コイツに関わらないでくれる? 目障りだから」
玲も冬佳の複雑な事情を汲み取っていた。じゃなければここまで言い淀んだりはしない。
「……耳が痛いなぁ。こうなったら、これしかないかー」
冬佳が唇を甘く嚙み、一瞬躊躇するような動きを見せてから無理矢理明るく振舞うと。
俺へとすっと近づき、なんと、俺の手を掴んだ。細い指を絡みつけるみたいにするりと恋人繋ぎをすると、腕まで組んできて、まるでカップル同士のような所作をしてくる。
押し付けられた大きな胸の感触が薄い布地越しに上腕へ伝わり、神経を揺さぶる。
ひんやりとしてて柔らかい───じゃなくて何事だ!?
「おい冬佳……!?」
「玲ちゃんにはこういうこと出来ないよね?」
言葉で勝てなくなったからって対抗手段が過激すぎませんかね冬佳さん!?
玲は白けたように、或いは小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、ずんずんと近づく。
「出来るからなに? それが何を意味するの? 今の私の気持ち、分かると思うけど?」
触れられる距離まで来た玲は俺と冬佳を強引に引き離す。冬佳は抵抗しなかった。
正直助かった。いつもなら湧いてこない煩悩も、相手が水着冬佳となると相手が悪い。しかも肉体的接触を伴うシチュエーションとなれば猶更だ。
ふぅっとバクバクと早まった心臓に手を当てて落ち着かせていると、
「はあ……お兄ちゃんってば私の事助けてくれないんだ」
「い、いやお前なあ! 突然そうやってくっ付いてくるのは妹とは違うだろ!」
「だってお兄ちゃんが助けてくれないんだもん。こうしてくれれば通じ合えるかと思ったんだもん」
不平不満を漏らす冬佳から視線を逸らす。
助けて……と言われてもな。
俺はどちらの味方でもある。だって妹だ。どっちも俺にとっては妹なんだ。
どっちつかずと分かっていても、一方が悪いわけでもないこの論争に、兄で或る俺は過度な肩入れはすべきでは無いと判断してしまう。
そんな甘えた思考が透かして見るかのように、玲はじっと俺の瞳を覗いた。
「良い機会だからはっきりしなよ。さっきから案山子みたいに突っ立ってさ、アンタはどっちの味方なわけ? どっちを選ぶの?」