フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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1. 穴

 その巨人は穴に入りたかった。その穴しかなかった。

 

 なんということはない穴、というわけではない。やはりそれなりに変わった穴ではあった。だから巨人もその穴に目をつけたのだった。だが、その直径はどうみても二メートルほどしかなかった。ただの人間ならば(ゆう)に通ることができるが……巨人には無理だった。彼の身の丈は三十メートルほどあるし、筋骨は逞しく、腕も足も太い。顔はゴツゴツとした玄武岩のようで、その真ん中で魔力のこもった赤い単眼が偽物の宝石のように輝いている。単眼には深い悲しみが宿っていた。無骨な作りをした手斧(ちょうな)を持つ手にもどことなく力がない。

 

 穴は、凹凸もなくのっぺりとして上にも横にもどこまでも続いている黒色の岩壁に、たった一つだけぽっかりと開いていた。黒い岩壁は、上を見上げると灰色の雲の上まで伸びていた。左右を見てもその果てがどこにあるのか、白い霧に包まれていてわからない。いつも薄暗くて、ぬるい小雨が降っていて、風が強く、空気は湿っている。背後にはどこまでも暗い海が荒々しく広がっていて、陰気な響きと共に白い波濤が砕けて波打ち際を乱雑に濡らしていた。

 

 巨人はこの世界が嫌いだった。大嫌いだった。ここには何もない。海はうるさい。食べ物はない。友達はいない。女もいない。そもそも、そういったものを生まれてから見たことすらない。だから彼は一刻も早くこんなところから逃げ出したかった。特に、彼は海が嫌いだった。うるさくてたまらない。

 

 逃げられる場所……それは海か、空か、岩壁の三つのうちどれかだったが、彼はすぐに空は諦めた。翼がないから空など飛べない。それでは海か? 彼は海も却下した。浜辺にいるだけでも海はうるさいのに、そんな海の真ん中へ漕ぎ出したら、一日も経たずに耳が潰れ、気も狂ってしまうだろう。それに、海なんて大嫌いだ。

 

 それなら、残るは岩壁しかない。この岩壁が途切れている場所、あるいは登れそうな場所……そういうところを探そう。巨人は探し始めた。そういうところを探して、探し続けて、もう何年も時間が経ってしまった。そして、ついに彼が見つけたのがこの穴というわけだった。

 

 穴は光り輝いていた。白く清浄な光の輪の中に、時折黄金の波動が脈打っていた。明らかに異質な、この世界とはまた違った世界の力が感じられた。魔法の力、偉大なる力、神の力……たぶん、そんなところだろうと巨人は思った。自分とは無縁の力。

 

 耳を近づけると、巨人のそれまで聞いたこともない(たえ)なる音楽が聞こえてきた。巨人はその単眼をそっと閉じて、じっとその音楽に聞き入った。穏やかな、心を慰めるような、母の子守唄のような音楽……海の音とはまったく違う。もっと近くで聞いてみたい。音楽を聞き始めてから、久しぶりに彼は心の平安を得ていた。ぬるく降り募る小雨も今ではなんとなく心地よい。彼は涙さえ流していた。

 

 音楽を聴いているうちに、巨人は心の中で確信を深めるようになった。この穴の向こうには絶対に美しい世界が広がっている。こことはまったく別の場所、別の空、別の海、別の音……海の音なんて、しない場所。どうしても、穴の向こうに行きたい。

 

 もしかしたらこんな光だの音楽だのはただの見せかけで、ここより酷い場所かもしれないが、それでもこんな世界にずっといるよりはマシだろう。彼はそう思った。

 

 なんとしても俺はこの穴の向こうにいきたい。この穴だけが、俺をこの世界から脱出させるものだ。巨人は穴を潜ろうとさまざまな試みを始めた。腕を入れる。ダメだった。足を入れる。もう一本の足が入らない。頭から入ろうとする。入らなかった。巨人の頭は大きすぎて、(ひたい)のあたりで完全につかえてしまった。これでは胴体も到底入らないだろう。悲しみが巨人の心を満たした。深いため息をつき、頭に手をやり、彼はしゃがみ込んだ。一匹のカニが足元を通り過ぎていった。青紫の甲殻に身を包んだカニだった。彼は空腹だったが、カニを食べなかった。赤い単眼は悲しみで滲んでいた。

 

 穴を広げるのはどうだろうか? 思いついて、巨人は手斧で穴の周りの岩壁を掘り始めた。穴のすぐ近くの岩壁は掘れたが、穴はいつまで経っても大きさが変わらなかった。そのうち、手斧の刃も(こぼ)れ始めたので、巨人は無意味な仕事を停止した。

 

 巨人は座り込み、ため息を何度もつきながら、腕を組んで穴を見つめた。どうしても……なんとしてでもあの穴の向こうへいきたい。しかし、どうやらそれは不可能であるようだ。俺の体は大きすぎるし、腕も、足も、胴も、頭すらも、あの輪を通ることはできない……大きな黒い波が海から打ち寄せて来て、座っている巨人の腰のあたりを濡らした。音が煩わしく巨人の耳を打った。気が狂いそうになる。

 

 穴の向こうに行くことはできなくとも、せめて見ることさえできたなら……ふと、巨人はそんなことを思った。違う世界があるということを、一目だけでも見ることができたなら! 瞬間、天啓のように巨人の脳裏に閃くものがあった。そして、数秒も経たないうちに、それが最上にして最良の考えであると思い始めた。

 

 この方法を使えば、()()()()()()()できるはずだ。

 

 葛藤はあった。本当にそれが最良なのか? 最良であるならば、なぜ自分はこれほどまでに不安を覚えているのだろうか? あるいはこれは、単なる恐れに過ぎないのだろうか……これから自分に訪れるであろう事態、そのことを想像することによって生じる恐れ? こんなことをして何になる? 見たところで何の意味がある? 見て何かが変わるのか? この世界から、この煩わしい海の音が消えるのか?

 

 そもそも、この穴は、本当に素晴らしいものなのか?

 

 決心がつきかねて、巨人はまた穴に顔を近づけて、またそれを観察した。穴は光っていて、輝いていて、美しくて、音楽が聞こえていた。なんとなくわざとらしい気がしなくもない。巨人はそう思った。まるで、誘っているような……だが、それでは、いったい誰が「わざと」この穴をこんな場所に用意したのだろうか? 神だろうか? それとも、どこかに住んでいる邪悪な魔法使い?

 

 そうだ、と巨人は思った。なにも、この穴だけであれこれと考える必要はないではないか。この広い岩壁には、他にもこれと似たような穴があるかもしれない。それこそ、自分をスッポリと包み込むことができるほどに大きな穴とか、そういうものがあるかもしれない。それを探してみて、その結果として他には穴はなかった、穴といえばこれしかなかったということが確認できたら、またここへ戻ってくれば良いのではないか……?

 

 巨人はそこから立ち去ろうとした。しかし、その瞬間、穴は突然激しく明滅を始めた。強く光ったかと思うと、その直後には光を失い、しかしまた輝き、光が消える。そんな光り方を続けた。巨人はゾッとした。その光り方は、なんとなく生き物の死、あたかも浜辺に打ち上げられたクジラの、死にかけた呼吸を連想させた。血の混ざった喘鳴(ぜいめい)、噴気孔から漏れる断末魔……

 

 このままでは、あの穴は死ぬ。巨人は焦りながら考えた。そうなると、もしこの岩壁にある穴があれだけだとすると、自分はもう二度とこの世界とは別の世界へ行くことも、この世界以外の場所を見ることもできなくなる……

 

 焦燥感が恐れを凌駕した。巨人はまた穴の前に立つと、手斧を掲げた。呼吸が乱れ、息が上がるのを巨人は感じた。手が震えている。手斧の刃が何重にも重なっているように見える。痛みには? 耐えられるだろう。でも、きっと元には戻れない。葛藤はまだ続いていた。一方で、穴はさらに明滅を続け、今では死ぬ寸前であるかのように輝きが弱くなっている。早く、早くしろ。死んじまうぞ。まるで穴がそのように言っているかのように、巨人には思えた。

 

 背後から響く砕ける波の音が、いやにはっきりと巨人の耳に聞こえた。それが、彼の決心を後押しした。もう、こんな音は聞きたくない。巨人は手斧をさらに高く目の前に掲げると、自分の方へ刃を向け、思いっきり自分へ向かって振り下ろした。手斧はちょうど巨人の眼窩の辺りに当たり、顔面の骨を粉砕した。真っ赤な鮮血が飛び散った。痛みはさほどなかったが、これからさらにやらねばならないことを思って、巨人はうんざりした気持ちになった。

 

 彼は何度も同じことを繰り返した。ついに自分の頭部の骨格を破壊することに成功すると、彼はそれまで分厚い骨によって守られていた赤い眼球をつかみ出した。バラバラになった白い骨片を、ズタズタになった革袋のような皮膚の下から取り除き、臍の緒のように繋がったままの視神経をズルズルと引き摺り出して、巨人は穴の向こうへと赤い眼球を押し込んだ。

 

 これで、見えるはずだ。事実、見えている。

 

 初めは、まばゆい光だけが満ちていた。それ以外に何も見えなかった。何も見えないということでは、その光は闇と何ら変わりはなかった。やがて、光は徐々に収まっていった。巨人の目は、穴の向こうの世界の情報を捉え始めた。

 

 その世界は暗かった。目の前には灰色の空の下、荒れた海が黒々とした波を盛り上げていて、白い波濤が砕けて飛沫を撒き散らしていた。巨人が手を動かして眼球の位置を変え、目のすぐ近くの上下左右を確認すると、そこにはどこまでも続くのっぺりとした黒い岩壁が広がっていた。上には灰色の雲があり、左右は白い霧が覆っている。空からは霧雨が降っていて、波打ち際には青紫の甲殻のカニが歩いていた。

 

 何から何まで、その世界には変わりなどなかった。一点だけを除いて。

 

 穴のすぐ近くには蓄音機があった。古びた、年代物の蓄音機だった。レコードがかかっていて、針はもうすぐ曲が終わりそうな位置を示していた。誰かが蓄音機のすぐ近くに座り込んでいた。赤い眼球をそちらに向けると、その誰かは何かホッとしたような顔をした。その誰かは巨人とそっくりだった。ただ、その巨人には目がなかった。単眼が収まっているべき場所には、黒々とした空虚な空間だけが広がっていた。

 

 だが、目のない巨人は見ていた。しっかりと、その空虚な眼窩で、穴の向こうから出現した赤い眼球を見ていた。

 

 目のない巨人は立ち上がると、もう一枚のレコードをどこかから取り出し、蓄音機にかけた。目のない巨人には右手がなかった。何か鋭利なもので切断されたのか、すっぱりと切り落とされていた。彼は赤い眼球に向かって、左手の指先でその耳をつついて示してみせた。無造作な動きだったが、ある種のメッセージが感じられた。

 

 どうやら、これを聞きたいのならば次は耳を持ってこいと言っているようだと、巨人は穴のこちら側で思った。何も変わり映えのない世界、ただ違うのは蓄音機とレコードだけだ。目を失い、耳を失って、得るものは蓄音機から流れる音楽だけか? 彼は迷ったが、あの(たえ)なる音楽をすぐ近くで聴けるのならば、耳を向こうへと送り込むのも悪くないと思った。どうせ、目は元通りにならないのだ。いまさら耳のひとつくらい……彼はまた、手斧で耳を切り落とすことにした。彼は穴の向こうから眼球を持った右手をこちらに戻そうとした。

 

 それにしても、なぜこの巨人には目がないのだろうか? そんなことを彼は思った。ひどく不細工で、哀れな見た目をしているものだ。目のない巨人というものは……

 

 その瞬間だった。穴はついに明滅をやめ、まるで最初からその場には何もなかったかのように、何の痕跡も残さずに消えてしまった。赤い眼球とそれを持つ手は永遠に向こう側の世界に取り残されて、こちらには戻らなかった。右手は世界の断絶に伴ってすっぱりと切り落とされて、生暖かい血が噴出した。

 

 巨人の視界は真っ暗に閉ざされた。

 

 暗黒の世界の中でただ聞こえてくるのは、暗い海の表面で巨大な波が生き物のように盛り上がり、勢いよく落下して白く砕けて飛沫をあげる、あの気が狂いそうなほどに単調な音だけだった。

 

(「穴」おわり)




筆力を鍛えるために掌編小説を書き始めました。今回は第一話なので4,500字ほど書きましたが、次回以降はもっと字数が減ると思います(そうじゃないと掌編と言えなくなるので)。どうか今後も『フロースヒルデの歌』にお付き合いいただければ幸いです。
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