フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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10. 甕

 女魔術師(ソーサレス)は憂鬱だった。彼女はその細身の肉体を寝台の上に長々と横たえていた。その肉体は若々しかった。起伏に富んだ肉体を覆っているのは薄いローブ一枚だけだった。

 

 仕事ならば色々とあった。やらなくてはならない実験、まとめなければならない報告書、整理しなければならないデータ、書かなければならない手紙の返事……だが、そういったものを片付ける気力が、彼女の中にはまったく湧いてこなかった。

 

 創造的な力というものは、才能ではなく、ある程度は気分によって左右されるものである。そのことを女魔術師(ソーサレス)は知っていた。そして気分というものは、ある程度は肉体的な条件によって左右される……今の彼女の肉体はあまり調子が良いとは言えなかった。それも当然と言えば当然だった。

 

 外は猛烈な魔力嵐だった。血のように赤い空は神か巨人かによって()じ曲げられたように渦を巻いていて、獰猛な風を地上に向かって吹き送っていた。見ようによっては空は飴細工のようだった。そうであったとしてもそれは凶悪な飴細工だった。魔力嵐はもう二日間も吹き荒んでいた。それでも女魔術師の塔は高く、堅固で、よく防御されていたから、魔力を含んだ濃緑の突風を受けてもびくともしなかった。

 

 嵐の時は極端に調子が悪くなる。女魔術師(ソーサレス)はもう何度も繰り返した思考をまた頭に浮かべた。野生の動物たちが嵐の時には木の(うろ)の中、洞窟の中、巣穴の中へ逃げ込んでじっと息を殺しているように、人間もまた家の中に閉じこもり、ドアと窓を固く閉じて嵐が過ぎ去るのを待つ。しかし、この私は? 私は人間として生まれながら、人間を超越した……私は魔術師であるはずだ。それなのに、嵐によってここまで調子が悪くなるとは……?

 

 嵐のせいで肉体の条件が悪くなり、肉体の条件が悪くなるから気分が悪くなり、気分が悪いから仕事ができない。ならば、嵐が終わるのを待つしかなかった。それでも仕事はしなければならなかった。無理やりにでも気分を変える必要がある。女魔術師はそう思った。なにか気分が晴れるようなこと、なにかこの嵐のことを忘れさせてくれるようなこと……

 

 ふと、思いつくことがあった。女魔術師は寝台から起き上がった。のろのろとした動きではあったが、彼女は動き始めていた。彼女は部屋の片隅に置いてある水盤へ向かった。水盤は大きな玄武岩を丸く削って作られたものだった。魔力のこめられた液体が水盤を満たしていた。液体は水銀によく似ていた。彼女が手を(かざ)してさらに魔力を注ぎ込むと、表面にはこことはまったく違う世界の風景が映し出された。水盤越しに女魔術師は異世界と繋がっていた。

 

 そこは砂漠だった。見渡す限り白い砂が広がっていて、遠くにはなだらかな砂丘が連なっている。目も眩むような真っ赤な太陽が青い空にあった。大気は水分をまったく含んでおらず、乾燥しきっている。地上は焦熱地獄だった。あらゆるものが光と熱の下に押し込められていた。彼女は手と指を器用に動かして、水盤の表面に映る光景を動かしていった。彼女はどんどん砂漠の奥へと進んでいった。

 

 やがて、一つの村へと彼女は辿り着いた。砂漠のほぼ中心にその村はあった。十数棟の家屋があるだけの、こじんまりとした村だった。白い円形の建物には三角形の屋根が載っている。建物の壁には家畜の糞が貼り付けてあった……おそらく燃料にするのだろう。暑い盛りの時間帯ゆえか人の姿はあまり見られず、ヤギが何頭か表を所在無げにぶらついているだけだった。村人たちは軒下に逃れてぼんやりとしていた。痩せた大人の男たちと子どもと、老人と病人の姿しか見えなかった。みんな粗末な服装をしていた。女魔術師は水盤の表面をさらに動かした。

 

 村から離れたところに、女たちがいた。みんな頭の上に大きな素焼きの(かめ)を持っていた。女たちは一列になって砂漠のある場所を目指していた。そこは村から五キロほど離れたところにあった。緑の草と一本のヤシの木が生えている。中ほどには四角形の石組みの構造物があって、その上には滑車と綱と桶でできた装置が組まれていた。それは井戸だった。女たちは井戸に水を汲みに来ているのだった。

 

 これは、面白いことになりそうだ。女魔術師(ソーサレス)は自分の感じている憂鬱が少し軽くなるのを感じた。

 

 よし、少し遊ぼう。気分転換には遊ぶのが一番だ。女魔術師はそう思って、魔力式の置時計をセットした。一時間にアラームが鳴るように設定されていた。彼女はまた水盤に戻った。

 

 女魔術師は村の広場を映した。そして、水盤の傍らにおいてあった細い小さな杖を手に取ると、呪文を唱えて魔力を込めて、水盤の表面を(つつ)いた。途端に、村の広場にはつむじ風が起こった。つむじ風は魔力を含んでいて、濃い緑色をしていた。突然の事態に残っていた村人たちは驚き、逃げ惑った。つむじ風は五分ほど吹き荒れた。建物が何棟か半壊した。

 

 やがて、つむじ風は終わった。村人たちが戻ってきた。彼らは広場に何かがあるのを見て騒ぎ始めた。それは成人の男性でも一抱えしなければならないほど大きな(かめ)だった。高さは腰の上まで届くほどある。甕は黒く輝いており、表面には銀色で曲線状の紋様が施されていた。紋様は独特な光を放って輝いていた。開口部は広く大きかった。そんな甕が数百個も広場にはあった。

 

 男たちは甕を見分し始めた。抱え上げてみたり、指先で叩いてみたり、協力して持ち上げてひっくり返したりした。しかし、それ以外に変わったことはないようだった。長老と思しき老人が、そんな男たちのことを離れたところから見ていた。長老は険しい顔をして、何も言わなかった。

 

 やがて、女たちが帰ってきた。村に起こった変事を遠くから目の当たりにして、大急ぎで帰ってきたようだった。女たちはつむじ風が村に残した爪痕に目を丸くしつつも、自分の家族が無事であったことを喜び、そして大量の黒い甕を目の当たりにしてまた驚いていた。女たちもまた甕を調べることに加わった。しかし、甕にはそれ以上、何も変わったことは見つけられないようだった。

 

 頃合いだろうと女魔術師(ソーサレス)は思った。彼女は杖を振り、水盤の表面に魔力を注ぎ込んだ。瞬きをするほどの間に、黒い甕の中から水が勢いよく溢れ出た。広場の乾いた地面が瞬く間に水で濡れた。甕の水は清らかで、澄んでおり、冷たかった。その時、男たちも女たちも驚いて甕から飛びのいたが、すぐに甕から出ているものが水であることに気づくと、狂喜したかのように歓声をあげ始めた。村人たちは甕に群がり寄ると水を飲み始めた。それだけではなく、甕を傾けて頭から水を浴び始めた。甕の水がなくなることはなかった。

 

 女魔術師は無表情のままそれを見ていた。第一段階はこんなもので良いだろう。村人たちはこの甕がどのようなものかを知った……そしてすぐにこの甕を手放せないようになるだろう。ふと、彼女の目に、離れたところに立っていた長老が村人たちに近寄って、何かを言っているのが見えた。長老の顔は厳しかった。彼は何かを言っていた。魔女は水盤に耳を近づけた。長老は、甕をすべて打ち壊せと言っているようだった。この甕は(わざわ)いしかもたらさない。すぐに叩き壊すのが良い……なるほど、長く生きていれば直感のようなものが働くのだろう。女魔術師はそう思った。そして、直感というものは常に正しい。彼女は成り行きを見守ることにした。

 

 予期していたとおり、村人たちは長老の言うことを聞かなかった。彼らは長老の目の前で、どの甕をどの家族が持っていくかを相談し、決めて、水の詰まった黒い甕をそれぞれ数人がかりで運び始めた。長老は顔を真っ赤にし、わめきたて、声を枯らして村人たちに説得を続けた。だが、誰もそれを聞かなかった。やがて広場には長老とその家族と、一個の黒い甕だけが残された。長老は一番大きな息子に対して甕を壊すように命じた。息子は躊躇した。息子は自分の妻と姉妹たちのことをしきりに見ていた。長老は激怒すると、自分で杖を振って甕を打ち壊した。落胆の感情が家族の中を満たすのがありありと分かったが、長老はそれを意にも介さず、そのまま家へと憤然とした足どりで帰っていった。

 

 女魔術師はそこまで見届けると、杖を動かして、水盤に浮かぶ光景の時間を先に進め始めた。数秒の間に、そこでは一年が経過していた。村は青々とした草木に囲まれていた。ヤシの木があり、畑が作られていて、作物が実っている。村人たちは甕の水を草木にやっているようだった。井戸が使われることはなくなっていた。彼らは甕の水を浴び、水を飲んでいた。ただ、長老の家の人間だけが、普通の素焼きの甕を頭に載せて井戸へ向かって歩いていった。女魔術師は無言で頷くと、さらに時を進めた。

 

 さらに一年が経った。村はさらに豊かになっていた。村は石材を購入して外周を囲うようになっていた。石の城壁の内部には豊かな緑地が広がっていた。色とりどりの花が咲き乱れていて、丈の高い草木が涼しげな木陰を作っている。泉が掘られていて、そこには水が満々と張られていた。水面には太陽が映っていたが……もはや太陽は村に対して何の威力も有していないようだった。村人たちの服装は豪華になっていた。彼らは太っていた。それまではトカゲのように痩せていたが、今では彼らは食に困ることはなく、金に困ることもなくなった。家はすべて石でできていた。城壁の城門には、砂漠の彼方からやってきた隊商たちが列をなしていた。

 

 石畳が張られた広場の真ん中で、長い白髪を振り乱した一人の老人が、杖を振り回しながら何かを叫んでいた。それは長老だった。以前は威厳があり、身なりも整っていたが、今では見る影もない。この村でもっとも貧しい生活をしているのであろうことはすぐに分かった。長老は叫び続けていた。だが、誰もそれに気を留めることはなかった。

 

 それからさらに一年間、女魔術師は時を進めた。長老が死んでいた。葬儀はごく簡素なものだった。かつて長老がその村においてもっとも敬われた存在であったことを、村の人間たちは——いや、それはすでに村ではなかった。それは(まち)だった。一個の巨大な街だった——忘れ去っているようだった。家族たちは長老の遺体が収められた棺を、村から離れた井戸へと運んでいった。井戸はまだそこにあった。緑地も——それは街の緑と比べればほんのわずかなものでしかなかったが——まだ残っていた。家族は緑地に一本だけ生えているヤシの木の下に穴を掘り、そこに長老の棺を収めた。

 

 ここから先の展開は読めている。女魔術師は時を大幅に進めた。二十年が経過した。街はさらに大きくなった。いくつもの要塞と砦を備えた巨大な都市になっていた。石造りの高層建築が立ち並び、棚に商品が所狭しと並んだ店が軒を連ねていた。公園があり、泉があった。都市には水が溢れていた。女魔術師は、すべての水に自分の魔力がこめられているのを確認した。ただ、あの長老の一族の貧しい家からだけは、魔力は感じられなかった。

 

 さらに三十年が経った。これほど時間が経ったのに、都市の住民は誰一人として自分で井戸を掘ろうとはしないようだった。それも当然だった。甕の水は美味かった。その世界にあるどんな飲み物よりも甕の水は美味で、爽やかで、清潔だった。井戸から得られる水とは比べ物にならなかった。そして、女魔術師は、時間が経過するにつれて甕から出る水の量が増えるように調整していた。都市の住民たちはますます甕に依存するようになっていた。というよりも、彼らは依存しているという事実すら気づかないようになっていた。甕は彼らにとっては空気や光と同じような存在になっていた。

 

 女魔術師はさらに時間を進めていった。百年が経った。二百年が経った。都市はひとつの国となっていた。彼らは国中に甕を広めていった。女魔術師は、それとなく手を加えて、甕の数を増やしてやった。彼らが甕の不足に悩まされることはなかった。やがて国は砂漠全体に広がっていった。砂漠は潤いに満ちていた。

 

 住民たちは、姿が変わっていた。彼らはほっそりとして上品な雰囲気を纏っており、肌は美しく、目つきは柔和で、言葉遣いも優しかった。争いを知らず、感情を昂らせることもなく、戦争も紛争も経験したことがない。彼らは詩と文学と音楽だけを愛するようになっていた。大図書館には書籍が満ち満ちていて、大殿堂では音楽が鳴りやまなかった。この変化は女魔術師が意図したものではなかった。確かに、甕の水に特別な魔術を組み込めばそのように方向づけることはできただろう。だが、彼女はそうしなかった。そうしなかったからこそ、彼女はこの変化を喜んだ。

 

 五百年が経った。砂漠はもはや砂漠ではなかった。その国の人々は、その世界においてもっとも幸福な人々となっていた。

 

 ふと、女魔術師はあの長老の一族がどうなったのか気になった。すぐに一族は見つかった。一族はそれなりに繁栄していた。彼らは独自の教義を持つ教団になっていた。教団は井戸から汲んだ水だけを使って共同生活を営んでいた。教団はしばしば迫害されたが、それよりは教団の方が教団外へ向かって攻撃をすることの方が多かった。その国に争いがあるとすれば、それはすべてその教団が原因だった。女魔術師は満足した。

 

 魔女は憂鬱を忘れていた。変化を見るのは楽しかった。ただの甕、水が出るだけの甕を追加しただけで、これほどまでの変化が生まれた。この手の遊びをするのは初めてだったが、これからはもっと違った遊びができるかもしれない。そして、こういった遊びをひとつの魔術としてまとめ上げれば、また違ったアプローチからの研究を進めることも可能になるだろう……

 

 その時だった。魔力式の置時計が鳴った。一時間が経過したのだった。名残惜しいが、遊びはこれまでだ。女魔術師はアラームを消した。それに、もう充分だろう。気分転換はできた。仕事に戻るだけの気力も戻っている。

 

 だが、仕事を終えた後の気晴らしも必要だ。そのためには、楽しみを残しておく必要がある。というよりも、本当のお楽しみはこれからだった。女魔術師は杖を振って、水盤の表面を(つつ)いた。それは、その世界にほんのわずかの変化しかもたらないものだった。

 

 女魔術師(ソーサレス)は最後の確認として、水盤の表面を動かしてそれを見た。一個の黒い甕が映っていた。甕の口からは水が溢れていた。女魔術師はしばらくそれを見た。数分後には、甕の表面の銀の紋様が力を失ったかのように輝かなくなった。自分の思った通りの状態になったことを確認して、彼女は水盤の魔力を切った。

 

 さて、自分が仕事を終えた頃には、あの巨大な国はどうなっているかな。女魔術師は机に座りながらそう思った。楽しみだった。とんでもないことになっていそうだ。さっさと仕事を終えてしまおうと彼女は思った。ペンを手に取って、彼女は仕事に没頭し始めた。

 

 外では魔力嵐が吹き荒れていた。嵐は当分止みそうになかった。

 

(「甕」おわり)




今回の話は私のオリジナルです。古典を元にした話は書いていて楽しいのですけど、そればかり書いていると自分自身で考えた話を語る力が衰えていくので考えものです。それにしても6,000字か……前回よりは2,000字減ったから良し! 
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