フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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11. 執筆

 PCの前に腰かけて、作家は物語を書き始めた。だが、まったく着想ができなかった。一行たりとも文章が浮かんでこない。話の筋も見えてこないし、登場人物も造形することができない。こういうことはよくあることだったが、作家は未だにそれに対する有効な解決策を知らなかった。

 

 だから、作家は古典に頼ることにした。安直な方法ではあったが、とにかく書き進めるにはそれしか方法がなかった。彼は参考文献を別のウィンドウに表示すると、キーボードを叩き始めた。袁枚(えんばい)の『子不語(しふご)』に語られている話を元にして書こうと作家は思った。「関東毛人以為餌」が原題だった。

 

 まず、作家は最初の一文を書いた。

 

「関東の人である(きょ)善根(ぜんこん)は人参掘りを生業としていた」

 

 しかし、こうして書き始めておきながら作家ははたと迷った。この人参はいったいどの人参を指しているのか? 中国の人参は二種類ある。一つはよく知られている朝鮮人参である。朝鮮人参は消化器官の虚弱や食欲不振、嘔吐、下痢に効果があり、また病後の回復期、疲労回復、滋養強壮にも効能があるという。このため、朝鮮人参は食用というよりも薬用の面が強い。これは当時においても現在においても同様である。

 

 もう一種類の人参は「胡蘿葡(こらふ)」という。その名は「西域の()国から伝来した蘿葡(らふ)=大根に似たもの」という意味である。こちらは現在普通に「人参」というところの人参とほぼ同様である、らしい。作家はしきりに首を傾げた。作家は胡蘿葡の実物を見たことがなかった。作家はネットで画像検索をした。普通の人参ばかり出てきた。まあ、おそらくはそうなのだろう。

 

 そもそも今読んでいるこの文は原文ではなく訳文なのだ。訳で人参と書いてあるならこれは間違いなく朝鮮人参の方だろう。納得してから、作家はまた書き始めた。

 

 しかし、作家の手はまたすぐに止まった。それで、この(きょ)善根(ぜんこん)だ。作家は無表情で画面を見つめた。この者の職業は先に書いたように「人参掘り」だった。なら、彼はいったいどちらの人参を掘っていたのであろう? 作家は、彼が掘っていたのはおそらく朝鮮人参の方だと思った。というのも、当時においてもまた現在においても朝鮮人参は人工的な栽培が難しく、育てるというよりは野生に生えているものを採取するのが普通だったからである。それに対して、胡蘿葡はただの野菜なので畑で栽培することが可能である。畑で獲れるものをわざわざ「人参掘り」などとは言わないだろう。

 

 こんなどうでも良いようなことばかり考えている。話がまったく進まない。

 

 とにかく、(きょ)善根(ぜんこん)は人参掘りをして暮らしていた。そういうことで話を進めよう。作家はキーボードを再び叩いた。

 

「その日も許は人参掘りに出かけた」

 

 困ったな。作家はまた手を止めた。許の見かけや性格について袁枚(えんばい)は書いていない。ここは自分の想像力を発揮する必要があった。彼は書いた。

 

「許の生活は豊かではなかった。彼は若いがどこかくたびれていて、足腰は強いが痩せていて、肌は日に焼けていて、粗末な衣服を身に纏っていた。せっかく野山を巡って掘り集めた朝鮮人参も、業者によって安く買い叩かれてしまう、そういう不幸な人間だった。だが顔にはいつもお人好しそうな笑顔が浮かんでいた」

 

 ところで、作家の脳裏にはさっきからしきりにある疑問が浮かんでいた。気になるのは彼の名である「善根」だった。善根とは言うまでもなく仏教用語の「善根」から来ているのだろう。作家は考えた。善根とは諸々の善の根っこ、根幹となるもので、特に無貪(むとん)無瞋(むじん)無痴(むち)を三善根という。無貪(むとん)は貪らないこと、つまり物質的な欲求や執着を持たないことであり、無瞋(むじん)は怒りを克服した状態、平静な精神状態のことを指し、無痴(むち)とは愚かしさや迷妄を乗り越えた状態のことをいう。このような名前をつけるとは、許の家はよほど仏教に帰依するところが大きかったのであろうか。

 

 だが、作家としては仏教用語云々よりも、彼の名前がどうにも人参とつながりが強すぎるような気がしてならなかった。なにせ「善根」である。善い根とはつまり、人参のことであろう。そうではないか? いうなれば彼の名前は仏教用語としての善根と、人参としての善根とのダブルミーニングになっているのではないか? 作家は考え続けた。そして、このあまりにも出来過ぎた名前からして、もしかすると袁枚(えんばい)が伝えるこの話は実際にあったことの伝聞ではなく、(はな)からフィクションであったのではないかと作家は感じた。他にも色々と背景事情は考察することができそうだったが、とりあえずは作家はこのまま話を進めることにした。

 

 すぐに作家はまた手を止めた。袁枚(えんばい)がいうには、「人参掘りは闇夜にやるものと言われている」という。この一節だけでも作家は混乱してしまった。なぜ闇夜にやるのだろうか? 地面に直に生えている朝鮮人参を見つけるのは、おそらく昼間でも難しいはずである。なぜ夜間の視界が制限された状況下で人参掘りをするのか……? おそらくだが、これは誰かの敷地内、誰かの土地の中でこっそりと人参を掘り出すから「闇夜にやるもの」とされているのではなかろうか。作家はそう考えた。他人の山で山菜取りをするようなものだ。

 

 あるいは朝鮮人参は陽の光に弱いから夜中に掘り出すものだとされていた、という可能性もある。作家は考えを進めた。陽の光が朝鮮人参の薬効を弱めてしまうから、夜に地面から掘り出す。この方がよほどファンタジー的で面白い話だと作家は思った。だが、残念ながらこれは憶測でしかなかった。実際のところは分からなかった。分からないことだらけだ。作家は嘆息した。こんなに短い話なのに分からないことばかりだ。

 

 話が進まない。作家はとにかく話を先へ進めることにした。

 

「人参掘りは闇夜にやるものと言われている。それで許は、例によって夜に出かけた。ひとしきり仕事をした後、彼は疲れてしまったのでそのまま砂上に宿った」

 

 砂上に宿ったとは、地面にそのまま寝たということであろう。どれくらい寝たのかは分からないし、そのようなことも『子不語』には書かれていない。おそらくはほんの短い仮眠だったのではないか。作家はそのことを書くべきかと思った。だが、何も書けなかった。彼は続きを書いた。

 

「目が醒めると、許の体は一人の巨人に抱かれていた。巨人は身の(たけ)(じょう)ばかり、体中が赤い毛で覆われている」

 

 また作家は疑問に思った。長さの単位「(じょう)」について、これはいったいどれくらいの長さを表しているのだ? 古代中国において、丈は成人男性の背の高さを基準とした長さの単位であったらしい。だいたい一八〇センチメートルほどのことを一丈と言ったようだ。昔の人間は随分大きかったのだろう。しかし、隋・唐以降になって、長さの単位は軒並み当初の倍近くになったという。そこで丈もほぼ倍の三.三メートルほどになったとかなんとか……

 

 だからその巨人の身長はだいたい六メートル五十センチくらいあったと見てよいだろう。あるいは七メートルか? とにかく大きい。そんなものに許は目が醒めたら抱かれていたのである。ようやく話が進み始めた。作家はまたキーボードを叩いた。

 

「巨人は左手で許の体を撫でていた。また、許の体を使って自分の赤い毛を(さす)っている。さながら珠玉でもいじっているかのようであった」

 

 そのように袁枚は言っている。巨人の手つきは大切なものを撫で(さす)るような感じだったのだろう。あるいは今風に考えるなら愛玩動物を愛でるような手つきだったのかもしれない。

 

「そして巨人は、(さす)るごとに狂ったように笑って止まらなかった」

 

 なぜだ? 作家はちょっとだけ考えた。可愛らしいものを見つけてテンションが上がっていたのだろうか。人間でも猫や犬を見ると笑ってハイテンションになる者が大勢いるから、これに関しては分からなくもない。

 

「許は怖れた。彼は、自分が巨人に食われて腹に納まってしまうのではないかと怖れた」

 

 作家は頷いた。巨人というものは洋の東西古今を問わず、人間を食うものと相場が決まっている。『オデュッセイア』にもそう書いてある。巨人の文化史を解説した本でもあれば詳しく分かるだろうが、不幸にして作家はそういうものを知らなかった。

 

「許が怖がって身を固くしていると、巨人は許を抱いたまま一つの洞穴の中へ入っていった。洞穴の中には『虎筋』、『鹿尾』、『象牙』の類がわんさと積んであった」

 

 まただ。作家は険しい顔をした。「象牙」は分かるが、「虎筋」と「鹿尾」とは何であろうか? こういう言葉を調べる時に何を参照したら良いのか、どういう辞書が必要なのか、そのことすら作家は知らなかった。しかしこれはおそらく「虎の筋がはっきりと見える毛皮」であり、「鹿のふわふわとした尻尾がついた毛皮」くらいの意味であろう。狩りの戦利品である。作家はそう納得した。

 

「そして巨人は石のベッドに許を置くと、虎や鹿の肉を取り出して許に勧めるのであった」

 

 だが、どこから肉を取り出したのだろうか。作家の疑問は止まらない。肉用の冷蔵庫があったわけでもあるまい。しかし洞穴の中はひんやりとしていて気温が低いはずであるから、まあ肉類の保存には適していたのだろう。それにしても、なぜその肉が「虎」とか「鹿」の肉だと分かるのだろうか。いきなり目の前に肉が出されても、それは「何かの」肉としか分からないはずである。人肉の可能性だってある。肉マニアだったら分かるだろうが……たぶん許は肉マニアではない。作家は時計を見た。遅々として執筆は進まない。

 

「許は思ってもみない待遇に喜んだが、さすがにそんなものは食えなかった」

 

 許は、石のベッドに座らされて生肉を提供されたことを「思ってもみない待遇」だと思ったのではない。ただ単に「自分が食われることがなかったから」思ってもみない待遇だと思ったのである。そして、案外(きょ)という人物は賢明で剛毅だったとも作家は思った。巨人が勧めてくる食べ物を食べなかったら気分を害して大変なことになるのではないか、と自分ならば考えてしまう。だが許は食べなかった。

 

「巨人は肉を食べない許を見て、しばらく俯いて考えごとをしていたが、やがて頷いて自ら納得した」

 

 餌を食べないネコを見て思案するネコ好きとそっくりではないか。作家はそう思った。しかしこの巨人はどうやらネコ科の虎を狩るのが生業であるようだ。人間は好きだが、ネコは好きではないのかもしれない。

 

「巨人は行動を始めた。火打石を叩いて火を起こし、水を汲み、鍋で煮炊きを始め、虎肉と鹿肉のシチューができあがるとこれを許に勧めた。許はたらふくこれを食った」

 

 そう、たらふく食ったのである。やはり剛毅な男ではないか。作家は感心した。巨人の住処で巨人に食事を勧められているという異常事態であるから、普通ならば、食うには食うがあまり食べられないという感じにはならないだろうか。それをたらふく食うとは、許はやはり尋常ではない。あるいは、彼は人参掘りをしているから日常的に朝鮮人参を服用していたのかもしれない。それだったら胃腸が丈夫で食欲旺盛であることも頷ける……

 

「夜が明けると、巨人は許善根を抱えてまた洞穴の外へ出た」

 

 ということは一晩中、許はシチューを食っていたことになる。なんという男だ。作家は唸った。もしくは語られていないだけで、食事の後には何か別のことがあったのかもしれない。とにかく巨人は許を外へ連れていった。作家はまた文章を書き始めた。

 

「巨人は巨大な弓を持っていて、身には五本の矢をたばさんでいた」

 

 それにしても巨人は弓矢や鍋、火打石の類をどこから手に入れたのだろうか。文章を打ちながら作家は考えた。自分で作ったのだろうか。だとしたら随分器用な巨人だ。

 

「巨人は絶壁の上に来ると、そこに生えていた一本の高い木に許を縛り付けた。突然の事態に許は狼狽し、もしかすると巨人は自分を射殺すのではないかと怖れた」

 

 袁枚は語っていないが……作家は考えた。おそらく許はこれまでに食べた肉のシチューを怖れのあまり吐き出してしまっただろう。そういう描写を入れようかと、作家は思案した。恐怖と嘔吐とは相性が良い。だが、作家は何も書かなかった。

 

「すると突如として、虎の群れが人間の匂いを嗅ぎつけてぞろぞろと穴の中から出てきた」

 

 虎の群れが穴の中に住んでいる土地……やはり許善根は危険な土地で人参掘りをしていたようだ。作家は頷いた。虎がいたり、巨人がいたり……そういう土地に行かないと人参は獲れなかったのだろう。清代での「関東」とは現在の中国東北部に当たる。当時の人間からしてもこのあたりは野性味あふれる未開の地だったのだろうか。作家は中国について何も知らないのを痛感した。何も知らないのにこんな話を書いている……苦々しい思いだった。

 

「ぞろぞろと出てきた虎たちは我先にと許に襲い掛かった。しかし、許は背の高い木の上に縛り付けられているので、虎の攻撃は届かない。そこへ巨人が弓に矢を(つが)えてこれを射る」

 

 何頭仕留めたかについて袁枚は書いていないが、おそらく一頭倒した段階で他の虎は逃げ散ったのだろうと作家は考えた。

 

「虎を倒すと巨人は許の縄をほどき、またも許を抱えて虎の死体を引きずって洞穴へ帰っていった。そして洞穴では昨夜同様、虎の肉を煮て許に差し出すのだった」

 

 こう書いていて作家は疑問に思った。巨人は許に肉のシチューを出す時、何の器を使ったのだろうか。巨人は普通の人間用の什器(じゅうき)の類を持っていたのだろうか。

 

「許はようやく、巨人は虎を狩る囮として自分を利用しているのだ、と悟った」

 

 ただの囮にしてはかなり待遇が良いのではないか? 作家は少し考えた。おそらく巨人は人間が囮として有用なだけではなく、単純に愛玩動物として好きだったのだろう。でなければ捕まえた時に珠玉を撫でさするようにして可愛がるわけがない。人間がネズミ捕りにネコを利用するようなものだろう。そう考えたらあまり不思議でもない。作家は一気に話を先へ進めることにした。

 

「こうして一ヶ月あまりが経過した。許には何事もなく、巨人はどんどん肥えていった」

 

 虎の肉にどれだけの栄養価があるのかは分からないが、もしかすると巨人が太ったのは幸せ太りの類だったのかもしれない。作家はそう思った。好きな動物を迎えて生活が潤ったことが、肉体的なサインとして表れたのだろうか。愛玩動物にはそういう偉大な力がある。だが、作家はペットを飼ったことがないから実際のところは分からなかった。

 

「ある日、許は家が恋しくなって、巨人の前に跪いて泣いて再拝し、しきりに手で東方を指した」

 

 ホームシックである。作家としては一ヶ月もの間ホームシックにならなかった許の精神力の強靭さに驚嘆するばかりだった。通常の人間ならば一週間ももたないだろう。袁枚は書いていないが、巨人の洞穴は住環境としてはそれほど優れたものではなかったはずだ。作家は、作家としての想像力を駆使して考えてみた。なにせ、煙突もない空間の中で肉の煮炊きをしているのである。おそらく虎の死体の解体も洞穴の中でやっていたはずだ。猛烈に臭かったはずである。よくこんな環境下で一カ月間も「何事もなく」過ごせたものだ。

 

「巨人もまた、はらはらと涙を落とした」

 

 許がホームシックになっていることが分かったのだろうと作家は思った。だが、ホームシックになっていることが分かるということは、巨人もまたホームシックという感情を覚えることができるということでもある。作家は考えた。巨人がホームシックになる……もしかすると、この巨人はこの土地の出身ではなく、どこか遠いところから来たのかもしれない。ロシアのあたりから南へ下ってきたのだろうか。

 

 そうなると巨人は巨人ではなく、ロシア人であったのかもしれない。作家の考えは深まっていった。身の丈二丈というのは言い過ぎであるとしても、身長が一九〇センチメートルあったらそれはもう当時の基準からしても現在の基準からしても巨人である。そして、巨人は祖国から遠く離れた人跡未踏の地で、虎や鹿を狩って生きていた……そこへひょっこりと一人の人間が現れた。彼は久しぶりに会った人間が愛おしくなり、洞穴へ連れて行ったのではないか……

 

 だが、それにしては虎を狩る時に許を囮として使うのが手慣れ過ぎている。作家は首を振った。それほどまでに人恋しかったのならば、許を木の上に縛り付けるなどということはしないだろう。万が一ということもある。やはりこの話の巨人はロシア人ではなく、巨人という不思議な生き物として読むべきだろう。そもそも袁枚は不思議な話の集成としてこの『子不語』を書いたのだ。

 

 作家はなんという気はなしに最後の一文を書いていた。

 

「巨人は許を抱えて前に人参掘りをしていたところへ連れて行き、帰りの道を教えた。その上、人参のよく採れる場所を教えて許に謝意を示したのである。許はその後大金持ちになった」

 

 話が終わってしまったことに、作家はやや意外な感を覚えた。作家は、自分の書いたものを読み直してみた。そして、あることに気が付いて愕然とした。

 

 作家は何度も文章を読み返した。しかし、そこに見落としや間違いはなかった。作家は認めざるを得なかった。自分が『子不語』に対して何も書き加えておらず、ただ同じ文章を繰り返していたことを……

 

 自分は何も書いていない! 語られたことをもう一度語っただけだ!

 

 作家は呆然とした。そして急いで、自分だけのオリジナルの文章を探した。本当に自分は何も書かなかったのか? 自分はただ、同じ話を繰り返しただけなのか? 祈るような気持ちで作家は自分だけの文章を探した。おかしくなりそうなほどに心臓の鼓動が早くなっていた。

 

 幸いなことに、それはあった。それにはこう書いてあった。

 

「許の生活は豊かではなかった。彼は若いがどこかくたびれていて、足腰は強いが痩せていて、肌は日に焼けていて、粗末な衣服を身に纏っていた。せっかく野山を巡って掘り集めた朝鮮人参も、業者によって安く買い叩かれてしまう、そういう不幸な人間だった。だが顔にはいつもお人好しそうな笑顔が浮かんでいた」

 

 自分の書いたオリジナルの文章は、ただこれだけだ。作家はしばらく呆然とし続けた。やがて、作家は思った。

 

 この文章から、また小説を書き始めるしかない。

 

 自分だけの(きょ)の物語を、この文章から始めるのだ。深呼吸をしてから、作家は椅子に座り直した。背筋を伸ばし、肩を回して、作家はまた画面に向き直った。

 

 気が遠くなりそうだった。書くことはいつまでも終わりそうになかった。それでも作家は満足していた。作家は参考文献を表示しているウィンドウを消すと、また手を伸ばしてキーボードを叩き始めた。

 

 今度は、キーボードを叩く音が途切れることはなかった。

 

(「執筆」おわり)




参考文献 袁枚『子不語1(全5巻)』(手代木公助訳、平凡社、2009年)、92-93頁。手代木訳は大変こなれている上に格調高い文で、かつ注釈も充実しています。興味のある方は是非どうぞ。

古典というものは危険な魔力を秘めています。自分だけの言葉、自分だけの物語をあらかじめ持った状態で読まないと、ただ同じ文、同じ物語を繰り返すだけになってしまいます。しかしこの魔力ゆえに古典はずっと生き残ってきたのだとも思います。
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