八歳の頃、私はナントに住んでいた。父の仕事の関係で春から秋までの半年間ほどそこに住んでいた。
家はナントの市街地からやや外れたところにあった。父は商社勤めの月給取りで、特にこれといった趣味や道楽もなく、生活もごく質素なものだったが、ただ住む家にだけは費用をかけたいと思ったらしい。父が借りて私たち家族が引っ越した家は一軒家で、広くはなかったがゆったりとした造りだった。もとは地元の富農が隠居をするために建てたらしい。小さな居間があり、不相応に大きな食堂があり、寝室が三つあった。使用人のための小部屋もあった。煉瓦と石で出来ていて、屋根瓦は青い陶器製だった。
家は背の高い
私は、学校に行く以外は、家の周りで一人で遊んで過ごしていた。学校も私の家と同じく市街地からやや外れたところにあったので、私はその家に住んでいる間、一度も市街地へ行ったことがない。父は健康のために歩いて会社まで通勤していた。母はこちらに来てから購入した中古の小型の乗用車で市街へ買い物に行った。どちらにも私が同行することはなかった。今からすると、なぜ父も母も私をナントの市街地へ連れて行かなかったのか不思議に思う。おそらく、二人とも街というものに対して嫌悪感があったのだろう。だからこそ、余計な費用をかけてまで市街地から外れたところに家を求めたに違いない。
そして、私にしても、市街地へなど行かなくともたくさんの楽しみがあった。
一度だけ、死んだモグラを見たことがあった。それは夏の暑い日の午後だった。青い空の向こうには大きな積乱雲が迫っていた。雲は大西洋からやってきたようだった。頭上からは強い太陽光が降り注いでいて、自分の肌がじりじりと焼けていくのが感じられた。私は学校の帰り道だった。周りには誰もいなかった。埃っぽくて白い登り道を私は一人で歩いていた。道には陽炎が立ち込めていた。
ふと、道路わきに何か黒いものが落ちているのに気が付いた。近寄ってしゃがむと、私はそれを観察した。それはモグラだった。死んでいた。短い黒い毛がびっしりと生えた毛皮はビロードのように
私はモグラの死体を指先で
家に帰ってからも、私はモグラの死体について誰にも話さなかった。父も母も、おそらく私がその話をすれば興味深く耳を傾けてくれただろうが、私は二人に話すことはなかった。あのモグラの死は、私だけの話にしておきたかった。そうなると、やはり私はあの時暑さだけを感じていたわけではないのだろう。私は確かにあの時、暑さ以外の何かを感じていたのだろう。しかし、それがどういう感情であったのかは今になっても分からない。
翌日も同じ道を歩いて学校へ行った。私はモグラの死体を探した。だが、死体はどこにもなかった。私は死体が見つからなかったことについて、特に落胆を覚えたりはしなかった。誰かが拾って捨てたのか、それともカラスなどの鳥類がどこかへ持っていってしまったのか、あるいは野犬か猫かが食べてしまったのか……そのようなことは充分あり得ると私は思った。ただ、私はその後もしばらく、黒いものが地面に落ちていないかと探し続けた。探し続けながら私は歩き続け、そして学校に着いてしまった。それ以降、私はモグラの死体を見たことはない。
生きた存在としてよく見かけたのは、
農夫や、その犬と猫が捕まえることができなかった兎を、私はしばしば目撃した。
兎たちは一つの家族のようだった。彼らは私のことをまったく脅威として認識していなかった。兎たちは私の周りをもぞもぞと歩き回り、低く跳ね、草を食べたり、あるいは畑の作物を食べたりしていた。
兎の毛皮は多種多様だった。黒い毛皮のものもいれば、茶色の毛皮のものもいた。灰色のものもいた。どれも耳が長かった。黒目勝ちの目は輝いていて、農地の緑を余すところなく映し出していた。私は、自分の周りに兎たちが集まっていることに気づくと、虫たちを虐待する手を止めて、彼らのことをじっと観察した。兎たちは私の視線を意に介することもなく、しばらくその場に留まり続けた。そして何分かすると、彼らはここへ来た時と同じように音を立てず、丘の上を吹くそよ風のような静けさで
農家は常に兎の害に悩まされていた。学校では、兎を捕らえたり殺したりしてそれを持ってくれば一匹につき二ドゥシーム支払うという、農家からの告知のポスターが掲示板に貼られていた。兎のせいで何万フランもの損害が出ているんだよと、その晩の団欒の時に父が言った。せっかく育てた野菜をすべて齧られてしまうのだからね。だから農家としてはできることならば野兎を全滅させたいのさ。母が言った。でも、兎たちが可哀想じゃない。兎たちだって食べないと生きていけないのだから。父が答えた。そりゃ可哀想だ。だが、野菜を食べられてしまう農家だって可哀想だよ。私は何も言わなかった。私は、自分に兎を捕まえることができるだろうかと考えた。できるとは思えなかった。ましてや、殺すことなどはできそうもなかった。それは想像もできないことだった。
農家たちはずっと兎たちに困っていたようだったが、それでも抜本的な対策を採ることはなかった。私が父の転勤に伴って引っ越しをしてその家からいなくなるその時まで、兎たちはずっと変わらずに畑に跋扈し、作物を齧り、農家に損害を与え続けた。兎たちは常に賢くなり続けていったが、犬も猫も、そして人間も、一向に賢くなることがなかった。私は、引っ越しをした後も、時々あの丘陵地の兎たちのことを思い出した。そして、あの兎たちがさらに賢くなり続けるのならば、そのうち物を喋ったり、字を書いたり、街を作ったりし始めるのではないかと思った。私は兎たちの作る街のことを想像した。街はナントの市街地にそっくりだった。灰色の煤煙の中から、大聖堂の四角い高い二本の塔だけが
一度だけ、私は兎の死体を見たことがあった。というよりも、死体を見たというのではなく、死を見たという方が正しかった。
私はあの時、
その日も私はいくつもの
途中で、私は何にも出会わなかった。小鳥にも虫にも、犬にも、鼠にも兎にも出会わなかった。私は一人だけで緑の海の中を進んでいた。
ひと際大きくて古い
中庭には人影があった。それは若い女性だった。二十歳か、それともそれよりは幾分か若かった。女性は全裸だった。顔は美しかった。肌は透き通るように白く、胸は豊かで、髪の毛は薄い金色だった。女性は、水の張られた大きな桶の中にしゃがみ込んでいた。木の柄がついたスポンジで体を洗っていて、金色の髪は濡れて肌に貼り付いていた。女性が腕と手を動かすたびに、筋肉の筋目が肌の上に浮かび上がった。
女性は、
一方、私は気まずい思いをしてそこに立っていた。母以外の女性の裸を見るのは初めてだった。その時はまだ性というものを知らず、色欲というものも知らなかったが、ただ女性の裸を見て私の心の中には恥ずかしいという思いだけが充満していた。それでも私はその場から動くことができなかった。私はその場にずっと立っていた。羞恥が私を空間に固着させていた。立ったまま、私は女性のことをずっと見ていた。
すると、女性がちょっとだけその頭を傾げて、私に何かを示した。何も話さない。私はその意図を掴みかねた。女性は何度か頭を傾げることを繰り返した。そして、どうしても私が理解しないのを見て取ると、右手を上げ、指先でどこかの空間を指し示した。女性の大きな白い胸の膨らみの向こうに何かが見えた。
それは中庭の地面に置いてあった。それは小さな鉄の
鉄の檻の中で、兎は鼻をひくひくとさせながら、餌の人参を齧っていた。その毛皮は白かった。目は血が漏れたように赤かった。長い耳は檻の低い天井に遮られて歪んで曲がっていた。裸の女性は、右手でそれをずっと指し示していた。私に対して、それを持ってこいと言っているようだった。私はちょっとだけ動いた。女性が微かに頷いた。私はそれから、何かに突き動かされるように鉄の檻へと走った。私が走り寄ると、檻の中の兎が驚いて身動きをし、音を立てた。私は両手で鉄の檻を持ち上げた。それは小さな子どもでも何とか持ち上げられるだけの大きさと重さだった。中ではしばらく兎が暴れていたが、やがて大人しくなった。
女性は私が鉄の檻を持ち上げたのを見て、それまで身を浸らせていた水桶の中から立ち上がった。女性の背は高かった。やはり豊かな起伏のある体つきだった。私はなんとなく、丘の上から眺めるロワール川とナントの市街地のことを思い出した。
裸の女性は日の光を背負っていて、その長い影が私と私の抱える鉄の檻に重なった。女性は裸のまま桶から出ると、井戸へと歩いていった。体から水滴が零れ落ち、中庭の地面を黒く濡らした。女性は井戸の蓋を開けると、滑車と綱と汲み桶を動かして水を汲んだ。そして井戸の脇に置いてあった別の小さな桶に水を注ぐと、それを運んで、それまで入っていた水桶に中身を注ぎ込んだ。女性は何回かそれを繰り返した。歩くたびに女性の体から水滴が落ちていった。女性の体は乾いていった。白い肌は陶器のように輝いていた。何か、人間以外のもののように見えた。私は鉄の檻の重さも兎のことも忘れて、女性のことをずっと見ていた。
やがて、水桶の水位が縁のぎりぎりのところまで高くなった。それは背の高い女性の膝上あたりまであった。女性は無言で頷くと、今度は私に対して頭をちょっと傾けた。こちらに来い、という合図のようだった。私は鉄の檻を置いて女性のところへ行こうとした。すると女性は、すぐに首を左右に振った。訝しんで、私が鉄の檻をまた持ち上げると、女性はまた軽く頷いた。どうやら檻をこちらに持ってこいということのようだった。私が檻を運び始めると、女性は無表情のまま私を見つめていた。
私は女性のすぐそばに鉄の檻を置いた。女性は私の両肩に手をやった。服の上から分かるほど、女性の手は冷たかった。私は、女性が私に対してその場に立っているように言っているのだと理解して、そのとおりにした。女性がいったい何をしようとしているのか、私にはまったく予想ができなかった。女性は私のすぐ傍に立っていた。何回か私の髪の毛を指先で軽く撫でると、今度は自分の髪の毛を指先に巻きつける。女性の素肌からは、何か冷たい気配のようなものが漂っていた。私は女性を見上げた。女性も私を見下ろしていた。逆光になっていてその顔はよく見えなかったが、相変わらず無表情であることはよく分かった。
そうして何分経ったのか、私には分からなかった。突然、女性は動いた。女性は、傍らに置いてあった兎が入ったままの鉄の檻を持ち上げると、それを水が満々と張られた桶の中へ静かに沈めた。
小さな水飛沫が上がった。水はすぐに檻の中を満たした。私は息を呑んでそれを見ていた。檻の中の白い兎は、突如として身の回りに水が迫り、空気がなくなったことに恐慌を起こしていた。水の中の狭い檻の中で、兎はもがいていた。ひたすらに身悶えしていた。いくつかの大きな水泡が兎の口から桶の水面へと浮かび上がっていた。兎の呼吸器から急速に空気と酸素が失われているのが分かった。
私は思わず声をあげ、兎を助けようとした。だが、私が体を動かしかけると、後ろから女性に抱きとめられた。強い力だった。女性は両手を私の胸の前に回していて、私の動きを制していた。私が振り返って顔を見上げると、女性はちょっとだけ私の目を見つめた。緑色の目だった。新緑よりも透き通っていて、
水桶の中では、まだ兎がもがいていた。だが、その動きはだんだん弱まっていた。兎の口から出てくる水泡は、時間が経つにつれて小さくなっていった。私は女性に抱きとめられたままだった。女性の腰のあたりに私の後頭部が接していた。女性は、兎が完全に動かなくなるまで私を押さえたままだった。なすすべなく私はその場で釘付けになっていて、ただ兎が窒息していくのを見ていた。何度か、私は女性の顔を見た。女性は無表情のままだった。無表情のまま、女性は兎が窒息していくのをじっと見ていた。
数分が経って、兎の動きは完全に止まった。最後に一つだけ、それまでよりも一回り大きな水泡を口から出すと、ついに兎の体から魂が剥がれた。水中の檻の中で、動かなくなった白い兎の体が左右に細かく揺れていた。もう動かなくなった口から何か赤い欠片が出てきて、桶の水面に浮かんだ。それは、直前まで兎が食べていた人参の欠片だった。
兎の死を認識した瞬間、私はその場から飛び跳ねるようにして離れた。女性はもう、私を押さえつけてはいなかった。私は女性の顔を見た。
女性はまったくの無表情だった。それは、先ほどまで窒息していく兎を見ていた時と同じ顔だった。その同じ顔で、今度は私のことを見つめていた。何もその顔から読み取ることはできなかった。濡れた金色の髪はもう乾いていて、微風に数本の髪の毛が揺れていた。大きな白い胸が地面に尖った影を作っていた。ようやく私は怖ろしくなって、走って逃げ始めた。そこへ入ってきた時と同じ穴から
家に帰った時には、空は暗くなっていた。夕闇の中で、私の家は暗く沈んでいた。窓からは仄かな白い光が漏れていて、その中で誰かが動いているのが見える。煙突から出ている薄い煙がオレンジ色の残光に照らされていた。涙の中で、私の家はぼやけて滲んでいた。ドアまでの短い距離が、奇妙なまでに遠く感じられた。
それからのことを私は覚えていない。冬の直前まで私はナントにいた。父はまた転勤となった。マルセイユへ私と私の家族はまた引っ越しをした。マルセイユには
引っ越すまで、あの女性に会うことは二度となかった。兎の死も、あれ以来見ていない。
(「兎」おわり)
今回の話を書くにあたって、ナントについて改めて調べました。意外と大西洋の近くにあるんですね。ボカージュの広がる丘、一度現地に行って見てみたいですねぇ。久しぶりに裸の女性を書いた気がします。次回からはもっと字数を減らしたい……