朝からはっきりとしない天候だった。どんよりと曇っているのにどこかから日が差していて、気温は低くないが時折冷たい風が吹く。前日よりも最高気温は五度下がっていた。
起きた時から薄い頭痛が続いていた。関節も痛んでいた。いつものことだった。
私は
杖をついた真っ白な頭の腰の曲がった老人が、大きな木の
私は老人を見た時、なんとなくだが、転倒すると思った。思ったというより、きっとそうなると確信していた。
老人はしっかりとした足取りで、杖も使っている。老人だからといって転ぶとは限らない。むしろあの老人は、他の老人と比べても転倒する可能性は低い。しかし、私は転ぶと確信していた。しばらく私は老人を観察した。老人は大きな木の傍を抜けて、集合住宅の管理事務所の方へ歩いていった。老人の歩みは確固としていた。私は、自分の思い込みに過ぎなかったのかと思った。
建物の陰に老人が入ろうとし、こちらから見えなくなるその瞬間だった。老人が姿勢を崩すのが見えた。急に足に力がなくなり、杖が手から離れて、尻もちをつくようにして地面に倒れた。老人から声は聞こえなかった。
近くにいた人たちが老人に駆け寄っていくのが見えた。私はベランダから家の中へ戻った。今日はそういう日になりそうだ。私は寝間着を脱ぎながらそう思った。
そういう日……どういう日? 転ぶ日、誰かが転ぶ日、転倒する日……そういう日になる。
もちろん、今こうして私が生きて呼吸をしている真っ最中でも、この世界のどこかでは誰かが転んでいるだろう。転んで頭を打ったり、腰を痛めたり、骨折したりしているだろう。
だが、今日の転倒はなんとなく違いそうだった。それはすべて私の目の前で起こるだろう。私はほとんどそう確信していた。自分でも、なぜそのように確信しているのかは分からなかった。ただの思い込みにしては無視できないほどにあまりにもその気持ちは強かった。しばらく私は考えた。そして、今日の私は一段と調子が悪いのだろうと私は分析をした。この十年ほど、私はずっと調子が悪かった。だから、今日一日調子が一段と悪かったとしても、何も不思議ではなかった。
私の中では二つの気持ちが併存していた。ひとつめは、今日は転倒を見ることになるという気持ちで、ふたつめは、これは自分の不調に由来する単なる思い込みであるという気持ちだった。後者が前者を打ち消すことはなかった。単なる思い込みだと知りつつも、私は今日数多くの転倒を見ることになると確信していた。
洗面をし、歯を磨いている間も、私の中で「転倒」という言葉が反響し続けていた。どのような転倒を目の当たりにするのだろうか。そのように思っていながら、私は自分がそのことにさして興味を抱いていないことに気が付いた。というよりも、これ以上興味を抱くまいとしている心の作用を感じていた。
だが、それでも、転倒の種類については勝手に妄想が広がった。あまり程度の良い妄想ではなかった。転ぶ、道で転ぶ。血や涙や悲鳴、負傷や、あるいはそれよりももっと酷いことが……まさに転倒によって起こるかもしれない。私はのろのろとした動きでシャツを着て、ズボンを履いてベルトを締め、ネクタイを巻いてからネクタイピンをつけた。
上着を着てから、私は茶を一杯口に含んだ。私はもう一度ベランダに出て広場を見た。もう誰も広場にはいなかった。老人もいなくなっていた。ということは、あの老人の転倒はさして酷い結果にはならなかったのだろう。私はそう思った。もしかすると、私が今日目撃することになる転倒も、あまり酷い結果にはならないのかもしれない。私は自分の気分がやや上向きに転じるのを感じた。
時間になった。私はカバンを持って家を出た。鍵を閉めるとき、私は何回も自分が鍵を閉めたか確認した。何回もドアノブを回して、鍵がしっかりとかけられているか確認をした。それでも、私は家のドアの前から離れ、下へと通じる階段に差し掛かった時に、自分はちゃんと鍵をかけたのだろうかと不安に思った。鍵をかけている時……自分はちゃんと鍵をかけることに集中していただろうか? 何か余計なことを……そう、転倒のことなどを考えていて、鍵をかけながら鍵をかけることを忘れていたのではないだろうか? できることならばもう一度引き返して確認したかった。だが、私は引き返さなかった。
私は階段を降りていった。コンクリートが打ちっぱなしの階段には、ところどころに小さな亀裂が走っていた。白い壁には分厚く埃が付着している。潰れた蠅の死骸が壁の下の方に張り付いていた。照明は暗かったが、足元はしっかりと見えた。
私はふと、誰かが転倒するというのならば、自分も転倒するのではないかと思った。というよりも、自分も転倒しなければ話が合わないと思った。転ぶのならばいつだろう、と私は思った。
階段はまだ続いていた。この階段で転ぶのだろうか? だが、階段は間もなく終わった。地上階の階段の入口には、「禁煙」と書かれたラミネートフィルムの貼り紙がしてあった。もう一年以上も貼り紙は貼られたままだった。
集合住宅のエントランスには誰もいなかった。私はポストを確認した。何も入っていなかった。ポストの前を通り過ぎ、ドアのない開放式の入口から外へ出て、車椅子用のなだらかなスロープに差し掛かった時、私は、ポストの中に何か大切なものが入っていたのを見落としたのではないかという気持ちになった。ただちに確認すべきもの、ただちに読んで、返信をしなければならないもの、督促状、通達、出頭命令……そういうものが入っていたのに、自分は確認をし損ねたのではないか? 私は戻りたかった。それでも私は戻らなかった。それが自分の単なる思い込みであることを私は知っていた。
もしかすると、この転倒ということも、鍵やポストと同質の単なる思い込みであるのかもしれない。歩きながら私はそう思った。左側には私の住んでいる集合住宅の高い棟が建っていて、曇った灰色の空を直線に区切っていた。下の植え込みには草花が植えられていた。濃い青のムスカリの花が咲いていた。その周りに、タンポポの黄色い花が咲き乱れていた。明らかにタンポポは侵入者として花壇に咲いていた。だが、ムスカリの青色とタンポポの黄色は調和していた。
さらに歩いていくと、例の広場に出た。広場の入口にはコブシの木が立っていた。コブシの花はここ数日の嵐ですべて散ってしまっていた。梅の木もあった。梅の花はとうの昔に盛りを終えていた。広場の左手方向には、駐車場と、別の居住棟と、それよりは背の低くて小さな管理棟があった。誰も歩いていなかった。私はちょっとだけほっとした。
私は広場に入った。広場の石畳はところどころが破損していた。真ん中の大きな木は若葉を纏い始めていた。私はその木の名前を知らなかった。木の名前を知らないということが一つの罪のように感じられた。私はその木の名前を調べるべきだった。それでも私はいつまで経ってもそれを調べようとはしなかった。木を見るたびに私はなんとも言えない気持ちになった。私は木を右手方向に見ながら広場を抜けていった。目の前にはピンク色の外壁の別の居住棟が聳え立っていた。冷たい風が広場を吹き抜けた。私は寒いと思ったが、同時に、寒いと思っているのは私の思い込みに過ぎないと思った。
広場は細長くなってさらに続いていた。私は管理棟の角を曲がった。子どもの小さな遊び場がそこにはあった。砂場があり、遊具がある。小さな子どもとその母親が砂場で遊んでいた。砂の上にプラスチック製の玩具がいくつか転がっていた。小さな子どもはうずくまって砂をいじっている。母親は少しだけ離れたところからそれを見ている。
突然、小さな子どもが立ち上がり、母親に向かって駆け出した。私は、転倒すると思った。すぐに子どもはプラスチック製の玩具を踏んでつまずき、砂の上に倒れた。子どもはしばらく倒れたまま動かなかった。泣き声も上げなかった。母親がすぐに近寄って、子どもを抱き起こして慰めの言葉をかけ始めた。そこで、ようやく子どもが泣き始めた。私は、母親が慰めたから子どもが泣いたのだろうかと思った。
子どもの泣き声と母親の声を後ろで聞きながら、私はさらに歩いていった。広場の出口はさらに別の居住棟の下に作られていて、そこを通り抜ければ小さな商店とクリニック、薬局、小料理屋が連なっている通りに出られるようになっていた。そのまま私は出口から通りに出た。
通りには多くの人が歩いていた。普段着姿で犬を散歩させている人もいれば、スーツ姿で駅へと向かう人もいた。子供連れもいた。自転車に乗っている中学生もいた。だが、老人の方がやはり多かった。私はバス停に向かって歩いていった。郵便局の前には自転車が何台も止められていた。シャッターの下がった小料理屋には貼り紙がしてあった。黄色い貼り紙だった。遠くからでは何と書いてあるのか分からなかった。
交差点では一人の老婆がカートを押しながらのろのろと歩いていた。そこへ、一台の白いワゴン車が侵入してきた。ワゴン車の運転は荒かった。ギリギリのところで車は老婆を回避して、そのまま走り抜けていった。私は、老婆が転倒すると思った。だが、老婆は転倒しなかった。老婆はそのまま、何事もなかったかのような顔をして交差点をわたって道の向こう側へ歩いていった。ワゴン車はすでに走り去って遠くにいた。
老婆は古着屋の前にさしかかった。そして、何の前触れもなく押しているカートごと左へ倒れた。もし右に倒れていたら、走ってきた車によって頭部を轢かれていただろうと思われた。老婆の顔が少しだけ見えた。老婆は、やはり自分はワゴン車が来た時に転ぶべきだったのだというような顔をしていた。すぐに周りの人々が老婆に近寄った。私はそのまま先へ歩いていった。早くバスに乗らねばならなかった。
中華料理屋の前を通り、信用金庫の前を通り過ぎた。クリーニング店があり、
小さな商店街を抜けると、細長い道の両側には住宅街が続いた。電信柱も続いていた。電線の上にはハトが何羽か止まっていた。遠くの空に双発のジェット旅客機が飛んでいた。どこの空港に向かっているのか、あるいはどこの空港から飛び立ったのか、私には分からなかった。空はますます曇っていた。どこかから差していた日も消えた。道の左側には大きな料亭があった。植え込みの草花は綺麗に手入れがされていた。料亭は繁盛しているようだった。料亭の隣には葬祭場があった。ただし、火葬場はここにはなかった。遺体を
葬祭場の隣にはコンビニがあった。コンビニの広い駐車場へ自転車に乗った若い男が入ってくるのが見えた。男はくすんだ金髪で、灰色のパーカーとクリーム色のスエットのズボンを履いていた。耳には白いワイヤレスイヤホンが入っていた。男の目は虚ろだった。私は、転倒すると思った。
その時、それまで止まっていた車が急にバックした。男はそれに一瞬遅れて気が付いて、一瞬遅れてブレーキをかけた。車が自転車を轢くことはなかったが、男と自転車は転倒した。金属とアスファルトとが擦れる音がした。男は完全に転んだわけではなかった。自転車を抱えるようにしていて、膝を地面につけていた。男の顔が見えた。何か納得したような表情を浮かべていた。店から店員が二人出てきて、男の方へ駆け寄るのが見えた。私はそれを
コンビニの向こうはまた交差点になっていた。交差点には美容院と和菓子店と、主に自動二輪を取り扱っている小さな修理工場があった。美容院の前の柵に、学童保育員を募集しているオレンジ色のポスターが貼ってあった。ポスターは風雨に晒されて朽ちかけていた。「子どもたちが大好きな人」という文言だけが読み取れた。私はさらに歩いていった。子どもたちが駆け足で私を追い抜いていった。リュックサックを背負った中年の男性が自転車に乗って前から来た。
歩いていくと、左に理髪店の看板が見えた。理髪店は最近改装工事を終えたばかりだったが、変わったのは看板の色だけだった。その理髪店は清潔で、さっぱりとしていて、活気があった。だが、私はその店を利用していなかった。さらに進んでいくと、青い小さな看板を出した
また交差点に差し掛かった。交差点の右前方には健康センターの赤茶色の建物が見えた。それ以外の角にはアパートが立ち並んでいた。どのアパートも外壁の塗装が剥げていて、外廊下につながる階段の裏は錆びていた。剥がれた塗装面が衰えた皮膚のように垂れ下がっていた。私は交差点をわたった。
健康センターの入口付近には、牛乳パックやプラスチック製のトレー、容器、ペットボトルの蓋、
健康センターの隣には畑地が広がっていた。畑の向こうには神社があった。神社の周りには鎮守の森とも言えないほど小さな林があって、それに遮られていて本殿は見えなかった。畑には何も植わっていなかった。小さな木造の納屋の入口が開いていて、そこから青い車体の小型トラクターが顔を覗かせていた。
畑と道を隔てている鉄柵の土台に、何か落書きがしてあった。「FUCK THIS LIFE」と書いてあった。この「LIFE」は生命なのか、それとも生活なのか、あるいは人生なのか、今一つ判然としなかった。おそらくこの落書きを書いた人間にもそのことは分からないのだろうと私は思った。私はまったく落書きに共感できなかった。落書きは黒いスプレーで書かれていた。
畑が終わると、また交差点に来た。もうバス停はすぐそこだった。私は左へ曲がった。その角には一軒のコンビニがあった。スマホを見つめたままの一人の若い女がコンビニから出てきた。黒い髪の毛はぼさぼさで、
そこへ、一台の自転車が来た。老人が乗っていた。自転車は女のスマホを轢いた。案外重い音が響いた。女はその場に倒れたまま動かなかった。老人はそのまま走り去っていった。私はどうすべきかしばらく思案した。だが、その時にはバスが右から来ていた。緑の車体のバスの表示板は、それがまさしく私が乗ろうとしているバスであることを示していた。私は大急ぎでバス停へ向かった。ちょっと見ると、女は立ち上がりつつあった。バスは、先ほど老人が轢いたスマホをもう一度轢いて、バス停へ向かって走ってきた。
バス停は不動産屋の目の前にあった。周りには塗装会社や、リフォーム業者や、荒物屋が並んでいた。酒屋も近くにあった。植え込みには折り畳み式の缶ゴミの回収ボックスが置かれていた。何かの花が咲いていた。花の名前を私は知らなかった。私がバス停の前に辿り着いたのとほぼ同時に、バスが大きく車体を揺らして停まった。ドアが開いた。運転手のどこか気だるげな声が車外マイクから響いた。私はバスに乗り込むと、運賃箱にICカードをタッチした。
車内は薄暗かった。どの窓も半開きになっていた。バスはあまり混んでいなかったが、空いているわけでもなかった。少なくとも、座席はすべて埋まっていた。私は座りたかった。私はあまり調子が良くなかった。私はもう一度車内をよく見てみた。後部デッキ最後尾の複数人掛け、その前に並んでいる二人掛けにもすべて人が座っていた。前部デッキの座席も埋まっていた。優先席にも人が座っていた。どの乗客もスマホを見ていた。私は立つことにした。立っている乗客は他にも何人かいた。小さな階段を登って後部デッキの狭い空間に立つと、私は白いつり革に捕まった。バスは発車した。
バスは走っていった。次のバス停は書店の前にあった。書店の横には書道教室があった。教室前のガラス窓には習字が貼ってあった。「生命力」「高い山」「あお」「春桃散紅煙」などが見えた。バス停では四人が新たに乗った。降りる人間は誰もいなかった。四人は前部デッキでつり革と手すりに掴まった。
バスは道を右に曲がった。そこは駅前通りだった。左側には高架になった鉄道線路が走っていた。一分も経たずに次のバス停に着いた。そこは小学校の前だった。高架下には自動車の整備工場があった。「baby in car」の丸いステッカーが貼られた車が、大破した状態でヤードに置かれていた。バス停ではさらに五、六人が乗ってきた。降りる人間は誰もいなかった。次第に車内は人で充満してきた。
次の交差点でバスは左に曲がった。そこは複数車線もある大きな環状線だった。バスは速度を上げて環状線を走っていった。大型のトレーラーやトラックがバスの横を走っていた。乗用車はあまり走っていなかった。数分も経たずに、中学校の前のバス停でバスは停まった。そこではあまり人は乗ってこなかった。
またバスは数分間走った。次のバス停は鉄道の駅に接続するところだった。数えきれないほど大勢の人間が乗ってきた。みるみるうちにバスの内部の空間はなくなっていった。前部から乗ることができなくなって、運転手は後部の降り口から乗るように車外で待っている人に向かって呼びかけた。三人ほどが後ろから乗った。他の人々はバスに乗るのを諦めた。
バスは満員だった。私が立っている後部デッキにも人が満ちていた。私は身動き一つできなかった。
窓には細かな水滴が付き始めていた。街路樹が揺れていた。強い風が吹いているようだった。道を歩いていく人々が慌てたように駆け出していった。一人の制服姿の女の子が走っていた。私は、転倒すると思った。次の瞬間、女の子は転んだ。風に吹かれた木の葉のように女の子は転んで、地面に倒れた。すぐに女の子は見えなくなった。バスは速度を増していた。
次のバス停まではまだ距離があった。バスは、環状線と大きな自動車道が合流するところまで来た。見渡す限り車の群れが広がっていた。信号は青のままだった。バスはさらに速度を上げてそのまま合流点へ突き進んでいった。車の群れの中にバスは入った。
その時、突如として、私は転倒すると思った。
バスは満員だった。その瞬間が訪れるのを私は待った。それは確実に来るはずだった。私だけではなかった。私は、私の周りのすべての人々がつり革と手すりを掴む力を強くしたのを感じた。全員が静かに身構えていた。しかし、誰も声を出さなかった。
車内の全員が、その瞬間が訪れるのを待っていた。私は、もしかしたらこの世のすべての人々は、自分が転倒する瞬間をあらかじめ知っているのかもしれないと思った。あの杖をついた老人も、砂場の子どもも、カートを押した老婆も、コンビニの若者も、スマホの女も、あの女の子も、すべて……
外では雨が降っていた。右の横合いから、大きなトレーラーが真っ直ぐ近づいてくるのが見えた。トレーラーはスピードを緩めなかった。銀色のバンパーが雨の中で鈍く輝いていた。
(「転倒」おわり)
今回の話で書かれた「転倒」はどれも私が実際に目にしたものです(ちょっと脚色されています)。流石にすべてが同じ日に起こったわけではありませんが……ヤダ、私の周り、転ぶ人多すぎ!? こういうタイプの小説は書いていて楽なのですが、どうしても字数が多くなりますね。