フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

17 / 50
17. 狼

 巨人族(ギガンテス)たちは凶暴で残忍だった。彼らは遥か高みにある天上の神々の国を攻略しようと思い立ち、空高くにまで山々を積み重ね始めた。ついに彼らは巨大なペリオンの峰を、それよりも大きなオッサ山の上に重ねた。

 

 あともう少しで、巨人族たちは天上の国に手が届くところまで来た……そこで、彼らの夢と努力は潰えた。父なる全能の大神(たいしん)ユピテルが雷霆(らいてい)を投げつけてオリュムポス山の頂を砕き、その破片を重ねられたペリオンの峰に直撃させ、土台のオッサの山から揺り落としたからだった。巨人族たちは崩れてきた山塊の下敷きになって全滅した。

 

 だが、巨人族(ギガンテス)たちは本当に滅び去ったわけではなかった。大地には彼らの血が残っていた……圧し潰され、粉々となり、四方に散乱した彼らの肉体の残骸から、真っ赤な血が滲み出ていた。自身の体が赤く染まるのを感じた大地は、まだ温かさの残る血液に生命力を分け与えた。血を含んだ土は次第に小さな巨人の形を纏った。

 

 こうして人間が誕生した。

 

 精神的な意味でも、人間は巨人族の末裔だった。彼らは凶暴で残忍だった。神々を侮り、戦争と紛争を好み、殺戮と虐殺を楽しみ、暴力を振るって財貨を略奪した。瞬く間に人間たちは大地の隅々にまで増えていった。彼らは繁殖力に優れており、知恵があった——巨人族(ギガンテス)のように。酷寒の雪原にも灼熱の砂漠にもすぐに彼らは適応した。そして、相変わらずその地においても暴虐の限りを尽くした。

 

 天上の国から、神々は地上の光景を眺めていた。すべての神々が憂いを表情に浮かべて、しきりに溜息をついていた。中でも、大神ユピテルの嘆きは深かった。大神は長く、大きな溜息をついていた。溜息が止むことはなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 アルカディアの王リュカオンは、眠れぬ夜を過ごしていた。壮年期を迎えたばかりの彼の肉体は若々しく、筋肉は力強く盛り上がっていて、肌は浅黒く日焼けしていた。黒髪は艶々としていて、髭は濃く、目には支配者として生まれついた者に特有の力があった。それでも彼はその夜、自身の寝台の上で、この世で最も弱い存在であるかのように力なく横たわっていた。

 

 眠れない。目を閉じても眠れない。体は硬直していて、しかし思考だけが素早く働いている。倒すべき敵のこと、(こぼ)つべき敵の砦のこと、敵の抱えている膨大な財貨のこと、昨日試したばかりの陰謀のこと、処刑した臣下のこと……いろいろなことを彼は考えていた。

 

 処刑した臣下のことを考えた時、リュカオンはそれまで落ち込んでいた気分が少しだけ上向きになるのを感じた。その臣下は彼が自ら処刑したのだった。凝った処刑法は採用しなかった。彼は、即座にその臣下の首を刎ねた。ただし、彼はわざと狙いを外した。臣下の首は一撃では落ちなかった。刃は首の骨の中ほどで止まっていて、中途半端に斬られた肉と皮で頭部と肩はいびつにくっついたままだった。垂れ下がった頭部では、目と口が開いたり閉じたりしていた。

 

 それでも自分はあの時、何か物足りないものを感じたのだ。リュカオンは眠ろうと努力しつつ、そんなことを思った。何度も刃を振り下ろして首を完全に切断した時、彼は満足感など覚えていなかった。ただ、疲労感だけがあった。当初の目論見では、処刑はもっと楽しいものになるはずだった。

 

 なにか、ヒントはないだろうか。リュカオンは目を閉じたまま考えを巡らせた。そして、あの時の臣下の目は何か示唆的だったように感じた。臣下の目には濃い絶望感が込められていた。

 

 あれを見た時、自分は確かに、何か感じるところがあった……だが、快楽には至らない。

 

 自分の快楽の源は、いったい何なのだろうか? リュカオンはますます眠れなくなった。思えば王になって以来、彼はずっとそれを探していたのだった。そのために彼は何度も戦争をし、略奪をし、処刑を繰り返したのだった。それでもまだ彼は、快楽の根源を見出すことができずにいた。

 

 足が火照っていた。火で炙られているようだった。縛り付けられたように、リュカオンは身じろぎもせずに寝台の上にいた。もう数時間も彼はずっとそうしていた。

 

 やがて、疲労のためか、リュカオンの意識は朦朧としてきた。彼は妄想とも夢ともつかないものを見始めた。いつものことだった。

 

 何かが山野を歩いていた。それは人の影だった。遠くから見ると、それは日の光のように輝いている。だが近くに寄ると、それはただの人間にしか見えない。風に乱れた髪は白く、肌には灰色の染みがある。骨と筋だけのやせ衰えた肉体をすっぽりと簡素な白い外套が覆っていて、手には大きな木の杖を持っている。その見た目に反して身動きは俊敏だった。

 

 老人の目は怖ろしいばかりに光っていた。リュカオンは、これまでに自分が倒してきたどのような猛獣、どのような敵であっても、このような(まなこ)を持っていなかったと思った。すべてを貫き通すかのような目だった。老人は器用に杖を操りながら、飛び跳ねるようにして巨大で角ばっている白い岩々を越えていく。リュカオンはその光景に見覚えがあった。ここはおそらく、怖ろしい野獣のねぐらとなっているマイナロスの山々だろう。つい数年前にも、リュカオンはここで狩りをしたことがあった。

 

 やがて、老人は山頂に辿り着いた。ガスのように薄い靄が岩肌を撫でていた。老人は山頂から下界へ向けて身を投げた。それはあたかもひとつの呼吸するかのように、ごく無造作でさりげない動きだった。

 

 老人はしばらく宙を舞った。彼は山の下から吹き上げてくる風に乗っていた。だが次第に揚力を失って、その体は高い虚空から真っ直ぐに落下し始めた。数十秒後に、老人は山の麓の岩地に落ちた。同時に、老人の体はバラバラになった。だが、肉も血も飛び散らなかった。光の粒子だけが放散された。爆発したかのように周囲の空間にまき散らされた光の粒子は、また集まり、一人の人の形を成した。そこにはまたあの老人が立っていた。元の姿とまったく変わっていない。

 

 目に力を宿らせて、再度老人は歩みを始めた。老人はもう一つ山を登った。今度は緑の濃いキュレネの峰だった。山頂に到達すると老人は身を投げた。老人は下界の地面に叩きつけられ、光の粒子となり、また再生した。

 

 老人はまた山を登った。そこは冷たい風の吹くリュカイオスの山だった。松林の中を飛ぶようにして老人が走っていった。

 

 ようやくリュカオンは、老人がどこを目指しているのかが分かった。老人はアルカディアの(まち)を目指している。アルカディアの、自分がいるこの宮殿を。

 

 リュカイオスの山を越えれば、そこはもうアルカディアだった。老人が松林を抜けた。山頂に辿り着くと、老人は眼下の光景を見下ろした。そこには繁栄を極めているアルカディアの(まち)が広がっていた。老人は外套を脱いで素裸になると、杖を置き、そして胸を張った。胸からは神々しい光が発散され始めた。光はアルカディアの市を照らした。ちょうど黄昏が夜に変わろうとしている時間で、人々は自分たちの家へと急ぎつつあった。突如として全市を光が包んだのを目の当たりにして、人々は祈りを捧げ始めた。神が降臨したのだということを人々は悟っていた。

 

 老人は山頂で光り続け、人々は祈りを続けている。リュカオンは、夢を見ながら凶暴な笑みを浮かべた。彼は人々の敬虔な祈りを嘲笑した。そして、あの老人が神なのか、それともただの光る人間なのか、はっきりとした見分け方で吟味してやろうと思った。どのみち、真実というものは一つでしかない。死ぬか、死なないかだ。

 

 そして自分は、死なせることができる。ちょっとだけ、自分の右腕が痙攣したかのように動くのを、眠りながらリュカオンは感じた。それは快楽の予感だった。彼は愉快な気分のまま夢を見続けた。

 

 やがて、老人は山を下りてアルカディアの市に入った。高く分厚い城壁が市を囲っていた。巨大な門はすでにその鉄扉(てっぴ)を固く閉ざしていたけれども、老人がほんの少し手をかざしただけで、あたかも風に煽られる布地のように開いてしまった。老人は大通りを抜けて広場を通り、広場の向こうに広がっている丘へ向かった。丘には神殿があった。老人は神殿を横目で見ながら、参拝することもなくそこを通り過ぎた。丘の麓には宮殿があった。宮殿は金と銀と宝石で装飾されていた。老人は宮殿に入った。

 

 さて、やって来たぞ。リュカオンはほくそ笑んだ。これからどうしてやろうか。彼は考えを巡らせた。最初は、この老人を遠来の客人として丁重にもてなしてやろう。油断をさせてから絡め()って、それから拷問にかけてやる。長い時間をかけて死に至らしめる……その方が、快楽が増す。

 

 だが、それでどうする? リュカオンはその時、冷めたような気分になった。たぶん、そんなことをしても、自分が快楽を覚えることはない。快楽はいつも予感の段階に留まっていて、本当の形と中身を纏わない。この老人を拷問して処刑したところで、本当の快楽は……

 

 リュカオンがそう考えている間にも、老人は滑るような足取りで、広壮な宮殿の中をどんどん進んでいった。

 

 数分も経たずして、老人は宮殿の大広間に入った。大広間では、リュカオンが玉座に腰かけていた。玉座は一つの巨大な白大理石を掘り出して、流麗な彫刻を施したものだった。夢を見ているリュカオンは、夢の中に自分自身が出てきたのを見て意外に思ったが、すぐに気を取り直した。このようなことはよくあることだ。

 

 夢の中のリュカオンは老人に対して丁寧な言葉遣いをし、恭しい態度で寝室へと案内した。老人は無言で案内に従った。

 

 やがて、寝室に入った老人は寝台の上で眠り始めた。大広間のリュカオンは特に体格と武芸に優れていて凶悪な性格をしている部下を三名選ぶと、老人の寝室へ送り込んだ。部下たちは短剣を手にして寝室に入った。彼らは躊躇することなく寝台の上の人物に向かって短剣を振り下ろした。

 

 そこでいきなり場面が飛んだ。すでに朝になっていた。リュカオンは、大広間のリュカオンが苛立たしげな様子で、三人の部下たちから報告を聞いているのを見ていた。部下たちはしきりに釈明しているようだったが、リュカオンはそれをほとんど聞き入れなかった。彼は部下たちを退出させた。そして、傍に控えていた召使いに命じて、老人を広間に連れて来させた。

 

 老人が現れた。リュカオンは老人を座らせると、手ずから容器にまだ湯気の立っている肉のシチューをよそってやった。夢を見ているリュカオンはそれを見て嬉しそうな笑みを浮かべた。老人を饗応(きょうおう)しているリュカオンの方も、まったく同じような笑みを浮かべていた。夢を見ているリュカオンは、夢の中のリュカオンが自分とまったく同じことを考えているのに気づいた。さて、この料理で、この老人が本当に神かどうかが判明するぞ……なにせ、この肉は……

 

 老人は食うだろうか? それとも食わないだろうか? 今度こそ、快楽は予感の域を超えるかもしれない。胸躍る気持ちを抑えきれないまま、リュカオンは夢の中で広がっている光景に見入っていた。

 

 突然、老人が憤然としてその場に立った。立ち上がった老人の体は瞬時にして巨大化し始めた。夏の空に積乱雲が湧き起こるようだった。大きくなった体は紫色の電撃を放っていて、雷電の細かな粒子が白い髪の毛の先から盛んに放出されている。見る見るうちに老人の背は天井を支えている(はり)にまで届いた。

 

 リュカオンは狼狽して逃げ惑い始めた。彼は老人を振り仰いで見た。老人はすでに老人ではなかった。老人は若返っていた。若者は美しく、精悍で、怒りに満ちた表情を浮かべている。若者が大きな手を伸ばすと、大広間の向こうにあった調理場が粉砕された。若者はそこから何かを掴みだした。それは銅製の大鍋だった。

 

 煮えたぎったシチューが詰まった大鍋の中には、一人の男が入っていた。男の四肢は切り落とされていて、喉には深い切れ込みが入っていた。だが……男はまだ生きていた。熱によって皮膚も目も溶け落ち、真皮が剥がれて赤い筋肉が剥き出しになっていたが、男はまだ生きていた。男は低い呻き声を上げていた。それは先日アルカディアへ、人質としてモロッシアの国から送られてきた王子だった。

 

 電撃を纏った巨大な若者はモロッシアの王子を蘇生させると、天空を吹き抜ける風のように大きな息吹を送り、王子を故国へと送り返してやった。そして、右手に白く輝く雷霆(らいてい)を掲げ持つと、宮殿の天井へ向かって(ほう)った。

 

 途端に大爆発が起こった。宮殿は瞬時にして粉砕され瓦礫の山となった。のみならず、アルカディアの市も炎上して全壊した。広場も家々も、要塞も、門も、商店も倉庫も、すべてが灰となった。ただ神殿だけが燃え残っていた。絶海の孤島のように神殿だけが炎の海で揺れていた。

 

 リュカオンは息を呑みながら夢の光景を見ていた。今まで、彼は幾度となく眠れない夜を過ごしてきた。そのたびに彼は気絶したようになって、妄想とも幻覚ともつかぬ夢を見てきたのだった。だが、このような悪夢を見るのは初めてだった。アルカディアの人々は死に絶えていた。兵士たちも奴隷たちも、すべてが炎の中で灰と化していた。ただ燃えて灰になるのではなかった。彼らはまず小さな雷によって四肢が切り落とされ、喉に切れ込みが入れられた後、皮膚を剥がされた。そして、炎によってじっくりと焼かれていくのだった。あたかも、彼自身が調()()をした、あのモロッシアの王子のように。

 

 悪夢だとリュカオンは思った。だが、彼は本当は自分がそのようなことを思っていないことに気が付いた。彼の顔は笑っていた。眠っている自分の表情が強い喜悦(きえつ)に歪んでいて、口角が吊り上がり、犬歯が伸びて外に出ているのを彼は感じた。のみならず、彼は自分の性器が勃起しているのを覚えていた。アルカディアの人々が電撃によって解体され、生きたまま火炙りにされていくのを、彼は性的興奮と共に眺めていた。ありがたいことに、殺戮はなかなか終わらなかった。

 

 快楽に達しつつあった。リュカオンは両方の目を見開いて殺戮を見ていた。だが、快楽はなかなか絶頂に達しなかった。

 

 突如として場面が切り替わった。夢の中のリュカオンは、炎上するアルカディアの市から逃げ出していた。市はもはやひとつの巨大な火の玉となっていて、熱さから逃れるためにアルカディアの王は衣装も脱ぎ捨て、装身具も外し、下着だけの姿になった。

 

 王は、逃げ続けた挙句にどこかのひっそりとした田園へと来た。だが、王は逃げきれなかった。巨大な若者がすぐそこに立っていた。若者の目は燃え盛るように光っていた。すでに時刻は夜を迎えていて、濃い闇の中で巨大な若者の体が薄く銀色の光を纏っているのが見えた。手には雷霆(らいてい)を持っている。

 

 田園の真ん中で、リュカオンは声を上げようとした。若者に対して呪いの言葉を吐こうとした。だが、声は出てこなかった。喋ろうとしても人間の言葉が出てこず、彼は(けだもの)のような吼え声を上げるだけだった。夢を見ているリュカオンは、それをもどかしく感じた。夢の中のリュカオンは声にならない声を上げながら、今では下着すらも脱ぎ捨てて、獣のように手足を立てて大地を走り始めた。顔は狂気で染まっていた。田園の向こうで体を休めているヒツジの群れが目に入ると、リュカオンはそのまま突入していった。

 

 ヒツジに噛みつき、肉を噛みちぎり、毛皮を裂いていくにつれて、リュカオンの体は変化していった。腕は灰色の毛がびっしりと隙間なく生え、鋭く爪が伸びた。腕は次第に脚へと形を変えていった。顔も変わり、耳が伸び、歯はすべて肉を裂くための牙となった。

 

 リュカオンは、今や狼になっていた。狼になったリュカオンの目には、色濃く絶望感が漂っていた。

 

 夢の中の自分自身が狼となったのを見て、リュカオンは、自身の性的興奮が絶頂に達したのを感じた。

 

 夢の中では取り返しのつかないことが起こっていた。もはや彼が狼から人間へと戻ることはできなかった。彼はその事実にどうしようもなく興奮していた。今まで王としてこの地上におけるありとあらゆる快楽を試してきて、それがすべて無駄に終わったリュカオンは、ついにそれを知った。

 

 取り返しのつかない変化を強いられ、それを目の当たりにした人間の絶望……それを見た時、自分はもっとも興奮できる。たとえその人間が、夢の中の自分自身であっても。

 

 リュカオンは夢の中で狼になった自分がヒツジの群れを食い荒らし、そしてどこかへ去っていくのを見ていた。

 

 満足した。リュカオンはそう思った。性的興奮も去っていた。夢はもう、これで終わりで良い。彼は目を覚まそうとした。眠れない夜というものも悪くないと彼は思った。このように素晴らしい夢を見せてくれるのだから。今日の夢は、自分の快楽の根源を教えてくれた。

 

 起きたら、さっそく試してみよう。まずは美しくて強い男と、様々な拷問器具を用意して……リュカオンはそう思ったのと同時に、萎えていたはずの自分の性器がまた力を取り戻すのを感じていた。彼はさらに意識を傾けて、自身が覚醒するように促していった。

 

 だが、夢はまだ終わらなかった。

 

 狼はどこかへ力なく歩いていった。後ろからは若者が大股で歩いて追ってくる。若者はどこまでも付いてきた。体力の尽きた狼は、それでも蹌踉(そうろう)として逃げ続ける。やがて狼は、角ばった白い巨大な岩が折り重なった山に来た。そこはマイナロスの山だった。この夢の一番初めにあの老人が降り立った場所だった。狼は洞穴を見つけると、その中へ入っていった。

 

 洞穴の中には、一人の人間が横たわっていた。それはリュカオン自身だった。リュカオンはその夜に寝付いた時のままの恰好をしていた。その股間は膨らんでいた。狼は眠っているリュカオンの傍まで来ると、悲しそうな声を上げた。

 

 来るな、と夢を見ているリュカオンは思った。来たら、とんでもないことになる。根拠はないが、彼はそう確信していた。取り返しのつかない変化が起こりそうだった。あるいは、もうその変化は起きているのかもしれなかった。そして今度の場合はまったく快楽などなかった。来るな、来るな。何度も彼は同じ言葉を繰り返した。

 

 だが、彼の願いも虚しく、狼はリュカオンの体に向かって跳んだ。

 

 狼の体とリュカオンの体が重なったその瞬間、リュカオンは夢から覚めた。

 

 リュカオンは宮殿にいなかった。寝台に横になってもいなかった。彼は狭い空間の中で、剥き出しになった冷たい地面に横たわっていた。そこは洞穴だった。湿って()えたような匂いがした。

 

 リュカオンの前には、洞穴の丸い入口があった。外は夜だった。闇が丸く刳り()かれていた。

 

 巨大な目が、丸い入口で光っていた。

 

 月よりも明るく、雷よりも激しく目は輝いていた。リュカオンはその目の輝きをよく知っていた。リュカオンは逃げ出した。だが、どこにも逃れることはできなかった。入口にはずっと目が光っていた。狭い空間の中をいつまでもリュカオンは走り続けていた。声にならない声が彼の喉から漏れていた。それは獣の唸り声とそっくりだった。

 

 やがて疲れ果てて、リュカオンはまた地面に身を横たえた。しかし彼は眠れなかった。彼はじっと両目を閉じ続けた。リュカオンは、横になっている自分を、あの輝く目が見続けているのを感じていた。

 

 また意識が朦朧として、あの幻覚のような夢が自分に訪れるのを、リュカオンはひたすら待った。眠れ、眠れ、眠れ……祈るように、彼はそのことだけを念じ続けた。

 

 いつまでも夢はやってこなかった。

 

(「狼」おわり)




参考文献 オウィディウス『変身物語(上)』(中村善也訳、岩波文庫、1981年)18頁-22頁。

今回は割と普通の話になりました。こういう話も書かないと筆力が伸びませんね。リュカオンに関してはまた色々と書きようがありそうです。たとえば彼は赤子を殺してその料理をゼウスに献じたとパウサニアスは書いています。この話は中国の易牙にも通ずるものがあって面白いのです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。