フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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18. 羊

 ()は、その日も朝から酒が飲みたかった。

 

 彼が住んでいる木造建築の長屋は、北側の城壁のすぐ近くにあった。城壁のすぐ外には暗くて深い沼沢地が広がっていて、その湿気の影響によるものか、彼の長屋は全体的に傾いて腐りかけていた。()がここに住んでいるのは、ひとえに家賃が安いからだった。手に職を持たず、日雇い仕事でその日暮らしをする者にとって、その(まち)の他の住居はどれもみな家賃が高すぎた。

 

 部屋の天井の羽目板は黒ずんでいて、びっしりと(かび)が生えている。羽目板の向こう側に見える黒い空間には細い(はり)が走っていた。梁にも黒い黴が隙間なく生えていて、その上には白い埃が分厚く堆積している。こんなところに居続けたら結核なりなんなり、何かしらろくでもない病気になる。そのように()は常々思っていたが、それでも他に住む場所はなかった。

 

 ()の唯一の悦楽は酒だけだった。だから彼は朝から酒が飲みたかった。どうせ仕事は夜からだったから、朝から飲んだとしても問題はなかった。彼の好きな酒は濁酒(どぶろく)だった。(さかな)などいらなかった。

 

 だが実のところ、()にとって酒は悦楽ですらなかった。彼はただ飲んでいた……目的などなかった。あえて目的があるとすれば、それは酔いを得るためだった。酒はそのための手段でしかなかった。

 

 ()は、財布の中を探った。なんとも珍しいことに、財布の中には小さな銀貨が一枚だけあった。こんなことは奇跡的だった。この銀貨を使えば、三合の瓶に一杯分の酒が手に入る……いや、さらにもう一合は飲めるかもしれない。

 

 金ならある。そして自分は酒が飲みたい。ならば、飲まないわけにはいかなかった。()は体を動かしかけた。

 

 その時だった。()は卒然として、自分の中で一つの物語が生まれたのを感じた。

 

 奇妙な感覚だった。寝不足で、あるいは寝過ぎで頭はぼんやりとしていて、そのうえ朝食も食べずにいるから体の芯には力が入っていない。それなのにどこまでも頭脳は冴えわたっていくようだった。ただ床で直に横になっているだけなのに、心は世界の隅々にまで飛んでいけるような解放感に満ち溢れている。

 

 生まれて初めて覚える感覚だった。彼は、この時この瞬間まで、物語のことなど一切考えたことがなかった。それなのに今まさにこの瞬間、彼の中には物語が生まれていて、確かに存在しているのだった。

 

 俺は、物語を語ることができるぞ! 李の目は輝いていた。それがいったい何の物語なのか、誰が出てきてどういうことをするのか、どういうことを考えるのか、そういったことはまだ一切彼にも分かっていなかったが、とにかく彼はもうそれを語りたくてたまらなくなっていた。

 

 しかしそれと同時に、()は焦燥感に襲われていた。それは居ても立っても居られないほどの強い焦りだった。なんとしてでも、この物語を語らねばならない。彼は自分の心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。語らないとこの物語は消えてしまう。この自分自身ですらも、語らないままでいれば物語のことを忘れてしまうかもしれない……このままにはしておけない。

 

 そのためには今、直ちに外へ行かねばならなかった。だが、彼は酒も飲みたかった。物語を語りたい。酒も飲みたい。しかしながら、どちらも同時に果たすわけにはいかなかった。

 

 酒を飲んだら物語は語れなくなる。李にはなぜかそんな気がしていた。

 

 少しばかり酒を飲んだところで物語を語ることはできるはずだ。そのように思いはするのだが、なぜかそう開き直ることができなかった。

 

 なぜだろう? 李はしばらく考えた。なぜ酒か物語かという奇妙な二者択一になっているのだろう? 彼は考え続けて、やがて財布のことに思い至った。そうだ! この財布の中身のせいだ! 彼は納得した。酒を買えば銀貨がなくなる。あるいは、物語を語れば銀貨がなくなる。

 

 なぜ物語を語れば銀貨がなくなるのか? それは決まっていた。自分が物語を語る相手は、この(まち)城隍神(じょうこうしん)だからだ。

 

 自分の物語を供え物とする。生まれて初めて自分の中で湧き起こってきた物語を城隍神(じょうこうしん)に供えれば、必ずや何か良いことがあるに違いない。ただし、供え物としては物語だけではダメだ。やはり銀貨も供えなければならない……金銭を捧げないで物語だけを聞かせたら、却って神は怒るかもしれないからな。李はそう思った。

 

 それにしても……酒か、物語か。悩ましい二者択一が李の前でぶら下がり続けていた。李は決めることができなかった。だから彼は、とりあえず外に出ることにした。後のことはそれから考えるつもりだった。

 

 彼は湿気を含んでぶよぶよになっている床の上をナメクジのように這いずって、長屋の外廊下に出た。外廊下には大きな黒い水甕(みずがめ)が置いてあった。細かな汚いゴミが浮かんだ甕の水面に、()は自分の顔を映した。垢がこびりついた顔は痩せ細っていて、貧弱な口髭が枯れかけた柳の枝のように左右に伸びている。彼は水に手を伸ばして顔を洗った。水は変な臭いがしたが、この際そんなことは気にしていられなかった。軽く髪の毛も整えた後、彼は部屋に戻り、継ぎの当たった上着を着て、破れかけた靴をつっかけるようにして履くと、帽子を被って長屋から出た。

 

 長屋の周りはじめじめとしていた。高い城壁が周囲一帯に長い影を被せていた。空は晴れていたが、千切れたような雲も二つ、三つ飛んでいた。何かの鳥が数羽、遠くに飛んでいるのが見えた。東には朝の陽射しを浴びて光っている春の山並みがあった。

 

 ()は周囲に視線をやった。誰もいなかった。彼にはそれがありがたかった。なんとなく、今は誰からも自分のことを見られたくなかった。人目を忍ぶようにして彼は歩き始めた。まずは(まち)の大通りへ向かうつもりだった。

 

 路地の周りには長屋しかなかった。どの長屋も崩れかけていて、たとえ妖怪や鬼の類であっても好んで住むとは思われないほど荒れ果てていた。

 

 長屋の立ち並んでいる辺りを抜けると、工場(こうば)が集まっている一角に来た。その角を曲がった瞬間、金床(かなとこ)(つち)を打ち付ける甲高い金属音が聞こえてきた。煙突からは薄い煙が上がっていた。この時間帯にこの辺りを歩くのは、()にとって実に久しぶりのことだった。

 

 工場(こうば)のあたりを歩きながら、また職人たちが仕事をする音を聞きながら、()はふと、それまで自分の中を満たしていた自信や万能感が急速に薄れていくのを感じた。

 

 李はなぜか、自分がとてつもなく愚かで、馬鹿馬鹿しいことに夢中になっているような気がした。工場(こうば)の中からは一定のリズムで金属音が響いてきて、職人たちの掛け声と低く単調な仕事歌が聞こえてくる。李は耳を塞ぎたくなった。気力が萎えていくのを彼は感じた。

 

 李は酒が飲みたくなった。強烈なまでに、彼は飲みたい欲求に駆られていた。

 

 どこかで酒を買って長屋に帰ろうか、と彼は思った。強い敗北感に彼は打ちのめされていた。彼は懐中の財布を握り締めた。銀貨はまだしっかりとここにある。酒を買って、それを飲んで、また夕方まで寝る。起きた後はまた外に出て、西門へ行って、そこで待っている今日の雇用者に声をかける。上手くすれば仕事にありつける。だいたいは荷運びとか、石材運びとか、そういう力仕事ばかりだが……物語のことは、忘れることができるだろう。

 

 すでに()は、なぜ自分があの時切実なまでに物語を語らねばならないのだと考えたのか不思議に思うようになっていた。馬鹿馬鹿しい。こんなことをしても無駄だ。物語なんてなくても生きていける。城隍神(じょうこうしん)がなんだ。銀貨と物語を捧げたところで、どうせ御利益なんてなにもない……李は常に鼻水が絡んでいる鼻を軽く鳴らした。李は長屋の方向へ足を向けた。

 

 そもそも、自分はちゃんとこの物語を知っているのか? 突如として、李の心の中にそのような疑問が湧いてきた。

 

 そう思った瞬間、それまでとはまた別種の心の働きが生じた。そうだ。自分はこの物語を最初から最後まで語ることができるのだろうか? それは好奇心だった。蟋蟀(コオロギ)の脚をもぐ子どものような好奇心だった。

 

 李はまた足を止めて考えた。物語を語ることは無意味かもしれないが、だからといって自分が物語を語ることができるかどうかを確かめるのは無意味ではない。そのように()は思った。だってそうだろうよ。女と寝ることには意味がねえかもしれねぇが、自分のアレがちゃんとアレするかどうかを確かめるのは、確かに意味のあることだ……

 

 李はまた方向を転じて、(まち)の中でもしっかりとした日の当たる大通りの方へ向かっていった。酒を飲みたい気持ちはまた薄れていた。彼は頭の中で物語を再生し始めていた。工場(こうば)の連なりはまだ終わらなかった。金属製品を作る区域を通り抜けて、今度は皮革製品を作る工場の辺りに来ていた。羊の臭いがした。鼻が曲がるような臭いだった。薬品の臭い、動物の糞の臭い、腐肉の臭い……羊の臭い。それらすべてが混ざっていた。

 

 そうだよ、羊だよ。李は何回か軽く頷いた。物語の始まりはこうだ。李は誰にも聞かれないような小声で、ちょっとだけ、口に出してみた。

 

「杭州人の()元珪(げんけい)は……」

 

 そこまで考えてから、はたと李の思考は止まった。もし、この話を聞く城隍神(じょうこうしん)が「その杭州人の李というのは何者か」と尋ねてきたらどうする? 実のところ、人名にはあまり意味がなかった。この()元珪(げんけい)という名はまったく彼の想像によるものだった。自分と同じ李姓ならば語りやすいだろうと思ったからそう名付けただけだ。

 

 まあ良い。李は気を取り直した。城隍神(じょうこうしん)がそう()いてきたら、「これは杭州にいる俺の従兄弟から聞いた話です。()元珪(げんけい)はその従兄弟の大叔父です」とでも言っておこう。そうだ。「俺も直接その李元珪に会ったことはないのですが……」という言葉も付け加えておけば良い。

 

 そう考えた瞬間、李はなぜか、敗北感を覚えたような気がした。なぜだ? なぜ自分はこんなにまでして、言い訳のようなことを考えているんだ? 彼は立ち止まって、ちょっとだけ俯いた。地面には小さな水溜りがあった。水面に映った李の顔はどこか無表情で力がなかった。これは自分が独自に考えた物語で、自分だけしか知らない話なのに、どうして自分は「これは俺の従兄弟から聞いた話です」と言おうとしているのだろう? どうして自分は、これがあたかも本当にあった話として物語ろうとしているのだろう?

 

 城隍神(じょうこうしん)だって馬鹿じゃないだろう。俺の話が作り話であることは、すぐに分かるに違いない。それなら、なぜ俺はこのような語り方を……?

 

 また彼は酒が飲みたくなった。自分の視線が酒屋の看板を探して動き回るのを彼は感じていた。冷たい風が吹いていた。こういう時にはちょっとだけ(かん)をした酒を飲むとすべてを忘れて愉快な気持ちになれる……それでも彼は考えをやめることがなかった。

 

 そうだ。なんとなく、李にはその理由が分かった。考えてみたら、俺が生まれてから今まで聞いてきた物語は、すべてそんな話ばかりだったじゃないか。「これは浙江省の麗水にいる伯母から聞いたんだが……」「これは酒屋の主人が話してくれたんだが……」「これは温州の永嘉出身の奴から聞いたんだが……」 みんなそんな語り方だった。誰も「これは俺が今考えた話なんだが……」という語り方はしなかった。

 

 だから、俺もそのような語り方についつい影響されて、「これは杭州にいる俺の従兄弟から聞いた話です」と語り出してしまったに違いない。

 

 だが、俺は違うぞ。李は顔を上げた。俺は、俺だけの物語を持っている。今、それを語っている。李は自信を取り戻しつつあった。俺は、「これは杭州にいる俺の従兄弟から聞いた話なんだ」などと言う必要はない。この広い世の中で、ただこの俺だけが、自分だけの物語を語る力を持っているんだ。他の連中は他人の言ったことを鵜呑みにして、それを繰り返すことしかできないが……俺だけは違うんだ! 李はまた歩き始めた。酒のことはまた頭から消えた。

 

 歩きながら、彼はまた物語の続きを考え始めた。彼は小声で言った。

 

「杭州人の()元珪(げんけい)は江蘇省の(はい)県の韓公の事務所に間借りをして、文書を扱う仕事をしていた」

 

 ここまですんなりと言葉が出てきたことを李は意外に思った。自分は江蘇省にも沛県にも行ったことなどない。韓公が誰であるかもしれない。事務所とは何だ? 文書とはいったいなんのことだろう。それを扱う仕事とは何だ? 自分はまったく、文字すら知らないというのに。それでも自分はここまで語ることができた。()は薄く笑みを浮かべた。ということは終わりまで詰まることなく言うことができるはずだ。彼は歩きつつ、また口を開いた。

 

「たまたま郷里の親戚の者が杭州に帰ることになったので、()元珪(げんけい)は家への便りを書いて、これをその人に託すことにした」

 

 ここまでが話の前段階だ。李は歩き続けていた。工場(こうば)が並んでいる区域を、いつの間にか彼は通り抜けていた。そこはまた住宅地が広がっていた。李が住んでいるところよりも清潔で乾燥していて、活気に満ちている。

 

 路地の奥では子どもたちが遊んでいた。思わず、李は目を背けた。彼は子どもが好きではなかった。子どもを見ていると、自分が果たすべきことを果たしていないような気がしてきてならなかった。それだけではない。彼は子どもを見ると、自分が先祖に対して積極的に重大な罪を犯しているような気がした。

 

 彼はまた自分の中で、物語なんて無駄だという気持ちが湧き上がってくるのを感じた。爆発的なまでに、彼の心の中で酒への欲求が膨らんだ。やめよう、と彼は思った。もう物語のことなんて考えるのをやめよう。ここから家に帰るまでの道のりを、李は考えた。家に帰るのも大通りに出るのも同じくらいの時間がかかりそうだった。

 

 よし、大通りを東へ行って、門の(そば)の酒屋で酒を買おう。彼はそう決心した。だが、物語はまだ途中だった。それはそれで気分が悪いことだった。少しだけ立ち止まってから彼はまた歩き出して、ぶつぶつと小声を出して物語を続けた。

 

()元珪(げんけい)家童(かどう)に命じて糊を作らせた。当然糊は米から作るのである。なぜ糊が必要だったかと言えば、便りに封をするのに必要だったからである」

 

 なんだか(つたな)いな、と李は思った。もっとすっきりと語ることができそうだった。彼は言い直した。

 

()元珪(げんけい)家童(かどう)に命じて糊を作らせ、便りに封をした」

 

 これで良い。確かな達成感を李は覚えた。この調子でさっさと続きを考えよう。李は歩き続けた。長屋の列はまだ終わらなかった。子どもたちの遊ぶ声がうるさかったが、彼はなんとか集中力を維持することができた。

 

家童(かどう)は糊を(わん)の中で()ね上げた。李は半分ほど糊を使った。残りの糊は碗に入れたまま机の上に置いておいた」

 

 よし、ここからが本題だ。李は表情を引き締めた。まだ物語の本体部分は始まってもいない。ここからが大事なところなのだ。李は、いつの間にか自分が長屋の区域から抜け出していることに気が付いた。気づかない間に裏路地を何本も抜けていたらしい。

 

 そこは大通りだった。通りには人が充満していて、その間を縫うようにして何台もの荷車が通っている。いろいろな動物がいた。牛、馬、驢馬(ろば)……疲れきったような鳴き声が聞こえる。人の話し声も聞こえる。大通りは埃っぽく、乾燥していて、それ以上に騒音に満ちていた。こんなところで物語の続きを考えることができるんだろうか? ()は少々怖気づいた。それでも彼は大通りの人混みの中へ入っていった。彼は言葉を口に出した。

 

「夜になった。()元珪(げんけい)は隣の部屋の(とこ)の上で眠っていた。すると、何かぴちゃぴちゃという音がする。てっきり李は鼠が来て糊を盗み食いしているのだと思った」

 

 悪くなかった。李は満足した。直後、彼は前方から直進してくる荷車に轢かれそうになった。荷車は驢馬(ろば)が牽いていた。彼はすんでのところで身を翻してそれを避けた。馭者の罵声が聞こえた。だが、李はそれについて何も思わなかった。今は物語のことだけが彼の関心事だった。

 

 さあ、ここで大きく場面が展開するぞ。李はまた物語を口に出し始めた。

 

()(とばり)を掲げて様子を窺うと、灯のもとに一匹の小羊がいた」

 

 どうだ、俺の物語は。彼は誇らしげにそう思った。彼は大通りを歩き続けた。彼の左右を車がゆったりとした速度で走り去っていく。上から下までぎっしりと白い卵を積んだ車、木材を積んだ車、麦の詰まった袋を積んだ車、肉を積んだ車……一台の肉を積んだ車の端から、羊の首が覗いていた。もちろん、羊は生きていなかった。それは胴体から切断された羊の頭部だった。だが、その目はまだ生きているかのように輝いていた。

 

 ()は、自分の目とその羊の目が合ったように感じた。彼は即座に目を背けた。忌々しい気持ちだった。自分の物語の中の羊は、もっと小さくて、もっと弱い感じの小羊だった。だが、あの荷車の羊は年老いていて強そうで、意地が悪そうな顔つきをしている。あの羊を見ていたら、物語の中の羊まであの羊になってしまいそうだった。

 

 李は期せずして生まれてしまった想念を振り払うかのように頭を左右に振った。その拍子に彼の帽子は地面に落ちた。人混みと車の列の中で帽子を拾うのは一苦労だったが、彼はなんとか帽子を取り戻して、また頭に載せた。彼は物語の続きを口に出した。

 

「小羊は(たけ)二寸(6センチ)くらいで、全身白毛だった。小羊は糊を食い尽くすと去っていった。李は自分の目がおかしくなってしまったのかと訝ったが、次の日もまた糊を作って待っていた」

 

 大通りはそろそろ尽きそうだった。このまま行くと東門に出ることになりそうだった。東門の外には李が行きつけにしている酒場がある。酒を売ってくれるし、飲ませてもくれる。

 

 しかし、その酒場のすぐ隣には城隍神(じょうこうしん)を祀った廟があるのだ。

 

 確かに俺はさっきまで、酒場で酒を買うつもりでいた。しかし、今ではその気持ちも揺らいでいる……()は人波に揺られながら考え続けた。まだどっちにするか決めていないが、少なくともこの物語を完成させてしまおうという気持ちだけはある……彼の口は、自然と物語の続きを発していた。

 

「夜になると、また小羊がやってきた。長い舌を伸ばして、碗の中身の糊をぴちゃぴちゃと舐めている。()はそこでよくよく注意して、小羊がどこへ去っていくのか確かめた。小羊は糊を食べ終えると窓の(そば)へ歩いていき、窓枠を()じ登って外へ出た。外には一本の木があって、小羊はその下まで行くとふっと消えた」

 

 そこまで口に出した時、李は自分が東門にいるのに気づいた。両開きの巨大な鉄扉(てっぴ)は開かれていて、(まち)に入ってくる人、出てくる人で往来が激しい。車も多かった。槍を持った衛兵が退屈そうな顔をして左右に立っている。

 

 この期に及んでも()の決心は付かなかった。酒場か、廟か。酒か、お供えか。今や二者択一は()の眼前に不抜の巨岩のように立ちはだかっていた。あと数分も歩けばそこに到着してしまう。それまでに決心しなければならない……そう思えば思うほど、李は猛烈に酒を飲みたくなるのを感じた。だが、彼は物語の続きが気になってもいた。

 

 とりあえず、完成させるだけ完成させてしまおう。()はそう思った。彼は口を開いた。

 

()元珪(げんけい)は主人に話をして、その木の下を掘ってみた。羊の骨が一本出てきた。()は骨を詳しく調べてみた。骨には穴が開いていて、中には何かねばねばしたものが詰まっている。髄かと思った。だがそれは違った。それは糊だった。糊が骨の中にみっちりと詰まっていたのだった」

 

 門の外には緑が満ちていた。ツツジの花が咲き乱れていた。酒場にも廟にも、もうそれほど距離はなかった。

 

 ()は、ここに至って、自分の心が何かすがすがしいもので満ち始めているのを感じていた。この話はもう終わる。李の中からすでに焦燥感は消えていた。ようやく自分はこの物語を語り終えることができる。

 

 酒なんてもういらない。李は心の底からそう思った。こんなにすがすがしい気持ちになれるのなら、これからはいくらでも城隍神(じょうこうしん)に物語を捧げよう。

 

 李は、万感の思いを込めて最後の一節を口に出した。

 

()は骨を焼いた。その後、小羊の妖怪は出なくなった」

 

 言い終えた時には、()は廟の前に立っていた。廟は全面にわたって緑と金と赤の極彩色でびっしりと装飾が施されていた。誰かが早朝に焚いたのであろう(こう)の香りが濃く残っていた。良い香りだった。()は、小羊の骨を焼いた時の匂いもこういうものだったのだろうかと思った。

 

 廟の周りには誰もいなかった。城隍神(じょうこうしん)の神像は静かにそこに佇んでいた。神像は目を見開いていた。李はにこやかな笑顔を浮かべて、神像の前へと進んでいった。彼の心臓の鼓動は速くなっていた。彼は財布を確認した。銀貨はしっかりと入っている。彼は銀貨を取り出して、それを捧げようとした。

 

 その時だった。彼は自分の物語を最初から最後まで、もう一度繰り返してみたいという気持ちに駆られた。本当にこの物語は面白いのだろうか? 面白くて、捧げる価値のある物語なのだろうか? 彼は少しだけ、物語の冒頭を思い起こしてみた。「杭州人の()元珪(げんけい)は江蘇省の(はい)県の……」 そこで、繰り返すのをやめた。

 

 最初彼は、この物語は自分の人生において初めて生まれた物語であるから、それだけで神に捧げる価値があると考えていた。それまではただ語ることだけが唯一彼にとって重要なことだった。

 

 だが、今はそうではなくなっていた。彼の中では一つの疑問だけが大きく浮かび上がっていた。

 

 この物語は面白いのか、それとも面白くないのか?

 

 面白くないかもしれない。そう思った瞬間、強烈なまでの不安感が()を襲った。彼は自分の顔が強張っているのを感じた。息が上がり、心臓が破裂しそうなほどに激しく脈打っている。面白いのか、それとも面白くないのか? 面白くないかもしれない。

 

 なにせ、羊だ。糊を舐める小羊の妖怪の話なんて、誰が面白いと思う? 改めて考えてみると、この俺自身だって、面白いなどとは……

 

 そう思えば思うほど、彼は不安になった。

 

 かつてないほどに、()は酒が飲みたくなった。気が狂いそうなほどに、彼は酒を欲していた。

 

 突然、廟を満たす(こう)の香りに混ざって微かに酒の匂いが漂ってきた。それは廟の隣の酒場から忍びこむようにしてやって来ていた。

 

 不安が絶頂に達するのと、鼻腔に酒の匂いが侵入するのはほぼ同時だった。その瞬間、()は廟から飛び出していた。

 

 後には城隍神(じょうこうしん)の神像だけが残された。

 

 李は戻ってこなかった。神像の目は、いつまでも虚空を見つめ続けていた。

 

(「羊」おわり)




参考文献 袁枚『子不語1(全5巻)』(手代木公助訳、平凡社、2009年)195頁。

今回は『子不語』の中でも小粒な話である「羊骨怪」を元ネタにしました。袁枚が収録している色々なエピソードの中でもこの「羊骨怪」はかなり可愛らしいというか、害のない話です。それをなんとかしてこういう話に落とし込まねばならなかったので今回はものすごく苦戦しました。そろそろ美少女が書きたくなってきたので次の話はそういうのを書くと思います。
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