彼が住んでいる木造建築の長屋は、北側の城壁のすぐ近くにあった。城壁のすぐ外には暗くて深い沼沢地が広がっていて、その湿気の影響によるものか、彼の長屋は全体的に傾いて腐りかけていた。
部屋の天井の羽目板は黒ずんでいて、びっしりと
だが実のところ、
金ならある。そして自分は酒が飲みたい。ならば、飲まないわけにはいかなかった。
その時だった。
奇妙な感覚だった。寝不足で、あるいは寝過ぎで頭はぼんやりとしていて、そのうえ朝食も食べずにいるから体の芯には力が入っていない。それなのにどこまでも頭脳は冴えわたっていくようだった。ただ床で直に横になっているだけなのに、心は世界の隅々にまで飛んでいけるような解放感に満ち溢れている。
生まれて初めて覚える感覚だった。彼は、この時この瞬間まで、物語のことなど一切考えたことがなかった。それなのに今まさにこの瞬間、彼の中には物語が生まれていて、確かに存在しているのだった。
俺は、物語を語ることができるぞ! 李の目は輝いていた。それがいったい何の物語なのか、誰が出てきてどういうことをするのか、どういうことを考えるのか、そういったことはまだ一切彼にも分かっていなかったが、とにかく彼はもうそれを語りたくてたまらなくなっていた。
しかしそれと同時に、
そのためには今、直ちに外へ行かねばならなかった。だが、彼は酒も飲みたかった。物語を語りたい。酒も飲みたい。しかしながら、どちらも同時に果たすわけにはいかなかった。
酒を飲んだら物語は語れなくなる。李にはなぜかそんな気がしていた。
少しばかり酒を飲んだところで物語を語ることはできるはずだ。そのように思いはするのだが、なぜかそう開き直ることができなかった。
なぜだろう? 李はしばらく考えた。なぜ酒か物語かという奇妙な二者択一になっているのだろう? 彼は考え続けて、やがて財布のことに思い至った。そうだ! この財布の中身のせいだ! 彼は納得した。酒を買えば銀貨がなくなる。あるいは、物語を語れば銀貨がなくなる。
なぜ物語を語れば銀貨がなくなるのか? それは決まっていた。自分が物語を語る相手は、この
自分の物語を供え物とする。生まれて初めて自分の中で湧き起こってきた物語を
それにしても……酒か、物語か。悩ましい二者択一が李の前でぶら下がり続けていた。李は決めることができなかった。だから彼は、とりあえず外に出ることにした。後のことはそれから考えるつもりだった。
彼は湿気を含んでぶよぶよになっている床の上をナメクジのように這いずって、長屋の外廊下に出た。外廊下には大きな黒い
長屋の周りはじめじめとしていた。高い城壁が周囲一帯に長い影を被せていた。空は晴れていたが、千切れたような雲も二つ、三つ飛んでいた。何かの鳥が数羽、遠くに飛んでいるのが見えた。東には朝の陽射しを浴びて光っている春の山並みがあった。
路地の周りには長屋しかなかった。どの長屋も崩れかけていて、たとえ妖怪や鬼の類であっても好んで住むとは思われないほど荒れ果てていた。
長屋の立ち並んでいる辺りを抜けると、
李はなぜか、自分がとてつもなく愚かで、馬鹿馬鹿しいことに夢中になっているような気がした。
李は酒が飲みたくなった。強烈なまでに、彼は飲みたい欲求に駆られていた。
どこかで酒を買って長屋に帰ろうか、と彼は思った。強い敗北感に彼は打ちのめされていた。彼は懐中の財布を握り締めた。銀貨はまだしっかりとここにある。酒を買って、それを飲んで、また夕方まで寝る。起きた後はまた外に出て、西門へ行って、そこで待っている今日の雇用者に声をかける。上手くすれば仕事にありつける。だいたいは荷運びとか、石材運びとか、そういう力仕事ばかりだが……物語のことは、忘れることができるだろう。
すでに
そもそも、自分はちゃんとこの物語を知っているのか? 突如として、李の心の中にそのような疑問が湧いてきた。
そう思った瞬間、それまでとはまた別種の心の働きが生じた。そうだ。自分はこの物語を最初から最後まで語ることができるのだろうか? それは好奇心だった。
李はまた足を止めて考えた。物語を語ることは無意味かもしれないが、だからといって自分が物語を語ることができるかどうかを確かめるのは無意味ではない。そのように
李はまた方向を転じて、
そうだよ、羊だよ。李は何回か軽く頷いた。物語の始まりはこうだ。李は誰にも聞かれないような小声で、ちょっとだけ、口に出してみた。
「杭州人の
そこまで考えてから、はたと李の思考は止まった。もし、この話を聞く
まあ良い。李は気を取り直した。
そう考えた瞬間、李はなぜか、敗北感を覚えたような気がした。なぜだ? なぜ自分はこんなにまでして、言い訳のようなことを考えているんだ? 彼は立ち止まって、ちょっとだけ俯いた。地面には小さな水溜りがあった。水面に映った李の顔はどこか無表情で力がなかった。これは自分が独自に考えた物語で、自分だけしか知らない話なのに、どうして自分は「これは俺の従兄弟から聞いた話です」と言おうとしているのだろう? どうして自分は、これがあたかも本当にあった話として物語ろうとしているのだろう?
また彼は酒が飲みたくなった。自分の視線が酒屋の看板を探して動き回るのを彼は感じていた。冷たい風が吹いていた。こういう時にはちょっとだけ
そうだ。なんとなく、李にはその理由が分かった。考えてみたら、俺が生まれてから今まで聞いてきた物語は、すべてそんな話ばかりだったじゃないか。「これは浙江省の麗水にいる伯母から聞いたんだが……」「これは酒屋の主人が話してくれたんだが……」「これは温州の永嘉出身の奴から聞いたんだが……」 みんなそんな語り方だった。誰も「これは俺が今考えた話なんだが……」という語り方はしなかった。
だから、俺もそのような語り方についつい影響されて、「これは杭州にいる俺の従兄弟から聞いた話です」と語り出してしまったに違いない。
だが、俺は違うぞ。李は顔を上げた。俺は、俺だけの物語を持っている。今、それを語っている。李は自信を取り戻しつつあった。俺は、「これは杭州にいる俺の従兄弟から聞いた話なんだ」などと言う必要はない。この広い世の中で、ただこの俺だけが、自分だけの物語を語る力を持っているんだ。他の連中は他人の言ったことを鵜呑みにして、それを繰り返すことしかできないが……俺だけは違うんだ! 李はまた歩き始めた。酒のことはまた頭から消えた。
歩きながら、彼はまた物語の続きを考え始めた。彼は小声で言った。
「杭州人の
ここまですんなりと言葉が出てきたことを李は意外に思った。自分は江蘇省にも沛県にも行ったことなどない。韓公が誰であるかもしれない。事務所とは何だ? 文書とはいったいなんのことだろう。それを扱う仕事とは何だ? 自分はまったく、文字すら知らないというのに。それでも自分はここまで語ることができた。
「たまたま郷里の親戚の者が杭州に帰ることになったので、
ここまでが話の前段階だ。李は歩き続けていた。
路地の奥では子どもたちが遊んでいた。思わず、李は目を背けた。彼は子どもが好きではなかった。子どもを見ていると、自分が果たすべきことを果たしていないような気がしてきてならなかった。それだけではない。彼は子どもを見ると、自分が先祖に対して積極的に重大な罪を犯しているような気がした。
彼はまた自分の中で、物語なんて無駄だという気持ちが湧き上がってくるのを感じた。爆発的なまでに、彼の心の中で酒への欲求が膨らんだ。やめよう、と彼は思った。もう物語のことなんて考えるのをやめよう。ここから家に帰るまでの道のりを、李は考えた。家に帰るのも大通りに出るのも同じくらいの時間がかかりそうだった。
よし、大通りを東へ行って、門の
「
なんだか
「
これで良い。確かな達成感を李は覚えた。この調子でさっさと続きを考えよう。李は歩き続けた。長屋の列はまだ終わらなかった。子どもたちの遊ぶ声がうるさかったが、彼はなんとか集中力を維持することができた。
「
よし、ここからが本題だ。李は表情を引き締めた。まだ物語の本体部分は始まってもいない。ここからが大事なところなのだ。李は、いつの間にか自分が長屋の区域から抜け出していることに気が付いた。気づかない間に裏路地を何本も抜けていたらしい。
そこは大通りだった。通りには人が充満していて、その間を縫うようにして何台もの荷車が通っている。いろいろな動物がいた。牛、馬、
「夜になった。
悪くなかった。李は満足した。直後、彼は前方から直進してくる荷車に轢かれそうになった。荷車は
さあ、ここで大きく場面が展開するぞ。李はまた物語を口に出し始めた。
「
どうだ、俺の物語は。彼は誇らしげにそう思った。彼は大通りを歩き続けた。彼の左右を車がゆったりとした速度で走り去っていく。上から下までぎっしりと白い卵を積んだ車、木材を積んだ車、麦の詰まった袋を積んだ車、肉を積んだ車……一台の肉を積んだ車の端から、羊の首が覗いていた。もちろん、羊は生きていなかった。それは胴体から切断された羊の頭部だった。だが、その目はまだ生きているかのように輝いていた。
李は期せずして生まれてしまった想念を振り払うかのように頭を左右に振った。その拍子に彼の帽子は地面に落ちた。人混みと車の列の中で帽子を拾うのは一苦労だったが、彼はなんとか帽子を取り戻して、また頭に載せた。彼は物語の続きを口に出した。
「小羊は
大通りはそろそろ尽きそうだった。このまま行くと東門に出ることになりそうだった。東門の外には李が行きつけにしている酒場がある。酒を売ってくれるし、飲ませてもくれる。
しかし、その酒場のすぐ隣には
確かに俺はさっきまで、酒場で酒を買うつもりでいた。しかし、今ではその気持ちも揺らいでいる……
「夜になると、また小羊がやってきた。長い舌を伸ばして、碗の中身の糊をぴちゃぴちゃと舐めている。
そこまで口に出した時、李は自分が東門にいるのに気づいた。両開きの巨大な
この期に及んでも
とりあえず、完成させるだけ完成させてしまおう。
「
門の外には緑が満ちていた。ツツジの花が咲き乱れていた。酒場にも廟にも、もうそれほど距離はなかった。
酒なんてもういらない。李は心の底からそう思った。こんなにすがすがしい気持ちになれるのなら、これからはいくらでも
李は、万感の思いを込めて最後の一節を口に出した。
「
言い終えた時には、
廟の周りには誰もいなかった。
その時だった。彼は自分の物語を最初から最後まで、もう一度繰り返してみたいという気持ちに駆られた。本当にこの物語は面白いのだろうか? 面白くて、捧げる価値のある物語なのだろうか? 彼は少しだけ、物語の冒頭を思い起こしてみた。「杭州人の
最初彼は、この物語は自分の人生において初めて生まれた物語であるから、それだけで神に捧げる価値があると考えていた。それまではただ語ることだけが唯一彼にとって重要なことだった。
だが、今はそうではなくなっていた。彼の中では一つの疑問だけが大きく浮かび上がっていた。
この物語は面白いのか、それとも面白くないのか?
面白くないかもしれない。そう思った瞬間、強烈なまでの不安感が
なにせ、羊だ。糊を舐める小羊の妖怪の話なんて、誰が面白いと思う? 改めて考えてみると、この俺自身だって、面白いなどとは……
そう思えば思うほど、彼は不安になった。
かつてないほどに、
突然、廟を満たす
不安が絶頂に達するのと、鼻腔に酒の匂いが侵入するのはほぼ同時だった。その瞬間、
後には
李は戻ってこなかった。神像の目は、いつまでも虚空を見つめ続けていた。
(「羊」おわり)
参考文献 袁枚『子不語1(全5巻)』(手代木公助訳、平凡社、2009年)195頁。
今回は『子不語』の中でも小粒な話である「羊骨怪」を元ネタにしました。袁枚が収録している色々なエピソードの中でもこの「羊骨怪」はかなり可愛らしいというか、害のない話です。それをなんとかしてこういう話に落とし込まねばならなかったので今回はものすごく苦戦しました。そろそろ美少女が書きたくなってきたので次の話はそういうのを書くと思います。