フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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19. 虹

 太陽は獰猛に燃えていた。

 

 ちょうど昼だった。太陽は中天に座していてなかなか動かなかった。昼は永遠に続くようだった。平原には暑熱が満ちていた。すべてのものが炎熱のごとき太陽の光に炙られていて、動くものは何もなかった。

 

 陽炎が立ち込める平原には砂と岩だけがあった。岩と岩の間には灌木(かんぼく)が生えていたが、どの木もすでに死にかけていた。ここにはあまりにも潤いがなかった。動物たちの姿もなかった。ところどころに何のものとも知れない白骨が転がっていた。それもいずれは風化して、この平原の砂の一部となるさだめだった。

 

 この平原を、女修行者(ノン)は突破しようとしていた。彼女はたったの一人だった。

 

 頭痛がする。女修行者(ノン)は少し眉を寄せてこめかみを揉んだ。(まち)を出てからずっと頭痛が止まない……しかも、だんだん頭痛は激しくなる一方だった。

 

 女修行者(ノン)は美しく、若かった。薄手のベールを頭に(かぶ)り、簡素な枯葉色の服を身に纏っていて、足には草で編んだサンダルを履いていた。装身具の類は一切身につけていない。ただ燃えるような(あかがね)色の髪の毛は豊かにたっぷりとしていて、彼女を華やかに飾り立てていた。痩せて引き締まった肉体はどこか猫科の猛獣を思わせた。決意と信仰に満ちた顔は精気を帯びて輝いていたが……その細い眉はいつも苦しげに寄っていた。

 

 この平原を越えることは、ありとあらゆる欲求の中でも最大のものを克服することだ……女修行者(ノン)は、平原の手前にある清らかな泉まで来ると、服を脱いだ。彼女は沐浴を始めた。

 

 生きようとする欲求を捨てねばならない。彼女は水に浸かっている自分の裸体を見下ろした。彼女の肉体には生命力が満ち溢れていた。肌は艶があって浅黒く、筋肉は隆起していて、胸と腰はしなやかな曲線を描いている。細く長い手足には力があった。

 

 この平原を越えれば自分の修行は成就する。そして、この頭痛も消える……彼女は水に潜った。息が続く限り、彼女は水の中に留まり続けた。頭痛がやや和らぐのを彼女は感じた。

 

 この頭痛から逃れたいがために、女修行者(ノン)(まち)の屋敷に住むただの若い女としての生活を捨てて、一心不乱の修行の生活に入ったのだった。

 

 そのようにせよと教えたのは神だった。神が夢の中に現れて、生まれた時から彼女を苦しめている頭痛を消すには、世俗の生活を捨てて修行をするしかないと告げたのだった。否、はっきりとそう告げられたわけではなかった。女はそのように告げられたと感じただけだった。そして女は、確かに神がそのように告げていると思った。

 

 夢の中で、神は輝いていた。神は何かしらのエネルギーを放っていた。神ははっきりとした姿形を纏っておらず、七色の光の放散としてその場に存在していただけだったが、女はそれらの光に何か自分に対する強いメッセージが込められていることを感じ取った。だが、その意味までは分からなかった。そして、おそらくこれは、自分に強く修行を促しているのだろうと女は思った。

 

 目覚めた時、女は決意した。神がそのようにせよと言ったのであるから……自分はこれから修行者にならねばならない。あの七色の光の輝きが、その時もまた女の脳裏に浮かんでいた。女は修行者となった。

 

 女修行者(ノン)の修行は、思うとおりにはいかなかった。

 

 女修行者(ノン)がまず為そうとしたのは、自らの髪の毛をすべて剃り落すことだった。確かに極端なことではあった。しかしそれは、これまでの生活への決別として絶対に必要なことだと彼女には思われた。水も用意せず、ただ一本の剃刀だけを使って、彼女は自分で自分の輝く豊かな髪の毛を剃り落した。

 

 剃り落している最中、女修行者(ノン)は祈りを捧げていた。どうか自分の修行を成功へとお導きください。どうか私が世俗への誘惑に負けないようにしてください……祈っている間はずっと、あの夢の中の七色の光が闇の中で輝いていた。地肌が剥き出しになった頭部は青々として痛々しかったが、彼女は満足した。

 

 しかし翌朝、目が覚めた時には、彼女の髪の毛はすべて元通りになっていた。実に不可解なことだった。彼女は諦めることなく、何度も髪を剃った。同じことが繰り返された。朝、目が覚めるたびに、剃り落したはずの髪の毛は元に戻っている。悪魔の仕業としか思えなかった。彼女は髪の毛が戻らないように神に祈ったが、なぜか神がそれに応えることはなかった。

 

 やがて女修行者(ノン)は髪の毛のことを諦めた。彼女は髪の毛のことを考えないことにした。そして、そう決めた瞬間、あるいはこれも髪の毛ということを考えなくなる点で剃髪と同じ意味があるのかもしれないと彼女は思った。それならば、自分は何かしらの意味で修行を前に進めることができたことになる。

 

 それでも彼女は自分の頭痛が増すのを感じた。頭痛が増すということは、つまりまだ修行の必要があるということだった。彼女はもっと厳格な修行をしなければならないと思った。

 

 女修行者(ノン)は豊かで美しい髪の毛のまま屋敷を出ると、そのまま歩を進めて(まち)を出て、やがて荒地へ入った。荒地の真ん中で野の花の蜜を吸い、夜露で喉を潤し、いばらの間に生えている草の芽、若葉、あるいは木の根を食べて生活をしようと彼女は思った。今の彼女にとっては生活のすべての局面が修行だった。それほどまでに彼女は熱烈に修行することを望んでいた。それは、それだけ彼女の頭痛が激しいことの裏返しでもあった。

 

 だが、ここでも女修行者(ノン)の思うようにはいかなかった。その日から彼女は荒地の片隅に草の(いおり)を結び、祈りと瞑想にすべての時間を捧げ始めた。いつの間にか三日三晩が経過していた。辛くなるたびに、彼女はあの七色の光を思い浮かべた。輝きを思い出せばいつでも、彼女の中で力が生まれた。

 

 朝になり、強い空腹と渇きに苛まれて、僅かな糧を荒地から得ようと庵から出た時だった。彼女がそこで見たのは、白い清潔な布のかかった小綺麗な食卓と、その上に置かれた多種多様な食べ物と水だった。湯気の立っているパン、ミルクの粥、豆のシチュー、ほうれん草のスープ、チーズ、卵、レモンの混ざった清潔な水……

 

 女修行者(ノン)は、これもまた悪魔の仕業だと思った。結局自分が髪の毛を剃り落すことができなかったように、悪魔は自分に修行をさせまいとしているのだと思った。彼女は強い誘惑に駆られつつもすぐに(いおり)の中に戻り、神に祈りを捧げ始めた。どうか自分から食欲を取り払ってください。あの悪魔が置いた食物を遠ざけてください。悪魔の誘惑から私を守ってください……彼女の祈りは長く続いた。頭痛はますます激しくなっていったが、祈っている間はそれを忘れることができた。

 

 いくら祈ったところで食べ物はなくならなかった。しかも食べ物は、女修行者(ノン)が様子を確認しに来るたびに、新しくなる上に種類も量も増しているのだった。やがて彼女の飢えと渇きは限界に達した。彼女の心は食べ物を拒否していたが、肉体は飛びつくようにして食卓へと向かっていた。彼女は食べ物を(むさぼ)り食った……我を忘れるほどに彼女は食べた。そして食欲が満ちて、自分の肉体の隅々にまで活力が戻った後、彼女は欲求に負けた己の弱さを激しく悔いた。彼女は泣き崩れた。

 

 しかし、突如として天啓のように、これで良かったのだと彼女は思った。断食をするのも、極端な食生活をするのも、すべては「人間という存在は生きている限り欲求に抗うことができない」という事実を悟るために行うものである。そうであるならばこの食卓の食べ物も同じ事実を教えてくれたという意味で、実質的には断食とは変わらない……なぜ自分がそのように考えたのか、どこからそのような考えが湧いたのか分からなかったが、そのように彼女は納得した。納得すると同時に、彼女の頭痛はより激しくなった。

 

 すべては同じことの繰り返しだった。その後、女修行者(ノン)は睡眠を断とうとした。彼女は眠らないということができなかった。いつも柔らかで温かな寝具がどこからともなく現れて、夜の彼女を包んでいた。また、彼女は見ることをやめようとした。彼女は感覚から来る喜びを断とうとしていた。だが、目を閉じていればいるだけ、頭の中では神の住まう金色に輝く世界が映し出された。耳を閉じても妙なる響きが聞こえ、鼻を閉じても(かぐわ)しい香の香りがする。

 

 女修行者(ノン)は自分に加えられる悪魔の妨害の激しさをそのたびに思い知った。誘惑に負けるたびに女修行者(ノン)はその美しい顔を涙に濡らして、一心に神に祈るのだった。どうか悪魔を遠ざけてください。どうか私の修行を成就させてください……そして祈りの果てには、やはりいつも同じ答えだけがあった。誘惑に負けても、つまるところは誘惑に勝った時に得られるであろう事実、この上もなく端的な事実だけが残る。「人間という存在は生きている限り欲求に抗うことができない」

 

 女修行者(ノン)は、神が自分の祈りに応えることがなく悪魔の跳梁を許したままなのは、もしかするとこの事実を心の一番深い部分で悟らせるためであるのかもしれないと思った。美を捨てる。あるいは食を捨てる。のみならず、感覚そのものを捨てる。捨てようとする時には必ず悪魔が現れて誘惑をする。自分はそれに抵抗をし、敗北する……

 

 だが、これはすべて神の計画なのではないか? すべては、「人間という存在は生きている限り欲求に抗うことができない」という事実を示すための計画の一部ではないか?

 

 だが、そうであるのならば、なぜその事実を認識するごとに頭痛が激しくなるのかが女修行者(ノン)には不可解だった。神が悪魔を介して自分に示した事実はそれだけで神聖なもののはずである。その神聖な事実を認識したのであれば……それはつまり修行の成就を意味しており、修行が成就したのならば、この頭痛は消えるはずではないか? それなのに頭痛は消えるどころか激しくなるばかりだった。

 

 女修行者(ノン)は考え続けた。そして、すべては自分の思い込み(ドクサ)に過ぎない可能性があると考えた。

 

 神聖な事実として神に与えられたと思っている事実は、実のところまったくそうではない。それは形を変えた自己弁護に過ぎない。また、悪魔の誘惑は神の計画の一部ではなく、実際のところは悪魔の誘惑に過ぎない。神が自分の祈りに応えることがないのは、自分の祈る力が足りないからである。自分が誘惑に負けるのも、これは神の計画ではなく、やはり自分の罪であるに過ぎない。

 

 そう考えなければおかしいと女修行者(ノン)は思った。そうでなければ頭痛は消えてなくなっているはずだった。それなのに頭痛はずっと残っていて、今では頭が割れそうなほど酷くなっている。彼女は、もっと自分を追い込む必要があると思った。この肉体、この欲求という名の牢獄、それを破壊するかのような徹底的な修行が必要だと彼女は決意した。

 

 そうでなければ、神は自分の祈りに応えないだろう。頭痛が消えることはないだろう。

 

 欲求を捨て去ることができれば、誘惑にも負けることがない。あらゆる悪魔の試みを撥ね退けることができる強い魂を手に入れることができて初めて、自分は頭痛から逃れることができる。つまり、今までの自分は手ぬるかったのだ。彼女はそう結論した。

 

 そして、女修行者(ノン)はこの平原へとやって来た。

 

 これまでこの平原を生きて越えた者はいなかった。中ほどまで達した時点で、すべてのものは熱と光によって命を奪われてしまう。だからこそ、女修行者(ノン)はこの平原を越えねばならなかった。あるいは、越える必要すらなかった。途中で息絶え、肉体が破壊され、霊魂がこの欲求の牢獄から解き放たれるのであれば、それはそれで構わなかった。おそらくその時には頭痛すらも感じなくなるだろう。

 

「生きたい」という欲求を捨てる。女修行者(ノン)は泉の水面から飛び出した。無数の細かな泡が弾ける音がした。濡れた(あかがね)色の長い髪の毛が裸体に張り付いていた。彼女は泉から上がって、手で(しずく)を払うと服を着た。そして、頭の中でまたあの夢の中の七色の輝きを思い浮かべると、躊躇することなく平原へと足を踏み入れた。

 

 途端に、()えがたいほどの熱さが女修行者(ノン)を襲った。頭痛すらも忘れるほどの熱さだった。熱砂はサンダル越しに彼女の足の裏を焼いた。数歩も歩かないうちに火脹(ひぶく)れができるのではないかと思われた。肌から汗が噴き出て、瞬時に乾燥し、また汗が出た。

 

 前方には延々と丘が連なっていた。彼女は前へ前へと進んでいった。彼女は一つめの丘を越えた。すでにして彼女の息は上がっていた。彼女の肉体は警報を発していた。「生きたい」という欲求が強く自分の中で湧き起こるのを彼女は感じた。

 

 二つめの丘を越えた。もはや汗は肌の上に浮かばなかった。足の裏の皮は剥がれていた。激痛が襲った。生存欲求はますます激しくなり、頭痛もそれに比例して激しくなった。それが女修行者(ノン)にとっては心地良かった。太陽は位置を変えなかった。孤影は足元の小さな黒いまとまりに過ぎなかった。彼女は歩き続けた。剥がれた皮膚から流れ出た血は、黒く乾燥していた。

 

 もう何個の丘を越えたのか分からなかった。彼女は知らなかったが、そこはちょうど平原の中ほどだった。

 

 ここに至って、女修行者(ノン)は自分の肉体がありとあらゆる力を失ったのを感じた。気づいた時には、彼女は仰向けに地面に倒れていた。太陽はまだ頭上で輝いていた。強烈な太陽光は今や女修行者(ノン)の全身を余すところなく焼いていた。彼女は自分の生命そのものが急速に失われていくのを感じた。肉体は直ちに避難をして生命を保つよう、相変わらず強い警報を発し続けていたが、彼女はそれを無視することができた。無視をしようがしまいが、もうその警報に従うことができないのは明らかだった。

 

 ようやく、自分は修行を成し遂げることができた。焼かれながら女修行者(ノン)は笑みを浮かべていた。柔らかでさりげない、それでいて満足しきった笑みだった。自分は欲求を乗り越えることができた。ありとあらゆる欲求の中でも、最大のものに打ち克つことができた。自分は今や偉大なる魂を手に入れた……悪魔ももう、自分に干渉することはできない。彼女はさらに笑みを濃くした。

 

 だが、頭痛は消えていなかった。女修行者(ノン)は苦労して右手を動かすと、自分の頭に触れた。爆発しそうなほどに頭が痛んだ。頭が割れて、何かが生まれてくるのではないかと思われるほどだった。それで良かった。

 

 これで修行は成就する。女修行者(ノン)は頭にやっていた右手を戻し、そして左手も動かすと、両手を合わせて合掌した。彼女は感謝と祈りを神に捧げ始めた。これが最後の祈りになるはずだった。呟くような祈りの言葉は掠れていて、一滴たりとも潤いを含んでいなかった。

 

 頭痛は最高潮に達していた。痛みだけが彼女の中にあった。

 

 女修行者(ノン)は、満足して祈りを終えた。神は自分を受け入れてくれるだろう。急速に彼女の意識は薄れていった。彼女は、自分の肉体から魂が剥がれていくのを感じた。剥がれていくのと同時に、頭痛を感じなくなっていった。死につつある自分の肉体が獰悪な太陽に焼かれ続けているのを、彼女は離れたところから見ていた。

 

 その瞬間だった。

 

 突如として空が曇り始めた。どこからともなく真っ黒な雲が湧いてきて、瞬く間に分厚く空を覆った。あれだけの威力を誇っていた太陽の光は、地上にまったく届かなくなった。数分も経たずに、黒い雲の間には蜻蛉(かげろう)(はね)のような稲光が走り始めた。猛烈な雷の音が鳴った。その直後、地上には冷たい風と共に大粒の雨が降り始めた。地上の暑熱は瞬時にして消滅した。

 

 雨を浴びて、女修行者(ノン)は蘇生した。彼女は今や、自分の魂がしっかりと肉体に張り付いて離れなくなっているのを感じた。彼女は呆然としつつ、雨を全身で受け続けた。髪は濡れ、服も濡れていた。彼女には潤いが残っていた。雷が死者を眠りから呼び覚ますように平原中に鳴り響いていた。

 

 いまだに呆然とした表情を浮かべたまま女修行者(ノン)は立ち上がると、雨の中をよろめきながら歩き始めた。薄く頭痛がしていた。だが、それは充分()えられるほどの痛みでしかなかった。

 

 なぜ、自分は助かってしまったのだろうか? 彼女は歩きながら考え続けた。修行は成就しかけていた。というよりも、それはもう成就していた。自分はあの時、確かに死んでいた……自分は欲求を克服したはずだった。それなのに雨が降り、自分は生きていて、こうして歩いている。

 

 これは悪魔の仕業だろうか? その可能性はあった。だが、すぐに女修行者(ノン)はそれを打ち消した。悪魔ならば、おそらく自分が死ぬ前に何かをしただろう。平原の真ん中に泉を作り出したり、冷たい飲み物を出したり……だが、悪魔はそういうことをしなかった。悪魔は修行を妨害などしなかった。

 

 ということは、これは悪魔の仕業ではなく、神の御業ということになる。それでは、なぜ神はこのようなことをしたのか……?

 

 なぜ神は、自分を助けたのだろう? なぜ神は、自分を復活させたのか? 彼女は歩き続けた。

 

 見渡す限り、平原には水が溢れていた。今や空からは豪雨が降り注いでいる。丘と丘の間には濁流が生じていた。泥水が音を立てて非常に強い勢いで流れていた。

 

 唐突に、女修行者(ノン)はある事実を思い出した。それはこれまでの修行で得たあの事実、「人間は欲求を捨て去ることができない」という事実などよりも、もっと根本的で、原初的な事実だった。

 

 彼女は、あの時の夢を思い起こしていた。あの時、自分は神からなんと言われたのか?

 

 あの時、神は修行をすれば頭痛が消えると確かに自分に言ったのか……?

 

 彼女は身震いをした。それすらも単なる思い込み(ドクサ)の可能性があった。

 

 修行をすれば頭痛が消えるというのは、ただの思い込み(ドクサ)かもしれなかった。ただの思い込み(ドクサ)に突き動かされて、彼女はこれまで修行をしてきたのかもしれなかった。

 

 しかし、そのようなことは彼女にとってもはやどうでも良いことだった。それ以上に、彼女の心を強く捉えて放さない一つの想念があった。

 

 あの光の輝きは、私を修行へと促していたのではなく、神が私を強く愛している(しるし)だったのではないか?

 

 もしかすると、修行するのをつい妨げてしまいたくなるほどに神はこの私のことを強く愛していたのでは……? 今では寒さに震えながら、女修行者(ノン)はそう思った。そうであるならば、最初から悪魔などは存在せず、ただ神の働きだけがあったのでは……? 髪の毛も、食べ物が載った食卓も、感覚を満たしたあの快さも、この雨も、すべては神の愛の証なのでは……?

 

 彼女は凍えていた。濁流はあまりにも激しくて、徒歩で渡ることなどできそうにない。このままだと、自分は凍え死ぬだろう……そう思った瞬間、彼女の中であの夢の中の七色の輝きが蘇った。

 

 輝きが蘇った直後、雨が止んだ。空が急速に晴れて、太陽はそれまでとは打って変わって穏やかな光を平原に注ぎ始めた。地面の下で眠っていた草花の種が水と熱によって一斉に芽吹き、瞬く間に平原は緑によって覆われた。

 

 緑の中を、しばらく女修行者(ノン)は歩き続けた。彼女は、咲いたばかりの小さな花に顔を近づけた。花弁の白色が痛いばかりに目に刺さった。馨しい香りが彼女の鼻腔を満たした。

 

 女修行者(ノン)はしばらく、花を眺め続けた。それから、そっと手を頭にやった。もう、頭痛はなくなっていた。それまでたった一筋(ひとすじ)の髪の毛に触れるだけで痛かったのに、今はもう、まったく痛まない。

 

 視界は明瞭だった。どこまでも彼女は見通すことができた。このように歪みのない目で世界を見るのは生まれて初めてだった。それは痛みのない世界だった。

 

 女修行者(ノン)は空を見上げた。虹がかかっていた。虹の色は、あの時の夢の中の輝きとまったく同じだった。

 

 強い感動が、彼女の中を満たしていた。

 

 私は、神に愛されている!

 

 女修行者(ノン)は笑顔を浮かべて祈りを捧げた。祈りはたったの一言だけで済んだ。やがて、彼女はまた歩き始めると、七色の光をいただいた緑の丘の向こうへと去っていった。

 

(「虹」おわり)




今回は完全オリジナルの話です。いかん、それにしては普通の話になってしまった! 最初は「神様のために過酷な修行がしたいのに神様に愛されすぎちゃって全然修行ができない女修行者」的な感じの、ごく軽い話で済ませようとしていたのですが……内容に引きずられて文量も多くなりました。まあ、前回よりも1,300字ほど減っているのでよしとしましょう。
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