フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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20. 大王

 マケドニアのアレクサンドロス大王(だいおう)の死の経緯について、プルタルコスによれば、(おおやけ)の日誌には以下のように記載されているという。

 

ダイシオス月(マケドニア暦五月)の十八日:大王、発熱のため浴室にて就寝。

 

・十九日:大王、入浴後に自室へ移動する。メディオスの求めに応じて(さい)遊びをして一日を過ごし、夜に入浴後、神々に犠牲を捧げる。その後、食事。終夜熱があった。

 

・二十日:大王、再び入浴され、犠牲奉献後、浴室にて(とこ)についたままアルコス一行と日を過ごし、航海や大海について聴取をした。

 

・二十一日:大王の熱はさらに高くなり、夜の間は安眠できなかった。

 

・二十二日:大王の熱は非常に高くなり、寝台を移して大浴槽のわきで床に就いた。将軍たちと欠員の将軍職について相談、適任と認められた者を任命。

 

・二十三日:記載なし。

 

・二十四日:大王は熱が高く、臣下に支えられて犠牲を奉献した。将軍のうち、重要な地位にあるものに広間で待機するよう命じた。部隊長や五百人隊長にはその外で徹夜での警備を命じた。

 

・二十五日:大王はユーフラテス河の向こうの王宮へ移動し、少々眠った。だが熱は下がらなかった。将軍たちが到着した時には声も発することができなかった。

 

・二十六日:容体は変わらなかった。マケドニア兵たちは大王が死んだものと考え、王宮の戸口へ来て盛んに叫び、ヘタイロイ(親衛隊)を威嚇して、実力を行使してでも王宮の中に入って大王に会うと言う。大王は戸口を開き、ひとりごとに下着のみの姿にさせ、寝台のわきを通過させた。この日、セラペイオンへ派遣されたピュトンとセレウコスは、アレクサンドロスがこの地に移るべきかを神に尋ねた。神は現在のままバビロンに留まるようにと命じられた。

 

・二十七日:記載なし。

 

ダイシオス月(マケドニア暦五月)の二十八日:薄暮、大王薨去(こうきょ)

 

 

☆☆☆

 

 

 大王(だいおう)は目を覚ました。素裸の肌の上にはびっしょりと汗をかいていた。不思議なことに、数日来彼を悩ませていた高熱は嘘のように消え去っていた。昨日マケドニア兵たちを床に就いたまま一人ずつ閲兵した時、彼の熱は()えがたいほどに高まっていて、ほとんど前を見ることすらできなかった。それでも兵士たちの顔が驚きと怖れと怯えに満ちているのが彼にはよく分かった。一人として、そのような顔を浮かべない者はいなかった。

 

 大王は、その時になって初めて自らの死を確信した。おそらく自分は数日以内に死ぬだろう。そう思って彼は床の中でまた眠りともいえない眠りへと落ちた。セラペイオンの神殿に送ったピュトンとセレウコスからの使者が何かを言っていたのは覚えているが、それに対してどのような返事をしたのか、大王は覚えていなかった。

 

 奇跡的に熱が引いたのだろうか? 疑問に思いつつも、大王は起き上がって(とこ)から下りた。自らでも驚くほどに軽やかな身のこなしだった。久しぶりに、大王は何か爽やかなものを感じていた。イッソスの戦いにてダレイオスを破った時でも、これほどまでに爽快なものを感じはしなかった。

 

 あるいは、生まれ変わった気持ちとはこういうものかもしれない。大王はしばらく(とこ)の周りを歩き回った。

 

 やがて大王は(とこ)から離れた。机の上には簡素で緩やかな白い衣服が畳まれて置いてあった。履物もあった。大王は自らの裸の肉体を見下ろした。一週間にも及ぶ過酷な病臥(びょうが)のためにやせ衰えているはずなのに、なぜか彼の肉体は元のとおりの美しさと力強さを保っていた。衣服と履物を身に纏うと、大王は浴室から出ていった。

 

 周りには誰もいなかった。衛兵もおらず、ヘタイロイもいない。奴隷もいなければ、書記官もいなかった。神官の姿も見当たらない。将軍も兵士たちも、どこにもいなかった。大王は悠然たる歩度で王宮内を歩いた。彼は王宮内に誰もいないことについて特に何とも思わなかった。確かに異常なことではあったが、彼はそれ以上にこの状況を楽しんでいた。

 

 やがて見るべきものをすべて見てしまったので、大王は王宮の外へ出た。都を貫流する大きなユーフラテス川は、その日も穏やかな音を立てて水を運んでいた。大王は橋の欄干にもたれかかって、しばらく流れを見ていた。白い泡が群れとなって流れ下っていった。塵芥(じんかい)の類は浮かんでいない。魚の姿は見えなかった。

 

 空は晴れていた。太陽の位置から察するに時刻はおそらく午前中だった。五月の太陽は美しく微笑んでいた。戦地にて兵士たちの身を焼くあの凶暴で残忍な太陽とは似ても似つかなかった。吹く風は涼しかった。

 

 その時、ふと大王は、風に乗って何かの匂いがやってくるのを嗅ぎ取った。甘いような、刺激的なような……いわく形容しがたい匂いだった。それは「匂い」としか言えなかった。匂いは東の方から薄く漂っていた。

 

 ほんの微かな匂いだったが、それは大王にとって決定的な意味を有していた。大杯(たいはい)の葡萄酒に混ざったたった一滴の毒薬が発するような、ごく弱い匂い……しかしそれは人の生命を絶対的に左右し得る。彼は匂いの根源を知りたくなった。知りたくなった瞬間、彼の体は自然に動き始めていた。

 

 大王はバビロンの都の中を歩き始めた。民たちの姿はどこにも見えなかった。それはそうだろうと彼は思った。王宮にも人はいなかったのだから、都の中にも人がいるわけはない。しかし、それは当然だと思いつつも、大王は一抹の寂寥感を覚えずにはいられなかった。大王は人間が好きだった……戦争や、戦争によって得られる栄光や伝説以上に、彼は人間そのものが好きだった。

 

 匂いに導かれるまま大王は都の大路(おおじ)を歩き、さらに東へと進んでいった。大王は巨大で壮麗な東門から都を出た。丸い石で舗装された街道が東の方へ伸びていた。街道の先から匂いが漂ってきていた。かなりの時間歩き回ったはずなのに太陽はまったく位置を変えていない。大王は、馬はないものかと周囲に目を走らせた。そして、納得したように頷くと、自分の足で街道を先へと進み始めた。人間がいないのならば、他の動物もいないだろう。彼はそのように納得していた。

 

 大王は歩き続けた。人も動物もいなかった。空に鳥はおらず、川には魚もいなかった。植物だけが豊かな緑を大地の上に広げていた。大王は、自分が空腹を覚えていないことに気づいた。のみならず、彼は渇きすらも感じていなかった。彼は、戦闘で腕や足を失った兵士たちの気持ちが、初めて分かったような気がした。病で視覚や聴覚、味覚を失った者たち、あるいは正気や思考力を奪われた者たちの気持ちも、今なら理解できそうだった。

 

 やがて、街道は尽きた。旧ペルシアの帝国、今では大王の帝国の版図は、そこでインドと接続していた。そこはカイバル峠と呼ばれる場所だった。蛇のようにのたくった坂道が延々と乾いた山肌を走っていた。山肌には点描画のように背の低い灌木が生えている。細かな白い砂塵が舞っている中、大王はたった一人で坂道を登り始めた。大王は、ここを通ったのはつい三年ほど前だったのに、なぜか千年以上も、もしくは万年以上も時間が経っているように感じた。

 

 匂いは、いまだにうっすらとしたままだったが、それでも大王を導き続けた。最初大王は、この匂いを毒薬のようだと思った。だが、今では彼は考えを変えていた。匂いはもっと清らかなものから発しているように思われた。それでいて人の感覚を惹きつけてやまない何かを秘めている。あるいは、毒薬も清らかなものかもしれないと大王は思った。清らかであるから人を害することができるのだろう。純粋さのみが敵を倒すことができる。そのことを彼はよく知っていた。

 

 この匂いも、人を害することができるかもしれない。もしかすると、この私自身をも……それでもなお、大王は匂いを探ってみたかった。

 

 やがて大王は峠を越えて、インドのパンジャブ地方に入った。やはりどこにも人はいなかった。動物もいない。生き物のいない世界とは、これほどまでに驚きに乏しいものかと大王は改めて思った。大王はいくつもの渓谷、いくつもの平原を越えた。何本もの大河、幾筋もの小川を渡った。どこにでも村があり、町があり、都市があった。要塞があり、砦があり、宿営地があった。それでも人はどこにもいない。インドを越えた頃には、大王は人間が恋しくてたまらなくなっていた。

 

 夜はまだこなかった。ずっと昼のままだった。大王は密林の中に入っていた。すでにインドを踏破したというのに、大王にはまったく感じるところがなかった。彼にとって唯一の関心事は匂いだった。匂いの根源はまだ先にあるようだった。バビロンにいた頃よりも匂いは濃くなっていた。大王は密林の中を歩き続けた。危険な毒虫も蛇も、人を食う(ワニ)も、猛獣も鳥も、何もいなかった。密林の中は空っぽだった。

 

 やがて、密林も尽きる時が来た。そこは海だった。浜辺には波が打ち寄せていて、水平線の上には何もない。遠くには巨大な積乱雲が漂っていた。大王は舟を探した。匂いはどうやら、海の向こうからやってきているようだった。幸いなことに、無人の漁師の苫屋(とまや)に一艘の状態の良い舟があった。大王はそれで海へと漕ぎ出した。

 

 いくら(かい)()いでも、大王の腕は疲れることがなかった。大王はしばしば海に翻弄された。雷が鳴り響き、大粒の雨が刺すように降り、大風と共に激浪(げきろう)がやって来た。山のように大きな波を乗り越えると、千尋の谷に落ちるかのように波を下る。大王は塩辛い海水を何度も飲んだ。しかし、彼の舟が転覆することはなかった。

 

 荒れ狂う海の真っ只中で、大王は満足していた。海こそずっと以前から彼が見たいと思っていたものだった。人も生き物もいなかったが、今度は彼の胸に寂寞(せきばく)の思いが募ることはなかった。

 

 大きな波が来た。それまでとは比べ物にならないほど大きな波だった。地獄の怪物が(あぎと)を開くように、それは大王の小舟を飲み込んだ。

 

 気づいた時には、大王は浜辺に倒れていた。舟が転覆し、波に運ばれるままどこかに漂着したようだった。匂いは濃くなっていた。ひとつの予感がした。大王は薄く笑みを浮かべると、立ち上がって歩き始めた。彼は浜辺を出た。

 

 そこには平原が広がっていた。青い空の下、見渡す限り緑の草原が広がっていた。大王は、匂いがさらにはっきりと強さを増したのを感じた。

 

 おそらくこの草原のどこかに、匂いの根源がある。大王は丈の高い草を掻き分けて歩き始めた。千切れて踏み潰された草から青臭い汁が飛び散った。草の間に咲いている花は濃厚な香りを発していた。それでも、匂いは消えることはなかった。

 

 そして大王は、ついにそこに辿り着いた。

 

 そこには女たちがいた。女たちは大きな泉の近くで憩っていた。女たちは数十人ほどもいた。若く美しい女たちは、全員がまったく同じ見た目をしていた。白銀色の長くて滑らかな髪の毛を後ろで一つにまとめていて、肌は高山に降り積もる雪のように白い。全員が裸だった。濡れた裸体から水滴が滴り落ちていた。

 

 女たちは、バビロンの都の遊び()たちのように豊かな起伏を持った体つきをしていたが、大王はすぐに、その柔らかな脂肪の下に戦闘に耐えうるだけの強い筋力が秘められているのに気づいた。彼は、あの包囲されたトロイアを救援に来たアマゾーンの女王もこのような美しさだったのかもしれないと思った。

 

 女たちは無表情だった。言葉を交わすことも、笑顔を向けあうこともなく、彼女たちは互いに互いの身を清め合っていた。大王がその場に現れても、女たちは何の反応も示さなかった。ただ、その美しくも冷たい顔を一斉に大王へ向けただけだった。大王はしばらく女たちを見つめた。透き通るような肌の白さが大王の目に突き刺さった。女たちも大王を見つめていた。

 

 匂いは、まさにこの場から漂っていた。大王はいったん女たちから視線を外すと、泉の(ふち)にまで足を進めた。泉の水面は穏やかで、空の色をそのまま映し出していた。彼は跪くと、両手で水を掬って鼻を近づけた。泉の水からは、まさにあの匂いがした。それは花のように甘い匂いだったが、同時に自らの力を掻き立てる何かも秘めていた。

 

 それまで眠っていた戦闘意欲が湧き上がってくるのを、大王は感じた。匂いを嗅いだ彼は、半ば反射的に泉の水を飲もうとしていた。

 

 その時、一人の女が大王のそばにやってきて、手で大王が水を飲もうとするのを制した。大王は非難するように女を見たが、水は飲まなかった。一方で、女は相変わらず無表情だった。やがて、女は大王に対して少しだけ首を傾けた。大王は、その仕草の意図が分かった。しばらくここで待っているようにと、女は言っているようだった。

 

 女たちは泉から上がると、何の素材で織られているのか分からない美しい布で体を拭いた。女たちの体からは、あの匂いが濃く漂っていた。女たちは下着を身につけ、空色に染められた簡単な上下の衣服を着ると、鋭く銀色に輝く鎧兜(よろいかぶと)を装着し始めた。

 

 たちまちのうちに、泉のほとりに美々しい女兵士の一部隊が完成した。女兵士たちは長い槍を手にしていて、腰には鞘に納められた長剣と短剣、棘のついた棍棒と纏められた鉤縄を()げていた。また、背には長弓と矢筒があった。どの道具、どの装備も銀でできていた。女たちの膨らんだ胸を覆っている鎧の表面には、細かで精緻な彫刻が施されていた。大王は近くでそれを見た。何かの物語、または何かの神話が刻まれているようだった。

 

 女たちは互いに互いの装備を確認し合うと、指を手にやって口笛を吹いた。虚ろに笛の音が響き渡ると、空に漂う雲の間から馬たちが舞い降りてきた。馬たちの四本の脚には小さな翼が生えていて、その体は半透明だった。馬たちは小型の戦車を牽いていた。戦車もまた銀でできていた。

 

 続々と女たちは戦車に乗り込んでいった。二人一組でペアを組み、それぞれの座席で体を落ち着けると、手綱を操って空高くへと昇っていく。大王はしばらくそれを見送った。次々に戦車は大地を離れていった。

 

 やがて、一台の戦車だけが残った。そこには女が一人立っていた。それは大王が水を飲もうとするのを手で制した、あの女だった。女は大王へ、近くに寄ってくるように仕草で示した。大王は女のすぐ傍に立った。あの匂いがした。大王はこの時になって初めて、その匂いをこの上なく好ましいものとして感じた。

 

 女は大王に戦車に乗るように無言で促した。大王もまた無言で頷いた。彼の顔は興奮して赤らんでいた。この戦車がどの戦場へ行くのかは分からなかったが、いずれにせよその戦場が大王にとって未知なものであることは確かだった。それは非常に心惹かれることだった。

 

 だが、それと同時に大王は、なぜ女が自分のをペアとして選んだのか不思議に思った。なにゆえに、と大王は女に言った。なにゆえに、(なんじ)は余を(とも)として選びたるか?

 

 問いかけられた女は、しばらく大王を見つめた。その瞳の色も銀色だった。目は美しく澄んでいた。大王は、自分の兵士たちのことを思い出した。戦いに臨む前、彼の兵士たちはみな、このような純粋で穏やかな目をしていたものだった。

 

 やがて女は、鎧の間に手を入れて、胸のたもとから一枚の金貨を取り出した。鋳造製のいびつな形をした金貨には小さな穴が開けられていて、鎖が通してあった。女はそれをペンダントとして用いていたようだった。女はごく無造作な手つきで金貨を大王に渡した。

 

 大王は受け取って、金貨を見た。金貨の肖像に彼は見覚えがあった。しかし、それが誰であるのかはすぐに思い出せなかった。

 

 ややあって、大王はそれが分かった。それは大王自身の肖像だった。

 

 これは余が、ガウガメラの戦いでダレイオスを打ち破った記念として作らせた金貨だ。

 

 納得したように何度か頷くと、彼は金貨の鎖を首にかけ、銀色の戦車に乗り込んだ。女も彼に続いて戦車に乗り込んだ。

 

 女が座ったのを見て、大王は掛け声と共に手綱を操った。馬は音も立てずに空へと飛び上がった。みるみるうちに戦車は速度を上げて高度を増した。

 

 雲の高さまで来た。大王は隣の女を見た。槍を抱くようにして女は眠っていた。赤子のように安らかな寝顔だった。大王は微笑むと、前へと向き直った。

 

 大王と女の戦車は、飛行雲(ひこうぐも)を引いて前を行く仲間たちの戦車を追いかけて、無限に広がっている青い空をどこまでも飛んでいった。

 

(「大王」おわり)




参考文献 
・プルタルコス『英雄伝(中)』(村川堅太郎編、筑摩書房、1987年)98頁。
・ボルヘス、カサーレス『ボルヘス怪奇譚集』(柳瀬尚紀訳、2018年、河出書房新社)「アレクサンドロス大王の神話」(アドリエンヌ・ボルドナーヴ『過去の変更、あるいは伝統の唯一の基盤』(ポー、1949))

前々から書きたいと思っていたアレクサンドロス大王の話が書けました。『ボルヘス怪奇譚集』に収められていた「アレクサンドロス大王の神話」を読んでからずっと自分なりの小説にしたいと思っていたのですが、なかなかプルタルコスが見つからず、しばらく書けずにいたものです。先日無事に発見したので今回作品にすることができました。
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