フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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22. 三斗

「なに? 郷里の変わった人間について話してほしいだって? なんのためにそんなことをオレに訊くんだい? え? 文章に書いて、書籍として後世に残す? それはそれは……いやなこった。絶対にいやだね。オレは話したくない」

 

「別になにも、アンタが嫌いなわけではないさ。そこは勘違いしないでほしいね。アンタの人格が好みではないからという理由で話をしないわけではない。アンタとの付き合いももう十年くらいになる。アンタのことはよく知っている。アンタは誠実で、友情に篤くて、真面目だ。アンタは良いヤツだよ。嫌になるくらい良いヤツだ」

 

「そう、もっと別の理由から俺は『いやだね』と言っているのさ。いや、多少はアンタの性格もその理由には含まれているかもしれんが……」

 

「もちろん、話せることなら色々とある。どっさりとあるさ。なにせ広東(カントン)は広い海に面している。海は千里万里の彼方(かなた)から色々な気を運んでくる。良い気、良くない気、悪しき気……その気を吸って育った広東の人間たちは、まさに千差万別さ。アンタの言う、変わった人間なんていくらでもいる。掃いて捨てるほどいるさ。自然の造化の偉力(いりょく)というものを目の当たりにしたいのならば、なにも地の果てに行って深山幽谷(しんざんゆうこく)の中を彷徨(さまよ)う必要などない。広東に行って、村とか都市の中を歩いている地元の人間を見てみれば良いのさ。江寧(こうねい)の都会じゃ百年経っても現れないような変な人間が、広東の田舎じゃうようよしている」

 

「オレがアンタに話したくないというのは、まさにその点に関係している。ちょっと理屈は長くなるが……まあ聞いてくれよ。まず、アンタは文人(ぶんじん)だろ? 文人(ぶんじん)の使命ってのは何だ? そうだよな。美文を(あらわ)し、それによって人間の精神を高め、社会の文化気風を善良なものとする。それがアンタたち文人の使命さ」

 

「だから文人たちの書くものは、すべて道徳的なものとなる。そうだよ、必然的に、アンタら文人の書くものは、全部道徳について書かれたものになるのさ。例えば孝行息子の話でも良いさ。(みさお)を守る貞淑な後家の話でも良い。主人のために命を投げうつ奴隷の青年の話でも良いだろうよ。博打うちのヤクザものが朝廷のために戦うって話も良いな。だが色々な主人公、色々な出来事があるとはいえ、それらすべての話の目的はたったの一つでしかない。すべては道徳のため、社会の善化のためなんだ……それ以外の話なんて存在しない。アンタたち文人は文章を書く達人かもしれないし、ありとあらゆる文章を作れるかもしれない。だが、作れる話といえばたったの一種類だけ。馬鹿の一つ覚えのように、アンタらは道徳の話ばかり繰り返す」

 

「だからオレはアンタに話をしたくないんだ。これからオレが広東(カントン)の変わった人間の話をアンタにするとしよう……それで、アンタはこれは良いことを聞いたと思って、真面目にそれを文章として書き残す。だが、その文章はオレが語った通りの話を書き表しているのではない。それには改変がなされている……知らない間に、井戸に毒が混ざっているように。改変さ。アンタの使命に基づいた価値観によって、オレの話には書き換えがなされている……せっかくオレがアンタに話した変わった人間の物語は、ただの道徳的な教訓話になってしまう。そうさ、アンタたちの語る話は、素材が何であれ、なんでもかんでも道徳的な味付けになっちまうんだよ。蒙古人たちが料理を何でも(ひつじ)の味にしちまうようにな」

 

「だからオレは話したくないのさ。オレが知っている話、オレが知っている人間の話は、決して(ひつじ)味じゃねえ。もっと玄妙で複雑な味だよ。苦くもあれば甘くもあり、濃厚な脂の旨さもあれば淡白な肉の味もある。そういう豊かな味わいのある素材を、アンタは上手く調理できるのかい? なんでもかんでも(ひつじ)味にするのは、素材にとってなんとも残酷なことじゃねえか? え? そう思うだろ? でも、アンタが創意工夫を凝らして、これを単なる(ひつじ)味にしないっていうなら、オレとアンタとの仲だ、話してやろうじゃないか」

 

「……分かった。じゃあ話してやるよ。だが、何度も言うようだが、決してただの(ひつじ)味にはするなよ。もし道徳的な話に書き換えたら、その時はオレとアンタとの友情もおしまいさ」

 

「だが、誰の話をしようかな……広東(カントン)には色んな人間がいるからな……そうだ、ここはひとつ、アンタの腕が試されるような人間の話をしてやろう。アンタがつい、道徳的な味付けをしたくなってしまうような、そういう人間の話にしてやろう」

 

「いいか、話を始めるぞ」

 

「オレの生まれた村に、三斗漢(さんとかん)という綽名(あだな)の男がいた。信じられないくらいの大食(たいしょく)でな。一度の食事で穀物を三斗(約30リットル)も食わないと満足できない。それで人から『三斗漢』と呼ばれていた。なに? 牛馬の類ではあるまいに、ただの人間が三斗もの穀物を食えるわけがないって? それは確かに、実際に見たことがないと信じることができないだろうな。だが、オレはこの目で見たことがある。嘘はついてねえ。そうさ、これから俺は嘘みたいな話をするだろうが、絶対にそれは嘘じゃねえよ。それは保証する」

 

「オレがほんの小さなガキだった頃、まだ三斗漢(さんとかん)は元気でピンピンしていた。その頃にはもう三十歳近くだったんじゃないかな。ヤツはまさに巨漢だった。身の丈は一丈(約3メートル)ほどもあって、胴回りは村中の子どもが集まって手をつないでも届かない。筋肉も骨も脂肪もすごかった。全身が野猪(やちょ)のようなごわごわとした濃い毛で覆われていて、特に顔面は毛むくじゃらで表情も分からなかった。二つの目だけが剛毛の波の中で輝いていた……優しい目をしていたよ。事実、ヤツは優しかった。言葉遣いはちょっと乱暴だったがな。ヤツが他人に暴力を振るっているのを、オレは見たことがねぇ」

 

「ヤツの食事はものすごかった。なにせ一度の食事で三斗も食うんだ。十人ひと家族用の大きな(かま)でたっぷりと飯を炊いて、副菜もなしにそれをひたすら食うんだが、もちろんそれだけじゃ全然足りない。だから釜を横に五個も並べて、同時に飯を炊く。あたりには薪が燃える煙と釜から立ち昇る炊煙(すいえん)が垂れこめて、あたかも大火事になったようさ。炊爨(すいさん)の熱はものすごくて、近くに寄るだけで汗が噴き出る。その中で三斗漢は、じっと座って飯が炊きあがるのを待っている……目を爛々と輝かせてな。異様な光景だったよ。ヤツは寺の坊主よりも神妙に座って、飯が炊きあがるのを待っていた」

 

「長い辛抱の時間を経て、ついに頃合いになると、ヤツは待ちかねたように釜の蓋を開ける。そして、まだ熱されて真っ赤になっている状態の(かま)を、まるで子ども用の小さな木の(わん)であるかのように持ち上げると、飯を口の中に流し込んでいくのさ。噛むんじゃねぇ。飲み込むのさ。たったの二回か三回箸を動かしただけで、もう釜の中身は半分以下に減っている。そしてヤツは無言で飯を食い続ける……真っ黒な髭が生えた口の周りに、びっしりと白い飯粒をつけてな。一回の食事にそれほど時間はかからなかったよ。あの食事の光景を実際に見たら、ヤツの綽名が三斗漢だってのは決して言い過ぎではないことは分かるはずさ。それどころか、ヤツはたぶん三斗でも足りなかったんじゃねえかとオレは思う。ヤツはその気になれば六斗でも九斗でも食えただろう……村の人間に遠慮して、三斗だけで我慢していたのだろうさ。ヤツは優しかったからな」

 

「で、だ。三斗漢(さんとかん)はある日、村から出て行って恵州(けいしゅう)のある(まち)へ行った。なんで村から出ていったのかは分からねえが、オレが思うにきっと良心の呵責に()えかねたんだろう。なにしろ一度の食事で三斗も食うんじゃ、いくら村が豊作でも全然足りねえ。ヤツはきっと、こう考えたんじゃないか。オレが食う飯をそのまま金に替えることができれば村はもっと潤うのに、オレがいるせいでいつまでも村は貧乏なままだ……そう考えて、ヤツは耐えられなくなった。だから大きな(まち)へ逃げて行ったのさ。村の人間はヤツのことが好きだったし、誰もヤツのことを迷惑だなんて思っていなかったんだが……そうだよ、ヤツは優しかった。みんなヤツのことが好きだったよ。ヤツのことが好きじゃなかったのは、たぶんヤツ自身だけだろう」

 

「だが、(まち)に出たところで仕事なんてねえ。いや、仕事ならあったんだが、誰もヤツを雇いたがらねえ。なにしろ体が大きすぎるし、見た目は毛むくじゃらで、どう考えても普通じゃない。海からやってきたバケモンじゃないかと(まち)の人間はウワサしあった。あえてバケモノの類を雇う物好きなんてどこにもいない。いくら広東に変な人間が多いと言ってもな。仕方がないから三斗漢は物乞いをして(しの)ぐことにしたが、もちろんそんなことでヤツの底なしの食欲を満たすことができるわけもねぇ。三斗漢はだんだん痩せてきた」

 

「ある日、何もすることがなくて暇だったのか、それともよっぽど追い詰められて、突然知恵が閃いたのか、それは分からないが……とにかくある日のことだ。三斗漢はその(まち)で一番大きな提督の軍営へ行った。提督っていうのは、アンタなら知っているだろうが別に水軍の長のことじゃねえ、省の武官職での最高位を指す言葉さ。とにかく、三斗漢は提督の軍営に行った。大きな軍門の外には、これまた大きな石の獅子像が二つあった。一つで六十斤(約360キロ)はある、重くて大きな石像さ。三斗漢は戯れにこれを持ち上げて、両手にひとつずつぶら下げて歩き回った。たちまちのうちに大騒ぎになった。ちょうどそこに提督が来た。提督もまた驚いてヤツに声をかけると、三斗漢は石の獅子像を持ったままやって来た」

 

「提督は三斗漢の力をもっと試してみたくなった。五頭の牛を用意して、横木に繋いで曳かせることにした。三斗漢がこれを後ろから引っ張る。要するに牛五頭と三斗漢との力比べをさせたのさ。下人が鞭で叩くと、牛たちはいきり立って前へ前へと進もうとする。その牛たちは恵州の中でも特に荒れた土地をいちから開墾した、一番力の強い牛たちだよ。だが、一歩も前には進めない。三斗漢ががっちりと押さえていて、ついに牛たちは尺寸(しゃくすん)も前へ行くことができなかった」

 

「三斗漢の力の強さは、今や誰の目にも明らかだった。提督はその力を奇として、その賞として馬糧を食わせ……ああ、文字通り馬の糧を食わせるってわけじゃないだろう。馬が食うくらいのたくさんの食べ物って意味じゃないか? 知らねえけどな。それで、軍に入隊させて武芸を学ばせることにした。そこで三斗漢が提督に跪いて言ったのがまた面白くてな」

 

「ヤツは言った。『それがし、日に三斗の穀を要するものでござる。願わくば、その倍の六斗の糧をいただきたい』 どこでそんなに丁寧な言葉を覚えたのか……たぶん実際はもっと田舎者丸出しの言葉遣いだったんだと思う。大言壮語というわけでもなかったさ。ヤツの力と体つきを見れば誰もが納得した。提督は笑って認めてやった。そして、冗談交じりにこういった。『はたしてお前であっても六斗もの穀物が食べられるものかな』 それに対して三斗漢は平然としてこう答えたものだった。『足りない分は自分で(あがな)います』ってな」

 

「こうして三斗漢の兵士としての生活が始まった。ヤツはけっこう真面目に武を練った。瞬く間に一年が経った。ヤツの武芸はそれなりに上達した。剣も槍も使えるようになった。馬に乗ることも覚えた。すぐに馬が潰れちまうからまるで意味はなかったがな。弓を射ることもできるようになった。どんな弓も引いたらすぐに引きちぎってしまうから、これも意味はなかったけどな。銃はできなかった。ヤツはさほど頭が良くなかった。最後まで複雑な操作を覚えられなかったのさ。だから、ヤツは騎兵にはならずに歩卒となった」

 

「だが、そのうちヤツが兵士としては致命的な欠陥を抱えていることが明らかになったのさ。そうだよ。ヤツは人殺しができなかったのさ」

 

「ある日、提督が直接指揮をして盗賊の根城を攻略したことがあった。もちろんヤツも一歩卒として戦闘に参加した。ヤツにとってはこれが初陣だった。ヤツは勇敢だった。盗賊が砦の銃眼にとりついて、盛んに矢玉と銃火を注いでくる。他の兵士たちが怯んで足を止める中、三斗漢は先頭を切ってどんどん進んでいく。やがて砦の城門に辿り着いた三斗漢は、素手でぐいと力を入れて門を押し開ける。兵士たちが歓声を上げて砦の中へ突入していく……三斗漢も中に入っていく」

 

「だが、ヤツが仕事をしたのはそこまでさ。周りで兵士たちが片っ端から賊を斬り殺して首を稼いでいる中で、三斗漢は戸惑ったようにそこで立ち尽くしていた。提督が馬上から、なぜお前はこの機会を活かして戦果を稼がんのかと三斗漢に尋ねたら、ヤツは困惑しながらこう答えた。『でも提督、人を殺したら捕らえられて獄にぶちこまれますよ』ってな」

 

「提督は呆れて、親が子を諭すような口調で三斗漢に言ってやった。『確かに人殺しは罪だが、それは良民に限った話じゃ。そして、ここでのお前の相手は盗賊じゃ。余が許すのであるから、お前は存分に賊の首を取れば良い。さあ、やれ』 だが、三斗漢は動かない。何度も提督はヤツを促したが、最後までヤツは動かなかった。そしてヤツはこういった。『でも提督、人を殺したら地獄に堕ちますよ』ってな」

 

「人殺しが仕事の提督に対して、それは随分な物言いだった。だが、それで三斗漢が処罰されることはなかった。提督は心の広い人物だったようだ」

 

「それでも、それからのヤツは鬱々として志を得ず、結局は軍を辞めて生まれ故郷の村に帰ってしまった。しかし、村に帰って来たからと言って特に仕事があるわけじゃねえ。また同じことの繰り返しさ。ヤツは早々に村から出ていった。ヤツがいれば馬や牛を使わずとも田起こしができるから、村の連中はヤツのことを頼りにしていたんだが……もちろん、せっかく軍に入ったのに、殺しもできないで帰ってきたヤツのことを馬鹿にするやつも大勢いたさ。三斗漢は臆病者で、ミミズのように気弱で、賊も撃ち殺せない小心者だとな。だが、村の連中だけは分かっていた。ただヤツは優しかっただけだ……優しすぎたんだよ」

 

「村から出ていった三斗漢は、広東(カントン)各地を点々としたらしい。色んな土地で、ヤツが信じられないくらいの大飯を食らって去っていったという話が残っている。だが、講談師たちはいつも嘘をつくからな……オレは本当のことしか言わないよ。最後にヤツが確認されたのは、潮州(ちょうしゅう)さ」

 

「ちょうどその時、潮州の(まち)の東門では、湘子橋(しょうしばし)の補修をしていた。なに? この湘子(しょうし)っていう橋の名前は、あの八仙のうちの一人の(かん)湘子(しょうし)から来ているのかだって? 知らねえよ、そんなことは。それこそそういうことはアンタのような文人が調べることだろ」

 

「ただ、湘子橋がどんな橋だったのかは分かっている。オレも前に商用で潮州に行ったことがあるからな。随分と大きくてがっしりとした頑丈な橋だよ。橋というより大きな建物っていう感じでな。水量が豊かで、流れが早くて、幅が広い韓江(かんこう)の川に、湘子橋はかかっていた。あれだけの橋を作るのに、いったいどれだけの費用がかかったんだろうな」

 

「湘子橋は石造りだ。一つの部材は長さ三丈余(約9メートル)、幅も厚さも共に一尺五寸(約50センチ)はある。重さはどれくらいかな。まあ重いだろうさ。なにせ大勢の工人がこれを天架(アーチ)としてかけようとするんだが、数十人がかりで引っ張っても持ち上げることができない。何? 部材が重くて引っ張り上げることができないなんて、そんなことは工事をする前から分かっていただろうって? そうだろうな。だがアンタ、アンタみたいな文人は知らないだろうが、現場仕事っていうのは誰もが無茶だと思う無茶をなんとか形にするから成り立ってるんだぜ」

 

「三斗漢は(そば)からこれを見ていたが、工人たちがいつまで経ってもあたふたとしているのがおかしかったのか、思わず笑ってしまった。笑いながらヤツは言った。『こんなに大勢が真っ赤になって汗を流しているのに、そんなに小さな石の板一枚も持ち上げられないのか』 そう言ったのさ。その時その場に居合わせた工人から、オレが直接そう聞いたのさ」

 

「工人たちはみんな腹を立てた。それで、そんなに大したことを言うなら、お前試しに一人でやってみろと言った。工人たちだって馬鹿じゃない。三斗漢が只者じゃないのはその見た目で分かっていた。ただ、いくら力持ちであっても長さ三丈余、幅と厚さ一尺五寸もある石材を一人で持ち上げられるとは思わなかったのさ」

 

「だが、三斗漢はそれをやり遂げた。ヤツは橋の上に昇ると一人でこれを引っ張りあげて、そればかりじゃねえ、ぴったりと石材をはめ込むことまでしてしまった。工人たちは驚愕した。ヤツはすぐに工人たちに仲間として引っ張りこまれた」

 

「この湘子橋の橋洞(アーチ部)はもともと百以上もあったんだが、辛卯(かのとう)の年、大水と氾濫があって、そのうちの三つが崩壊した。郡丞(※郡の行政補佐官)の范公(はんこう)がその俸禄(ほうろく)を投げうって義捐(ぎえん)金とし、修築工事を始めたんだが、三斗漢はちょうどその現場に居合わせたというわけだったのさ」

 

「『三斗漢はよく巨石を動かすから費用を省いて工程を加速することができる』ということになった。工人たちは喜んでヤツを使い始めた。そうさ、ヤツはこき使われた。だが三斗漢はお人好しだったからよく働いた。ヤツは優しかったからな。それで、たちまちのうちに三つすべての橋洞(アーチ部)の工事が終わってしまった。范公は三斗漢に銭を賞与として与えた。数十貫もやったと言われている。三斗漢がいたからそれだけ早く工事が終わったのさ。本当は銭数十貫でも足りないくらいの働きだったとオレは思うよ」

 

「だが三斗漢は、せっかくもらった数十貫をたちまちのうちに使っちまったのさ。そりゃアンタ、分かってるだろ。ヤツは銭を全部食費に使ったんだよ。ヤツの胃袋にとっては数十貫の銭だって全然足りなかった。折しも凶作の年でな、穀物の値段は上がっていた」

 

「ことごとく銭を食い潰してしまった後は、また同じことの繰り返しさ。ヤツは潮州から出ていって、何処ともなく立ち去った」

 

「その後の三斗漢(さんとかん)だって? 誰も知らんよ」

 

「そうだよ、誰も知らないのさ。ヤツが潮州から出ていった後、どんなことをして、どんな最期を迎えたのか、誰も知らないのさ。俺だって知らない。事情通って顔をした人間の中には、三斗漢は江蘇省の澄江(ちょうこう)で餓死したなんて言うヤツもいる。あるいはそうかもな。俺も、たぶん三斗漢はどこかで人知れず野垂れ死したんだと思うよ。ヤツが安らかな死を迎えられたとは、どうしても思えない」

 

「それにしても、三斗漢はどうなったんだろうなぁ……ここまで長々とアンタに話をしてきたが、今ではちょっとアンタに謝りたい気持ちになってきたよ。何って? そりゃオレが『話を(ひつじ)味にするな』ってアンタに言ったことさ」

 

「実は、話を終えてオレは今、三斗漢の話を(ひつじ)味にしたくてたまらなくなっている。ヤツが無意味な死を迎えたなんていうのを、オレは話の結末に持ってきたくない。ヤツが澄江(ちょうこう)のどこかで餓死をしたかもしれないなんて、考えたくもないのさ。人知れず山中のどこかで、あるいは人目のつかない河原のどこかで、三斗漢が飢えと絶望に苛まれて死んでいったなんて……そんな虫けら以下の最後なんて、想像したくもない」

 

「ヤツはまったく、善いことだけをして生きていた。人を罵ったり、殴ったり、殺したりなんてことはしなかった。たとえ自分がどれだけ罵られたり、殴られたり、殺されそうになったりしてもな。そうさ、ヤツは博打すら打たなかった。ただ、人より多くの飯を食っただけだ。それは罪ではないだろう。道徳的な話というのならば、ヤツこそ道徳的な人間だった。ヤツよりも道徳的な生き方をしている人間が、この世にどれだけいる? ヤツは盗賊さえ殺さなかったんだ」

 

「だからオレとしては、ヤツの善行が何かしらの意味で報われて幸せな人生を送り、最後は幸せなままに死んだという、そういう物語にしたい。三斗漢の人生はそういう、(ひつじ)味の物語だった。そういう物語にしたい……そんな思いが抑えきれない」

 

「アンタに謝るよ。無意味に生まれて無意味に死んだなんて、そんな話の方が残酷さ。たとえ(ひつじ)味でも、そういう話になっている方がいくらかは報われる」

 

「でも、本当に三斗漢はどうなったんだろうなぁ。ヤツがどんな最期を迎えたのか、オレは気になって仕方がない」

 

「小さい頃、オレは一度だけ三斗漢に遊んでもらったことがあるんだ。ひとしきり遊んだ後、ヤツの腹が大きな音を立てたのをオレは覚えてる。きっと空腹だったんだろう」

 

「ヤツの腹の音は大きくて、とてつもなく悲しい音だった。今でもあの音がオレの耳に残ってる。もしかしたらヤツの大きな腹の中には、いっぱい悲しみが詰まっていたのかもな。だからヤツは誰よりも優しかったのかもしれない」

 

「ああ、それにしてもいったい、ヤツはどんな最期を迎えたのかなぁ……気になって仕方がねぇんだ、オレは……」

 

(「三斗」おわり)




参考文献 袁枚『子不語1(全5巻)』(手代木公助訳、平凡社、2009年)235頁-236頁。

今回の話はタイトルをどうするかでけっこう考えました。候補としては「羊味」、「広東」、「大食」(たいしょく)、「大食漢」、「大力」などいろいろありましたが、最終的には「三斗」になりました。『子不語』の原題も「三斗漢」なのでちょうど良い感じです。
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