フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

23 / 50
23. 軍士

「いいぜ。話してやるよ。口に出して話すにはちょっと縁起でもない話だが、構うことはねえ。呪われそうなほどに縁起でもない話でも、いったん紙に書いてさえしまえば呪力は減じてしまう。なんでかは知らんが、まあそんなもんだ。アンタが紙に書いてくれるというのなら、俺はそれを歓迎するよ。呪力が減るならな」

 

「これは俺自身が体験した話ではない。俺の爺さんが体験した話さ。爺さんは結局、九十歳を超えるまで生きた。幸せな最期だったよ。一族全員にみとられてな」

 

「それじゃ、話をしていこうか。それは康熙帝の治世の十二年目(一六七三年)の冬のことだった。一人の楚の客商(きゃくしょう)が山東に商売にやってきた……というような語り方をしたらもう分かると思うが、この客商ってのが俺の爺さんだよ。ああ、客商っていうのは、ひとつの土地に店を構えて商売するのではなくて、各地を巡って特産物を買って、別の土地でそれを売って利益を得る商いのことを言うのさ。体が丈夫でないと成立しない商業だね」

 

「爺さんは地元の湖北・湖南省で商業の経験を積んで、いずれは人を雇ってもっと手広く商売をしようと思っていた。爺さんは真面目な性格だった。酒も女も博打もやらず一心に商業に打ち込んでいて、それだけじゃない、確かな才能も持っていた。しかし、だからといって成功するわけじゃないのが商売なんだね。爺さんの商売はなかなか黒字にならなかった。それどころかじりじりと赤字に転じていった。爺さんは悩んで、どうしたら良いのかと色々と占いもしてもらった。それで、『山東に行ってまた商売をやり直すのが良い』と出たから、爺さんは思いきって慣れ親しんだ土地を離れて、山東に行くことにしたのさ」

 

「その年の冬の寒気はものすごいものがあった。街道は一面深い雪に埋もれていた。当時はあの康熙帝の時代だ。戦乱の後だったが、統治は行き届いていた。だから街道にも盗賊の類はいなかったが、仮に盗賊がいたとしてもこの雪では行動不能になるのは間違いなかった。爺さんは雪の中を難渋しながら歩いていった。やがて徐州(じょしゅう)(江蘇省)から符離(ふり)(安徽省)に出た。一番近い(まち)にはまだ十五里(約8キロ)ほどもある。ますます雪は降り(つの)るし、風は強くなるし、体は冷えてくるしで、爺さんはほとほと困り果てた」

 

「そのうち日が暮れて夜になった。爺さんはいよいよ生命の危機を覚え始めた。だが、爺さんとしてはこのまま死んでも良いかなと思ったらしい。山東に出て新しく運気を開くなんていう決意はしたが、それまでの道中でも商売は全然上手くいかなかったし、それにこれから向かう土地でも商売が好転するなんていう保証もない。これまで爺さんは骨折りに骨折りを重ねて、ありとあらゆる楽しみまで遠ざけて商売に打ち込んできたが、ここまで上手くいかないとなるともうどうしようもない。だが、諦めて違う人生を送るには些か歳を取りすぎている。爺さんの心は、山東の雪と寒気の中で冷え切っていた。体よりも、心の方が死にそうになっていたんだよ」

 

「さらに夜は深まっていった。時刻はほぼ二更(21時から23時)の刻限だった。北風がさらに強くなっていた。爺さんはその時、道端に何かの灯が灯るのを見た。夜闇の中でも真っ白に輝く雪の中で、その灯は血のように明々と輝いていた。爺さんは近づいてさらにそれを見てみた。それは一軒の飲み屋だった。ちょっと貧相な店構えだが、店には違いない。それまではもうこのまま死んでも良いと思っていた爺さんだが、飲み屋の灯りを見た瞬間に『死にたくない』と思ったという。爺さんが低級な人間なわけではない。人間なんてのは全般的に見てそんな生き物だ」

 

「温かい燗酒でも出してもらい、簡単な食事もして、そのまま一晩泊めてもらおう。そう思って爺さんは飲み屋に入っていった。店の中にも明るく灯が灯っていて、けっこう明るい雰囲気がする。綺麗に掃除が行き届いた店内は外から見る以上に広く、しかし余計な装飾はいっさいないから多少殺風景だ。それでも飲み屋には違いない。中には店員たちが五、六人ほどいて、この時間だというのになぜか煮炊きだのなんだのをして忙しくしている。普通ならみんな眠っていてもおかしくないのに」

 

「だから、爺さんは店に入ってから違和感が消えなかった。『どうも変だ。おかしい』と思っていた。だからといって、今更こんな雪の中へ再度出ていくわけにもいかない。爺さんが背中に背負っていた荷物をおろして、卓について『とりあえず燗酒を一杯』と声をかけて頼んだところ、それまではまるで爺さんのことを無視していたように働いていた店員たちが一斉に驚いたような顔をする。店員たちは何度も何度も顔を見合わせて、また爺さんの方を見てくる。みんな困ったような顔をしていた。爺さんは何だかバツが悪くなったような気がして、黙って席に座っていた。自分は招かれざる客なんだと爺さんは思った」

 

「すると、店員の中でも特に年老いた男が一人、爺さんの座る卓にまで近寄ってきて、いかにも同情のこもった声音でこう言った。『この雪と風の中でさぞや窮迫なさったことでしょう。我々としてもあなたに酒食を出してあげたいところなのですが、実は今ちょうど、遠くから帰ってくる軍士(ぐんし)たちの接待のため食事の準備をしているところで、あなたに飲ませるだけの酒がないのです。この店の右手には耳房(じぼう)がありますから、お部屋だけは提供できます。いかがなさいますか?』」

 

「耳房っていうのは、もちろん正式な部屋として最初から建てられていることも多いが、後になってから必要に迫られて増築しただけの小さな部屋のことを名称だけはかしこまって耳房と呼んでいることも多い。爺さんはなんだか嫌な予感がしたが、相手の気の毒そうな顔を見ていると強いことも言えない。それに、部屋を貸してもらえるだけありがたいとも思った。爺さんは礼を言うと案内に従った。店員は爺さんを耳房に連れていった。爺さんの予想通り、耳房はいかにも小さくて小汚い場所だった。壁にはところどころに亀裂が走っていて隙間風がものすごい。店員が寝具を運び込んでくれたが、その寝具の中身の綿もくたびれきっていて、それに変な臭いもする。爺さんはとんだことになったと思いつつ、横になって休むことにした」

 

「だが、爺さんはなかなか眠れなかった。腹は減っているし、喉も渇いている。酒とは言わずとも水の一杯でももらえば良かったと思いつつ、爺さんは輾転(てんてん)反側(はんそく)していた。外の風雪(ふうせつ)はますます激しくなる一方だ。風が音が耳に付く」

 

「すると、時刻が三更の中ほどになった頃に、外でなにやらガヤガヤと騒がしい音がする。騒がしい音は次第に外から店の中へと移っていくようだ。その頃には爺さんも気絶したように眠りに落ちかけていたのだが、音で目が覚めてしまって、いったい何の音だろうかと訝りながら寝具から起き上がった」

 

「戸を開けようと思ったが、なぜか戸はピッタリと閉じていて開かない。いくら力をいれてもびくともしない。向こう側につっかえ棒でもされているみたいだ。爺さんは困った。まさか店の人間が自分のことを閉じ込めたのか? しかし、何のために? その時爺さんは、店側の壁に一筋の亀裂が入っているのに気が付いた。亀裂の向こうから店内の明るい灯の光が漏れ出ている。爺さんは亀裂の前に行くと、そこから店内を覗き見てみることにした」

 

「店の中には軍士(ぐんし)たちがたくさんいた。壁には鋭利な光を放っている刀剣や槍、ピカピカに磨かれた火縄銃の類が立てかけられている。爺さんは、ああそうか、これはあの店員が言っていた遠くから帰ってきた軍士たちのことなのだろうと思った。軍士たちは茶褐色の戎衣(じゅうい)の上に簡素な革製の鎧を身に纏っていた。どの軍士たちも若くて、背が高く、よく鍛えられているようだった。だが、顔だけは妙に青黒い。爺さんはそのことを不思議に思わなかった。なにせ、この雪だ。随分と寒い思いをしたんだろうと爺さんは思った」

 

「軍士たちは盛んに飲食をしていた。湯気の立つ肉料理と、これまた燗をされて湯気の立っている酒を楽しんでいる。それを見ていると、爺さんは口中に生唾が盛んに湧き出るのを感じた。今すぐに出ていって自分も飲み食いしたいが、しかし戸はなぜか固く閉ざされている。爺さんは生殺しにされているような気分を味わいながら、せめて食事の雰囲気だけは味わいたいと思い、軍士たちが飲み食いしているのを亀裂からひたすら見つめていた。軍士たちは何やら戦闘のことを談じているようだったが、何を言っているのかは爺さんにはさっぱり分からなかった」

 

「不思議なことに、軍士たちはさんざん飲み食いをしているのにも拘わらず、また温かい店内にいるのにも拘わらず、一向に顔色が良くならない。みんな死んだような青黒い顔をしたままだ。何がなんだかはわからないが、爺さんは不思議に思いつつじっと見ていた。それ以外にやることもなかったしな」

 

「しばらくすると、みんなが突然、口々に『大将がお見えになったぞ』と言い始めた。すると外から随従の者の声が響いてくる。甲高い馬の嘶きも聞こえてきた。みんなが食事を置いて、どやどやと入口から外へ出ていった。しばらくすると、一人の男が店の中に入ってくるのが爺さんには見えた。勇壮な見た目の若い偉丈夫で、長い(ひげ)(あご)から伸ばしている。筋骨隆々で、身のこなしは威厳がありつつもどこか優雅だ。しかし、顔は兵士たちと同じく青黒い。これが大将だなと爺さんは直感した」

 

「大将は悠然とした足取りで店内の上座(かみざ)に行き、そこに()した。軍士たちの姿は見えない。おそらくみんな店の外でかしこまって立っているのだろうと思われた。店員たちが盛んに大将へ向かって酒食をすすめる。大将は無言でそれを食べたり飲んだりする。しばらく食事は続いた。ひととおり食事が終わった後、大将は外で立っていた軍士たちを中へ呼び入れた。軍士たちがまたどやどやと店内へ戻ってくる」

 

「大将は言った。『諸君らもこの遠征を始めてからもう随分になる。戦闘もひと段落したから、しばらくはそれぞれ隊舎へと帰隊して(やす)らうが良い。私もまたしばらくここで憩いたい。命令文書が来るのを待ってから次の行動に出ても、遅きに失するということはあるまいと思う』 大将がそう言うと、軍士たちは敬礼をして、ひとりひとり武器を手に取って店内から外へと退いていく。こんな夜に、しかもこんな雪の中、帰隊するとはいってもどこへ帰っていくのだろう? 爺さんは、この大将も随分と残酷なことをいうものだと思った」

 

「軍士たちが消えてしまうと、後には大将だけが残った。大将は『阿七(あしち)、来い』と呼ぶ。すると、一人の少年の軍士が店の左側の戸口から出てきた。ほっそりとした体つきの大変な美少年で、都会の劇役者でもここまでの美少年はおるまいと爺さんには思われた。顔立ちは非常に整っていて、目はすっきりとしていて利発そうな雰囲気を纏っている。ただ、やはり顔色は青黒かった。阿七が出てきたら、店員たちはなぜかみんな店の奥へと引っ込んで、戸を閉めてしまった。店の中には大将と阿七だけが残った。おそらく、この阿七は大将の(ボーイ)かなにかなのだろうと爺さんは思った」

 

「阿七は大将を左の戸口から隣の部屋へと案内していく。そして戸が閉められた。隙間からは灯の光が漏れている。だが、中がどうなっているのかは爺さんには分からない。爺さんは、その時なぜか、猛烈に、あの部屋の中で何が起こっているのか見たくなった。大将と阿七が何をしているのか知りたくなったのさ。まあ、爺さんもその時はだいぶおかしくなっていたんだよ。寒かったし、飢えていたし、渇いていた。だから生命の危機を感じていて、それがおかしな方向での興味へと繋がっていったんだろう。本人がそう言っていた」

 

「しかし、この亀裂から覗くだけでは、離れた部屋の中を見ることなど到底不可能だ。爺さんは困った。そこへ行くには、やはり戸を開けて耳房を抜け出さなければならない。どうしたものかと思ったが、爺さんはとりあえず固く閉じられていたはずの戸を開けてみることにした。するとどういうわけか、その時はなぜか戸がすんなりと開いた。爺さんは難なく店内に出ることができた。店内は静まり返っていて、灯も消されていて真っ暗だった。あれだけの軍士たちが飲み食いをしていたのだから、食べ物や酒の残り香があってもおかしくなかったが、何も匂いはしない。爺さんは手探りで店内を進んでいき、そして大将と阿七が入っていった部屋の前へと辿り着いた。爺さんは隙間から中を覗いてみた」

 

「その部屋の中には竹製の(とこ)だけがあった。牀には寝具の類は置かれていない。床の上にもなにもない。土間には皿に入った灯がそのまま置いてある。灯が光を投げかける薄暗い空間の中で、長い髯の大将が阿七と共に立っていた。大将は全裸だった。隆起した筋肉が美しい陰影を描いている。阿七は戎衣(じゅうい)を着たままの姿だった。そういう類の淫靡な雰囲気はまったくない。二人とも無言で、なぜか体を微かに左右に揺らしている。まるで風にそよぐ(あし)のようだった。その時爺さんは、たとえようもないほどの不気味さを感じたという」

 

「突然大将が、その長い髯の生えた自分の頭へと両手を伸ばして、頭部全体を揺さぶり始めた。すると、頭が胴体から外れて(とこ)の上に転がった。血は出ていない。嫌に生々しい音だけがその場に響いた。爺さんは息を呑んでその光景に見入っていた。何がなんだか分からなかった。しかし、目の前の光景はどんどん続く。頭がなくなったまま直立している大将の体を、今度は阿七が揺さぶり始めた。阿七は大将の両肩を掴んで軽く揺さぶりをかける。すると、大将の両腕が人形のように抜けてしまった。右手は牀の上の頭部の近くに、左手は床の上に転がった。その後、大将の胴体が倒れて、牀の上に横たわった」

 

「阿七は自分の大将がバラバラになったのを見届けると、自分も服を脱ぎ始めた。すぐに毛も生えそろっていないつるっとした陰部が露わになった。すっかり裸になると、阿七は牀の上へと上った。灯に照らされた阿七の顔はさらに青黒くなっていて、まったくの無表情だった。阿七は大将の胴体にまたがると、まるで女がそういう時にそういうことをするかのように腰を動かし始めた。薄暗い部屋の中で、(とこ)の軋む音だけが響く。随分と長くその行為は続いた」

 

「爺さんは魅入られたようにそれを見ていた。話を聞いていた俺が怖さのあまり、冗談半分に『その時爺さんはどんな気分がしたんだ?』と尋ねると、爺さんはちょっと考えてからこう言った。『虫が交尾しているのを見ているような気分だったな』 つまりそういうことだ。ただ単におぞましかったということだよ」

 

「すると突然、(とこ)の上の阿七の腰から下が真っ二つに裂けた。それだけではなく、阿七の体はどんどんバラバラになっていく。それでもやはり、大将の時と同じく、血はまったく出ない。腕がもげ、脚も取れていまい、最後には頭部もとれて(とこ)の向こう側へと転がっていってしまった。それと共に、皿の上の灯も消えた。すべてが暗闇に呑まれた。その後は、ただの沈黙、ただの静寂だけがその部屋を満たしていた。永遠の沈黙、永遠の静寂さ……」

 

「爺さんはここに至ってようやくぞっとした。恐怖だけがその時の爺さんの心をすっぽりと包んでいた。爺さんは逃げるようにして耳房へとって返すと、戸を固く閉めて、寝具をひっかぶり目を閉じた。自分の衣服の(そで)で顔を覆って、爺さんは震えていた。だが、やはり眠ることができない。今にもあのバラバラになった大将と阿七がそこの戸口を開けてこの耳房へと入って来るのではないかと思うと気が気ではない」

 

「だんだん爺さんは、夢とも幻覚ともつかないものを見始めた。夢の中では大将と阿七がいた。二人は裸で、互いに互いの体の部位(パーツ)を交換して遊んでいる。阿七が自分の頭部を大将の体に乗せる。新しい体を得た阿七が甲高い笑い声を上げて、その場をぐるぐると走り始める。だが阿七は、バラバラになって地面に転がっている自分の体につまずいて、転んでしまう……そう言えば阿七が何かを言うのを聞かなかったと、その時になって爺さんは思った」

 

「遥か遠くで鶏が鳴くのを一、二度聞いて、ようやく爺さんは目が覚めた。空は朝を迎えてようやく明るくなったところだった。生まれたばかりの朝日の白粥のような光を浴びて、爺さんは、自分が何も寝具に覆われていないことに気が付いた。それだけじゃない。爺さんは耳房の中にもいなかった。飲み屋なんてどこにもない。爺さんは森の中にいて、周りに雪が降り積もっている中、地面に直に横になっていた。全身は冷えきっていて、かちかちに凝り固まっていた」

 

「爺さんは起き上がって、荷物を背負うとまた歩き始めた。飢えと寒さと渇きで死にそうになっていたが、自然と足だけは前へ前へと動いた。雪は止んでいたが風が酷い。寒さの中をこらえてさらに三里ほど行くと、ようやく店があった。今度こそ本当の店だろうかと爺さんは慎重になったが、店先で立ち働いている店の主人の不機嫌そうな顔を見て、どうやらこれは本当の店だと思った。それで爺さんが声をかけると、主人は驚いて『なんでアンタはまたこんな朝早くに、こんなところにいるんだ』と言ってくる」

 

「爺さんはゆうべにあったことをすべて店員に話して、いったい自分が昨夜過ごしたあの森というのはどういう場所だったのかと尋ねた。主人は目を丸くして聞いていたが、爺さんに『ここらいったいはすべて古戦場だよ』と言ったという」

 

「つまらん講談師だったら、この店主も(バケモノ)として描いてオチをつけるんだろうが、もちろんそんなことはない。その店主は実に懇切に、弱りきった爺さんを介抱してくれた。それだけじゃなく、どこで商売をしたら儲けることができるか爺さんに教えてもくれた。その後の爺さんの商売は順調だった。金を貯めてまた故郷の楚に戻ってきた後は客商を辞めて、店を構えて新たに商売を始めた。それで、俺の代に至るというわけだ」

 

「爺さんは死ぬまで堅物だった。酒も女も博打も、たぶん一生やらなかったんじゃないかな。真面目に商売を続けて、真面目な生活を続けた。学問はやらなかったが、学問を積んだ人間のような落ち着きと威厳があった。言動と行動に常に気を遣っていたよ。身を慎めば自然と商売は上手くいくというのが爺さんの持論だった」

 

「そんな爺さんが孫の俺にだけこの話をしてくれたんだ。俺はあの爺さんが作り話をするとは思わない。たぶんこれは本当に山東の符離(ふり)近くの森の中であったことなんだと思う」

 

「だが、悲しいことだと俺は思わなくもない。だって、俺の爺さんが今後人々の間で記憶されることがあるとすれば、それは爺さんの商売の腕前ではなくて、まさにこの話によって記憶されるであろうからさ」

 

「俺はアンタにこの話をしてしまった。そしてアンタはこの話を文章に書き残す……楚の一人の客商が体験した話としてな。アンタの書いたものは、たぶんこの世の終わりまで残るだろう。そして俺の爺さんのこの話も、この世の終わりまで残る。大将と阿七の虫の交尾のような交わりもな……」

 

「そうさ。俺は爺さんの真面目な一生を、軽はずみにもアンタに話をしてしまったことで汚染しちまったんだ。そして、それが清められることはない……」

 

「しかし、後悔してもどうにもならないよな。それに俺は、この話を誰かにせずにはいられなかったんだよ。今は話せてスッキリしている」

 

「爺さんがこの話をしてくれた時から、俺の頭の中ではずっと大将と阿七が裸で交わっているんだ。実際にその二人を見たことなんてないのに、俺はまざまざとその光景を思い浮かべることができる。部屋の中の様子も、光の具合も、牀の上の阿七の腰遣いも、そしてバラバラになる肉体も……」

 

「まるで呪いだよ。呪いのように俺の中に染みついて離れない。なんてことはない、ふとした拍子に……そうさ、大勢の家族に囲まれて心から幸せだなと思うその時、その瞬間に、なぜか頭の中に大将と阿七が忽然と出てくるのさ。そして裸で交わり始める。周りでは家族が笑顔を浮かべて談笑している……これを呪いと言わずになんというんだ?」

 

「この話には紛れもない呪力がある。強い呪力さ。だから俺はアンタに話して紙に書いてもらうことで、この呪力を軽減してもらおうと思ったのさ。しかし、効果なんてあるのか……分からんね。たぶん無駄だろう」

 

「それにしても、なんで爺さんは、孫の俺にこんな話をしたんだろうな。爺さんが死ぬ前にそのことだけは確認しておけば良かった」

 

「案外、爺さんも俺と同じように呪力に耐えきれなくなっただけかもな。今となっては、確かめようなんてないが」

 

(「軍士」おわり)




参考文献 袁枚『子不語1(全5巻)』(手代木公助訳、平凡社、2009年)271頁-274頁。

今日は大急ぎで書いたので前の話の「三斗」と似た構成になりました。こういうタイプの話は書きやすいのですが、自分なりの解釈や色付けを出すのが難しいです。この『フロースヒルデの歌』はR-18ではないので、今回の大将と阿七の描写を手加減するのにも気を遣いました。
※作中に距離の単位「里」が出てきました。日本における「一里」は約4キロメートルですが、清朝中国においては「一里」はだいたい570メートルでした。作中では550メートルとして計算してあります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。