フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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24. 牛頭

 妻が死んでも自分だけが元気なのが不思議だった。普通に生活ができているし、仕事にもいける。空腹も感じるし、食事をすれば美味いとも思う。酒も飲みたくなるし、飲めば美味いとも思う。

 

 よく眠れている。しかし夢は見ない。妻が死んでから、私はいっさい夢を見なくなった。それが良いことなのか、それとも悪いことなのかは分からない。

 

 妻とは仲が良かった。私たちは上手くやっていた。たびたび喧嘩もしたが、私たちはすぐに和解することができた。喧嘩の後はお互いをもっと深く理解できたように感じた。私たちは良い夫婦だった。だが、それはおそらく、私が良い夫であったからというよりも、妻が良い妻だったからなのだろう。

 

 妻が死ぬ時は、たっぷりと時間があった。たっぷり時間があったから、妻は長く苦しんだ。しかし、その分だけ私は妻がいなくなった後のことを考えて、覚悟することができた。妻もまた、私に対して悲しみすぎるなと言うことができた。悲しんでも良いが、自分の生活を荒廃させてはならない。私は善く生きたから、いずれ善い転生を果たすだろう。だから悲しむには値しない……賢明な妻だったと思う。

 

 妻が死んでからも、私は毎日仕事を続けた。出張を命じられたのは、つい昨日のことだった。私が住んでいるのは四川の豊都(ほうと)県の県城である。文書を扱って、夔州(きしゅう)まで届けることになった。道づれはいない。私一人だけの旅だった。

 

 私は山間の細い街道を黙々と進んでいった。ちょうど春の盛りだった。妻が死んでから丸一年が経っていた。大輪の赤いツツジの花が咲き乱れていて、(はち)(あぶ)が飛び回っては蜜を集めている。虫たちの大きな羽音が誰もいない山道に虚ろに響いていた。私はしばらく花に(たか)る虫たちを見てから、また歩いていった。

 

 やがて、鬼門関(きもんかん)に着いた。ここには何度か来たことがあった。私は離れたところから関所を眺めた。石造りの頑丈そうな関所の上部には胸壁と銃眼が設けられている。しかし、そこには幟旗(のぼりばた)もなければ哨兵(しょうへい)もいなかった。人気(ひとけ)のない、もの寂しい雰囲気が関所に漂っていた。

 

 ふと、関所の近くに何か石碑があるのが見えた。

 

 石碑は城壁の陰になっているところに半ば地面に埋もれるようにして立っていた。前に来た時には、私はこのようなものがあるのに気づかなかった。近寄ってつぶさに見てみると、それはかなり古いもののようで、表面にはびっしりと濃い苔が生えていた。風化して崩れかけた「陰陽界」の三字があった。

 

 陰陽界とは、この世とあの世のことを言うのだろう。それがこの関所にある……ならば、この関所はこの世とあの世の境目なのだろうか? 私はしばらく石碑を撫でていた。苔の手触りは馬の耳のようにふわふわとしていた。妻は一年前に、この世を去ってあの世に行った。それならば、この関所を通ったら妻に会えるかもしれない。あり得ないことだった。私は、子どもじみた自分の考えを内心で(わら)った。

 

 私は歩き出した。何の問題もなく関所を通り抜けた。分厚い鉄扉は開かれたままで、検問もなかった。誰もいない。兵士もいなければ、通行人もいない。前方から冷たい風が吹いてきて、門の中を通り抜けていった。私はちょっとだけ身震いをすると、さらに先へ歩いていった。

 

 気づいた時には、私は道に迷っていた。明らかに街道から外れている、深い山中の細い道の中に私はいた。周りには真っ赤なツツジの花が咲いている。虫たちが乱舞していた。道の傾斜は急で、このまま先へと進んでいけばもっと山中深くに迷い込むことは明らかだった。

 

 私は足に任せて歩き出した。そういう気分だった。焦りや不安、怖れの感情はなかった。それに、寄り道をしても何も問題はなかった。この旅はさほど急ぎを要するものではなかった。いくらか遅れたところで何も問題はないし、そもそも私にこの文書を届けるように命じた豊都(ほうと)県の上役も、今では私のことなどとっくの昔に忘れ去っているかもしれなかった。

 

 上り道を歩いていると、やがて道は下り道になり、下り道が終わるとどこまでも平坦になった。周りは緑に覆われていた。草木で視界が圧迫されて空すらも見えなかった。

 

 すると突然、開けたところに出た。そこには一つの古廟(こびょう)があった。古ぼけて崩れかけた古廟には、やはり人の姿は見えなかった。廟に僧がいないということは、この廟はもはや廟としての役目を終えているのかもしれなかった。

 

 私は廟の中を覗いてみた。彩色の剥げ落ちた神像があった。神像の傍らには牛頭(ごず)像があった。牛頭(ごず)像は埃をかぶって蜘蛛の巣だらけになっていた。私は神像と牛頭像をしばらく見た。神像は幾分か綺麗だったが、やはり埃を被っていた。

 

 私は神像を袖で拭い、それから牛頭像も綺麗にした。拭った後、蜘蛛の巣をとった。供え皿があったので、持っていた水筒から水を注いでおいた。それから私は、古廟の外に出た。

 

 それからまた私は歩いた。二里(約1キロ)ほど先へ進んだ。すでに山道は終わっていた。目の前には霧のかかった平原が広がっている。しっとりと水気を含んだ短い草が一面に生えていた。地表近くを低く漂う霧は粥のように濃くて、視界は良くない。空を見たが、分厚い灰色の雲に覆われていて太陽の位置は分からなかった。

 

 水の流れる音がした。前方のどこかで川が流れているようだった。数歩も行かずして、私は大河に辿り着いた。河が道を隔てていた。河には霧は漂っておらず、向こう岸の様子がよく見えた。道は向こう岸でさらに続いているようだった。私は、どこかに渡し場なり舟なりがないかとしばらく岸を歩き回った。

 

 女が一人、岸にいた。

 

 女は野菜を洗っていた。菜っ葉のようだった。葉は濃い紫色で、形は環状を呈している。ちょっと見ただけでは、芙蓉(ふよう)の花とよく似ていて判別がつかない。私は女に近寄っていった。奇妙なまでに心が惹かれた。

 

 近寄っていくと、女が誰であるのかが分かった。

 

 それは私の妻だった。

 

 妻は生きていた頃よりちょっと若返っていた。綺麗だった。長い黒髪を後ろで纏め上げている。白くて広い額には汗が浮かんでいた。私は妻に「やあ、(きみ)」と声をかけた。妻は野菜を洗う手を止めた。私の顔を見ると、妻はちょっとだけ驚いたような顔をした。表情の上ではちょっとだけだが、内心ではかなり驚いている。そのことを私は知っていた。妻は咎めるような口調で言った。「どうしてここに来たの。ここは生きた人間の住む世界ではないのよ」

 

豊都(ほうと)から夔州(きしゅう)への出張中、道に迷ってしまったんだ。足に任せて歩いているうちにここに来てしまった」 そのように私は言った。さらに私は妻に言った。「今はどこに住んでいるんだい? (きみ)が洗っているそれはいったいなんだい?」 そのようなことを尋ねている場合ではないのは自分でも分かっていた。妻はどこか呆れたような顔をした。妻もそのようなことを訊いている場合かと思っているのは明らかだった。それでも妻は答えてくれた。

 

「わたし、あの時あなたに看取られて死んでからこっちの世界に来て、半年ぐらいぶらぶらしてたんだけど、つい二ヶ月ほど前に再婚したの。相手は閻魔(えんま)大王の隷卒(れいそつ)牛頭鬼(ごずき)よ。家は河西(かさい)(えんじゅ)の木の下にあるわ」

 

 妻が再婚しているのを知った時、私の胸はちょっとだけ痛んだ。私は妻の顔を見た。妻は元気そうで、顔色が良かった。幸せそうだったし、たぶん本当に幸せなのだろうと思ったから、私の痛んだ胸はすぐに治った。妻はさらに言った。

 

「それで、私が今洗っているこの野菜は、世間で胞胎(えな)と呼ばれているものよ」

 

 私はその言葉に聞き覚えがなかった。「胞胎(えな)?」と私が聞き返すと、妻は頷いた。「そうよ。胎盤のこと。この世界では見た目が野菜になっているけどね。胞胎(えな)は俗には紫河車(しかしゃ)とも言うわ」 私は妻に言った。「どうしてそれをここで洗っているんだい」 妻は答えた。

 

「閻魔様はこの胞胎(えな)を洗う仕事を牛頭鬼(ごずき)たちにやらせているの。でも、私の夫は……もちろん今の夫よ。ああ、よりにもよってあなたの前で、なんでこんな話をしてるのかしら……私の今の夫は役儀(やくぎ)で忙しいから、私が代わりにこれを洗う仕事をしているのよ」

 

 私は、妻が私に気を遣ってくれているのが分かって嬉しかった。そして、妻が恥ずかしがっているのを見て、もうちょっと困らせてやりたいという気持ちにもなった。私は、さらに妻に問いかけた。

 

胞胎(えな)を洗うのにはどんな意味があるんだい」 妻は答えた。「この河で十度洗われた胞胎(えな)を纏って生まれる子は、頭も良ければ容姿も良くて、よく出世をして栄えることができるわ。二、三度洗っただけだと、中くらいになる。適度に幸せで、適度に不幸なの。まったく洗わないと……言うまでもないわね。あなたなら分かるでしょ?」

 

 私は頷いた。妻も頷いた。しばらく会話が途絶えた。妻は無言で、また胞胎(えな)を洗い始めた。菜っ葉の鮮やかな紫色が、痛いほどに私の目に刺さった。

 

 私たちには子どもが生まれなかった。妻は自分のせいだと言っていた。あなたは悪くない。私の体が悪いからだと妻は言っていた。だが、私は私のせいだと思っていた。医者は、どちらが悪いというわけではないと言った。すべては組み合わせの問題なのだと医者は言った。良いものと良いものを組み合わせても必ずしも良いものが生まれるわけではない。また、悪いものと悪いものを組み合わせたら必ず悪いものが生まれるわけでもない。組み合わせは無限で、生まれてくるものも無限にある……それでも妻は子を欲しがっていた。私も子が欲しかった。妻は、死ぬその瞬間まで、私たちの子どもが欲しかったと言っていた。

 

 そんな妻が、今ではあの世で、これから生まれてくる子どもたちを包む胞胎(えな)を洗っている。私は、妻が何か輝かしいものとして見えた。哀れには思わなかった。妻は何か崇高な仕事をしているのだと思った。私は急に、今の妻の夫である牛頭鬼(ごずき)に会ってみたくなった。

 

 私は妻に「会ってみたいな」と言った。妻は私に顔を向けて、「どういうこと?」と訊いた。「君の夫に会ってみたい」と私が言うと、妻はまた呆れたような顔をした。「あなた、元の世界に帰りたくないの? さっきも言ったけど、ここは生きた人間が住む世界ではないのよ。陽間(ようかん)に帰らないと、あなたは本当に死んでしまうのよ」 私は頷きながら、また妻に言った。「帰るにしても、やはり今の君の夫に会っておきたい」

 

 妻はちょっとだけ考えているようだった。そして言った。「分かったわ。あなたをお家に連れて行く。ついでに、あなたを陽間(ようかん)に還らせる方法を訊いてみましょう。きっと良い方法を知っているわ」 妻は歩き始めた。紫色の菜っ葉がたくさん入った桶を抱えて、しっかりとした足取りでゴロゴロとした丸い石が敷き詰められた河岸を歩いていく。河を渡ることはないようだった。私は黙って妻の後ろについていった。

 

 やがて、家に着いた。家は普通の家と何も変わりがなかった。こじんまりとしていて、清潔だった。ただ、屋根の上に何かの根が下りてきていた。根はどこまでも空高く昇っている。家に入る前に妻が言った。「(えんじゅ)の木の根よ」 妻は家に入った。私も入った。家の中は、妻が生きていた頃に私の家を整理して飾り立てていたのとそっくりだった。調度品の趣味も配置も、掃除の具合も、すべてが元のままだった。

 

 卓についた。妻は私に今の暮らしについて話をしてくれた。なに不自由なく暮らしているとのことで安心した。妻からは、親戚や友人たちのことについて尋ねられた。私が誰にも異常はない、みんな元気だと答えると、妻も安心したようだった。

 

 しばらく話していると、控えめに戸を叩く音がした。妻が私に目配せをした。どうやら牛頭鬼(ごずき)が帰ってきたようだった。私は、一瞬だけどこかに隠れようかと思った。怖いわけではなかったが、なぜか隠れた方が良いような気がした。というよりも、私は隠れたかった。だが、私はそのまま卓に座ったまま動かなかった。

 

 妻が戸口まで行って戸を開くと、外から入ってきたのはやはり牛頭鬼(ごずき)だった。私はなんとなく、彼の牛頭に見覚えがあった。確かにどこかで見たことがあるのだが、それがいつ、どこのことだったのかは思い出せない。なぜか、彼は私に気づかないようだった。彼は室内に入ってくると、まるで兵士が兜を脱ぐようにして牛頭(ぎゅうとう)を取り外した。牛頭は一種の仮面のようになっているようだった。

 

 中から出てきたのは、普通の人間の顔だった。その顔はどことなく私に似ていた。もの柔らかな雰囲気が漂っている。牛頭鬼(ごずき)はまだ、私が卓に座っているのに気づかない。彼は言った。「今日はすごく疲れたよ」 その声も私とよく似ているように思われた。「今日は閻魔様が大事件を数十件も担当されて、私はそのお(そば)で立ちっぱなしだったから、足が痛くなっちゃった。おい、酒を注いで飲ませておくれよ」

 

 そこまで言ってから、牛頭鬼(ごずき)ははっとしたような顔をして私を見た。彼は私を見、そして後ろにいる妻の顔を見た。彼は妻に対して、説明しろというような顔をした。妻が言った。

 

「この人、私が生きていた頃の夫なの。豊都(ほうと)から夔州(きしゅう)への出張中に道に迷って、そのままここに来ちゃったんだって。ねえ、あなた。この人を陽間(ようかん)に戻す方法を知らない?」

 

 妻が牛頭鬼に「あなた」と言うのを聞いて、私の胸はちょっと痛んだ。それと同時に、私は牛頭鬼が怒り出すのではないかと心配になった。妻の前の夫が同じ場所にいるというのは、やはり大きな精神的苦痛になるのではないかと私は思った。だが、牛頭鬼(ごずき)はまったく怒らなかった。彼はしばらく黙ったまま私の顔を見つめていた。その表情には怒りは含まれていなかった。ただ疑問だけが浮かんでいた。彼は何かを考えているようだった。そして、彼は言った。

 

「ああ、やっぱりそうだ。あなたは、あの廟で私の埃と蜘蛛の巣を払ってくれた人じゃないですか?」

 

 妻が「いったいどういうこと?」と言った。最初、私も牛頭鬼(ごずき)の言うことがよく分からなかったが、すぐに「ああ」と気づいた。「あの古廟の牛頭(ごず)像は君だったんですね」 そのように私が言うと、牛頭鬼(ごずき)はにっこりと笑った。

 

「あなたなら大歓迎です。まずは一緒に食事をとって休憩をし、それからこの後のことを考えましょう」 そして牛頭鬼(ごずき)は、今度は不思議そうな顔をして、妻に向かって言った。「それにしても、お前が生きていた頃の夫が私の埃を払ってくれるなんて、不思議な縁もあるものだなぁ」

 

 妻が食事と酒を運んできて卓に並べた。私たちは三人で食事を始めた。料理は妻が得意だった肉の煮込み料理だった。私が箸をつけようとすると、牛頭鬼(ごずき)と妻が慌てたように私の手を抑えた。牛頭鬼が申し訳なさそうな顔をして言った。

 

「うっかりしていました。鬼酒ならば問題ありませんが、生きた人間がここの肉を食べてはいけないのです。食べたら最後、二度と陽間(ようかん)に戻ることはできなくなります」 妻が言った。「危ないところだったわ。あなたがあまりにも平然としてこの場に馴染んでいるから、つい料理を出して食べさせてしまうところだった」 私は二人に謝して、酒を飲み始めた。

 

 食事を終えた後、牛頭鬼が言った。「それにしても、あなたの寿命はどうなっているんでしょう。明日、私は判官処(はんがんしょ)に行きます。そこの帳簿を調べたら、あなたの寿命がはっきりと分かるでしょう。私の見立てでは、たぶんあなたは何かの拍子に迷い込んでしまっただけで、まだ死んだわけではないと思いますが」 私は牛頭鬼に感謝の意を伝えた。妻が言った。「もう遅いわ。寝て、明日に備えることにしましょう」

 

 牛頭鬼は頷くと、私を寝室に案内した。寝室には大きな(とこ)があった。一人では大きすぎるくらい(とこ)は広かった。いつの間にか妻が取り換えていたのか、寝具は新しくて清潔だった。私が(とこ)の上に横になると、妻も牛頭鬼も(とこ)の上に乗って横になった。妻を真ん中にして、左側に牛頭鬼が寝て、右側に私が寝ていた。流石に(とこ)は少し狭くなった。二人とも無言だった。やがて、妻が寝息を立て始めた。牛頭鬼も(いびき)をかき始めた。控えな(いびき)だった。私もそのうち眠ってしまった。

 

 私は夢を見た。妻が死んでから初めて見る夢だった。妻はあの河で紫色の胞胎(えな)を洗っていた。丁寧な手つきだった。妻の手はあかぎれでボロボロにひび割れていた。河の水は冷たかった。それでも妻は手を止めない。妻はひとつとしてなおざりにしなかった。桶の中には、まだまだ胞胎(えな)が残っていた。仕事がひと段落すると、妻は自分の仕事ぶりに満足したようにかすかな笑みを浮かべた。美しい笑みだった。

 

 次の日、牛頭鬼は朝早くに出かけていった。私と妻はまた河に出かけていった。妻は仕事を始めた。私は隣に立って妻の仕事ぶりを見ていた。妻は、私がゆうべに見た夢とまったく同じように仕事をしていた。私は妻に言った。「優しそうな人で安心したよ」 妻は一瞬、疑問を浮かべた。だがすぐに分かったようで、ちょっとだけ恥ずかしそうな顔をして言った。「少し優柔不断だけどね。あと、すぐに弱音を吐くわ。でも真面目だし、あなたの言うとおり優しい。乱暴なことを言われたり、暴力を振るわれたりしたことは一度もない」

 

 私は妻に尋ねた。「それは良かった。他に、困っていることはないかい」 そう問われて、妻はちょっとだけ顔を曇らせてから言った。「特にないけど……ただひとつあるわ。私、時々だけど、あの人が私のことを本当に好きなのか疑問に思うことがあるの」 それを聞いて、私の胸はちょっと痛んだ。

 

 私は妻に言った。「彼のことが好きかい」 そう問いかけている時には、胸は痛まなかった。妻は答えづらそうな顔をしていた。だが、やがて口を開いた。きっぱりとした口調だった。「ええ、好きよ」 私はその答えを聞いて、やはり胸が少し痛んだ。胸の痛みが顔に表れていたのだろうか、妻は私を心配そうに見つめた。私は妻にはっきりとした口調で言った。「好きなら、今後も大丈夫だろう。仲良くやっていくんだよ」 妻は頷いた。そして、ちょっと顔を背けて「ありがとう」と言った。私の胸の痛みはそれで取れた。

 

 夕方になると牛頭鬼は帰ってきた。彼はにこやかな笑みを浮かべていた。彼は親しげに私の肩を叩きながら言った。「閻魔様に事情を話したら、判官処(はんがんしょ)に直接話を通してくださったよ。私が行って陰司(いんし)の帳簿の閲覧を要求したら、すんなり見せてもらえました。それによると、やっぱりあなたの寿命はまだ尽きていません」 そうだったのか、と私は頷いた。彼はまた言った。「それに嬉しいことに、私は出張を命じられました。あなたがこちらの世界に来るときに(くぐ)ったあの鬼門関(きもんかん)を通って、あちら側に行かねばなりません。ですから、上手い具合にあなたを陽間(ようかん)へと案内していくことができますよ」

 

 その日も一泊した。その晩も前の晩と同じように三人一緒に眠った。今度は夢を見なかった。朝になると、私と牛頭鬼は連れ立って家を出発し、鬼門関(きもんかん)へと向かった。妻は河まで一緒に付いてきた。妻は桶いっぱいの胞胎(えな)を持っていた。去り行く私たちに向かって、妻はいつまでも手を振っていた。私も何度か振り返って妻に手を振り返した。そのうち霧が濃くなってきて、妻の顔は見えなくなってしまった。私は寂しい気持ちになった。

 

 私と牛頭鬼は歩き続けた。会話はなかった。あまり話す必要はないと思った。それに、何を話せば良いのか分からなかった。彼に対して私は好意を抱いていたけれども、どうしても彼とはおしゃべりをすることができなかった。彼もまた、私に対して何も言わなかった。彼もまた私と同じ気持ちだったのかもしれないが、おそらくそれ以上に私に対して気を遣ってくれたのだろうと私は思った。私は彼の優しさに感謝した。

 

 やがて、鬼門関に辿り着いた。関所の境目を越える瞬間、牛頭鬼がぽつりと、呟くように言った。「妻の前の夫が、あなたのような人で本当に良かった」 私も牛頭鬼に言った。「妻の今の夫が、あなたのような人で本当に良かった」 私と牛頭鬼は相対してしばらく顔を見つめ合った。牛頭(ぎゅうとう)の目から温かい光が漏れていた。

 

 私は彼に言った。「あなたは、妻のことが好きですか」 牛頭鬼(ごずき)は頷いた。「ええ、好きです」 牛頭(ぎゅうとう)の中で、彼がはにかんだような笑みを浮かべているのが私にはよく分かった。私も頷き返した。私は心の底から満足していた。私は言った。「好きなら、今後も大丈夫でしょう。仲良くやっていってください」 そう言うと、牛頭鬼(ごずき)は「ありがとう」と答えた。

 

 気づいた時には、私はたった一人で鬼門関の境目を越えていた。牛頭鬼(ごずき)の姿はどこにも見えなかった。私は歩き始めた。関所の向こうも目にも鮮やかな緑で満ちていた。みずみずしい草木が私の視界を埋めていた。

 

 緑の中で、大輪の赤いツツジの花が咲き乱れていた。無数の蜂と虻が羽音を立てて、忙しなく蜜を集めて回っていた。

 

(「牛頭」おわり)




参考文献 袁枚『子不語1(全5巻)』(手代木公助訳、平凡社、2009年)304頁-308頁。

こういうタイプの話を書くのは初めてでした。けっこう上手に書けたと思います。それにしても中国四川に咲いているツツジの花はどんなものなのでしょうか……一度現地で見てみたいですね。
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