妻が死んでも自分だけが元気なのが不思議だった。普通に生活ができているし、仕事にもいける。空腹も感じるし、食事をすれば美味いとも思う。酒も飲みたくなるし、飲めば美味いとも思う。
よく眠れている。しかし夢は見ない。妻が死んでから、私はいっさい夢を見なくなった。それが良いことなのか、それとも悪いことなのかは分からない。
妻とは仲が良かった。私たちは上手くやっていた。たびたび喧嘩もしたが、私たちはすぐに和解することができた。喧嘩の後はお互いをもっと深く理解できたように感じた。私たちは良い夫婦だった。だが、それはおそらく、私が良い夫であったからというよりも、妻が良い妻だったからなのだろう。
妻が死ぬ時は、たっぷりと時間があった。たっぷり時間があったから、妻は長く苦しんだ。しかし、その分だけ私は妻がいなくなった後のことを考えて、覚悟することができた。妻もまた、私に対して悲しみすぎるなと言うことができた。悲しんでも良いが、自分の生活を荒廃させてはならない。私は善く生きたから、いずれ善い転生を果たすだろう。だから悲しむには値しない……賢明な妻だったと思う。
妻が死んでからも、私は毎日仕事を続けた。出張を命じられたのは、つい昨日のことだった。私が住んでいるのは四川の
私は山間の細い街道を黙々と進んでいった。ちょうど春の盛りだった。妻が死んでから丸一年が経っていた。大輪の赤いツツジの花が咲き乱れていて、
やがて、
ふと、関所の近くに何か石碑があるのが見えた。
石碑は城壁の陰になっているところに半ば地面に埋もれるようにして立っていた。前に来た時には、私はこのようなものがあるのに気づかなかった。近寄ってつぶさに見てみると、それはかなり古いもののようで、表面にはびっしりと濃い苔が生えていた。風化して崩れかけた「陰陽界」の三字があった。
陰陽界とは、この世とあの世のことを言うのだろう。それがこの関所にある……ならば、この関所はこの世とあの世の境目なのだろうか? 私はしばらく石碑を撫でていた。苔の手触りは馬の耳のようにふわふわとしていた。妻は一年前に、この世を去ってあの世に行った。それならば、この関所を通ったら妻に会えるかもしれない。あり得ないことだった。私は、子どもじみた自分の考えを内心で
私は歩き出した。何の問題もなく関所を通り抜けた。分厚い鉄扉は開かれたままで、検問もなかった。誰もいない。兵士もいなければ、通行人もいない。前方から冷たい風が吹いてきて、門の中を通り抜けていった。私はちょっとだけ身震いをすると、さらに先へ歩いていった。
気づいた時には、私は道に迷っていた。明らかに街道から外れている、深い山中の細い道の中に私はいた。周りには真っ赤なツツジの花が咲いている。虫たちが乱舞していた。道の傾斜は急で、このまま先へと進んでいけばもっと山中深くに迷い込むことは明らかだった。
私は足に任せて歩き出した。そういう気分だった。焦りや不安、怖れの感情はなかった。それに、寄り道をしても何も問題はなかった。この旅はさほど急ぎを要するものではなかった。いくらか遅れたところで何も問題はないし、そもそも私にこの文書を届けるように命じた
上り道を歩いていると、やがて道は下り道になり、下り道が終わるとどこまでも平坦になった。周りは緑に覆われていた。草木で視界が圧迫されて空すらも見えなかった。
すると突然、開けたところに出た。そこには一つの
私は廟の中を覗いてみた。彩色の剥げ落ちた神像があった。神像の傍らには
私は神像を袖で拭い、それから牛頭像も綺麗にした。拭った後、蜘蛛の巣をとった。供え皿があったので、持っていた水筒から水を注いでおいた。それから私は、古廟の外に出た。
それからまた私は歩いた。
水の流れる音がした。前方のどこかで川が流れているようだった。数歩も行かずして、私は大河に辿り着いた。河が道を隔てていた。河には霧は漂っておらず、向こう岸の様子がよく見えた。道は向こう岸でさらに続いているようだった。私は、どこかに渡し場なり舟なりがないかとしばらく岸を歩き回った。
女が一人、岸にいた。
女は野菜を洗っていた。菜っ葉のようだった。葉は濃い紫色で、形は環状を呈している。ちょっと見ただけでは、
近寄っていくと、女が誰であるのかが分かった。
それは私の妻だった。
妻は生きていた頃よりちょっと若返っていた。綺麗だった。長い黒髪を後ろで纏め上げている。白くて広い額には汗が浮かんでいた。私は妻に「やあ、
「
「わたし、あの時あなたに看取られて死んでからこっちの世界に来て、半年ぐらいぶらぶらしてたんだけど、つい二ヶ月ほど前に再婚したの。相手は
妻が再婚しているのを知った時、私の胸はちょっとだけ痛んだ。私は妻の顔を見た。妻は元気そうで、顔色が良かった。幸せそうだったし、たぶん本当に幸せなのだろうと思ったから、私の痛んだ胸はすぐに治った。妻はさらに言った。
「それで、私が今洗っているこの野菜は、世間で
私はその言葉に聞き覚えがなかった。「
「閻魔様はこの
私は、妻が私に気を遣ってくれているのが分かって嬉しかった。そして、妻が恥ずかしがっているのを見て、もうちょっと困らせてやりたいという気持ちにもなった。私は、さらに妻に問いかけた。
「
私は頷いた。妻も頷いた。しばらく会話が途絶えた。妻は無言で、また
私たちには子どもが生まれなかった。妻は自分のせいだと言っていた。あなたは悪くない。私の体が悪いからだと妻は言っていた。だが、私は私のせいだと思っていた。医者は、どちらが悪いというわけではないと言った。すべては組み合わせの問題なのだと医者は言った。良いものと良いものを組み合わせても必ずしも良いものが生まれるわけではない。また、悪いものと悪いものを組み合わせたら必ず悪いものが生まれるわけでもない。組み合わせは無限で、生まれてくるものも無限にある……それでも妻は子を欲しがっていた。私も子が欲しかった。妻は、死ぬその瞬間まで、私たちの子どもが欲しかったと言っていた。
そんな妻が、今ではあの世で、これから生まれてくる子どもたちを包む
私は妻に「会ってみたいな」と言った。妻は私に顔を向けて、「どういうこと?」と訊いた。「君の夫に会ってみたい」と私が言うと、妻はまた呆れたような顔をした。「あなた、元の世界に帰りたくないの? さっきも言ったけど、ここは生きた人間が住む世界ではないのよ。
妻はちょっとだけ考えているようだった。そして言った。「分かったわ。あなたをお家に連れて行く。ついでに、あなたを
やがて、家に着いた。家は普通の家と何も変わりがなかった。こじんまりとしていて、清潔だった。ただ、屋根の上に何かの根が下りてきていた。根はどこまでも空高く昇っている。家に入る前に妻が言った。「
卓についた。妻は私に今の暮らしについて話をしてくれた。なに不自由なく暮らしているとのことで安心した。妻からは、親戚や友人たちのことについて尋ねられた。私が誰にも異常はない、みんな元気だと答えると、妻も安心したようだった。
しばらく話していると、控えめに戸を叩く音がした。妻が私に目配せをした。どうやら
妻が戸口まで行って戸を開くと、外から入ってきたのはやはり
中から出てきたのは、普通の人間の顔だった。その顔はどことなく私に似ていた。もの柔らかな雰囲気が漂っている。
そこまで言ってから、
「この人、私が生きていた頃の夫なの。
妻が牛頭鬼に「あなた」と言うのを聞いて、私の胸はちょっと痛んだ。それと同時に、私は牛頭鬼が怒り出すのではないかと心配になった。妻の前の夫が同じ場所にいるというのは、やはり大きな精神的苦痛になるのではないかと私は思った。だが、
「ああ、やっぱりそうだ。あなたは、あの廟で私の埃と蜘蛛の巣を払ってくれた人じゃないですか?」
妻が「いったいどういうこと?」と言った。最初、私も
「あなたなら大歓迎です。まずは一緒に食事をとって休憩をし、それからこの後のことを考えましょう」 そして
妻が食事と酒を運んできて卓に並べた。私たちは三人で食事を始めた。料理は妻が得意だった肉の煮込み料理だった。私が箸をつけようとすると、
「うっかりしていました。鬼酒ならば問題ありませんが、生きた人間がここの肉を食べてはいけないのです。食べたら最後、二度と
食事を終えた後、牛頭鬼が言った。「それにしても、あなたの寿命はどうなっているんでしょう。明日、私は
牛頭鬼は頷くと、私を寝室に案内した。寝室には大きな
私は夢を見た。妻が死んでから初めて見る夢だった。妻はあの河で紫色の
次の日、牛頭鬼は朝早くに出かけていった。私と妻はまた河に出かけていった。妻は仕事を始めた。私は隣に立って妻の仕事ぶりを見ていた。妻は、私がゆうべに見た夢とまったく同じように仕事をしていた。私は妻に言った。「優しそうな人で安心したよ」 妻は一瞬、疑問を浮かべた。だがすぐに分かったようで、ちょっとだけ恥ずかしそうな顔をして言った。「少し優柔不断だけどね。あと、すぐに弱音を吐くわ。でも真面目だし、あなたの言うとおり優しい。乱暴なことを言われたり、暴力を振るわれたりしたことは一度もない」
私は妻に尋ねた。「それは良かった。他に、困っていることはないかい」 そう問われて、妻はちょっとだけ顔を曇らせてから言った。「特にないけど……ただひとつあるわ。私、時々だけど、あの人が私のことを本当に好きなのか疑問に思うことがあるの」 それを聞いて、私の胸はちょっと痛んだ。
私は妻に言った。「彼のことが好きかい」 そう問いかけている時には、胸は痛まなかった。妻は答えづらそうな顔をしていた。だが、やがて口を開いた。きっぱりとした口調だった。「ええ、好きよ」 私はその答えを聞いて、やはり胸が少し痛んだ。胸の痛みが顔に表れていたのだろうか、妻は私を心配そうに見つめた。私は妻にはっきりとした口調で言った。「好きなら、今後も大丈夫だろう。仲良くやっていくんだよ」 妻は頷いた。そして、ちょっと顔を背けて「ありがとう」と言った。私の胸の痛みはそれで取れた。
夕方になると牛頭鬼は帰ってきた。彼はにこやかな笑みを浮かべていた。彼は親しげに私の肩を叩きながら言った。「閻魔様に事情を話したら、
その日も一泊した。その晩も前の晩と同じように三人一緒に眠った。今度は夢を見なかった。朝になると、私と牛頭鬼は連れ立って家を出発し、
私と牛頭鬼は歩き続けた。会話はなかった。あまり話す必要はないと思った。それに、何を話せば良いのか分からなかった。彼に対して私は好意を抱いていたけれども、どうしても彼とはおしゃべりをすることができなかった。彼もまた、私に対して何も言わなかった。彼もまた私と同じ気持ちだったのかもしれないが、おそらくそれ以上に私に対して気を遣ってくれたのだろうと私は思った。私は彼の優しさに感謝した。
やがて、鬼門関に辿り着いた。関所の境目を越える瞬間、牛頭鬼がぽつりと、呟くように言った。「妻の前の夫が、あなたのような人で本当に良かった」 私も牛頭鬼に言った。「妻の今の夫が、あなたのような人で本当に良かった」 私と牛頭鬼は相対してしばらく顔を見つめ合った。
私は彼に言った。「あなたは、妻のことが好きですか」
気づいた時には、私はたった一人で鬼門関の境目を越えていた。
緑の中で、大輪の赤いツツジの花が咲き乱れていた。無数の蜂と虻が羽音を立てて、忙しなく蜜を集めて回っていた。
(「牛頭」おわり)
参考文献 袁枚『子不語1(全5巻)』(手代木公助訳、平凡社、2009年)304頁-308頁。
こういうタイプの話を書くのは初めてでした。けっこう上手に書けたと思います。それにしても中国四川に咲いているツツジの花はどんなものなのでしょうか……一度現地で見てみたいですね。