フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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25. 傍観

「これは江蘇省常州(じょうしゅう)()士麟(しりん)という秀才が話してくれた話なのだが……」

 

()はその頃まだ、ほんの小さな子どもだった。歳は十二歳だった。小柄で、色が白く、女の子のように可愛らしかった小さな彼は、誰よりも気弱で泣き虫だった。親を相手にしてもまともに話ができないほど内気だったという。子どもの馬は父から教えてもらって勉強をしていた。いつも勉強する場所は通りに面した北楼(ほくろう)だった。その二階で彼は毎日書物を開いて勉強をしていた」

 

「ある日の朝のことだった。()は北楼の階段を昇り、部屋に入って窓を開けた。換気のためにそうしたのだった。もちろん勉強の間は気が散るのを避けるために窓は閉めるのだが、とにかくその日の初めのことゆえ彼は窓を開けた」

 

「窓を開けると、通りの向かいの(おう)(なにがし)という、菊売りの爺さんの露台がすぐそこに見えた。爺さんといってもまだ初老だった。爺さんは根っからの菊好きで、育てるのも好きなら売るのも好きという人物だった。高いところに造られた露台には木造の傾斜が急な階段が備え付けられている。露台の上には植木鉢で育てられた菊がぎっしりと並んでいた。爺さんは毎朝毎日、その急な階段を昇って露台の菊の世話をしていた」

 

「それでその日の朝、()がいつものように窓を開けると、露台で菊の世話をしている爺さんの姿が見えた。空はまだ明るくなってきたばかりで、まだ闇の残る空間の中で盛んに水やりをしている爺さんの姿が、ぼんやりとした影絵のように動いている。馬は、普段ならばさっさと勉強を始めるところなのだが、その日だけはなんとなく爺さんのことを見ていた」

 

「この爺さんについて、()もよく知っていた。爺さんは善人というほどには善い人格の持ち主ではなかったが、さりとて悪人というほどの悪でもない。ごく一般的な人間で、ごく普通の感性と考え方を備えた人間だった」

 

「ただ、菊のことになると人が変わったようになる。その日より以前のことだったが、ある日馬が通りを歩いている時、爺さんに呼ばれて露台に昇ったことがあった。一歩ごとにぎしぎしと頼りない音を立てる木造の階段を昇り切ると、そこには菊の露台がある。視界を圧するように美しく咲き乱れる菊の花の群れを見て、まだ審美眼も美学的観念も充分に育ってはいない子どもである馬もいたく感動した。爺さんは馬の隣でニコニコと笑っている。馬に限らず、爺さんは通りを歩いている人間は誰でも呼び寄せて自分の育てた菊を見せてやっていたそうだ」

 

「それで、菊に見惚れていた馬は、誘われたかのようになんとなく菊に手を伸ばしたのだが、その瞬間、それまでにこやかだった爺さんは豹変して馬を怒鳴りつけた。『子どもの汚い手でわしの菊に触るな!』 あまりにも大きな怒声だったから、子どもの馬はその場で飛び上がって、階段を駆け下りて自分の家へと逃げ帰った。もし逃げるのがあと一秒でも遅かったら、爺さんは自分の頭をぶん殴っていただろう。そのように馬は思った」

 

「薄い朝日の差す中で爺さんは水やりを続け、そして作業を終えた。菊はまだ花をつけていなかったが、濃い緑の葉と茎は生き生きとして瑞々しく、今年も立派な花を咲かせるであろうことを予感させた。爺さんは誇らしげな顔をしてしばらく菊を眺め続けていた。そして、満足した爺さんは露台を下りようとした」

 

「爺さんが階段にさしかかった時だった。露台の下に一人の男が現れた。それは肥かつぎの男だった。馬はこの男のことも知っていた。近所一帯の住宅地の屎尿(しにょう)回収を担っている男だったから、界隈でその男を知らない者など誰もいなかった。名前は(てい)(なにがし)とか言ったらしい。小柄だが労働で鍛えられた立派な体格を有していて、肌は浅黒く日焼けしている。人当たりの良い性格をしていて、誰に対しても優しくて丁寧な男だった。困っている人がいたら手伝わずにはいられないという男で、特に老人に対して親切だったという」

 

「その男が露台の下にいたのだった。男は(こえ)を入れる前の空っぽの桶を二つ担いでいた。男は二つの空桶を両肩に担いだまま、なぜか露台の上へと昇っていこうとする。どうやら爺さんのために水やりを手伝ってやろうとしているらしい。なんでわざわざ水やりを手伝おうとするのか……おそらく、その日の仕事を始める前に何か人助けをしておこうとでも思ったのだろうが、それにしてもなぜ、たかが水やりをするのに空の肥桶を担いで階段を昇ってくるのか……その理由はまるで分からなかった。しかし、とにかく肥かつぎの男はそのようにしようとする」

 

「一方、階段の上にいる爺さんは、なんとも迷惑そうな顔をしていた。それはそうだろう。もう水やりは終わっているし、それに露台の上はさほど広いとはいえない。肥桶を二つも担いだまま上に昇られて、万が一にも菊の鉢なりをひっくり返されたりでもしたら目も当てられない」

 

「爺さんは階段の中ほどまで下りると、同じところまで昇ってきていた肥かつぎの男を制止した。しかし男は昇りたがる。爺さんはなおも制止する。男は諦めない。両者とも無言で応酬を続けている。ついに押し合いという感じになってしまった。周りには誰もいない。通りはまったくの無人だ。ちょうど明け方に軽く雨が降ったばかりで、階段は濡れてすべすべしていた。おまけに階段は急だし、爺さんの方は高いところにいる。それに対して肥かつぎの男は空とはいえかなりの重さがある桶を二つも担いでいて、低いところにいる。押し合いになれば、年老いているとはいえ爺さんの方に分があった」

 

「押し合いをしているうちに、二人は当初の目的を忘れてただ押し合いそのものに夢中になってしまったのか……それは分からない。ついに爺さんはひときわ勢いよく、まるで突き飛ばすように肥かつぎの男を手で押した」

 

「その瞬間、肥かつぎの男は階段から足を踏み外した」

 

「勉強部屋の窓からその光景を見ていた馬は、しっかりとそれを見ていた。肥かつぎの男は背中から落下して、存外ゆっくりとした速度で階段の下へ落ちていった。何かに掴まろうとしたのか、男が空中で手足を振り回しているのが馬にははっきりと見えた。階段下に落ちた時には、不思議なことに大きな音はしなかった。無音で肥かつぎの男は下に落ちた……そして、身動き一つしない」

 

「爺さんは自分がしでかしたことにしばらく呆然としていたが、やがて我に返ると、大急ぎで階段を下りて、倒れている肥かつぎの男を助け起こした。だが、男はもうぴくりとも動かなかった。男は頭を強く打ったようだった。それに、重い二つの空の桶が胸を圧し潰したらしい。両足はぐんと伸びていて、微かに痙攣している。爺さんは驚いて声も出ない様子だった。幼い馬も息を呑んでその光景を見ていた」

 

「そのうち、爺さんは動き始めた。きょろきょろと周囲を見回して誰もいないのを確認すると、爺さんは肥かつぎの男の両足を掴んで引きずっていった。爺さんは階段に繋がる後門(こうもん)を開け、男をどこかへ運んでいく。馬にはそこまでしか見えなかった。爺さんと男は建物の陰に隠れて見えなくなってしまったのだ。だが馬は、これで終わりではないと思っていた。馬はそのまま次のことが起こるのを待っていた」

 

四半刻(30分)もしないうちに爺さんは帰ってきた。爺さんは、今度は地面に転がったままになっていた二つの空桶を持って、また門から出ていった。そしてまた帰って来て、今度は箒を持ち出して地面を掃き清めた。その頃にはかなり日が高くなり始めていて、周りには人が増えていた。それでも爺さんは何食わぬ顔で地面を掃き続けた。それが終わると爺さんは家の中へ引っ込んでしまった」

 

「馬は幼かったが、これは大変なことになると思った。事件の目撃者は自分しかいない。だから急いで誰かに告げる必要があると思った。人命に関わる問題であるからなおさらだ。もしかしたら、まだ肥かつぎの男が生きている可能性もある。だが、馬はどうしてもそうすることができなかった。馬は怖くてたまらなかった。怖くてなかなか誰かに告げることができない。北楼へ勉強を教えに来た父にも怖くて言うことができなかった。何が怖いのか、どうして怖いのかは分からないが、とにかく怖くてたまらない。幼い子どもであるから仕方のないことだろうし、特に内気で気弱な馬には無理なことだっただろう」

 

「昼頃になって、外からは人々が大騒ぎする声が聞こえてきた。『川岸に死体がある』『肥かつぎが死んでいる』とみんなが声高に話し合っている。馬は自分の心臓が爆発しそうなほどにドキドキした。どうしても気になって、馬は家から出て川岸へ向かった。川岸にはたくさんの人がいた。死体には一枚の(むしろ)が被せてある。それは間違いなく肥かつぎの男の死体だった。それでも馬は誰にもそのことを言い出せない。そのうち里保(りほ)の係員が役所に届け出た。正午を過ぎた頃には常州武進(ぶしん)の県令が事件の調査のためにやってきた。銅鑼の音が響き、検死官が厳めしい顔をして進み出てくる。馬はその光景を近くから見ていた。検死官は跪いて、仔細に死体を調べ始めた」

 

「馬はくらくらと眩暈がした。彼はまるで自分が取り調べられているような気がした。口から飛び出してくるのではないかと思うくらいに心臓が脈打っている。目の奥で火花が飛び散っているようで、視界は黄色い電光のようなものが絶え間なく走っている。興奮した見物人が前へ出てこようとすると、そのたびに銅鑼が大きく鳴らされる。役人たちが怒鳴り声を上げると、見物人たちも怒鳴り声を返す。そういう喧騒の中で、小さな馬はただその場に立ち尽くすだけだった」

 

「やがて検死官が報告を述べ始めた。馬は、自分に対してついに死刑宣告が述べられるのだと覚悟していた。もちろんそんなことがあるわけはないのだが、幼い馬にはそう思われたのだ。検死官は言った。『この死体には目立った外傷はない。ただ、頭と胸を強く打った形跡がある。おそらく高所に昇ったところで足場を失い、つまずき転倒して死んだものであろう』」

 

「検死官から報告を聞いた県令は、その場にいる者たちに向かって誰か事情を知っている者はいないかと尋ねた。馬は、名乗り出るならば今しかないと思った。この機会を逃したら、自分は絶対に後悔すると馬は思った。しかし、馬は前に進み出ることができなかった。馬は怖くて震えていた。何も言えず、前を見ることもできず、ただ涙だけが妙に出てきてどうしようもない。涙で滲んだ視界の中で、県令と役人たちがさらに大人たちに事情を聞いて回っている。どうやら彼らはこれは単なる事故ではなく、何やら事件であるように推測しているようだった。それを後目(しりめ)にして、馬は走って家に帰ってしまった。それから馬は寝込んでしまった。一週間近く熱が冷めなかった」

 

「その後、役人は部下に命じて肥かつぎの男の死体を納棺させ、棺桶を封印した。かつ、遺族に死体を引き取るよう告示を出し、引き上げていった。彼らは最後まで事件の可能性を疑っていたようだったが、結局は単なる事故として処理することにしたようだった」

 

「事件があってから九年が経過した。馬は二十歳になっていた。もう立派な青年である。幼い頃から懸命に勉学に励んだ甲斐があって、彼は院試に合格して生員(せいいん)となっていた。十五歳の頃に父が亡くなって家は貧乏になってしまったので、彼は自分が幼い頃に勉強していたあの北楼に近所の子どもを集めて、経書(けいしょ)を教えていた。授業料は僅かなものだったが、それでも何とか暮らしを立てることはできていた」

 

「九年も経てば、流石にあの事件の記憶は薄れていた。今になっては馬も、あの時のことは起きていながら何か夢でも見ていたのではないかと思うようになっていた。その後、馬は何回も菊売りの爺さんに会った。爺さんは何ごともなかったような顔をして平然として暮らしていた。爺さんは相変わらず高い露台の上で菊を育て世話をし、季節が来たら売って、たまに通りを行く人を呼び止めて露台の上にまで連れて行く。見かけるたびに、馬は爺さんの顔をそっと観察した。爺さんには何も変わったところはない。いつも朗らかな顔をしていて、満足そうに薄い笑みを浮かべている。人を殺した負い目などは微塵も窺えない」

 

「それで馬も、仮にも人を殺した人間があそこまで平気な顔をして暮らせるわけがないから、やはりあれは自分の見た白昼夢か、単なる思い過ごしだったのだろうと思った。あの頃の自分はまだ小さかったから記憶が混乱しているに違いない。川岸で肥かつぎの男が死んでいるというのを聞いて強い衝撃を受け、まだ自制の利かない幼い想像力が勝手に『爺さんが肥かつぎの男を突き飛ばして殺した』という話を作り上げた。しかも、それを自分自身で目撃したのだと信じ込んだ……そのように馬は考えて納得したのだった」

 

「その頃、近々歳考(さいこう)が開催されるということになった。生員(せいいん)である馬は必ず歳考を受験しなければならないから、それに備えて経書(けいしょ)のおさらいをしておこうと思った。その朝、彼は早くに目を覚ますと例の北楼に行き、換気のために窓を開けた。九年前のあの時のように、通りには誰もいなかった。露台にも爺さんの姿はなかった。薄暗い中で、ただ鉢植えの菊の枝葉だけが青々として繫っているのが見える」

 

「しばらく馬は通りを眺めていた。朝の冷涼で澄んだ空気が馬の意識をだんだんと覚醒させていった。その時だった。通りの向こうから、何かを肩にかついでやってくる人がいた。はっとして馬はそれを見た。それはだんだんこちらへ近づいて来るようだった。肩に担いでいるのは空の肥桶だった。空の肥桶を二つ担いだ男が、どんどん通りを進んでこちらへやってくる」

 

「馬は、それがあの時爺さんに突き落とされて死んだ、肥かつぎの男だというのが分かった」

 

「驚いた馬は、きっと死んだ肥かつぎの男が鬼となってこの世に戻ってきて、菊売りの爺さんに復讐しに来たのだろうと思った。またその瞬間、馬はそれまでの自分が自己欺瞞をしていて、あの事件をなかったものとして思い込もうとしていたことも悟った。息を止めて馬は肥かつぎの男の様子を見ていた。肥かつぎの男は足音も立てず、滑るようにしてどんどん通りを進んでくる。その顔はまったくの無表情だった。復讐をする鬼の顔とは、かくほどまでに冷たい顔をするものかと馬はぞっとした」

 

「ついに男は爺さんの家の門の前まで来た。惨劇が起こると馬は覚悟した。だが、その次の瞬間には、肥かつぎの男は門の前を通過していた。男はさらに先へと通りを進んでいく。数十歩進むと、男は()という家に音もなく入っていった。この李家は非常に富裕な家で近隣の名望家でもあった。それきり、なんの騒ぎも起こらない。通りは静かなままだった。静かなまま半刻(一時間)あまりが経過した」

 

「馬はどうしても男がどうなったのか知りたくなった。そこで家を出て、李家の前まで行ってみた。門まで来ると、ちょうどその家の下男が大急ぎで出てきたところだった。下男はばったり会った馬に向かって言った。『おお、馬秀才(しゅうさい)、うちの奥様が産気づいたんだ。もうすぐ生まれるんだよ。今すぐに産婆を呼びに行かなきゃならん』 馬は、こんなことを訊いている場合ではないと思いつつも、下男に向かって言った。『さっき、空桶を二つ両肩に担いだ、肥かつぎの男がこの家に来なかったかね?』 下男は答えた。『そんなのうちには来てないよ』」

 

「どこか間の抜けた問答をしていると、今度は門の中から下男の妻である下女が出てきて言った。『産婆は呼ばなくて良いよ! 奥様はおひとりで無事に立派な男の子をお産みになったから!』」

 

「馬はそれで、肥かつぎの男がやってきたのは復讐ではなくて転生するためだったのだと悟った。男は転生した……(まち)一番の名家の息子として。それはほぼ間違いない。しかし腑に落ちないのは、何の因果でただの肥かつぎがこんな名家に生まれ落ちたのかということだった」

 

「馬はしばらくそのことについて考えてみた。なるほど肥かつぎの男は生前、あまり上等ではない仕事をしていた。しかしあの男はそのことを恥じることなく堂々と仕事をしていたし、それのみならずいつも明るく親切で、常に他人に対して積極的に善行を為していた。俗に善因善果(ぜんいんぜんか)悪因悪果(あくいんあくか)という。あの男は生前に善因を進んで施していたから、こうして名家に転生を果たすという善果を得たのだろう。そのように馬は納得した」

 

「それからというもの、馬は李家に生まれた坊や……つまり転生した肥かつぎの男が、どんな人生を送るのかを、絶えず注意して見守ることにした。歳月は瞬く間に過ぎていった。李家の坊やは成長して今では七歳になっていた。坊やはあまり学問を好まなかった。李家の主が馬のもとにやってきて『先生、どうか息子に学問を教えてやってください』と頼んできたが、いくら懇切に教えてもまったく身につかなかった」

 

「学問は上手くいかなかったが、坊やの性格は明るく朗らかだった。坊やは鳩を飼うのが好きだった。屋敷の敷地内に大きな鳩小屋を作ってもらって、そこで白い鳩を何羽も飼っていた。もちろん、食べるためではない。伝書鳩として品評会に出すのである。幼いながらも、坊やの鳩を育てる腕前は一流だった」

 

「馬は何度か、勉強にやって来る坊やの顔をじっと見つめて、どこかにあの肥かつぎの男の名残のようなものが見えはしないかと探った。だが、そのようなものは欠片も認められなかった。鳩を育てるのが好きというのも、どうも生前の肥かつぎの男と合わないところがあった。実際にあの時に肥かつぎの男が門の中へ入っていくのを見ていなければ、男がこの坊やに転生したとは想像すらしないだろう。馬はそう思った」

 

「一方、あの菊売りの爺さんはどうなったかというと、こちらはこちらでぴんぴんとしていて壮健そのものだった。そればかりでなく、老いてますます菊好きの度合いを深めていた。歳は八十歳を超えていたが、毎日毎朝あの急な階段を誰の助けも借りずに昇って、手ずから露台の菊の世話をしていた」

 

「かつて不本意ながらも殺人を犯して、しかもそのことを誰にもしゃべらないまま生きている男が、今では誰から見ても幸せそのものな老後を送っている……馬は、世の中とはそういうものだろうかと思った。だが同時に、このまま無事に老人の一生が終わることはないのではないかとも彼は思った。肥かつぎの男は善因善果として富裕な家に転生した。それならば、老人には悪因悪果が巡って来るのではないか……? 馬は坊やと同じくらいに、老人のことも気を付けて見ていた」

 

「ある朝のことだった。馬は早く起きて北楼へ行き、換気のために窓を開けた。その日のうちに書き上げなければならない文章があったからだった。しかし文藻(ぶんそう)がなかなか浮かんでこない。彼はしばらく外を眺めることにした」

 

「通りを挟んだ向かい側には爺さんが露台に立っていて、菊に水をやっていた。隣に目をやると、そこには塀に囲まれた李家の中庭が見えた。中庭には鳩小屋があって、ちょうど坊やが小屋の大扉を開けて鳩たちを外に出そうとしていた。数日前から雨が続いていて、坊やはそれまで閉じ込められていた鳩たちに運動をさせようとしているようだった」

 

「鳩たちはなかなか外に出てこなかった。坊やは鋭く、促すように何回か声をかけた。突然、十数羽の鳩たちが一斉に鳩小屋から飛び出してきた。鳩たちは編隊を組んで一団となると、大変な速度で空へ飛んでいき、しばらく周囲の空を円を描いて飛び回った。そして、まるで見えない何かに導かれたかのように一直線に急降下すると、爺さんが菊の世話をしている真っ最中の、あの露台へ向かって突撃した」

 

「白い鳩たちが、火縄銃から発射された弾丸のような勢いで飛んでいく。飛んでいく先には爺さんがいる。ついに、鳩たちはそのまま爺さんに衝突するかのように思われた。だが、寸前のところで彼らは爺さんの眼前を(かす)めて飛び去っていった」

 

「爺さんはその時水やりを終えて、階段を下りようとしているところだった。そこへ突然鳩が飛んできたのだった。爺さんは驚いた顔をした。驚いた顔をしたまま、爺さんは足を階段から踏み外した。爺さんは声も上げずに階段の下へと落下していった。無音で爺さんは下に落ちた……そして、身動き一つしない。しばらくしても爺さんは立ち上がらなかった。両足はぐんと伸びていて、微かに痙攣しているようだった。馬は息を呑んでその光景を見ていた」

 

「ふと、馬は気になって隣の敷地を見た。爺さんの眼前を掠めていった鳩たちが、続々と中庭の鳩小屋へ戻っていくところだった。坊やは隣で何が起こったのかまったく気づいていなかった。ちょうどそこからは死角になっていて、菊の並んだ露台の様子は全然見えないようだった。自分の自慢の鳩たちが元気に飛んで元気に帰って来たのに喜んで、坊やは一羽一羽を優しく抱いて頭を撫でてやっている。やがて坊やは鳩を小屋の中に戻すと大扉を閉め、屋敷の中へと戻ってしまった」

 

「ほどなくして爺さんの息子が、自分の父が階段の下に落ちて死んでいるのを発見した。息子は大声で家人を呼んだ。爺さんの家族は続々と外に出てきて、死体を囲んで大騒ぎをしている。馬は北楼の窓からその様子を見ていた。やがて彼らは、爺さんは雨上がりで濡れている階段を踏み外して事故死したと結論したようだった。息子が叫んでいるのが馬の耳に届いた。『だからやめろと言ったのに! その歳で露台に昇るなんて自殺行為だって、俺は何回も言っていたのに!』 みんなが涙で顔を濡らしていた」

 

「その時、孫の一人が地面に何か白いものが落ちているのに気づいて、それを拾い上げた。馬はあっと思った。それはあの坊やの飼っている鳩の羽根だった。十歳くらいの小さな孫はしばらく羽根を見つめていたが、そのうち飽きてしまったかのように羽根を放り投げた。羽根は風に乗って、(まち)のどこかへと飛んで行ってしまった」

 

「その日のうちに葬儀が執り行われて、すべて事件は片付いてしまった」

 

「この話をしてくれた()士麟(しりん)もつい先年に病を得て亡くなった。彼は死ぬまで善因善果、悪因悪果の因果応報を信じていたが……それはそうだ。その目で目の当たりにしたのだからね。だが、因果応報というものに関して、私としては別に意見がある。ここでそのことについて述べることはあえてしないが」

 

(「傍観」おわり)




参考文献 袁枚『子不語1(全5巻)』(手代木公助訳、平凡社、2009年)315頁-318頁。

さっと書き上げるつもりが、また長大な話になってしまいました。最初は因果応報思想に関してちょっと考察を書こうと思ったのですが、結局はやめにしました。ろくに本も読んで勉強もしていないのに生半可なことを言うのは憚られたからです。もっと勉強しないとなぁ……
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