男は目を覚ました。例によってすっきりしない目覚めだった。
横になったまま、男は布団の脇に置いてある小さな置時計を見た。妙な角度で首を動かしているせいで時計はひっくり返って見えたが、時刻はほぼ正確に読み取れた。七時半。秒針が動いている。そろそろ七時三十一分。悪くない時間だった。夜中に起きてしまってからちょうど四時間が経過していた。男はもう三分ほど布団で横になっていることにした。
男は今日、仕事がなかった。それ自体は男にとって歓迎すべきことだった。それほど大した仕事をしているわけではないが、それなりに気を遣う。そして、気を遣うというのは何よりも大きな負担だ。特に、自分のような病気を持っている人間には……そのように男は思った。だから、仕事がないのは純粋に嬉しいことだ……それでも、なぜか男は晴れ晴れとしないものを感じていた。
理由ならば分かっていた。男は今日、朝のうちにクリニックへ行かねばならなかった。予約は九時半にとってあった。クリニックに行くには徒歩で二十分はかかるから、余裕を見て家を九時には出ないといけない。あと一時間半後に家を出てクリニックへ……そのことがじっとりとした茶色い油染みのように男の心にへばりついていた。
今日の用事らしい用事といえばそれだけだ。たかがクリニックへ行くだけ。しかし、男にとってはそれが妙に憂鬱なこととして感じられた。クリニックに行かねばならないと思えば思うだけ、男は自分の気分が黒い汚泥の中に沈み込んでいくかのような感覚に捉われた。
その理由ならば、はっきりと分かっていた。
今日は何が浮かんでいるのだろう? 男は思った。
まだ外は見ていない。だから今日の天気も分からない。晴れなのか、曇りなのか、それとも雨なのか……だが、そのようなことは関係なかった。今日は何が浮かんでいるのだろう? それは晴れだろうが曇りだろうが雨だろうが、必ず浮いていた。空のどこかに、どこかから切り抜いてきて乱雑に貼り付けたように浮いているのだった。
それはいつも浮いているわけではなかった。それは男がクリニックに行く時にだけ浮いているのだった。クリニックに行くために男が家を出て、道を歩き、クリニックに着いて、診察を受けて、薬局へ行き、薬を受け取って薬局から出る……その一連の行動の間、それはずっと男の頭上の空に浮いているのだった。晴れていても、曇っていても、雨であっても、それは浮いている。決して消えることがない。
だから、男は憂鬱なものを感じているのだった。
それはごく無害だった。それは男に対して何も実害を与えることはなかった。それはただ浮いているだけで、陽射しを遮ることさえしない。それは男以外の人間には誰にも見えない。しかし、男にだけはそれがしっかりと見えている。
男はもちろん、それが自分の幻覚であることが分かっていた。だが、この幻覚を治療するために男はクリニックへ行っているわけではなかった。クリニックは専ら精神的な病を扱うところではあったが、男がそこに通うようになったのはさらに昔の、もっと別の病気を診てもらうためだった。十年以上も男は病気だった。
それが浮かぶようになったのはつい最近だった。最近といっても、もう一年ほどになるが……しかし、十年間も苦しんでいるこの病気と比べたら、やはり最近といって良いだろう。男はそう思っていた。それに、実害はない。
今日は何が浮かんでいるのだろう? 男はまだ布団から出られなかった。いつまでも男はぐずぐずとしていた。今日は何が……? 脳全体が腫れているような感じだった。あるいは、腐りかけて薄く
疲労というものには二種類あることを男は長い経験で知っていた。一つは脳の疲労で、もう一つは脳以外の疲労だった。今日はどうやら、脳が疲労しているようだった。前日の仕事は、やはり大した仕事ではなかったが、それでもけっこう気を遣った。気を遣ったということは脳を使ったということだった。だから今日は脳が疲れている……睡眠でも疲労は消えなかった。あのような細切れの睡眠では、それも当然かもしれない。
置時計の秒針が動く音だけが部屋に響いていた。浮かんでいるものはその時々によって異なる。男はじっと天井を見つめた。だいたいは顔のどこかの部位だ。鼻、耳、口、目……眉のこともある。一番無害なのは鼻だが、今日はいったい何だ……? 顔の部位以外のこともあった。これまでに男は赤い薔薇の花と、オスのカブトムシが空に浮かんでいるのを見たことがあった。しかし、今日はたぶん顔の部位だろう。
顔の部位なのは覚悟できている。だが、目だけはダメだ。男はこみあげてきた苦いものを飲み込んだ。目だけはいけない。
男はそろそろ自分の中で起き上がるだけの気力が湧いてくるのを感じていた。時刻は七時四十五分になっていた。目以外だったら何でも良い。男は起き上がった。たぶん、目ではないだろう。そのように男は思うことにした。根拠はないが、そう思えば起きやすくなる。
男はトイレに行き、口をゆすいでから洗面を済ませた。洗面所のタオルを前日から替えていなかったことに男は気づいた。替えのタオルを棚から取り出しながら、男はカレンダーを見た。「イエスはみずから十字架を背負って、ゴルゴダという場所へ出て行った」 ヨハネ福音書の二〇章一七節だった。エル・グレコの絵が添えてある。男は何の感興も催さなかった。
暗いリビングで男は簡単な朝食を食べた。男は古くて乾燥しているバナナを一本だけ食べた。さっさと食べてしまうと、男は薬を飲んだ。薬はほんの小さなオレンジ色の粒に過ぎなかった。こんなもの一つで、自分の精神のあり方がすべて変わってしまう……病気になりたての頃、男はその事実に愕然としつつ、何かの毒物を自ら摂取するかのような手つきでそれを服用したものだった。今では何とも思わない。トイレに行き、口をゆすぎ、洗面をし、タオルを替えるのと同じくらい、それは日常生活に組み込まれた単なる一つの動作になっていた。
いつの間にか時刻は八時になっていた。自分の動作が緩慢になっていることを男は自覚していた。それでも仕事だけは進めておかねばならなかった。男は自室に戻るとPCの電源をつけた。それから少しだけ男は仕事をした……仕事は四十分ほど続いた。悪くない集中具合だったが、出てきた文章はつまらなかった。それでも今日の脳が最低限の働きはしてくれることが分かって、男は安堵した。仕事の間、男は空に何が浮かんでいるかを忘れることができた。クリニックへ行かねばならないということすら男は忘れていた。
時間が来たので男は着替えて家を出ることにした。襟付きの簡単なスポーツ用の灰色のTシャツ、スポーツ用の濃いブルーの短ズボン、短い靴下……これに緑色の上っ張りを着る。上っ張りにはポケットがたくさんついていて、これが物入れの代わりになる。
以前、男はちゃんとした恰好でクリニックへ向かっていた。ちゃんとしたシャツ、ちゃんとしたズボン、ちゃんとした上着……つい最近になって、そういったものを着ていくのが突然馬鹿馬鹿しくなった。男は着替えると家中の鍵がしっかりかかっているかを確認し、玄関に立った。玄関の灯りのスイッチを男は切った。
今日は何が浮かんでいるのだろう? 目でなければ良いのだが。薄暗い空間の中で、男は袋の中から一枚のマスクを取り出して着用した。クリニックは数年前から利用者にマスクの着用を要請していた。「五月からマスクの着用は利用者各位の任意といたしますが……ご協力をお願いします」 それなら最初からマスクを着用しろと書けば良いのにと男は思った。ところで、今日は何が浮かんでいるのだろう? 目でなければ良いのだが。男は外に出た。
外は晴れていた。ドアを開けた瞬間、男の視界を白い光線が包んだ。向かい側の集合住宅の棟が午前の柔らかな陽射しを受けて、まるで波間にぽっかりと浮かんだ島のように淡く光っていた。ドアに鍵をかけて何度もノブを回して確認をすると、男は俯いたまま外廊下の手すりまで進んでいった。ここで顔を上げれば、空に浮かんでいるものが見える。男は空を見るのが嫌だった。
今日は何が浮かんでいるのだろう? 目でなければ良いのだが……? 決意を決めたように、男は顔を上げた。
それは目だった。
最悪だ。男はうんざりとした気分になった。目は上空に浮かんでいた。片方しかない目はまるで粗雑なコンピューターグラフィックスのようだった。目蓋があり、まつげが生えており、その中に眼球が収まっている。眼球は瞳と白目の部分がはっきりと別れていた。瞳は茶色で、白目には小さな黒い星がある。少しだけ目は充血していた。
目は、男が家から外へ出てきたのを見つけたようだった。すぐさま目は眼球を動かして、男の動きを追ってきた。時々、目は瞬きをした。目は何も感情を浮べていなかった。男はしばらく目を見つめた。目もまた、男の目を見てくるようだった。
この目に見られたままクリニックと薬局に行かねばならない。男は歩き出した。最悪だとは思うが、それでも家に帰る気にはならなかった。時間はもう九時を回っていた。クリニックに行かないというのはあり得ない。それでは薬を手に入れることができなくなる。男は廊下の中ほどに設置されているエレベーターに乗ると、そのまま一階まで降りた。
どうして自分が目のことをそれほどまでに嫌だと思っているのか、男にとってもよく分からなかった。顔の部位の中で、確かに眉は無害だろう。耳も何も問題はない。鼻は……時々何かを嗅ぎ分けるように
しかし目は……男はエレベーターを降りた。エレベーターのあるホールはそのまま建物のエントランスを兼ねていた。男はおざなりに自分の部屋のポストを確認すると、外へ出た。目は依然として空に浮かんでいた。じっと男のことを見てくる。視線の圧力を男は感じた。たぶん、これなのだ。男は居住棟外の緩やかなスロープを歩きながらそう思った。仮に自分がこの目に対して嫌悪感を覚えているのならば、おそらくその原因はこの視線の力だろう。
見られている。すべてを見られている。男は視線を周囲に向けた。植え込みの草木は朝方の小雨で濡れていた。アスファルトに覆われている地面も薄く湿っている。細長く続いている屋根付きの駐輪場に人影はない。遠くで親子連れが歩いている。茶髪の母親は若く、小さな子は二歳児くらいだろう。一台の黒いタクシーが通りかかった。
こういったものを見ている自分というものを、目は見ている。男はゴミ集積場の方へ歩いていった。男はなおも強い視線を感じていた。
もしかすると、自分が心の中で思っていることも、すべてあの目は見ているのかもしれない……突然、男は
ゴミ集積場のある建物の角を曲がると、そこはすぐ大通りだった。大通りを渡って図書館と小学校のある方向へ向かうか、それともそのまま駅の方向へ大通りを進んで、大きな交差点を渡ってからクリニックへ向かうか、男は少し考えた。大通りには車が行き交っていた。大型と小型のトラック、重機を積んだトレーラー、土砂を積んだダンプカー……乗用車の類は少なかった。男は空を見上げた。目はじっと男を見ていた。茶色の瞳は作り物のように澄んでいた。やはり何の感情もそこから窺うことはできない。
男は大通りを渡ることにした。横断歩道の信号はまだ赤だった。男は、今日医師に何を話すか考え始めた。おそらくこの病気を治すのは最終的には薬ではないのだと私は思います。私が思うに、この病気に対しては特効薬というものはありません。ですが、確かに効果のあるものは存在します。その一つは、間違いなく生活そのものでしょう。生活そのものが充実していれば病んだ精神でも満足します。一日の終わりに、今日は精一杯生きることができたと感じることができれば……それはどんな薬にも優る偉大な効力を持っているのではないですか? だから私は最近、毎日仕事をしているのです……
本当にそんなことを思っているのか? 本当にそんなことを真実だと、正しいことだと、自分は思っているのか? 男は空を見上げた。目がじっと男を見ていた。そんなこと、自分はこれっぽっちも信じていないではないか。男は自分が苛立ちに似た感情を覚えているのを感じた。男はまた、そんな自分の内面すらも、目はすべてを見透かしているのではないかと思った。
信号が青になった。男は歩き始めた。男の他にも二、三人の通行人がいた。どの通行人もそれほど元気な顔をしていなかった。向こうから歩いてくる灰色のスウェット姿の若い男などは土気色の顔色で、ふらふらとして足取りもおぼつかない。男はふと、もしかしたらこの通行人たちにもそれぞれに目があるのかもしれないなと思った。誰かの視線を感じているから、これほどまでに顔色が悪いのかもしれない。
それならば、自分の顔色はどうなのだろう? 男はそう思って、横断歩道のある角に建っている整骨院のガラス張りの外扉を見た。そこには歩道を歩いてくる男の姿が映っていた。堂々としているとも、卑屈であるともいえない足取りだった。だが、顔色は分からなかった。ガラス扉は緑色だった。男はそれで納得した。ちらっと男は空を見た。やはり目が浮かんでいて、こちらをじっと見てきた。
男は道を歩いていった。両側には住宅地が並んでいて、前方には鉄道の長い高架がある。高架下まで歩きながら、男はクリニックへ行くまでに多少時間の余裕があることに気づいた。ちょっとだけ図書館に寄るだけの時間がある。二次利用書籍の棚を見るくらいの時間ならあるだろう。男は高架下を通り抜けた。小学校の脇を通り、道の突き当りの保育園まで男は向かった。
空にはまだ目が浮かんでいた。男はちょっと空に視線をやって、視線を戻すと、また俯きがちに歩き始めた。クリニックに行く日に、空に顔のどこかの部位が浮かぶようになったのはつい最近だ。男は考えていた。最近というのは、一年前ほどの話だ……男は、この一年のことを思い出していた。不調ではなかった。むしろ、この十年間で一番調子が良い一年と言えた。仕事も順調だった。自分の調子が良くなってきたことを実感し、それに伴って生活の幅も豊かに広がったと思えるようになってきたその時から、クリニックに行く日、顔のどこかの部位が空に浮かぶようになったのだった。
調子が良いと言っても、絶好調というわけではなかった。しかし、死ぬほどの不調というわけではない。男は保育園の前を通り抜けた。こじんまりとした園庭には誰もいなかった。男は街路樹に目をやった。青々とした若葉が妙に目についた。
さらに先へと男は歩いていった。男は頭の中で、また今日医師にどういう話をするのか考え始めた。忙しい日の翌日などは、そう、例えば今日のような日ですが、そういう日は脳が腐りかけの粥に浸かっているような感覚がします……腐りかけの粥? そのような言い方はフォーマルではない。ええ、脳が大変疲れているような感覚がします……ですが、それはなんとか対処することが可能な苦しさです……以前はそうではありませんでした。なにしろ以前は……自分の苦しささえ分からなかったのですから。
いつの間にか図書館に到着していた。草刈りもされていない植え込みには雑草が伸び放題に生えていた。一本のタンポポが生えていて、白い綿毛が完全な形を保っていた。図書館は巨大な集合住宅の棟の一階にあった。エントランスホールに入ると、男は左側にある二次利用書籍の棚へ向かった。遠くから見ても、棚には何もないことが分かっていた。それでも男はその前まで行った。そして、何もないことを確認すると、また外へ出た。
ここからクリニックまでさほど距離はなかった。男は遊歩道を通り抜けるとバス通りに出た。バス通りには多くの人が歩いていた。スーツを着た人間が多かった。男は横断陸橋へ向かった。陸橋の階段の裏側にはびっしりと赤錆が付着していた。
横断陸橋の階段を昇りながら、男はさらに今日医師に向かって何を話すべきか考えていた。ええ、気を遣い過ぎるのが良くないというのは分かっています。もっと自分本位にやるべきだと思います。相手は自分のことなどさほど気にしていないし、それにこちらのことを常に見ているというわけではないのですから……見ているというわけではない? 男は陸橋の中ほどまで来ていた。下にはひっきりなしに車が走っている。男は空を見上げた。目はじっとこちらを見ていた。
陸橋を降りると、男はさらに住宅街を進んでいった。左側にも巨大な団地が広がっていた。自動車用の緩やかなスロープが空中に設けられていて、複雑に組み合わせられた鉄骨がそれを支えていた。この道をちょっとだけ先へ進み、右に曲がって、郵便局を通り抜けたら、そこがクリニックだった。
郵便局には警察官の等身大のポスターが貼ってあった。クリニックの前の駐車場には大きな黒いワゴン車が止まっていて、盛んに排気煙を吹きだしている。男はクリニックのガラス戸の前まで進んだ。ガラス戸は開け放たれていた。ちょっとだけ男は空を見た。目はじっと男のことを見ていた。視線を背中に感じながら、男はクリニックの中に入った。
オレンジ色とクリーム色の色調で統一された待合室は広々としていたが、その日はあまり人がいなかった。前回来た時はそうではなかったと思いつつ、男は受付の前まで進んだ。
カードリーダーにカードを置く。暗証番号を打ち込む。マスクをつけているから顔認証はできない。暗証番号はボタンを押してから数秒後にようやく入力される。そのタイムラグが苛立たしい。カードをまた手に取ると、今度は受付に診察券を出す。アルコールで手指を除菌する。自分が酷く汚い存在であるような気がする……ここまで一分も経っていない。
待合室をぐるっと取り囲むようにして診察室は配置されていた。左側の一番診察室のドアにはW医師のネームプレートがかかっており、その右隣の二番診察室にはK医師の表示が出ている。三番診察室には誰もいない。男の担当医師がいるのは四番診察室だった。それは一番右側の奥まった場所に配置されていた。壁にはカタツムリの絵が描かれたポスターが貼ってあった。「つらい時には誰でもひきこもる」と書いてある。そうかもしれない、と男は思った。
自分の医師はこのクリニックの中でどういう立場にいるのだろうか。ふと、男は椅子に座りながらそんなことを考えた。四番診察室はあまり良い部屋ではない。他の診察室は患者を呼び出す時には部屋に備え付けられているマイクを使うが、四番診察室は医師が待合室まで出てきて直接患者に声をかけることになっている。明らかにその部屋の設備は他よりも劣っていた。しかし、設備面で恵まれていないからといって、医師までがクリニックの中で劣ったものとして扱われているのかどうか、そこまでは判然としなかった。
まだ九時半まで五分ほど残っていた。男は頭の中で医師に何を話すのか考えていた。元気に幸福に生きるということは罪ではないことが最近になってようやく分かってきました。以前はそのような生き方をするのはあまりにも無責任だと思っていたのですが……あるいは、今は元気でもなければ幸福でもないかもしれませんが、少なくとも元気に幸福に生きようと努力をすることができているという点で、今の私は以前よりはかなり調子を取り戻していると思います……あまりにも抽象的すぎるか? 男はそう思った。もっと日常的な話をしたほうが良いかもしれない。天井近くにはテレビが設置されていた。ニュースキャスターの低くて落ち着いた声が聞こえてくる。ニュースキャスターは山火事について話していた。
男はぼんやりと室内を見回しながら考え続けた。前回診ていただいた後も問題なく仕事に行くことができました。幸いにも半期ごとの評価でまた表彰されましたが、今年からは予算不足で副賞はなくなりました。賞状もないんです。ですが、それに関しては不服に思っていません。そもそも職場での人間関係は良好ですし、自分の能力も無理なく発揮することができているので、ただちに環境を変えなければならないとは思っていないのです。ええ、もうひとつの方の仕事も順調です……形としての成果は出ていませんが、充実していると思います……なかなか良い感じだ、と男は思った。具体的なエピソードの方が話しやすい。
その時、医師が待合室に出てきた。男の医師は小柄で、ちょっと太っていた。
医師は男の名前を呼んだ。小さな声だった。男は短くはいと答えて椅子を立ち、そのまま右側の第四診察室へ入っていった。診察室には端末が置かれた医師のデスクと、患者用の椅子と、薄いパーテーションだけがあった。椅子の足元には荷物を入れるためのカゴが置いてある。男は医師に軽く挨拶をし、座りながら、壁に貼ってある大きなカレンダーに目をやった。カレンダーには何も書いていなかった。医師は優しい口調で言った。
「それでどうでしたか、この三週間は?」
男は答えた。
「ええ、おかげさまで非常に順調でした。極端に不調を感じることも、仕事に困難を感じることもありませんでした」
医師はこちらの顔を見ない。ずっと端末の画面を見ていて、キーボードを打ち続けている。
「それなら大きな問題はありませんね。また繁忙期になったら適当に仕事量を調整してください」
男は答えた。
「はい」
医師はすぐに言った。
「では、また薬を三週間分お出ししておきますね。次回の予約は三週間後の同じ時間で良いですか?」
男は答えた。
「ありがとうございます。同じ時間でお願いします」
医師は言った。
「では、お大事に」
最後にちょっとだけ男を見て、医師は微笑んだ。悪い人ではない。男も微笑み返した。
言うべきか? 椅子から立ち上がりながら男は思った。
目が浮かんでいるんですよ。空に目が。言うべきかもしれない。
そう思った時には、すでに男は第四診察室を出ていた。診察時間は二分だった。一分だったかもしれない。ニュースキャスターはまだ同じトピックについて話していた。男は疲労感を覚えた。確かに男は疲労していた。待合室に戻ってくると、男はあたかも長い坂道を登ってきて疲れ果てた人間であるかのように椅子に座った。
ほどなくして男は受付に呼ばれた。三枚の紙が渡された。一枚はA4版の処方箋で、一枚はB5版の保険診療明細で、もう一枚は同じくB5版の領収書だった。診察券も戻ってきた。裏面の枠内には三週間後の同じ時間が次回の予約として記入されていた。男は金を払うとすぐにクリニックの外に出た。
外に出ると、男は空を見上げた。目はまだそこにあった。しかし、目は小さくなってうすぼんやりと霞んでいた。あと十分もしないうちに目は消えてしまうだろうと男は思った。あの時、医師に不用意なことを言わなくて良かったと男は思った。目が浮かんでいるんですよ……でも、すぐに消えてしまうんです。まったく無害ですよ。
言わなくて良かった。
男はクリニックの駐車場を出ると、歩いて一分ほどのところにある薬局に入った。自動ドアが壊れそうな音を立てた。薬局は狭かった。処方箋を出し、お薬手帳も出す。カードリーダーにカードを置く。暗証番号を打ち込む。端末の性能はやはり良くない。
狭い待合室内には先客が二人いたが、男が薬を渡されるのにそれほど時間はかからなかった。女性の薬剤師が男をカウンターに呼んだ。薬剤師と一緒に、男は二十一日分の薬を確認し始めた。薬剤師はオレンジ色の小さな錠剤が整然と並んでいるシートを手に取ると、丁寧な口調で言った。
「これが朝夕のお食事の時に飲むお薬ですね。毎食後にひとつずつ、計四十二個です」
男は頷いた。
「はい、四十二個ですね」
薬剤師はさらに別の薬のシートを手に取って説明を続けた。シートは二種類あった。一つは赤い包装で、もう一つは青い。青いシートの薬はラムネ菓子のように大きかった。
「こちらが夜に飲むお薬ですね。赤い方は二十一日分で計二十一個、青い方も二十一日分で計二十一個ですね」
男は頷いた。
「はい、二十一日分ですね」
最後に、薬剤師は楕円形をした青い錠剤の入ったシートを手に取った。
「こちらが夜、寝る時のお薬ですね。二十一日分です」
男は頷いた。
「はい、これも二十一日分ですね」
確認が終わると男は金を払い、薬を緑の上っ張りのポケットに収めた。去り際、薬剤師は気遣うような顔をして男を見て言った。薬剤師が声をかけてくるのはいつものことだった。
「どうですか? その後、お変わりはないですか?」
男は、一瞬だけ考えた。
目が浮かんでいるんですよ。
そんなことを言おうかと、ちょっとだけ男は思った。しかし、結局男はそのことについて何も言わなかった。男は愛想笑いを浮かべながら言った。
「おかげさまで元気ですよ。完全禁煙ももう三ヶ月続いているんです」
途端に薬剤師はいかにも嬉しそうな顔をした。
「それはそれは……素晴らしいですね」
でも、目が浮かんでいるんですよ。
男は口から出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。会釈をしてから男は薬局の外に出た。
空を見上げると、目は消えていた。痕跡すらもなかった。分厚い灰色の雲がどこかから湧いてきていて、太陽を覆い隠しつつあった。微かに風も吹き始めていた。
不用意なことを言わなくて良かったと改めて男は思った。今の自分は、思ったより調子が良いようだ。男は何度か軽く頷いた。三週間後の同じ時間に何を見ることになるのかは分からないが、たぶんその時も上手くやれるだろう。
来た時よりも幾分か明るい顔になって、男はまっすぐ家に向かって帰っていった。数分後にまた雨が降り始めた。空にはもう雨雲しか浮いていなかった。
(「目」おわり)
今回は久しぶりにオリジナルの話となりました。古典のアレンジも面白いのですが、こうやって自分だけの話を書くのもやはり面白いですね。また文字数が多くなってしまったので次回以降は調整します……(1話分をだいたい4,000字くらいにしたいんですよね)