明朝は生きたまま腐乱していき、ついに壮絶な断末魔の叫びをあげて滅んでいった。新しい政権である清朝が興った後も、その叫びは大地に残響していた。しばらく各地で乱が頻発した。乱は明朝を復興しようというのでもなく、また清朝を倒そうというのでもなかった。それは単に既存の巨大な秩序構造が崩壊したことによる後遺症のようなものに過ぎなかった。従って、乱はすべて失敗する運命にあった。
姓を顧というものがいた。名はよく分かっていない。この顧はみだりに江蘇省の常熟、無錫の民を糾合し、創建されたばかりの清朝に対して反乱を起こそうとした。顧はかなり弁が立ち、また、軍事的才能も兼ね備えていた。常熟と無錫の民は顧の扇動に乗せられつつあった。二つの地に属する村々は、戦争の準備を始めていた。
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村を熱気が包んでいた。村民たちは家業を放り出し、石材を積み、土嚢を運び、城壁を築いて、深い濠を掘っていた。村全体を要塞化しようというのだった。畑仕事も鍛冶仕事もすべて放棄された。蔵には食糧が運び込まれた。またそれだけでなく、新しい蔵も建てられつつあった。頑丈な石造りの蔵だった。これは弾薬庫にするために建てられたのだった。ただし、火薬の入手の目途は立っていなかった。
村の鍛冶師や研ぎ師は日常の業務である農具の手入れをおいて、今は専ら武器の整備を行っていた。しかし隣の空き地に山積みにされている武器の大半は、埃塗れな上に刃にも汚い赤錆が浮いていて、そのままでは戦闘に使えないことは明らかだった。火縄銃の類も集められていたが、そのほとんどは軍用ではなく、猟師が山で鳥を撃つのに使うような簡易的なものばかりだった。
大砲の類はまったくなかった。村人たちは竿と幟旗ばかり作っていた。戦争には武器よりなにより幟旗が必要なのだと彼らは信じ込んでいた。
村人たちは本気になって戦争の準備を進めていた。だが、それでは具体的にどうやって戦争を進めていくのかということについては誰も本気になって考えてなどいないようだった。
最初の頃は、村人たちも本気で戦争をする気ではなかった。彼らは戦争という非日常と、それに伴う解放感を楽しんでいただけだった。彼らが顧の扇動に乗ったのも本気で顧の説くところを信じたからではなく、それを口実にしてお祭り騒ぎをすることができるからに過ぎなかった。
しかし、今は違った。村人たちは本気で戦争をする気になっていた。彼らは熱くなっていた……熱くしたのは彼ら自身だった。口実を唱え続けているうちに、それが真実であると信じるようになってしまっていた。彼らは本心から勝利を望んでいた。彼らは戦争に熱狂していた……まだ、戦ってもいないのに。
中には、冷めている者もいた。いつでも、冷めている者はいるのだった。
謝は村の広場から少し離れたところに建っている自分の家の軒先で、腕を組みながら、盛んに行き来している村人たちのことを難しい顔をして眺めていた。謝は機敏な性格だった。頭の回転が早いだけではなく、決断力があり、それでいて慎重さも兼ね備えていた。体格は中肉中背で、それほど立派というわけではないが、目は鋭く、眉は黒々として太かった。
苦々しい気持ちと共に謝は思っていた。乱は無益だ。このままでは無惨な失敗をすることになるだろう。彼はそれまで客商として大陸の各地を旅していたから、その分だけ多くの情報に接していた。明王朝の復興は絶望的であること、現在も各地で乱が頻発しているが、どれもすぐに鎮圧されていること、新しい王朝の統治政策は苛烈だが、従順な者たちに対しては世間で喧伝されているほどには残虐ではないこと……
どうにかして、村人たちを翻意させたい。謝はそう思っていた。このままでは村は全滅することになる。新しい王朝の軍隊は強い。昨日まで畑を耕していたような兵士もどきの軍など勝てるわけがない。
だが、だからといって戦いを止めさせるのも難しそうだった。真っ赤な鉄のように熱狂している者たちに正論という冷水を浴びせたところで、結果はその場に蒸気が満ちるだけである。火傷をするだけで何も残らない。これほどまでに熱狂している村人たちを個人の弁舌だけで止めるのは不可能だろう。たとえ、この乱の発起人である顧であっても、今となっては村人たちを止めることなどできまい……謝はそこまで見抜いていた。
腕を組みながら謝は考え続けていた。彼はなんとしてでも打開策を見つけなければならなかった。彼の若い妻は妊娠していた。もう三ヶ月も経てば子が産まれるはずだった。なんとしてでも乱を阻止しなければならない。どうすればそれができるだろうか……? だが、いつまで経っても良案は浮かんでこなかった。
謝はいっそのこと、神頼みでもするかと思った。村の近くには関帝廟がある。良民を守護する天帝ならば、きっと良い考えを授けてくださるはずだ……
そこまで考えて、謝は天啓を得たような気がした。彼は腕組みをやめた。そうだ。何も自分が神頼みをする必要などない。村人たちを説得するのは天帝に任せれば良いのだ。彼は顎に手をやって、素早く考えを巡らせ始めた。そして言うべきことを頭の中でまとめると、広場に立って声を上げ、村人たちを呼び集めた。
村人たちは作業する手を止めてすぐに集まってきた。思ったよりも多くの人が集まったのを見て、謝は少し気圧されるものを感じた。だが彼は勇気を振り絞った。ここで上手くやれるかどうかで自分の妻と子の将来が決まるのだ。彼は木箱を積んだ台の上にのぼると、少し呼吸を整えて、それから声を発した。
「諸君、この戦いは義挙である。我らは正義の戦いに赴かんとしている。我らは至誠至純の心を持って、暴虐なる軍勢に立ち向かわんとしている。だが、敵は多く、それに対して我らはどこまでも寡である。戦力差は如何ともしがたい。元よりそのことは諸君もよく承知であろうし、顧君もそのことを諸君らに重々説いた上でなお『この戦いは義戦であるから起たねばならぬ』としたのである」
村人たちは存外真剣な表情をして謝の言うことを聞いていた。謝にはそれが意外だった。罵倒の一つでも浴びせられるものと彼は覚悟していた。そしてそれ以上に、彼は自分に弁舌の才能があったことに驚いていた。演説をするのは彼にとって初めてのことだった。声は朗々として響いており、言い淀むところがない。彼は自分を励ましながら、さらに話し続けた。
「しかし、戦いというものには常に機があると、私は思う。古今の良将はみな機を見ることに敏であったことは今更言うまでもないことだろう。機を逃せば十万の大軍も一万の小勢に敗北するのであり、また機を得ることができれば千の小勢であっても二十倍する敵勢を退けることができるのである。すべて戦いは機であると私はここで断言する。しかしながら、この機というものを授けるのは天であることもまた明白であろう。そして天の意志というものは常に測りづらく深遠である。我らに与えられている機とはいったいいかなるものであるのか、そして我らはいかにしてそれを知ることが可能であるのか?」
村人で満ちた広場はしんと静まり返っていた。だが、それは単なる静寂ではなかった。何か熱いものが渦巻きつつあった。全員が謝の言うことに真剣に耳を傾けていた。言葉を挟んだり、野次を飛ばしたりするものはいない。ここからが大事なところだと謝は思った。彼は一度言葉を切り、口中に溜まった唾をごくりと飲み下した。そしてもう一度大きく深呼吸をした後、彼はまた口を開いた。
「我らの村の関帝廟の霊験が甚だあらたかであることは諸君らも承知しているだろう。二十年前に起きたあの忌まわしい殺人事件の下手人を天帝はすぐにお示しになった。また十五年前の水害にも、天帝は事前にいくつもの兆候をお示しになり、我らに充分な備えをさせるだけの猶予をもたらされた。十年前から続く一連の戦乱に関しては言うことはあるまい。我らの村はこれまで戦火に苛まれることなく、平和裏に稼業に勤しむことができていた」
謝は続けて言った。全身から粘度の高い熱い汗が噴き出しているのを彼は感じていた。服がべったりと肌に張り付いた。
「私はここで提案する。いま、我らは全員で関帝廟へ赴き、天帝に祈りを捧げて、その側近である周倉将軍の重さ二十斤の鉄刀を河に投じてこれを占おうではないか。鉄刀が河に沈めば、それはすなわち我らに機が訪れていないということである。戦えばすなわち破れよう。兵を挙げるべきではないということだ。鉄刀が河に浮けば、それはすなわち我らに機が訪れているということである。戦えば我らはすなわち勝つであろう。兵を挙げるべきである」
最後に、彼は念を押すように言った。喉はからからに渇いていたが、声はかすれることなく彼の喉から出てきた。
「いかがであろうか、諸君。私はこれからすぐにでも関帝廟へ赴こうと思う。私についてくる者はいないだろうか。天帝は必ずや我らを嘉したまうであろう。天帝は必ずや義を重んずる我らに勝利をもたらすであろう。しかし、すべては天の意志に依るのである。私は鉄刀の浮沈を問わず、いかなる結果であっても天の意志に従う。さて、私についてくる者はいないだろうか。私と共に、天帝に伺いを立てる者はいないだろうか!」
言い切った。謝は自分の心臓が大きく高鳴っているのを感じた。言い切ってやったぞ。彼は左右に視線をやった。結果はどうだ? うすのろの馬鹿どもめ。これでダメなら、それこそ天が俺たちに滅べと言っているわけだが……
村人たちが全員、危ういまでに真剣な顔をしているのが謝には見えた。どの村人も目が潤んでいて、口が震えている。数秒後に、誰かが「そうだ、そうだ」と言い始めた。すぐに声が続いた。「そうだ、謝の言うとおりだ」「天帝様にお伺いを立てよう」「周将軍の鉄刀を河に投じよう!」「みんなで今から関帝廟に行こう!」 散発的だった声はやがてひとつの騒音となってまとまった。みんなが腕を振り回し、足を踏み鳴らしていた。興奮が旋風となって広場を包んでいた。
謝が台から降りて関帝廟に向かって歩き始めると、みんなが何事かを喚きながら彼の後をついてきた。謝は誰にも見られないように満足した笑みを浮かべた。これで良し。これでこの村は救われた。彼は満足した気持ちをますます深めながら関帝廟へ歩いていった。村人たちは上手い具合に話に乗ってくれた。想定よりも少々熱狂しすぎであるような気もするが、それは思ったよりも自分に弁舌の才能があったからだろう。あの顧某よりも自分は話すのが上手いかもしれない……
謝は頭を振って考えを打ち消した。余計なことは考えるな。彼はまた考え始めた。そうだ、そうだ。弁舌の才能はともかくとして、鉄刀は必ず沈むだろう。そう、鉄が水に浮くわけがないのだ。そうすれば、村の人間たちは今は機ではないと納得して挙兵を取りやめるだろう……産まれてくるであろう我が子の顔が謝の眼前に浮かんだ。幸せそうに我が子を抱いている妻の笑顔も、彼はまざまざと想像することができた。
関帝廟に謝が着いた時には、群衆の数は千人以上にも達していた。隣村からも人が集まってきているようだった。廟の僧はすでに話を聞いていたようで、関羽の神像の隣にある周倉の像から鉄刀を取り外して待機していた。
関羽の神像は大きかった。顔は廟の暗い天井近くにあって、その表情はよく見えなかった。周倉の像はその隣に控えている。僧が厳かな祈りをあげ、群衆たちもまた祈った。村から米麦の俵、金銀の粒、繋げられた銭、布や絹といった捧げものが運ばれてきて、二つの神像の前に供えられた。酒と肉も捧げられた。群衆たちは一心に祈っていた。謝もまた祈っていたが、彼の祈りだけは違っていた。彼はすでに感謝の祈りを捧げていた。関羽様、周倉様、村をお救いくださりありがとうございます。彼は心の底から満足していた。
祈りは終わった。そして、ついに鉄刀が河に投じられる時が来た。重さ二十斤もあるその鉄刀は、村の数代前の鍛冶師がその頃蔓延していた疫病の終息を祈って関帝廟に奉じたものだった。鉄刀は大きく無骨な造りでこれといった技術的な特徴はなかったが、そのことが却って関羽の腹心であった周倉という武将の実直な性格をよく反映しているようだった。
河は普段と何の変りもなく流れていた。空ではすでに日が傾きかけていた。黄色い陽光が水面で反射して波を伽藍のように飾り立てている。鉄刀は重かった。僧が二人がかりで鉄刀を持ってきて、それを河へ投じようとした。今や数千人にも数が膨らんだ群衆はそれをじっと見守っていた。熱気を孕んだ静寂の中で、河の流れる単調な音だけが響いている。二人の僧の間近に謝は立っていた。
突然、誰かが口を開いた。「僧ではない! 鉄刀は謝が投じるべきだ!」 一瞬、謝は何を言っているのか分からなかった。だが、周りの者たちは次々に同意の声をあげていった。「そうだ、謝が投じるべきだ!」「これは謝が言い出したのだから、謝がやるべきだ!」「謝ならば良いだろう!」「謝よ、やってくれ!」 謝は呆然としていた。そして、ようやく周囲の者たちが言っていることを理解した。思わず、彼は逃げ出したくなった。しかし、そうするには周りにあまりにも人が満ちていた。
湧き起こった声を聞いて、二人の僧はちょっとだけ互いの顔を見合わせたが、すぐに納得したように頷き合うと、すぐそばに立っていた謝に向かって鉄刀を運んできた。二人の僧は無言で謝に鉄刀を渡した。謝は受け取りたくなかったが、そういうわけにもいかなかった。鉄刀はずっしりと重かった。謝は思わずそれを取り落としそうになった。
片方の手だけで持つことができず、謝は両手で支えるようにして鉄刀を持った。周囲では声が満ちている。熱病に冒されているかのような足取りで、彼は河へと進んでいった。そこには一艘の小舟が用意してあった。若い男が漕ぎ手として乗って、謝が来るのを待っていた。ふらふらとしながら謝は舟に乗り込んだ。
舟は河の中ほどへ進んでいった。ここに至って、謝はやっと正気を取り戻したような気がした。大丈夫だ。彼は思った。大丈夫だろう。予想外の展開になってちょっと頭がぼんやりとしてしまったが、どうせ結果は同じだ。誰が河に投じようが鉄刀は鉄刀に過ぎない。そうだ、沈むに決まっている。気にすることはない。ただ、自分は鉄刀を河に投じれば良いのだ。
漕ぎ手の若者が櫓を操っているのが謝の視界に入った。若者の腕の筋肉はよく発達していた。浅黒く日焼けした肌に汗の粒が浮かんでいた。周囲に視線をやると、どこにも人が満ちていた。河岸にも、向こうの丘にも、船着き場にも、どこにも人がいた。みんなが謝の乗っている舟を見ていた。
若者が「ここで良いでしょう」と言った。そこはちょうど河の真ん中だった。謝は鉄刀を持って立ちあがった。岸にいる群衆たちが途端に静かになったのが分かった。無数の視線が注がれているのを彼は感じた。彼は、すぐにでもそれを投じようと思った。彼は船べりに立つと、鉄刀を水面の上に掲げた。
どうせ結果は同じだ。さっさと投じてしまおう。
その瞬間、謝は何か嫌な予感がした。とてつもなく嫌な予感だった。謝は自分の心の中で、自分ではない自分が、決して鉄刀を投じてはならないと言っているのを聞いた気がした。その次になぜか、関帝廟の関羽と周倉の神像の顔が脳裏によぎった。二人の神はどこか悲しげな顔をしていた。このうえなく痛ましいものを見るような目をして、関羽と周倉は謝のことを見つめていた。
だが、投じないわけにはいかないのだ。謝は思った。なぜなら、鉄刀を投じよと言ったのは、この自分なのだから。謝は鉄刀を河に投げ込んだ。熱いものを手放すかのような手つきだった。
沈むはずだった。沈まないはずがなかった。この世はそのように成り立ってはいないはずだった。
だが、鉄刀はそこにあった。鉄刀は浮いていた。泡のように、魚のように鉄刀は浮いていた。
若者がひゅっという間抜けな音を立てて息を呑むのが聞こえた。謝も、自分が見ている光景が信じられなかった。しかし、鉄刀は確かに水面に浮かんでいた。ゆらゆらと、まるで一片の芭蕉の葉のように、鉄刀は波に揺られて流されていく。
沈まない。どこまでいっても沈まない。謝は目で追い続けた。鉄刀はどこまでも流されていく。奇跡を目の当たりにして驚き、歓喜し、興奮した群衆たちが、喉も張り裂けんばかりに歓声を爆発させるのが、舟の上にも聞こえてきた。
鉄刀は浮かんだまま、しだいに河下へ流れていった。岸の上で、子どもたちがそれを走って追いかけていくのが見えた。一連の出来事をその目で目撃し、満足した群衆たちは、それぞれ村に帰っていった。
群衆たちが半ば去った河岸に、謝の乗った舟は着いた。謝は悄然として舟から下りた。
打ちひしがれて、誰とも話すことなく、謝は沈みかけた太陽に照らされて村へと帰っていった。孤影には誰も付き添っていなかった。
鉄刀の話は瞬く間に周囲一帯に広がっていった。それまで決断をしかねていた村民たちも、ここに至ってついに態度を決めた。常熟と無錫の二邑の民全員が、顧を指揮官として決起した。その数は数万人にも及んだ。
一週間も経たずして、清朝の王師の軍勢がやってきた。軍勢は強力で獰猛だった。瞬く間に、数万人の決起者たちは余すところなく殲滅された。顧は捕らえられて斬首された。
流されていった鉄刀のゆくえを知る者は、誰もいない。
(「鉄刀」おわり)