フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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3. 虫

 その存在に気づいたのは、引っ越しをしてから三日ほどが経ってからだった。

 

 できることならもっと早く気づきたかったが、あるいは状況から考慮すればもっと遅く気づいた可能性もあるため、これでも早めに気づいたというべきなのだろう。(もっと)も、早めに気づいたからといって私に何か特別なことができたとも思えない。

 

 見れば見るほどに、その存在は奇妙だった。奇妙というよりもむしろ不気味で、不気味というよりも哀れな見た目だった。哀れな見た目ではあるが、憐れみの感情は催さなかった。むしろ嫌悪感が湧いた。だが、人の場合と同じく、重要なのはやはり見た目ではなかった。この世のすべてのものは、まず第一義的に、それが何をもたらすかという観点から評価されるべきだった。そしてそれは、私に対して何も善いものをもたらさなかった。

 

 引っ越し後にお決まりの退屈な諸々の手続きも終わり、週末になってまとまった時間を得た私は、ようやく全ての段ボールを開き、その中身をとりあえず適当な収納場所へ放り込むことができた。こういうのはとにかく段ボールという存在を抹殺することが先決だと私は知っていた。引っ越し後にいつまで経っても段ボールが残ってしまうのは単なる怠惰のためか、あるいは完璧主義のせいだった。ということは、怠惰と完璧主義とはそのもたらす結果において非常に近似していることになる。

 

 時刻はすでに夕刻になっていた。春の夕暮れは物悲しく、外には冷たい風が吹き始めていた。私は空腹だったが、食事をする気は起こらなかった。

 

 段ボールがなくなった部屋は広々としていて、思った以上に何もなかった。机が一つ、椅子が一つ、デスクトップパソコンが一台、パソコンの周辺機器、折り畳み式のベッド、折り畳み式のテーブル、カラーボックス、何冊かの本……キッチンには電子レンジと冷蔵庫、風呂場には洗濯機がある。アパートは大学の近くにあって、築年数は三十年ほど経っていた。最近リノベーションをしたのか、クリーム色をした外観はなかなか悪くなかった。風呂、トイレつきの1Kとしては家賃も安かった。大学院生が一人で住むにはかなり贅沢な住まいと言えた。

 

 私は、もう少し時間が経ってから食事をすることにした。カッターナイフとビニール紐を使ってダンボールを重ねて束ねた後、私はそれを持ってアパートの外廊下へ出て、ボロボロに錆びていて一段毎に異音を発する階段を降りてゴミ捨て場に行った。外気はますます冷たさを増していた。遠くの山は闇に沈んでいた。顔に数滴の雨粒が当たるのを感じた。この分だと、今日は食事に行けないだろうと私は思った。雨を冒してまで食事に行く気力が私にはなかった。引っ越し直後のことゆえ、冷蔵庫には何もなかった。

 

 ゴミ捨て場は簡素な金属製の箱で出来ていて、上に蓋を開くと蝶番(ちょうつがい)が不安なほどに(たわ)むのが見えた。私はゴミを捨てた後、アパートの向かいにある老人保健施設の入口付近にある自動販売機まで行き、コーラを二本買って、それをポケットに突っ込んでから部屋へと戻った。これでは到底食事の代わりにはならないが、言い訳にはなると私は思った。何に対する言い訳であるのかは、私自身も分からなかった。

 

 部屋に戻って電気を付けた時、私はすぐに異変に気が付いた。奇妙な臭いが漂っていた。臭いというほどにはっきりとしたものではなかったが、それは確かに私の嗅覚に対して何かしらの反応を促していた。最初は梅の花の香りだと思ったが、次第に鼻が利いてくるにつれて、夏の鮮魚店の店先の生臭さへと変化し、最終的には石油の臭いになった。新居に対するストレスが嗅覚の異常となって表れたのかと思い、私はしばらくその場にじっとして様子を見た。だが、臭いはいよいよ濃くなるばかりで一向に薄れなかった。

 

 私は臭いの原因を探ってみることにした。幸い、探すべきところはさほど多くなかった。キッチンとトイレ、風呂を探す必要はなかった。この部屋に入った瞬間にその臭いがしたのだから、原因は明らかにその部屋にあるに決まっていた。

 

 机の下、上、椅子の裏側。なにもない。テーブルの下、ベッドの下、カラーボックスの裏、なにもない。押入れの中、押入れの中の衣装ケース。なにもない。なにもないことを知っていて私はそれらを調べていた。調べながら、私は別のことを考えていた。だが、依然として臭いは漂っている。石油の臭い、馴染みのある異様な臭い……好きになれないのに、なぜか惹かれる臭い。

 

 ふと気づくことがあって、私はカラーボックスの中に雑然と突っ込んである本を調べることにした。買ったばかりの文庫本を取り出し、大判の学術書を何冊か除けて、一番奥で横倒しにして置いてあった一冊の古びた洋書へと私は手を伸ばした。

 

 この洋書は大学の研究室の書棚の奥で埃を被って眠っていたのを、私が許可を得て持ってきたものだった。分厚くて重い、大きな本だった。ギリシャ語で書かれているその本は表紙がなく、ページも欠落していて、タイトルも著者も分からなかった。そして、これは特別不思議なことではなかったが、研究室の蔵書目録にもこの本の記録はなかった。暇な時にでも調べてみようと思って、ほぼ譲り受けるような形で引き取ってきたのだが、調査はまったく捗らなかった。本文に書かれているギリシャ語の文章をいくつかネットで検索をかけてみたところ、どれも部分的にしかヒットしなかった。そもそも私はギリシャ語がそれほど得意ではなかった。

 

 私は本を床に置くと、ページを(めく)り始めた。ページはかなり乾燥していて、捲るたびに指には表面から剝離した何かの粉が付着した。本そのものもかなり脆くなっていて、ただ捲るというその単純な動きだけでも背表紙からページが脱落しそうになった。

 

 私はより慎重に、さらにページを先へと進めていった。私にはある予感がしていた。それは何かがこの本の中にいて、その何か、「それ」が臭いの元凶であるという、そういう予感だった。というのはこの本を手にした瞬間、あの石油の臭いが急速に薄れ始めたからだった。あたかも私という捜索者の存在を怖れて、「それ」が身を隠すために慌てて臭いを消し始めたようだった。

 

 そして、本の中ほどまで来た時に、突如としてそれが姿を現した。

 

 そのページを捲った瞬間それは飛び出してきて、私の眼前を飛び去った後、部屋の真ん中に音もなく着地した。

 

 薄い電灯の光に照らされたその姿は、やはり形容しがたいものだった。全体的に、それは四角形だった。長方形をしていて、直立していた。体はごく薄かった。紙と同じくらい薄かった。というよりも、それはほとんど紙そのものだった。大きさはA4版ほどあった。頭はない。ただ、目のようなものが胴体に——それを胴体と言って良いのだったら——ついている。蛾の眼のようだった。目の部分だけが膨らんでいた。ページのような胴体の下端部には黒くて細い脚が生えていた。八本か十本……あるいはそれ以上生えているようだった。何本か脚が千切れて床に落ちていた。着地の衝撃で脚が脱落したようだった。

 

 虫だ。私はそう思った。これはどう見ても本のページのようにしか見えないが、やはり虫だ。私はしばらくその虫を見続けた。虫も、その昆虫の複眼のような目を上下左右にせわしなく動かして、私をじっと見てきた。虫がどのような感情を抱いているのか、私には分からなかった。だが、次第にまたあの臭いが濃くなってきた。私は、臭いがその虫の口から——それを口と呼んで良いのかは分からなかったが——漏れていることに気づいた。ごく薄く開かれた三日月形の口は、左目の真下にあった。ちょっと見た感じでは、ペンで擦った跡のようにしか見えなかった。

 

 私は何もせず、何も動かなかったが、その虫は突然動き始めた。何本もある脚を動かして、虫は部屋の隅へと逃れようとした。しかし、ラグも敷いていないツルツルとしたフローリングの床をその頼りない造りの脚で歩くのは難しかったようで、虫は何度も転倒した。無様な転び方だった。転ぶたびに脚が何本か脱落していった。そして、四回目か五回目に転んだ時、虫はすべての脚を失ってしまって、起き上がることもできずにその場で悶え始めた。

 

 その姿を見ていると、唐突に私の中で怒りにも似た感情が生まれた。

 

 私はこの虫を傷つけようと思ったわけではない。ただ見ていただけだった。それなのにこの虫は私のことを一方的に脅威と見做し、逃げ始め、今ではこうしてすべての脚を失って倒れている。事実としてはそうではないかもしれないが、私はそのように解釈した。それに、風に吹かれたチラシとまったく同じようなその悶え方からは、なんとなく私に対する抗議の意図が感じられた。お前のせいだ。そのように言っているように感じられた。脚が千切れたのは、紛れもなくお前のせいだ。虫はそう言っているのではないか? 石油の臭いはさらに強くなっていた。そのこともまた、虫が私のことを糾弾している証拠であるように思われた。

 

 潰してやろうかと私は思った。バラバラにしてやりたい。だが、それ以上に嫌悪感が優った。この手で直接触れたくはなかった。そういう点でも、やはりこれは虫と同じだった。それに、どうやって潰せば良いのか私には分からなかった。素手で直接潰すにしても、この虫は少々大きすぎた。

 

 どうしようかと思案しているうちに、虫は動きを止めていた。これも擬死の一種か何かだと思い、私はしばらく触れないでおいた。一分ほど経ち、さらに五分ほど経った。私は身じろぎ一つせずに見ていた。虫はまったく動かなかった。次第に、虫の体は黒ずみ始めた。私は、虫は本当に死んでしまったのかもしれないと思った。ちょっと手を伸ばして、私は指先で虫の体の表面を撫でてみた。動くだろうと私は思った。だが、虫は動かなかった。指に黒い粉が付着した。鼻に近づけてみると、粉からは微かに石油の臭いがした。

 

 私は虫を捨てることにした。先ほどまでは怒りの念を覚えていたが、今では妙に悲しかった。なぜ死んだのかと思った。そして、やはり私が殺してしまったのだろうと思った。大きすぎてティッシュで包んで捨てるわけにはいかなかったため、私は余っている大型封筒に虫を入れることにした。

 

 もしかしたら……と私は考えた。この虫は何かの表象だったのかもしれない。現実は現実でしかなく、寓意的な解釈の余地などないが、しかしこの虫は現実にしてはあまりにも暗示的だった。ただし、虫はどこまでも薄っぺらかった。従って、私が寓意的解釈を突き詰めたところで出てくるのは薄っぺらいものでしかない。私は思考を打ち切った。封筒を手に取って、死んだ虫の方へ視線を転じた。

 

 その時、床の上で開かれたままのあの洋書が私の目に入った。

 

 洋書から、虫が続々と出現していた。

 

 虫はどれもまったく同じような見た目だった。何本もある脚を小刻みに動かして、蛾の複眼のような目を上下左右に揺らしながら、虫たちは本の中から音もなく出てきていた。何匹いるのかは分からなかったが、おそらくその洋書のすべてのページと同じだけの数がいるのは確実だった。

 

 本から出てくるや否や、虫たちは私の存在に気づき、怖れに駆られたかのように部屋の中を逃げ回り始めた。見る()に脚が千切れて、切り落とした髪の毛のように床の上に散らばった。

 

 瞬く間に、耐え難いほどに濃い石油の臭いが部屋に充満した。薄っぺらい寓意的解釈が部屋に満ち満ちていた。

 

(「虫」おわり)




やっぱりカフカのようにはいきませんね。変な生き物とか変な虫を書かせたらカフカは超一流です。それにしても、今回も4,400字ほどになってしまった……
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