フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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31. 狐

 (さむらい)は、その日も夕暮れになってから官邸の(たち)を出た。溜息をつきながら、とぼとぼとした足取りで、侍は家路を歩いていった。侍は馬に乗っていなかった。彼の馬は数日前から左前脚の蹄に出来物ができていて治療中だった。歩くこと自体は、侍は嫌いではなかった。彼が溜息をついていたのはもっと別の理由からだった。

 

 今日の勤務もさほど面白いものではなかった。侍は空を見上げた。甲斐国(かいのくに)の空は山に区切られて狭かった。四周はみな背の高い山に囲まれている。侍の勤務先である国守(こくしゅ)の官邸は山間の平原の北の方にあった。官邸の建築は実用的で戦闘にも耐えうる頑丈さを誇っていたが、ここ数年の間は戦争らしい戦争もなかった。

 

 どう考えても道理に合わないことだ。しきりに侍はそのようなことを思っていた。ほっそりとした顔には濃い(うれ)いの感情が浮かんでいる。くたびれた烏帽子(えぼし)はどこか傾いていた。侍は考え続けた。国守の言っていることはどうも道理に合わない。だが、国守は道理を超えてでもやらねばならぬことがあるという。道理というものを真に尊ぶ者であるならば、時には道理を破ってでもそれを断行をするものだ。それが畢竟(ひっきょう)道理を守ることでもある……今日は国守からそのような観念的で抽象的なことばかり侍は聞かされた。いつものことだと言えばそれはいつものことではあった。

 

 侍としては、なぜ隣の新興開発地の村を襲撃して火をつけることが道理を守ることになるのか、どうしても理解できなかった。それはどう考えてもただの暴力行為としか思えない。その村の主がどこか反抗的で、国守に対して適切な「挨拶」を欠いているのだとしても、何も村そのものを焼き討ちにするには当たらないではないか。侍はまた溜息をついた。仮に焼き討ちすることが道理にかなうのだとしても、この自分がその襲撃の責任者として任命されたのは、もっと道理に合わないことだ。溜息が止まらない。

 

 襲撃は二日後だった。こういうのは早ければ早いほど良いのだと国守は小声で侍に言った。延期すればするほど向こうに察知されることになる。バレると困るぞ。なにせこっちだってそんなに兵力が多いわけではない。顔を寄せてきた国守からはうっすらと酒の臭いがした。お前、何騎(なんき)動員できる? それまで数時間にもわたって観念的で抽象的な話ばかりを聞かされていたのに、いきなり具体的で実際的な話をすることになったものだから、侍の頭脳は混乱した。侍はぼんやりとした頭で答えた。はあ、私を含めて五騎ってところですが、それが全力です。思ったより少ないな。徒歩(かち)の兵は何人だ? 十人ってところですね。これも全力で。そんならたったの十五人だろ? やっぱり向こうの村と比べたら小勢だ。だから、なるべく奇襲する必要があるんだよ。奇襲の基本って言ったら夜討ちか朝駆けだぞ。お前、ちゃんと計画を練るんだぞ。二日後だからな。

 

 道理に合わないことだ。侍は個人的にその村の主のことを知っていた。若くて精気に溢れており、親切で、仕事好きな男だった。いつも爽やかな笑顔を浮かべている。前はどこかの国で侍をやっていたらしいが、この甲斐国(かいのくに)が土地付きで新規就農者を募集しているという話を聞いて、仲間と家族を引き連れてやってきたらしい。前に侍は村の主と一緒に酒を飲んだことがあった。あなたのところの国守様ですが、どうやら私のことが気に食わないようですね。村の主は直截(ちょくせつ)簡明な言動をした。いえ、そのようなことは。侍が口ごもると、主は笑って言った。いえいえ、気に食わないのは大いにけっこうですよ。これからは私のことを気に入らざるを得なくなりますからね。私の村はこれからどんどん大きくなりますよ。

 

 たかが一つの新興開発地の主のくせに、どうもその口調は不遜だった。確かに今は実力らしい実力などないが、本来的な能力で言えば自分はここの国守(こくしゅ)よりも数段優れているんだぞ。そういう雰囲気が主の言葉の端々(はしばし)から漂っていた。あなたも勤め先を考えた方が良いですよ。酔いが深まってくると、主はそんなことを言い始めた。あるいはどうしても勤め先が得られないならば、自分が主となって起業した方が良い。はあ、そんなものですかな。そうですよ、その方が精神的に楽になります。この私を見てごらんなさい。今はこんなにも充実して溌剌としているではないですか。ただの侍だった頃はもっとくすぶっていましたよ。あなたも是非、勤め先を考えるべきだ……

 

 充実して溌剌としているというよりは、無神経で無遠慮なのではないだろうか。侍はそう思ったが、黙っておいた。どう考えてもたぶん酒のせいだろうと侍は思った。本来はもっと慎み深くて思慮もある性格をしているに違いない。酒のせいであのような不遜な態度を示したのだ。不飲酒戒(ふおんじゅかい)とはよくいったものだ。あるいは、もしかしたら酒があの主の隠れていた本性を剥き出しにしたという可能性もあるが……それはただの憶測だ。だからたぶん、酒でおかしくなったと考える方が良い。

 

 侍は勤め先を変えようとは思っていなかった。国守(こくしゅ)は理屈っぽい上に話が長く、そのくせ非常に暴力的だが、部下に対してはけっこう情に厚いところがあり、何より上の人間にとって最も必要で重要な決断力がある。職場の人間関係も良好で、仕事を進める上で何の支障もない。それに今は、新しく家を建てたばかりだった。新しい家で妻が待っている。仕事を終えたら、まだ削りたての木材の匂いが漂う家に帰って、妻と一緒にちょっと酒を飲む……妻も、新しい家も、彼は大好きだった。

 

 しかしいくら命令とはいえ……侍の思考はやはりそこに戻ってくるのだった。あの村の主はたぶん、自分と同年代だろう。同年代なのに随分な違いがある。ずけずけと思ったことを言うし、仕事は有能だし、なにより一つの村を持っているし……それに対して自分はただの勤め人に過ぎない。戦闘ということになったら、まあおそらく自分が勝つだろうが、侍の仕事はそれだけではない。いや戦闘こそ侍の本分ではあるのだが、それ以外にも重要な仕事はある。経営とか、管理とか……あの村の主は、多少はムカつくが、やはりそういう面では有能で良い奴だと思う。その主の村を焼くというのは……いくら業務上の命令とはいえ……気が進まない。道理に合わないことだ。

 

 (カラス)が鳴き始めていた。真っ赤な夕陽が西の山へと落ちていった。周りはすべて燃えているようだった。カラスの鳴き声を聞いているうちに、侍は、結局は二日後にあの村を焼くことになるのだろうと思った。そして多分、仕事は上手くいく。そういう荒っぽいことに関して自分に特別な能力があることを侍は分かっていた。また、そういう能力があるからこそ国守が自分にそのような命令を下したのだということも、侍には分かっていた。だが……やはり道理に合わないことだ。侍の影は遠く長く伸びていた。道理に合わないと思ったまま、自分はあの村を焼くことになるのだろう。侍は歩き続けた。

 

 村の主はどうなるのかな。死ぬのかな。侍は思った。死んだ方がマシかもしれないな。一から築き上げてきたものが、炎で燃えてしまうのだったら。

 

 家まであと半分ほどの距離まで来た、その時だった。

 

 道の脇の草むらから、何かが飛び出してきた。その時もとりとめのない思考の渦に飲み込まれていた侍は、ちょっと虚を衝かれた形になった。それでも彼は戦闘を本務とする者だけあって、すぐに身構えることができた。

 

 飛び出してきたのは、一匹の(キツネ)だった。狐はやや小さく丸っこくて、夕陽を浴びてやや赤っぽくなった黄色い毛は艶々(つやつや)としていた。耳は長く、尾もふさふさとしていて、全体的にみて非常に健康的な雰囲気を纏っている。狐は何が面白いのか、草むらから飛び出してきた後もすぐに身を隠すことなく、道の真ん中でなにやら身を(よじ)らせて遊んでいる。まだ若い狐だな、と侍は思った。親離れをして巣から出てからまだ一ヶ月も経っていないのかもしれない。

 

 観察を続けながらも、侍は背中に背負っている弓と(えびら)に手を伸ばしていた。それはまったく習慣的で無意識的な動きだった。自分がそうしているということすら侍は自覚していなかった。(えびら)の中には一本の引目(ひきめ)の矢が入っていた。引目とは響目(ひびきめ)の略である。射る時に高い音を響かせるからこのようにいう。つまりこれは鏑矢(かぶらや)の一種であった。引目ではあるが割としっかりとした鏃がついている。

 

 侍は魔除けとしていつもこの矢と弓を持ち歩いていた。大小の刀よりも、彼は自分の弓術の腕前に自信を持っていた。事実、侍はこの甲斐国(かいのくに)でも有数の弓矢の腕前を有していた。

 

 侍はごく無造作な手つきで弓を手に取り、引目(ひきめ)の鏑矢を(つが)えると、それを狐に向けて放った。すべては数秒のうちに行われた。放たれた矢が鏑矢(かぶらや)特有の甲高い音を発しながら、まだ路上で遊び続けている狐に向かって突進していくのを見て、ようやく侍は、ああ、自分は弓を射ったんだなと思った。小さい頃から身に染み込んでいた習慣……狐、犬、兎といった野の獣を見たら、とりあえず弓矢で射ってみること。そういう習慣を常に実践してきたから、彼は侍として勤務することができているのだった。今回は、その習慣が誤作動を起こしたという形だった。

 

 悪いことをしたなぁと侍は思った。ただ遊んでいるだけだったのに。そう思った直後、引目(ひきめ)の鏑矢は狐に命中していた。狐は悲鳴を上げて、その場に飛び上がった。そして、地面に落ちると動かなくなった。死んだかな、と侍は思った。引目(ひきめ)の鏑矢の殺傷能力は低いが、それは相対的な話に過ぎない。当たればやはり死ぬこともある。悪いことをしたなぁ。侍は溜息をついた。殺す気もないのに殺してしまったのは、やはり道理に合わないことだった。侍は、せめて肉と皮を利用してやろうと思った。彼は倒れたままの狐に歩み寄った。

 

 あと数歩という近さに来た時だった。狐が突然飛び上がった。侍の顔の高さにまで狐は跳躍していた。肩に引目(ひきめ)の鏑矢が浅く突き刺さっていて、少しだけ血が出ているのが見えた。良かった。息を吹き返したんだなと侍は思った。次の瞬間、跳躍の頂点に達した若い狐が、自分に対してぞっとするほど冷たい視線を放っているのに侍は気づいた。心の底まで凍り付かせるような、憎悪と怒りに満ちた目だった。侍は軽く身震いをした。身震いをしている間にも、肩に矢が突き刺さったままの狐は走り出していた。

 

 狐は、どういうわけか侍の家へ向かって走っているようだった。しばらく侍は呆然としてその場に立ち続けた。

 

 偶然だろう。そのように思いつつも、侍は狐を追いかけて走り始めていた。偶然に決まっている。馬に乗っていれば、とっくの昔に追いついているところだった。燎原(りょうげん)を焼く真っ赤な炎のように狐は走っていく。太陽はほとんど没しかけていて、闇に包まれつつある視界はあまり良くない。馬に乗ってさえいれば。侍はそう思った。だが、今日はあいにく徒歩だ。なんでこんな時に限って? 侍は息を切らしながら走り行く狐を追いかけ続けた。偶然だろう。偶然に決まっている。そのように侍は()いて思い込もうとした。

 

 だが、それならばなぜ、狐はまっすぐ俺の家へと走っていくのだろう? まるで、俺に対して何か復讐しようとしているようだ。

 

 侍は、ついさっき自分に向けられた視線を思い出した。人間同士の戦闘の最中でもなかなか見ることができないほど、強い感情の込められた眼差しだった。

 

 侍はふと、以前聞かされた話を思い出していた。それはいつか国守(こくしゅ)が官邸で話してくれたものだった。これは、かつて藤原仲麻呂の政権を転覆することを謀った(たちばなの)朝臣(あそん)奈良麻呂(ならまろ)の話だが……奈良麻呂は大胆不敵かつ豪胆な精神の持ち主で、学問や詩歌よりも武術に熱心だった。特に弓術を好んでいて、その実戦練習としてよく奈良山へ出かけた。奈良山には狐が多く生息していた。

 

 ある日、奈良麻呂は狩りの途中で狐の仔が五匹、日向(ひなた)に出て楽しそうにはしゃぎ合っているのを見つけた。よせば良いのに奈良麻呂はご丁寧に五匹をすべて捕らえると、残酷にも口から肛門にかけて太い木の枝を貫き通し、見せしめにするように一匹ずつ狐の巣穴の入口に立てかけておいた……なぜそんな酷いことをわざわざしたんですか。侍がそのように問うと、国守は分かっていないなぁというような顔をして言った。そりゃ、それが奈良麻呂(ならまろ)なりの詩情(ポエジー)だったんだろう。そうせずにはいられなかったんだ。

 

 それで、まだ生きたまま串刺しになって晒されている五匹の我が子を、狩りを終えて帰ってきた母狐が目撃した。母狐は激怒して、必ず奈良麻呂(ならまろ)に復讐してやろうと決意した。奈良麻呂にはちょうどまだ乳飲み子の息子がいた。山を下りた母狐は祖母の姿に化けると、館に入り込んで、乳飲み子を抱き上げて、自分の巣穴の入口まで連れてきた。そして、我が子ども五匹がされたのと同じように、太い木の枝を使って奈良麻呂(ならまろ)の息子を串刺しにした。すでに死んでいる息子たちの前でそれを晒し者にして、母狐は恨みを晴らしたという……

 

 国守はここまで話すと、狐は怖いぞと言った。狐は頭が良くて人の言葉を解するから、下手なことをやると復讐される。だから狐を狩る時は一気呵成に、確実に息の根を止めるようにしなければならん。この話の教訓としてはすべての生き物に対して慈悲の心を持て、なんてところだろうが、俺としては違うね。狐は怖い。それだけで良いじゃないか。狐は怖い。なにせ、人間に対して恨みを抱いて復讐するんだからな。そうさ、復讐の感情っていうのはやっかいなものだ。一度抱いたが最後、それを絶対に晴らさずにはいられないのだからな……その後、奈良麻呂(ならまろ)はいったいどうなったんですか、と侍は国守に聞いた。国守はあまり興味がなさそうに答えた。ああ、陰謀が発覚して刑死したよ。斬首されたとかなんとか……

 

 ますます暗くなっていく空間の中を、狐は走り続けている。侍も走り続けていた。通常の人間ならばとっくの昔に体力を使い果たしているところだが、流石に彼は戦闘者としての修練を積んだ人間であるから、まだ走り続けることができていた。途中、狐の肩に突き刺さっていた引目(ひきめ)の矢が抜けて地面に落ちた。侍はそれを拾い上げたが、その間にまた距離が広がってしまった。侍はなおも狐を追い続けた。

 

 家まであと四町(約400メートル)五町(約500メートル)のところまで来た。日は完全に沈んでいた。黄色い狐がなにやら恨みを含んだ亡霊であるかのように薄闇の中を一直線に突き進んでいく。なかなか追いつけないことに侍は焦りを覚えた。だが、闇の中で転倒して捻挫などをしないように、彼は少しだけ歩度(ペース)を落とさざるを得なかった。狐はもう二町(約200メートル)先にいた。

 

 突然、狐が火の玉になったのが見えた。侍は目の錯覚を疑った。だが、間違いなく狐は燃えていた。

 

 それはさながら真っ赤な炎の塊だった。何かに火をつけられたからそうなったのではなく、狐そのものが火になったようだった。すでに長い距離を走っていたために、侍の体は温まって汗もかいていたが、それでも背筋に冷たいものが走るのを感じた。火の玉になった狐はさらに速度をあげて道を走っていく。あと数分もしないうちに狐は侍の家に到達するだろう……道に点々と火が燃えていた。雑草に火が燃え移っているのだった。空中には(ほたる)のように火の粉が舞っている。

 

 前に国守(こくしゅ)が話していたことを、また侍は思い出していた。狐は怖いぞ。狐は人に化けることができる。三善(みよし)清行(きよつら)が編んだ『善家秘記(ぜんけひき)』には賀陽(かやの)良藤(よしふじ)という男が人間の女に化けた狐を娶る話がある。この手の話はどこにでもあるな。それから、(から)の国では狐が人に化ける話だけではなく、口から火を吐いたり、尻尾を火打石のようにして火を起こしたり、馬の骨を叩いて火をともすなんて話もあるらしい。狐は唐の国では祥瑞(しょうずい)の獣だ。貴人は狐の腋の毛皮で着物を作る。だが、狐はそれ以上に怖い生き物なのだ。狐は火を起こすからな。

 

 狐は火を起こすからな。国守のその言葉が、その時侍の頭の中で反響していた。

 

 はあ、そうなんですか。その時の侍は、あまり興味もなく国守の話を聞いていた。今となってはもっと真面目に話を聞いておくべきだったと侍は思った。国守は何と言っていたっけ? 狐は古来、五行(ごぎょう)思想では土徳(どとく)の動物とされている。毛の色が黄色で、黄色というのは土気(どき)の色であるからそう言われているらしい。五行循環の思想における相生(そうじょう)の原理でいうと、土というのは「火生土(かしょうど)」だ。だから火と土徳の動物である獣には深い関係があることになる……

 

 しかし、それはちょっと話がおかしいんじゃないですか? その時、侍は自分が国守にツッコミを入れたことを思い出した。「火生土(かしょうど)」というのは文字通り、「火が土を生じる」という意味でしょう。それならば火が土である狐を生むという意味になるはずです。その逆ではありません。狐が火を吐いたり、起こしたりするというのは、論理的には逆になっているのではありませんか。国守は面倒くさそうな顔をした。お前、見た目によらず、けっこう細かいことを気にする奴だなぁ。とにかく、狐っていうのは怖い生き物だと思っておけば良いんだよ。狐と火には強い関係がある。だから狐火(きつねび)なんて言葉もあるんだ。狐には気を付けろよ……狐は火を起こすからな。火生土(かしょうど)だよ。それが道理というやつだ。

 

 侍は回想を打ち切った。その時にはもう、狐日は侍の家に到達する寸前だった。もう、捕まえることはできない。ついに奴には追いつけなかった。

 

 だが、奴を止めることならばできる。

 

 侍は決断した。彼は立ち止まると、弓を手に取った。さっき拾った引目(ひきめ)の矢を番えると、引き絞って、侍はじっと狙いをつけた。闇はますます濃くなっていたが、二町離れた狐火はしっかりとその目で捉えることができた。まるで、当ててくださいと言わんばかりに光り輝いている。自分の腕前ならば、この距離でも当てることができるはずだ。

 

 必ず命中するという信念を持って、侍は矢を放った。甲高い音を立てて引目(ひきめ)の矢が暗闇の中を驀進していく。炎を纏った狐はその時、男の家に到着していた。狐は体をこすりつけて火を放とうとしていた。

 

 矢は狐に命中した。今度こそ確かな手応えを侍は感じていた。ここからはっきり見ることはできないが、矢は頭部の眉間、急所中の急所に命中したはずだった。

 

 なんとか狐の復讐を阻止することができた。侍はほっと胸を撫でおろした。遠くから狐の悲鳴が上がるのが聞こえた。

 

 束の間の沈黙の後、狐火は大爆発を起こした。

 

 雷よりも凄まじい爆音の後、真っ赤な炎と黒い煙が巨大でいびつな(キノコ)の形となって、早くも星が出始めた夜の空へと立ち昇っていく。男の家と、男の馬が飼われている厩舎、男の家の近所の家々、井戸、倉庫や店などはすべて炎と爆風によって吹き飛ばされた。二町離れたところからでも、顔の皮膚を焼くほどに膨大な熱気を感じることができた。

 

 呆然としながら侍は自分の家へと駆けつけた。炎の海の中で人々が逃げ惑っている。生きたまま厩舎の中で焼き殺されていく馬たちの断末魔の嘶きも聞こえてくる。燃え盛る家の中から、侍の妻が半裸の状態になって逃げ出してきた。侍に抱き止められた妻は、荒い息をしながら侍に言った。いったいなにが起こったのでしょう? 空から炎でも降ってきたのでしょうか?

 

 露わになっている白い肌に、真っ赤な炎が映りこんでいる。妻が無事だったことに安堵しつつ、侍は言った。いいや、狐だよ。狐が爆発したんだ。狐が大爆発しやがった。

 

 何を言っているんだ、この(おっと)は? そのように言いたそうにしている妻の視線を受けながら、侍はどこか自分が安堵しているのを感じていた。

 

 これで、二日後の襲撃には参加しなくても良くなったな。馬も(うまや)も燃えてしまった。というより、全財産を失った。しかし、どこか清々しい気持ちもする。いや、せいせいしたという感じか。

 

 国守には、狐が爆発したので無理ですと言っておこう。ほら、火生土(かしょうど)というやつですよ。これなら道理にも合っているだろう。侍は、にやりと笑みを浮かべた。それはその日において初めて浮かべた笑みだった。

 

 侍の視界の端に、今では普通の姿に戻った狐がいた。ちょっとやりすぎたかも。そういう感じのばつの悪そうな顔を侍に向けた後、狐は一目散に濃い暗闇の中へと走り去っていった。

 

(「狐」おわり)




参考文献 『宇治拾遺物語(上)』(高橋貢・増古和子訳、講談社、2018年)
『日本霊異記(中)』(中田祝夫全訳注、講談社、1979年)263頁-267頁。

今回は時間がなくてろくに構想も立てずにバーッと書いていった形です。大急ぎで書いた割にはけっこうよくまとまった内容になったのではないかと思います(自画自賛)。狐といえば狐の奥さん・狐の妻の話が多いですが、まあ私の書く狐のお話はこのようなものだということで……
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