「貘」
「前に毛人の話をしたと思うが……同じ湖北省の房山には貘という獣もいるんだ。そう、お前も知っている、あの貘だよ。いや、この貘については毛人と違って俺は実際に見たわけではない。ただ話に聞いたことがあるだけさ」
「この国においておよそ貘ほど不思議な生物はいないかもしれない、と俺は思う。不思議というのは、これほどまでにたびたび人の口の端に上り、文献に名を残し、人口に膾炙した存在でありながら、その正体についてはまったく分かっていないという点において不思議なのだ」
「たとえば最古の訓詁辞典であるあの『爾雅』の『釈獣』という項目……ああ、その名の通りで獣の名前を解説した項目だな……それによれば、貘は『白い豹』であると言われている。だが豹となると随分世間一般の想像とは異なるな。ほっそりとして精悍な感じになってしまう。漢の許慎が著した漢字字典の『説文解字』でも貘について記載があるが、こちらでは『熊に似ていて体色は黄色と黒色、生息地は蜀中である』と書かれているらしい。まあ偉そうに色々と講釈を垂れたが、俺はどちらも原文に当たって読んだことはないんだ。これも人伝に聞いたり、誰かが書いたものをそのまま受け売りしているだけだ」
「いったい白い豹なのか、それとも黄黒の熊なのか……『爾雅』には晋代に郭璞とかいう学者が注釈を加えているんだが、それによると貘は『熊に似ていて頭が小さく、脚は短い。黒白のまだらの体色をしていて、銅鉄や竹を食べる』とある。俺としてはこれが一番、俺が地元民から聞いた貘の姿に近いと思う。特に、銅鉄を食べるというところがな」
「湖北省の房山に棲息する貘は好んで銅鉄を食らうと現地の人間は話していた。ただし、人間に危害を加えることはない。危害を加えることがないといっても、それはこちらの命を奪ったり、怪我を負わせたり、病気をうつしたりしないという意味だ。経済的な意味での危害ならば充分に人間に与えてくる。なにせ貘は銅鉄が大好きだからな、犂とか鋤とか、大切な鉄製の農具を食っちまうし、刀とか斧の類も食っちまう。火縄銃とか、槍の穂先とか、そういうものも食うらしい」
「話によれば貘は銅鉄製品を『まるで腐ったもののように食べる』とのことだ。田舎の朴訥な喋り方しかできない地元民の話の中でも、この『まるで腐ったもののように食べる』という言い回しだけは気が利いていた……しかし、この言葉はいったいどういう意味なんだろうな。腐ったもののように食べる……理解できそうでできない言葉だ。まあおそらくは、腐って柔らかくなったものであるかのように固い銅鉄を食べるということだろう。城門の上を覆っているあの防護材の鉄皮も食ってしまうらしい」
「でもな、こういった話も全部『らしい』でしか語れないんだよ。俺は実際に貘を見たことがないんだからな」
「実際のところ、房山の住民たちも貘なんか見たことがないんじゃないかと俺は思っている。連中の語り方は『父方の祖母の大叔父が見た』とか、『祖父の従兄弟が見た』とか、そういうものばかりだったしな。そうだよ、きっと誰も貘なんか見たことがないんだ。あの毛人なんていう珍妙不可思議な生き物がいる房山ならば、銅鉄を食らう珍獣がいてもおかしくはないと思うが……やはり貘は伝説の類に属する存在なのだろう。誰もが知っているのに、誰も見たことがない。それが貘だ」
「最近刊行されたばかりの段玉裁の『説文解字注』では貘は今も四川省にいると言っているらしいが……どうもこじつけじゃないかなと俺は思う。そう、段玉裁は貘とは四川省にいる熊猫のことだと言っているのだ。確かに貘の特徴は体色が黒白である点といい、熊に似ている点といい、手足が短い点といい、熊猫によく似ているが、それでも熊猫は銅鉄なんて絶対に食わない。食べるのは竹と笹だ。だから貘は熊猫ではないだろう」
「こう考えることもできる。貘という生き物は、人間の語りの中にだけ棲息している生き物なのだと。『爾雅』が書かれたのは周代だか、それとも春秋戦国の頃だかは分からないが、そのような古い時代でも貘という謎の生き物は知られていた。だが、知られていたとは言っても誰もその存在を実際に目にしたわけではない。ただ、貘に関する物語だけが存在していたのだ。『爾雅』を書いた者は、貘が実在するかどうかはさておいて、とにかくその物語を文章という形として残した……これは『説文解字』でも同じだろう。色んな人間が貘についての物語を語り、文章に残し、そしてそれが時が経つごとにだんだん内容が変わっていってしまった……そうだよ、あの毛人のようにな。彼らも元々は普通の人間だったのだ」
「だから、俺としては貘という生き物について、あえて『これは四川にいる熊猫のことだ』と書く必要はないと思う。その存在を同定するというのかな……あるいは特定とも言って良いだろうが、そういう検討作業は不要だろうと俺は思うのだ」
「あるいは、この同定する、特定するという行為もまた、貘という生き物にとっての生命活動に含まれるのかもしれない。そもそも存在しないものについてそれを突き止めようとするのは無益そのものな行為だが、それはこちら側にとっての話に過ぎないのであって、貘という存在からすると、その行為すらも己の存在を強化し、存続させるものであるという点で有益であるからな。言うなれば、奴らは俺たちの語りに寄生して生きているのだ」
「謎な存在を究明することが、却ってその存在の謎を補強し存続させることがある……貘というのはその代表的な例証だろう。そして我が国の場合、不思議な生き物はどれもみな貘と同じなのだ。我々がそれの正体を突き止めようとして語れば語るほど、それは正体不明のまま存続し続けることになる。もし連中がこのようなことを意図して自らの生存戦略を立てたのであるならば、連中は稀に見るほど賢かったと言わざるを得ない。なぜなら人間というものは、特に我が国の人間というものは、探ったり語ったりすることを決してやめないのだからな」
「尤も、誰かが実際に貘を捕まえてしまえば、俺のこの解釈もすべて無意味になるがね。おそらく、そのようなことはあるまいが」
(「貘」おわり)
「人同」
喀尓喀の草原は茫漠としていて遮るものは何もなかった。どこまでも地平線が広がっていた。乾燥した大地には短い草がびっしりと生えている。草は淡くて薄い緑色だった。草原には常に微風が吹いていた。微風は何の匂いも香りも運んでこなかった。
それは、その日も軍営の帳篷の近くにいた。
それは猿によく似ていた。だが、猿ではない。土地の外から来た者たちはそれのことを「人同」と呼んだ。現地の者たちはそれのことを「噶里」と呼んでいる。二本の足で自由自在に歩き回り、手と指を器用に使い、身振り手振りで意思の疎通を図ることができる。頭は大きく、牙が生えていて、胴は長くて腕も長い。ただし、足はあまり長くない。全身にごわごわとした黒い毛が生えていて、服の類は身にまとっていない。
人同はやはり猿のようだが、それでも猿ではない。猿は群れで生きる生き物だが、人同が群れを形成することはない。どのようにして増えて、どのようにして子どもを残すのかも分かっていない。雌雄の別があるのかも分からない。だが、遠目から見ると猿によく似ている……あるいは人にも似ている。人に似ているが、言葉を話すことはできない。人の言葉をよく理解できるのだが、自ら言葉を操ることは決してない。
それは、相変わらず帳篷の近くでじっとうずくまっていた。どうやら何かを待っているようだった。それは、他の人同と比べて少し変わっていた。他の人同の仲間たちが人間の帳篷に忍びこんで食べ物と水を盗んだり、あるいはぴかぴかとしてかっこいい小刀や、飲むと気持ちが良くなる酒の容器を持ち出したりするのに対して、それは自ら志願して人間のために仕事をし、その対価として食べ物や水、あるいは物品を欲するのだった。
だから、それはよく可愛がられていた。他の人同がしばしば盗みの場面を捕らえられて銃で撃ち殺されたり、あるいは棒で殴り殺されたりしたのに対して、それは屋根付きの寝床を与えられていたし、月に一回はその土地で金よりも貴重な湯水を用いた風呂にも入れられていた。尤も、それだけそれの待遇が良かったのは、それが将軍に飼われていたからだった。それは毛艶もよく、目は輝いていた。それはよく愛されていたし、愛されていることを自覚していたから幸せだった。
だが、その日はなんとなく様子が違った。それは、目覚めるなり何やら不吉な気配を感じて、その日の朝早くから将軍の帳篷の近くでうずくまって、自分の主人が出てくるのを待っていたのだった。それは、草原の向こうへちらっと目をやった。かつて自分がやってきたのは、この喀尓喀の草原の遥か向こうからだった。それは、ぼんやりと過去を思い出していた。一年中雪が降り積もっている山々を越えて、その先に広がる草木も生えていない半分凍った大地を越える。そして、少しだけ暖かい場所に出る。そこには大きな湖があって……そこから前のことを、それは覚えていなかった。どうもそのあたりに、自分たちの故郷があったような気もするが……
将軍の帳篷では人の出入りが多くなっていた。それは入口近くにいるのに、出入りする人間は誰もそれに注意を払おうとしなかった。みんながなにやらせわしげな様子で、口々に何かを言い合い、紙の束を持ってきてはそれを見せあったりしている。さらに時間が経つにつれて、軍営の中には騒音が満ちるようになっていた。馬と車が砂塵をあげて草原を行き交い始めた。兵士たちが小さな帳篷を片付け、小さく折り畳んで収納し、車に積んでいる。板づくりの武器庫も解体された。
それは、不安な気持ちがさらに強くなったのを感じた。理由は分からないが、それは居ても立っても居られないほどの焦燥感を覚えていた。みんな、どこかへ行ってしまうのだろうか? それは、直観的にそのことを悟っていた。
その時、将軍が帳篷から出てきた。将軍は年老いていた。長年戦陣において生活をしてきた者に特有の厳しさと、配下の兵たちに対する深い慈愛とが顔つきとなって表れていた。身に纏うマントは真紅に染められていて、草原の緑の中で炎のように際立っていた。マントの下には軽い装甲を身につけていた。いつでも戦に出られる格好を将軍はしていた。
それは、将軍を見た途端に自分の中にわだかまっていた正体不明の暗い感情が消えて、その代わりに喜びと嬉しさが満ち溢れるのを覚えた。それは、将軍のことが大好きだった。大好きであればこそ、これまで二年間にわたって将軍のために細々とした仕事をしてきたのだった。うずくまっていた姿勢からぱっと立ち上がると、それは手を振り回して、主人に対して自分の喜びの強さを表現した。
だが、将軍の顔は晴れなかった。将軍は難しい顔をして、近寄って来たそれの頭をしばらく優しく撫でていた。やがて、将軍はそれに向かって言った。深く、落ち着いた、しかしどこかに悲しみを秘めた声だった。
「お前はこの二年間よく仕えてきてくれた。お前は豆を刈り取ったり、薪を割ったり、水を運んだりと、そういうつらくてつまらない仕事にも黙々と従ってくれた。お前はこの不毛な土地でわしの慰めとなってくれた。わしはお前のことが好きだった。だが、今はもう別れなければならぬ。戦に行かねばならぬのだ」
嘘ではなかった。事実、将軍はこれから戦に出なければならないのだった。昨夜も遅くになってから突然都の本営から命令が来て、将軍の率いる軍団は直ちに軍営地を引き払って南下し、遼東半島方面へと進出しなければならなくなった。敵がそこまで迫ってきているということだった。
それは、将軍の言葉を呆然として聞いていた。身じろぎ一つしない。将軍はそれの肩に手を置いて、また話し続けた。
「お前を連れて行くわけにはいかぬ。お前はこの喀尓喀の地に生きる生き物、人同だ。そして人同は、中国で暮らすことはできぬのだ。それが自然の摂理というものだ。今はここで、お前とわしは別れることにしよう。わしは遼東半島へ行く。お前は、好きな所へ行け。餞別としてこれをやろう」
そう言うと、将軍は袂から何かを取り出してそれに与えた。それは未だぼんやりとしたままだったが、将軍からの贈り物を受け取ることはできた。贈り物は三つあった。豪奢な彫刻と彩色が施された大きな煙管と、乾燥した煙草の葉がぎっしり詰まった煙草入れと、火打石だった。いずれも将軍がそれまでに愛用していた品々だった。
贈り物を手にしたままそれが立ち尽くしている間に、将軍は従卒に馬を引かせていた。体高の高い立派な黒鹿毛の馬だった。使い込まれた馬具がしっかりと装着されている。早くも馬上の人となった将軍は、それに向かって大きな声で言った。
「さあ、もう行け! わしのことはもう忘れろ!」
その時、それは動いた。それは将軍の馬の前に立つと涙を雨のように流し始めた。それは赤ん坊のような泣き声をあげて、必死になって将軍が行くのを止めようとする。将軍はそれを無視するようにして馬を進め始めた。だが、それは馬の後を追った。それは十余里以上もついてきた。つまずいたり、転んだりしながら、それは手にしっかり煙管と煙草入れと火打石を持ったまま将軍を追いかけてくる。将軍は何度も立ち去るように指図をした。怒鳴ったり、優しい声をかけたりした。それでもそれは立ち去らない。
ついに、将軍は馬から降りた。分かってくれたのだろうか? それの顔が、一瞬だけ明るくなった。しかし将軍は、それに向かって厳しい顔をしたまま言った。
「聞け。お前がわしと共に中国に行くことができないのは、わしがお前と共にこの土地に住み続けることができないのと同じなのだ。わしとお前は、そもそも住む世界が違うのだ。そもそも違う世界に住むお前とわしがこの二年間共に暮らすことができたのは、とても例外的で幸せなことだったと思う。だが、それもここまでだ。わしを送るのはもうよせ」
そう言って、将軍はもう一度馬に乗った。将軍は馬を進ませた。ちょっとだけ、それは体を動かしかけた。それを制するように、将軍は声をあげた。
「どうしてもつらくなった時は、その煙草を吸え! 煙の味と香りが、わしのことを思い出させてくれるだろう! さあ、もう行け!」
それは、ようやく将軍を追うのをやめた。それはその場に立ったままだった。手には将軍からもらった三つの贈り物を持ったままだった。どんどん将軍の馬は草原を南へと進んでいった。それは、ずっとその場に立っていた。黙ったまま、それはその場に立ち続けていた。将軍は何度も振り返った。振り返る度にそれは小さくなっていった。
やがて、それは見えなくなった。喀尓喀の草原には相変わらず微風が吹いていた。
その時、強い風が北から吹いてきた。将軍は、風の中で嗅ぎ慣れた煙草の匂いを感じ取った気がした。だが、すぐに風は吹き去ってしまって、匂いもどこかへ消えてしまった。
(「人同」おわり)
「蝦」
「『何が清王朝か! 下賤な異民族なんぞに世界の文明の中心である漢人の国が乗っ取られてたまるか! 俺はこの国難に殉じるぞ! 異民族に支配された中国など見たくはない!』……と、まあ、そんな気持ちだったんじゃ。ふひひ。最初はな。思えばわしもまだ若かった。ふひひ。明王朝の滅亡に殉死することが自分の忠を示す最良の手段だと思っていたんじゃ。いやいや、本当じゃって。嘘じゃないって。まあまあ、わしの話を聞きなさい。ふひひ」
「わしとしては、その時本当に死ぬつもりだったんじゃ。異民族……いやいや、満人の方たちが、実際のところどのような方々であるか、そのこともろくに吟味せずにな。本当じゃって、嘘じゃないって。しかし自殺するにしても刀とか縄とか、あるいは入水自殺とか、焼身自殺とか、そういう手段を採る気にはならなかった。だってものすごく痛そうじゃし……いやいや、そういうもので死ぬのは一個の立派な漢人の男の最期としてはどうも相応しくないように思われたのじゃ。それではただの匹夫の死と変わらんのでな」
「だから、わしは他に死ぬ方法がないか考えた。なるべくわしのような立派な漢人にとって相応しい最期……それでいて、あたかも明王朝の滅亡に花を添えるかのような壮麗な最期……いろいろ考えたが、なかなか良案は浮かばなかった。考えている間にも家族はわしがもう死ぬものだと思って葬式の準備を始めている。家に棺桶は運び込まれるし、紙で輿は作り始めるし、紙銭は数珠繋ぎになって数十万銭分も用意されている。泣き屋まで隣の家で待機し始めた。それで、わしもこれはあまりぐずぐずしていられない、さっさと死なねばならんと思って……いやいや、本当じゃって、嘘じゃないって。わしは本当に死ぬつもりだったんだってば」
「困り果てた時、ふと考えが浮かんだ。かつて戦国時代に名を馳せた魏の信陵君は国君に疎んじられて自害したのだが、その時、彼は醇酒と美人とによって自ら命を断ったという。ああ、醇酒というのは強くて美味い酒という意味じゃ。これだ!と思ったね、わしは。ふひひ。これしかないだろう。楽に死ぬには……いやいや、一人の立派な漢人が自害するには、これしか方法はあるまい。なにせこの方法は、かの信陵君も採用した由緒正しい立派な自害の方法なのだからな。ふひひ。野蛮な異民族には……いやいや、文化的に見て漢人とはちょっと差異がある満人の方々には、とても想像すらできない自害であろう。わしはその時そう考えた。そして、すぐに実行することにした。ふひひ」
「わしには金があった。もう、それこそ、唸るほど金があった。わしはまず、家の敷地に小さな離れを作った。次に、金に飽かせて美人の女を呼び集めて、片っ端から姫妾として娶った。すごい美人もいればあまり美人でないのもいたが、まあとにかく片っ端から女たちを集めた。強い酒も甕ごと、車ごと、蔵ごと買った。色んな地方から酒を買い集めた。外国の酒も買った。そんなことをしていたらもちろんあれだけたくさんあった金はどんどん減り続けたが、わしは構わなかった。だってそれだけ金があっても、死んだら陰府の世界で使うことはできないものな。ふひひ」
「準備ができたら、わしはさっそく信陵君の真似を始めた。わしは毎日女たちを抱きながら強くて美味い酒をがぶ飲みした。ふひひ、女たちを抱きながら強くて美味い酒を……ふひひ。お前に分かるかな、あのつらさが。つらかったぞぉ。ああ、つらかったとも。こっちには女の白くて柔らかくて大きな乳房がある。こっちにも女のほっそりとして引き締まった腰がある。あっちにもこっちにも、むっちりとした尻や腿や腕の肉がある。周囲には肉が満ちていて、しかもどの肉も火照っていてしっとりと湿っているんじゃ。わしはその中で忙しなく腰を使いながら酒を飲まねばならん。まさに荒淫というやつじゃ。これが苦しくなくて何だというのか。ふひひ、苦しい苦しい。あれほど苦しいことはないわな。ほら、なにせ、わしはそうやって自殺をしているんだから。ふひひ」
「それでも家族は自殺をしている真っ最中のわしに何か言いたいことがあったようだが……いやいや、分かっとる。端的に言えば、さっさとわしに死んでもらいたかったんだろう。それくらいわしにも分かる。わしが女を抱き終えて……いやいや、死に損なって、離れから屋敷に戻ってくると、それまで仕事をしていたり談笑をしたりしていた家族がみんな、これ見よがしにワッと泣き崩れて、『お父さんついに死んでしまったんですね、ここにいるのはお父さんの魂魄なのですね!』とか言ってくる。わしは『いや、まだ死んでいない』と答える。するとみんな無言でわしから離れていく。わしの目の前で空っぽの棺桶に蹴りを入れていく者までおったな。いやぁ、みんなわしの金が欲しかったんだな、かわいそうに。でもわしはそれからもどんどん金を使ってやった。死ぬまでに全部使い切るつもりだった。ふひひ。だって、死んだら金は使えないものな。でも、今でも使い切れてはいないんじゃ。わしは金持ちじゃからな。もう唸るほど金がある」
「そんな生活を数年間、毎日休まずに続けた。ふひひ。わしはこう見えてもけっこう真面目だったし、それにこれは立派な漢人としての立派な自殺であったからな。そう、本当につらい数年だったが、わしは倦まず弛まず同じような生活を毎日続けた。いや、それにしても女も酒も、この世には無限のようにいろんなものがあるんだなぁと驚いたわい。決して飽きることがないんじゃ、女も酒もな。世間ではよく知ったふうなことを言って『美人も三日すれば飽きる』とか『酒は百害あって一利なし』とか言うが、あんなのはただの貧乏人共の僻みじゃね。ふひひ。貧乏人は可哀想だなぁ。ふひひ」
「そうこうしていると、ある日突然、自分の体の中で何か大切なものがぶつっと切れたような感じがした。それはちょうど、その日三人目の姫妾を相手にし終えた直後じゃったな。ああ、これはついに死ぬかもしれんなと思ったが、まあわしはきっての慎重派であるから、いちおう医者を呼んで調べてもらうことにした。医者はすぐに診断を下した。わしの体の中心部を走っている督脈が断ち切られているとのことじゃった。普通ならば即死するはずだが……と医者は不思議な顔をして言う。わしは九死に一生を得たことを感謝して……いやいや、死に損なったことを心の底から怨みつつ、また自殺を続けた。ふひひ。かの尊敬すべき信陵君もこれだけ苦しい思いをして死んだと思うと、わしもむくむくと性器が……いやいや、むくむくと勇気が湧いてきた」
「そのうち、督脈が切れた影響がもっと大きな形となって表れた。どんどん首は曲がってくるし、背は駱駝のようになってくる。家族はもはやわしのことをお父さんともおじいさんとも呼ばなくなった。親戚も近所の人々もわしのことを名前で呼ばなくなった。わしは『人蝦』と呼ばれるようになった。ほら、見てのとおり、茹でられた蝦そっくりの見た目じゃからな。本当に気色悪いのぉ。バケモノそのものじゃ。でもほら、わしがこうなったのは国難に殉じるためであるからな。むしろわしはこの姿を誇りに思っておるのじゃ、ふひひ」
「そんなこんなでもう二十年以上もわしは蝦となりつつも自殺に励んでいる。酒はまだ飲んでいるし、女も抱いておる。不幸なことにわしはまだ死ねない。もう普通の人間のように歩くこともできん。蝦のように這いつくばるしかないのじゃ。最近では女たちの手を借りないと牀に上がることもできん。女たちは優しいよ。なんでこんなに優しいのかなと時々不思議に思う。わしがもうすぐ死ぬとでも思っているのかもしれんな。だが、わしはまだまだ自分の中に精気が満ち溢れているのを感じておる。まだまだ女たちを抱けるし、酒も飲めると思っている」
「ああ、わしはあと何年生きねばならんのかなぁ。ふひひ。女と酒で自殺するのがこんなにも苦しいとは思わなかったわい。ふひひ、あと何年かなぁ。あと何年この生活が続くのかなぁ、ふひひ」
「しかし心残りがあるとすれば、やっぱりわしの女たちのことかなぁ。わしの自殺に付き合わせて、女たちの人生を滅茶苦茶にしてしまったような気がしてならない。わしの姫妾にならなければ、もっと違う、楽しくて幸せな人生を送れたかもしれない。女たちが可哀想だなあと思うことが最近増えてきた。わしはやっぱりとっとと死ぬべきなんだろうな。ああ、あの時、刀でも縄でも何でも良いからさっさと死んでおくべきだった」
「わしは最低だ。最低な人蝦だよ、まったく。でもわしは毎日が楽しくて仕方ないんじゃ。ふひひ。どうにもならんね、こうなったらもう」
(「蝦」おわり)