フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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33. 阿呆

 どこをどう探したところでエウロペが見つかるはずなどなかった。大神ユピテルがそれを望めば、それは必ずそうなる……例外などない。今、エウロペはユピテルと共にクレタ島にいる。そしてそのことを知っているのはエウロペとユピテルしかいない。かどわかされたというのにエウロペは幸せそのものだ。そういう人間だった、エウロペという女性は。本質的に阿呆(あほう)なのだ。

 

 エウロペの哀れな父親、テュロスの王アゲノルは、娘が行方不明になったことを知って阿呆(あほう)のように半狂乱になった。それは娘のことを愛していたからではなく、この世界が自分にとって都合の良いように運行していないという事実に改めて気づかされたからである。髪の毛を振り乱し目を血走らせながら、アゲノルは息子であるカドモスに語気も荒く命令した。エウロペを探して連れ帰ってこい! そこまでは良かった。そういう命令を父親が息子に対して発するというのは普通のことである。しかし、その次が良くなかった。もし連れ帰って来なかったら、お前は永久にこの国から追放だ! それはどう考えても阿呆(あほう)で無茶な命令だった。

 

 かくしてカドモスは自分の姉妹であるエウロペを探す旅に出た。若いカドモスは優れた体格をしていた。まだ少しほっそりとしたところはあるが、数年もすればもっと戦闘に適した筋肉を身に纏うはずだった。顔は涼やかで目も大人しい。耳の形すら穏やかに丸みを帯びている。激情らしい激情などこのまま一生抱かないのではないかと思わせるほど、常に彼は静かな雰囲気を漂わせていた。

 

 しかし、表には決して出さないものの、カドモスの内面には若者らしい鬱屈としたものがわだかまっていた。つまり彼は阿呆(あほう)だった。けっこう立派な阿呆だった。

 

 父親の命令は阿呆(あほう)で酷なものだったが、カドモスは特に反論することもなく、ごく大人しい態度でそれに従った。彼はその見た目から分かるように、元来からして真面目な性格をしていた。それだけではなく、彼は落ち着いていて冷静だった。父親のアゲノルは良い意味でも悪い意味でも小児的な特徴を有した性格をしていたが、それとカドモスとは好対照を成していた。父と息子という関係からは考えられないほどだった。

 

 そしてそれがおそらく、阿呆(あほう)な王アゲノルがカドモスに対して酷な命令を下した原因だった。そのことをカドモスはしっかりと理解していた。父は自分のことを嫌っている……ただ、性格上の不一致を原因として。カドモスは今回の一件で、前々から薄々感じていた父の自らに対する嫌悪感をはっきりと認識した。父親というものは無条件で子を愛するものだという阿呆にして単純な世界観などカドモスは持っていなかったが、それでも彼はそれなりにげんなりとしたものを感じた。しかもそれは彼にはどうすることもできないことを原因としているのだった。もちろん、アゲノルにもどうすることもできない。生まれ持った性格や性分というものを変えることはできない。海を砂漠に変えることができないように。阿呆でもそのことは知っている。

 

 そうであるから、カドモスは却って気楽な気分になってエウロペ探索の旅を続けた。仮にエウロペを見つけることができずそのままテュロスからの追放ということになっても、その方が自分にとっては楽だし運命ものびやかに拓けていくだろう。今後もずっと、性格的に合わない父親といつもテュロスの宮殿で顔を合わせていないといけないというのは……ストレスだ。割に合わない。しかも忍耐をするのはずっと自分の方なのだ。あの子どもっぽい父が忍耐することなど決してないのだから。一方的に精神的な資源というコストを支払わねばならない……そんなのは嫌だ。阿呆のすることだ。カドモスは考え続けた。

 

 それならいっそ、エウロペなど見つからなければ良い……カドモスは紛れもなく血を分けた姉妹であるエウロペに対してあまり好感も興味も持っていなかった。エウロペは父アゲノルとよく似ていた。父アゲノルは、エウロペが阿呆(あほう)なことにどこかの阿呆(あほう)な男と駆け落ちしたのだと思い込んでいたが、だとするとその阿呆な男は相当な物好きだろう。カドモスはそう思った。むしろこのような形でも阿呆なエウロペが無事に自身の連れ合いとなる存在を得られて良かったのではないか。あのままテュロスの王宮にいても、ろくな結婚などできなかったであろうし……ここまで考えてから、カドモスは思ったよりも自分がエウロペに対して批判的で冷淡であることに気づいて愕然とした。たぶん、自分はエウロペのことが嫌いだったのだろう。今までそれを認識していなかっただけで。阿呆なやつめ。姉妹に対して心の中で毒づいてみると、カドモスは不思議にすっきりした気分になった。

 

 こんなことを考えているうちに、いつの間にかカドモスは世界を一周してしまっていた。もちろんエウロペは見つからなかった。クレタ島に行けばもしかしたら何らかの手がかりを得られたかもしれないが、彼は結局最後までクレタ島には行かなかった。海洋の覇者であるフェニキア人のテュロスの(まち)の王子であるカドモスならば、クレタ島に行くための舟など容易く用意できたはずだった。しかし、彼はそうしなかった。なんとなく、彼の心の中には予感があった。クレタ島に行ったらもっと面倒くさいことになるぞ。もしかしたらエウロペが見つかるなんてことになるかもしれない……だから彼はその予感を信じることにした。阿呆なエウロペは見つからずじまいだった……カドモスは心の底からほっとした。

 

 かくしてカドモスは祖国テュロスに帰ることのできない、一介の亡命者となってしまった。城壁高く船脚早いテュロスの(まち)の王子としてこの世に生まれてきたのに、今ではその日のパンにすら事欠く有様だった。それでも彼は敢然としてその貧苦に耐えた。あの父親の支配する王宮に戻らなくて良いのならば、空腹などいくらでも耐え忍ぼう。今ではカドモスは明確に父親のことを嫌っていた。彼としては旅の無聊(ぶりょう)を慰める一環として自分の父という存在について客観的な分析を加えているつもりだったのだが、その考えがいつしか嫌悪感に転化してしまったようだった。

 

 その年齢に比して割と忍耐力のあるカドモスだったが、やはり彼はまだ若かった。あてどなく流浪の生活を阿呆(あほう)のように送り続けるのに、彼の若くしなやかな精神は耐えられなかった。いや、若いからこそ目的のない放浪の旅に己の全エネルギーを注ぎ込むことができるというタイプの阿呆(あほう)な人間もいることにはいるが、カドモスの場合は違った。カドモスはその性格上、何かをこつこつと一から積み上げていくのが好きだった。それは積み上がった先の結果を望んでいるからではなく、こつこつと一から積み上げていくというその行為そのものが好きだったからである。それはそれで阿呆の一類型ではあった。だから阿呆な彼はさっさと、こつこつと一から積み上げていくのに相応しい地を見つけなければならなかった。

 

 カドモスはその日、アポロンの神殿で(ぬか)ずいて神託を乞い、自分はいずれの地に居住すべきであるかを神に尋ねた。尋ねたところで何も返事は来ないかもな。カドモスはそう思っていた。だが、神託は思った以上にあっさりと彼に下った。一頭の牛が(さび)れた荒野にいる。お前はそれに出会うだろう。その牛は荷を牽いたこともなければ耕作に従事したこともない雌牛(めうし)だ。この雌牛を案内者として旅を続けるが良い。雌牛が身を横たえて休むその草原(くさはら)に城壁を築いて都市を作れ。その地をボイオティアと呼ぶが良い……ちなみにボイオティアというのは「牛の国」という意味だよ。云々。カドモスはいかにも神託らしいがどこか阿呆な感じもする神託を聞いたと思って、神殿を後にした。

 

 カドモスが神殿から出てくると、すぐに、一頭の大きな雌牛(めうし)がゆっくりと道を歩いていくのが見えた。雌牛は阿呆(あほう)のようにぼんやりとした顔つきをしている。番人はついていないし、顎や首の周りにも道具の類は装着されていない。カドモスは、まあ、神様のおっしゃっていた雌牛とはたぶんこれのことなんだろうなと思ってそのまま後ろをつけることにした。雌牛は尻尾を振りつつどんどん道を進んでいく。カドモスも阿呆のようについていく。両者ともに無言だった。

 

 黙って歩いているうちにカドモスは、自分が何かとてつもなく愚かで無駄なことをしているかのような気持ちになった。傍から見れば、若くて立派な格好をした青年が阿呆(あほう)のように雌牛の後をつけていくのである。阿呆(あほう)のように、ではない。阿呆(あほう)そのものだ。だがカドモスは殊勝な性格をしていた。このような一見愚かで馬鹿馬鹿しい阿呆そのものの行為こそ、実は神の御心にかなう行為ではないか。いや、そうに違いない。そうでなければ困る。神はたぶん、阿呆をこそ愛してくださるだろうから。彼は心の中でアポロンに対して感謝の祈りを捧げた。祈りながらカドモスは、自分の祈りがちょっと当て擦り的な感じになっていないだろうかと思った。

 

 長い時間が経った。阿呆(あほう)大阿呆(おおあほう)になるほどの時間だった。すでに雌牛はケピソスの流れを越え、パノペの野を渡っていた。カドモスは辛抱強く雌牛の後ろをついていった。これほど長い間、若い人生を無駄にして雌牛の尻を追いかけ続けていたのであるから、彼はもはや阿呆の中の阿呆と言えるほどの阿呆と化していたが、その阿呆さ加減を自覚しているだけに、やはり高貴なる阿呆ではあった。

 

 その時、雌牛がにわかに足を止めた。カドモスも立ち止まった。雌牛は高く伸びた角を生やした頭を持ち上げると、いかにも牛らしい鳴き声をあげて大気を震わせた。そして、轟音を立てて尿(にょう)を排泄し始めた。すさまじい排尿音だったが、どこか阿呆な響きだった。カドモスは阿呆のように雌牛の排尿を見ていた。洪水のように地面に尿が広がった。

 

 それから雌牛はぐるっと首を回してカドモスのことを見た。ほら、ここですよ。そういう感じの目配せをしつつ、雌牛はさらにちょっと歩いてから、膝を折って若草の上にその巨大な腹部を横たえた。それじゃ、ここが俺の新天地というわけか。カドモスは改めてアポロンに感謝の祈りを捧げ、テュロスから遥か彼方にあるこの異国の土に口づけをし、見知らぬ山野にどうぞこれからよろしくと挨拶をした。阿呆であっても挨拶と感謝を欠かすわけにはいかない。

 

 次に、カドモスは大神ユピテルに対して犠牲を捧げることにした。そもそもユピテルがエウロペを拉致するという阿呆なことをしなければカドモスもこのような旅をする必要などなかったのだが、カドモスはそのようなことを知らない。それを知っていたところでやはりカドモスはユピテルに対して犠牲を捧げただろう。あのテュロスの王宮を出るきっかけを与えてくれたという点で、ユピテルは充分感謝を捧げるのに値する存在なのだった。しかしそれは理屈(ロジック)というよりは修辞(レトリック)に近かった。そのような阿呆のごとき思考をするという点でカドモスはどこか阿呆であると言わざるを得なかった。

 

 犠牲の式次第を考えていたカドモスは、その場には灌奠(かんてん)のために必要な清らかな水がないことに気づいた。どこかから調達しなければならなかったので、カドモスは部下たちを派遣することにした。これは彼が牛と共に長い距離を旅している間に、阿呆(あほう)にも勝手に彼の部下として加わってきた者たちである。部下たちは地元民たちにちょうど良い感じの泉がないか尋ねて回った。一人の地元民が答えた。はあ、この近くには千古(せんこ)斧鉞(ふえつ)を知らざる深い森がございましてな。部下たちは、何? せんこ……なんだって? と答えた。部下たちは高貴な阿呆であるカドモスと違って単なる低劣な阿呆たちだった。地元民はもっと簡単な言葉遣いをした。はあ、この近くには太古(たいこ)の森がありましてな……部下たちはまた言った。なに? たいこ……なんだって? 地元民はもっと簡単な言葉遣いをした。はあ、この近くには森がありましてな……部下たちはようやく頷いた。なるほど森ね。で、その森が何なの? 地元民は答えた。森の中には洞窟がありましてな、で、洞窟の近くには泉があります……そこまで聞いてから部下たちはよっしゃ泉があるぞと言って出かけて行ってしまった。最後まで話を聞かないのは阿呆(あほう)の証拠である。

 

 洞窟には軍神マルスの大蛇が棲んでいた。どうして軍神マルスがその大蛇を飼うことになったのか、なぜその大蛇がその洞窟にいたのか、あまり詳しい事情は分かっていない。軍神マルスはまことに残念なことに神々の中では特に阿呆(あほう)とされている神である。実のところマルスはそれほど阿呆なのではないのだが、そういう性格付けをしても良いという風潮がどうもこの界隈にはあるのだった。おそらくマルスが大蛇を飼い始めたのには深遠な理由があったはずである。そしてその大蛇が今ではマルスの手から離れてその土地のその森のその洞窟にいるというのにも深遠な事情があったはずである。そうでなければマルスは界隈の言ううとおりただの阿呆だということになってしまう。

 

 ともあれ、阿呆(あほう)な部下たちが森の中の泉を見つけて、阿呆のようにはしゃぎあって水を汲んでいるところに、この大蛇はのっそりとその長くて太い巨大な身体を洞窟から出して、おもむろに部下たちに襲いかかったのであった。(ひたい)には角のような大きな突起があり、(うろこ)は金色に輝いている。両目は爛々として炎が燃え盛っているようで、全身は毒液でぱんぱんに膨れ上がっている。口には三枚も舌があり、牙も三列に分かれて並んでいた。大蛇は部下たちに襲いかかる前に、いちおう蛇らしく鳴き声を立てた。それが蛇としての儀礼であると阿呆なことにも信じていたからである。

 

 阿呆な部下たちは大蛇が自分たちを狙っていることを知ってその身を凍り付かせた。彼らはせっかく汲んだばかりの水が入った水甕(みずがめ)を取り落としてしまった。(かめ)が粉々に砕け散る。血の気が引き、恐怖で手足が阿呆のように震えてしまう。大蛇は部下たちを睨みつけながら、たっぷりとした余裕を保ちつつ、まずとぐろを巻いた。とぐろを巻いてから、さっと頭を伸ばし、空中に向かって大きな弧を描いた。そして、全身の半分以上を直立させて森全体を見下ろした。中天に達している太陽にまでその頭部が届いてしまいそうだった。

 

 こうなってはもう、阿呆(あほう)であろうと阿呆でなかろうと関係はなかった。阿呆ではあるが哀れな部下たちは脆くも壊乱して逃げ惑い始めた。たかだか水を汲みに来ただけなのに。だが大蛇の狙いは正確で無慈悲だった。その鋭く長い牙で噛み殺したり、絞め殺したり、毒気をふんだんに含んだ息を吹きかけたりして、大蛇は部下たちを瞬く間に全滅させてしまった。阿呆たちの魂が森から空へと昇っていく。ゆらゆらとした魂の尾は阿呆のように揺らめいていた。

 

 カドモスは阿呆のようにじっと待っていた。だが、それにしても部下たちが帰ってくるのは遅すぎた。太陽はすでに中天を通り過ぎている。先ほどまでは一番短かった物の影は、今ではまた長くなりつつあった。カドモスは部下たちを探すことにした。阿呆な奴らだが部下であるから可愛い。というより、阿呆であるから可愛いのだった。つまり可愛くあるためにはどこか阿呆でなければならぬということである。

 

 カドモスの防具は獅子の毛皮だけだった。武器としては青銅製の穂先の付いた長槍(ちょうそう)が一振りと、動物を狩るのに使うような簡単な投げ槍が一本しかない。こんな装備であの大蛇に挑むのは阿呆としか言いようがないが、もちろんカドモスはその時自分がどのような敵を相手にすることになるのかは知らなかったので、彼を阿呆というのは不当である。

 

 カドモスは地元民に尋ねて回った。一人の地元民がカドモスに答えた。はあ、この近くには千古(せんこ)斧鉞(ふえつ)を知らざる森がございましてな……カドモスは阿呆ではあったが阿呆ではなかったので、普通にああ古い森があるんだなと理解すると、それで? と言って先を促した。地元民は言った。それで森には洞窟がございましてな、その洞窟の近くには泉があるということを、私は先ほどあなたの部下と思しき方々にお教えしました。なるほど、それで? とカドモスはさらに先を促した。地元民はどこか気の毒そうな顔をして言った。その洞窟には軍神マルスのペットである大蛇が棲んでおりましてな、人間を見ると殺さずにはいられないという凶暴な性格をしているのでございます。残念ながらあなたの部下たちはこの話を聞かないで泉に行ってしまったもので……カドモスはその瞬間、すでに駆け出していた。

 

 森の中は死体の山になっていた。阿呆(あほう)のように呆然となってカドモスはその光景を見ていた。赤い肉片と白い骨片が森の緑の中で花のように散らばっている。真っ赤な血の河の中に大蛇の真っ黒な毒液が混ざっていって、あたかも熱した鉄が冷水を浴びせられたような阿呆な音を立てた。大蛇はその時、部下の一人の死体に覆い被さって、その傷口を血(まみ)れの口で舐めていた。なぜそのような阿呆そのものの行為を大蛇がしていたのかは不明である。蛇のことゆえ人間には窺い知ることのできない深い理由があったのだろう。

 

 その大蛇を見て、カドモスは猛然とキレた。カドモスは雄叫びを上げて大蛇に戦いを挑んだ。やはりこういう然るべき時に然るべき怒りを発することができるという点でカドモスは高貴なる阿呆であった。まずカドモスは手近にあった岩を投げた。大きな岩だった。あらんかぎりの力で彼は岩を持ち上げると、これまたあらんかぎりの力を出してそれを大蛇に投げつけた。これほど巨大な岩をこれほどの力で投げたのならば城壁だろうが(やぐら)だろうが一撃で粉砕するであろうと思われたが、大蛇には傷一つつかなかった。

 

 しかしカドモスは焦らない。こと戦いにおいてカドモスは決して阿呆(あほう)ではなかった。こういう戦いの場面において、第一撃というものは必ず失敗するものと相場が決まっている。そのことをカドモスは知っていた。だから彼は第二撃を加えた。ただし今度は岩ではなく投げ槍を用いた。投げ槍は上手い具合に大蛇の背中に命中した。それのみならず、投げ槍の穂先は大蛇の鱗を容易に貫通して内臓を傷つけた。大蛇の鱗は打撃には強かったが刺突(しとつ)には弱かったのである。大蛇の体を設計した者がいたとすれば、その者は戦いの実態を知らぬ阿呆であったと言えよう。

 

 投げ槍が突き刺さって大蛇は怒り狂った。大蛇は痛みのあまり暴れ回った。森の木々が薙ぎ倒された。カドモスは距離を保って様子を窺っている。ひとしきり暴れた後、大蛇は黒い毒気をたっぷりと含んだ吐息をまき散らしながら、カドモスに向かって突進してきた。カドモスは防具として身に纏っていた獅子の毛皮を脱ぐと、大蛇の顔に向かって投げつけた。毛皮はまるでモモンガが両腕を広げるようにばっと開いて大蛇の両目を瞬時に覆った。視界が閉ざされて大蛇は驚いたように大きな口を開いた。その瞬間、カドモスはたった一振りだけ残っていた長槍(ちょうそう)を構えて、大蛇の毒気に満ちている口の中へ向かって一直線に突進した。

 

 カドモスは大蛇の口の中に飛び込んだ。寸時の間を置かずして、彼の長槍(ちょうそう)は大蛇の口蓋(こうがい)を貫通した。それのみならず、槍の穂先はさらに柔らかい部分を突き抜けていって、ついに大蛇の脳に到達した。カドモスは大蛇の口の中で槍を何度も何度も(ひね)った。新しい動作を覚えた阿呆な踊り手が阿呆にもその動きをずっと繰り返しているかのような、そういう槍の動かし方だった。大蛇の脳は滅茶苦茶に破壊された。大蛇はついに息の根を止められた。大蛇の体からは急速に力が失われ、地響きを立てて頭部と尻尾とが同時に地面に落ちた。その直後、カドモスは大蛇の口の中から外へ転がり出てきた。

 

 しばらく、カドモスは阿呆のように、自分が倒した大蛇の死体を見続けていた。その時、どこから響いてくるのか分からなかったが、突然ひとつの声が聞こえてきた。アゲノルの息子さんよ。お前さん、今はなんだか誇らしげに自分がやっつけた大蛇の死骸を見てるけれどもよ、お前さん、これからだいぶ後になってから、自分の奥さんと一緒に蛇に変身することになってるからよ。あんまり調子に乗りなさんな……それは未来のお前さんの姿なんやで。

 

 それを聞いたカドモスは全身が震え始めた。大蛇を前にした時は決して覚えなかったような恐怖が今の彼の中に満ち満ちていた。心は乱れに乱れ、顔色も土気色になっていて、髪の毛も逆立っている。

 

 その時だった。神々の中でも最も勇者を愛する女神ミネルヴァがはるかな天上から現れた。いや、現れたといっても実際に姿を見せたわけではなかった。そういう雰囲気を発しただけだった。女神ミネルヴァはカドモスに言った。大地を掘り起こして、大蛇の牙を種子として()くべし。それは成長してあなたの未来の民となります。そう言うと女神の気配は去っていった。

 

 カドモスはなんと阿呆なことをミネルヴァ女神は言ったものかと思ったが、言いつけには素直に従うことにした。神の言うことに間違いはないからである。ご丁寧なことに、彼は地元民から(すき)を借りてきて畑を耕し始めた。彼はわざわざ(うね)を作ることまでした。農業など学んだことはないから見よう見まねである。使い慣れない農具を振るって働くカドモスのことを、地元民たちがにやにやしながら遠くから眺めていた。それでもけっこう畑は形になった。そしてカドモスは、大蛇の死体から折り取った無数の牙を種子として畑に蒔いた。

 

 なんとも不思議なことに、土が動き始めた。流石のカドモスもこれには驚いた。彼は阿呆のような顔をしたままそれに見入っていた。まず、畝の中から槍の穂先が飛び出してきた。次に出てきたのは美しい羽根飾りをつけた兜を(かぶ)った頭部である。そして肩、胸、胴体、武器を持った腕が出てきた。それは一人の兵士だった。兵士たちは続々と畑の中から出てきて、たちまちのうちに畑の中に充満した。無表情である。無言である。微動だにしない。不気味だった。

 

 カドモスはなおも阿呆な顔をしたまま続々と兵士たちが畑から生まれ出てくるのを見ていたが、そのうちこの兵士たちをほったらかしにしていて良いものだろうかと思った。何か声をかけるなり号令を発するなりした方が良いのではないだろうか。だって、ミネルヴァ女神の言葉からすると、こいつらが俺の民になるわけでしょ? そう思って、カドモスは武器を手にして立ち上がろうとした。武器といっても地元民から借りた(すき)しかない。(すき)を武器として兵士の大群に呼びかけようとするその姿はどう見ても阿呆そのものだった。

 

 すると、一人の兵士がカドモスを制して言った。少しだけお待ちください。我ら、これより殺し合いをしなければなりませんので。そう言うなり兵士たちは殺気の込められた叫喚を上げて殺し合いを始めた。剣を振るい、槍を突き出し、弓矢を放ちあって、兵士たちは延々と殺し合いを続けた。畑から生まれたとはいえ、兵士たちの中には真っ赤な血が流れていた。カドモスが丹精込めて作った畑は血の海に沈んだ。首が飛び、腕が飛び、足が飛ぶ。にわかに酸鼻(さんび)を極める地獄絵図が現出した。

 

 カドモスは、こいつらは阿呆(あほう)だなぁと思いながら殺し合いの光景を見続けていた。こんな阿呆を俺の民にしないといけないのかなぁ。そう思っているうちに、戦いは終局に近づいていた。あれだけ大勢いた兵士たちのうち、五人だけが生き残った。五人のうち四人はなおも争う姿勢を見せていたが、一人だけは武器を投げ捨てて、兵士たちに和を乞うた。我の名はエキオン、ミネルヴァ女神の命令である。武器を捨てて和を結ぼう。そして兵士たちは平和の誓いを立てた。誓いを立てている兵士たちの顔は感動で輝いていてどこか阿呆(あほう)ぽかった。

 

 カドモスはこの五人を協力者として、その地に高く分厚い城壁を築き上げ始めた。この新しい(まち)、この新しい自分だけの(まち)に、テーバイという名をつけよう。彼は五人の仲間たちと一緒に煉瓦を積みながらそう思った。きっとすごい(まち)になるぞ。阿呆のように彼の空想は膨らんでいった。阿呆のように彼は五人の協力者と共に働き続けた。

 

 気づいた時には、テーバイの(まち)は完成していた。だが、民はまだいない。五人の協力者がいるだけだった。広くて大きな住居はたくさんあるし、立派な広場もあるし、店も倉庫もあるし、綺麗な神殿もある。だが、民はまだいない。それでも阿呆のように満足して、カドモスは玉座についた。

 

 新品の玉座に座ってほっと一息を()いて、そのまま眠りに落ちそうになるのをぐっと(こら)えてから、カドモスは眼前に広がる、まだ空っぽなままの自分の新しい(まち)を見た。

 

 これから、どういう民たちがここで暮らすのかなぁ。カドモスはそう思った。どういう民たちであっても、たぶん全員が共通して阿呆なのは間違いなかった。人間とは本質的に阿呆なのだということをカドモスはこの長い旅の間に悟りつつあった。今では父アゲノルのことも姉妹エウロペのことも許せそうだった。みんな程度の差こそあれ、阿呆なのだ。阿呆だからといってその者を憎むのは、救いようのない阿呆だろう。

 

 どういう阿呆たちが来るのかなぁ。日は暮れかけていた。長い一日だった。玉座の近くでは労働で疲れ果てた五人の協力者たちが轟音のような寝息を立てている。燃えるような夕陽を浴びた協力者たちの長い影が石造りの床に伸びていた。阿呆な寝姿だった。

 

 俺はこれから、阿呆たちの王様になるんだな。カドモスも、今度こそ眠りに落ちそうになっていた。彼はもう、眠気に抵抗しなかった。

 

 それなら俺は、さしずめ阿呆(あほう)の王様ってところだな。そう思った瞬間、カドモスは眠りに落ちていた。

 

 カドモスはその後、老年になるまでテーバイの(まち)を統治した。彼は軍神アレースと女神ウェヌスの娘であるハルモニアを妻として迎えた。彼の統治のもとテーバイはますます富み栄えたが、彼の家庭生活には不幸が続いた。娘のセメレー、孫のアクタイオンは神々の手にかかって死に、また孫の一人であるペンテウスは身内によって悲惨な最期を遂げた。カドモスとハルモニアは最後、イリュリアの地で巨大な蛇に変身したと、ヒュギーヌスは報告している。

 

(「阿呆」おわり)




参考文献
オウィディウス『変身物語(上)』(中村善也訳、岩波文庫、1984年)97頁-103頁
オウィディウス『転身物語』(田中秀央・前田敬作訳、人文書院、1984年)
また、ラテン語の原文としては以下のサイトを参考にしました。(https://la.wikisource.org/wiki/Metamorphoses_(Ovidius)

今回は軽めの作風にしてみました。カドモスが牙を蒔いて兵士を得る、という文章は古典ギリシャ語文法の講義で習った覚えがあります。当時は「牙を蒔くって、いったいなんなんだ?」と思ったものでした。
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