「はい、私がその成村でございます。通称は真髪成村と申します……ええ、ええ。これでも昔は相撲の中でも最高位の最手に就任していたこともございます。今ではこんなに年老いて、骨も曲がったし筋肉も衰えたしで……見る影もございません。私はもはや、かつて相撲だったものとしか言いようがない、いわば相撲の残骸です。ハハハ……もうすぐ死ぬでしょうね、私も……ハハハ……」
「幸い、息子の為成が私そっくりで、往時の私と同じく今は最手を務めておりますから、昔の私がどのような姿形をしていたか知りたければ是非息子の為成を見てやってください。いやはや、こういう意味でも子は残しておくべきですな。ハハハ……自分の一部が子を通じて未来へと受け継がれていく……だから子どもは宝というのでしょう」
「それで、今回はいったいどういうご用件で……? なるほど、あの事件の話を聞きたいと。あの事件の真相を聞きたい……なるほど。いったい、どこの誰からあの事件を知ったのですか? ああ、いや。聞きますまい。それを聞いたところで詮無きことです。ハハハ……」
「いかにも、あの事件は紛れもなくわが国の相撲界の歴史の一部を成しているでしょう。しかも、至極恥ずかしい一部としてです。できれば隠蔽してそのまま消し去りたいような事件ですが……その上、その事件の当事者がこの私であるということは、これはもう末代までの恥と申し上げて差し支えないでしょう」
「ですが、こうしてあえて話を聞いてそれを残したいという方がいるのならば、私としても黙っているわけにはいきません。話しましょう。直接あの事件を見聞きしたわけでもない第三者が勝手な話を残すくらいならば、この私自身が話した方がまだマシでしょう」
「私はこれから、嘘偽りのない、本当の話をします」
「あの時の私はまだ若かった。本職の相撲として名が売れ始めた時期で、体格はできあがりつつありましたが技の方はまだまだという、円熟には程遠い状態でした。それでも私は若く、意気軒昂で、どんな勝負にも負けないという絶対の自信に満ち溢れておりました。私は当時近衛府に所属しておりまして、そこで毎日毎日相撲の稽古をしておりました。私が所属していたのは左の近衛府です。後年、私は左の近衛府の最手に就任するのですが、その頃はまだ新人でした」
「あの事件が起こったのは、七月の中頃の、ある日の夕暮れでした。ちょうど全国の相撲たちが都に上ってきまして、数日後に開催される宮中の相撲節に参加しようと待機しているところでした。私は都の近衛府の相撲として全国の相撲たちに都を案内して回ることになりまして、その日も一日中、埃に塗れながら都路を練り歩いたところでした」
「一通り案内をし終えた頃にはもう夕暮れになっていて、都には涼しい風が吹き始めていました。真っ赤な蜻蛉が盛んに飛び交っていて、草むらではきりぎりすが鳴いています。近衛府の宿舎に帰って夕餉を摂るにはまだ時間があったので、私たちは朱雀門の前に集まって夕涼みをすることにしたのです」
「しかし集まった相撲たちは、各地の国司が選りすぐったその土地一番の血気盛んな若者たちばかりですから、ただ夕食までぶらぶらと待っているだけというのではすぐに退屈し始めたのです。彼らは案内役の私に向かって盛んに『おい、成村、どこかに行こうよ。どこか面白い場所に案内してくれ』と言います。実を言うと、私自身も彼らと同じように退屈し始めていたものですから、『それなら、ちょっとこのあたりを歩こう』と言いました。そんなわけで、私たちは集団になって朱雀門の前から出発したのです」
「集団になって朱雀大路を歩いていくと、都の人たちがわっと驚いて逃げていきます。夕暮れ時で、路には家路を急ぐ人たちが溢れていましたが、私たちがのっしのっしと歩いていくと自然と道が開くのです。太刀を佩いた若い侍たちも、私たちを見るとぎょっとしたような顔をして道を開けます。彼らとしても、もちろん相撲という存在は知っているのでしょうが、それでも彼らが普段目にする相撲たちは土俵上の姿だけなのです。だから相撲たちが道を歩いてくるのを見ると、何か得体のしれない怪物が来たのかと思って驚いてしまうわけです。ハハハ……」
「私たちは人々が驚いて逃げ散るのがどうも愉快で面白くて、それからも特に用もないのに路を歩いて回りました。次第に私たちは、自分たちがこの世で一番強くて偉い存在になったような気がし始めていました。相撲たちが口々に私に向かって言います。『おい、成村。これはなかなか楽しいな』『田舎にいたらこんな楽しみは得られなかっただろうな』『実に愉快だ』 私もなんだか嬉しくなって、殊更にワハハと豪快な笑い声を上げて歩いておりました。私たちが一斉に大きな笑い声をあげると、周囲の人たちはまた驚いて逃げ散るのです」
「そうこうしているうちに私たちは大学寮のあたりまで来たのです。あなたもご存じでしょうが、大学寮は二条の南、朱雀大路の東、神泉苑の西にありました。だいたい四町ほどの広さです。私は小さい頃からこの辺りで遊んでいて、大学寮の中にもよく入りこんでいたので、中の様子はよく知っていました。学生たちには『子どもは来るな!』と言われましたが……ハハハ……」
「この国の官吏を養成する最高機関が大学寮であるわけですが……私たちはそこの前も通ることにしました。いや、前だけではありません。その中を通ってやろうということにしたのです。生意気な学生たちを威嚇するのも面白かろうということで……いやはや、なんともあさましい限りです。私たちは大学寮の東の門を通り過ぎて、敷地を通ってから、南の方へ抜けていくことにしました」
「東の門まで来ると、門前に多くの学生たちがいるのが見えました。彼らもまた夕涼みをしていたのです。学生たちはひょろひょろとした体格で、私たちとは比べるべくもありません。しかし、彼らは私たち相撲がやって来るのを見ると、すぐに互いに顔を見合わせて、それから肩を組んで門前に立ちはだかりました。そして、私たちが目の前までやってくると、『無教養な相撲ども、うるさいぞ! さっさと向こうに行け!』と言ってくるのです」
「私たちとしてはそれまでいい気持ちになっていたところに突如として水を差されたような感じでした。いや、水を差されたというより、戸惑っていたという方が適切でしょう。私たちはこれほどまでに明確に敵意を示されたことはなかったからです」
「仲間たちは小声で私に向かって『おい、どうするんだよ、成村』と訊いてきます。私としても困っていました。相手はただの学生たちですが、やんごとなき身分に属する方々でもあります。下手なことをして怪我でもさせたら大変です。しかしここですごすごと引き下がるのも相撲としての沽券に関わります。『いっそのことあの隊列をぶち破って散り散りにさせようか』と一人が言いました。周りの相撲たちもどうやらそれに同調する雰囲気です。私は『まあまあ』と必死になって止めました。相撲たちはどこまでいっても田舎者なので、大学寮に住む学生たちがどれだけ偉いのか知らなかったのです」
「さて、どうしようかとなおも迷っていると、肩を組んで一列となった学生たちの後ろから、一人の学生が出てきました。その学生はひと際小さくて、私たちと比べたら大人と子どもほども体格に差がありました。顔つきは女の子のように可愛らしくて、肌は綺麗な色白です。最初私は、女の子が学生の姿をして遊んでいるのかと思ったほどでした。ですが、その表情や目つきは非常に鋭く、厳しい表情で私たちを睨みつけてきます。他の学生たちよりも質の良い冠を被っていて、着ている上の衣も上等でした」
「その小さな学生が私たちに向かって言ってくるのです。『おい、お前ら無知で無学な相撲共! よく聞け! 粗野なお前たちは何も知らないだろうが、この場所は大学寮という、この国において最も神聖な場所なんだ。大学寮は式部省に属していて、そこの学生は紀伝、明経、明法、算、音、書といった難しい学問を学んで、将来は国家に重大な貢献をする官吏となるのだ。いわば俺たちは未来の国家の運営を担う高級人材なんだぞ! 俺たちの勉強は自分たちのためにやるものではない、国家のために行う神聖なものなのだ。それをお前らのような無学な相撲たちに邪魔されてたまるか! 俺の言葉が分かったらさっさとここから消えろ!』 だいたいこんなことを言ってきた記憶があります。女の子のように可愛らしい声でした。合間合間にもっと汚い言葉が挟まっていましたがね。普通の言葉とクソという言葉が一対一くらいの割合でした。ハハハ……いや、あれには参りました。ハハハ……」
「それまではどうしたものかと思っていた私も、この言葉を聞いてムッとしました。向こうが神聖な勉強をしているというなら、こちらも宮中の神聖な行事である相撲節のためにやってきているのです。確かにこちらは無知で無学かもしれませんが、だからといって粗野で下等な存在として扱われるのは我慢できません。しかし、私はその時、あえてその場から退くことにしました。なおも学生たちから罵声を浴びせられていきり立っている仲間たちをなんとか宥めると、私は『さあ、宿舎に帰ろう』と言って、朱雀門あたりまで引き返しました」
「朱雀門まで帰ってくると、私はみんなに言いました。『前々から思っていたんだが、大学寮の奴らは生意気なのだ。ちょっと頭が良いからといっていつも偉そうにしている。やんごとなき身分の方々の子弟だからといってこちらが手加減をしていると、調子に乗ってどこまでもつけあがるから困ったものだ』 いやはや、私も若かったんですな。ハハハ……しかしその時は私も本気で怒っていたんです。私は続けて言いました。『今日はこれ以上の騒ぎになるといけないと思ったからここまで退いてきたが、明日は押し通ってやろうと思う。向こうが肩を組んで通すまいとしても関係あるものか。こちらの力を存分に見せつけてやろう』 そのように私が言うと、みんな『そうだそうだ、血祭りにあげてやる』と大盛り上がりです」
「相手がやんごとない身分であっても知るもんかと、その時私は思っていました。それで問題になるのならば、その時はその時だと。前々から私は大学寮の学生たちに反感を覚えていました。都路を歩いていて学生に出会うと、学生は私に向かって『大飯ぐらいの役立たず』とか『大男、総身に知恵が回りかね』とか言って馬鹿にしてくるのですよ。立派な相撲たちがこのまま半端者の学生たちに言い負かされている方が問題だと私は思いました。明日は目にもの見せてやろうということで、その日は近衛府の宿舎に帰ることになりました」
「帰り際、私は隣を歩いていた安田という敦賀から来た相撲に声をかけました。『おい、安田よ。さっき俺たちにひときわ侮蔑的な言葉を投げかけてきた女みたいな矮躯がいただろう。俺たちの名誉のためにも、あいつだけは生かしておけん。安田よ、明日はあいつを探し出して、思いっきりあの女みたいな小さな尻を蹴とばしてやってくれ。肉が裂けたり骨が折れたりしてもかまわないぞ』 今から思うと随分乱暴なことを言っていましたね、当時の私は。ハハハ……」
「安田は真っ黒に日焼けした毛深い男で、ボコボコとした顔立ちが醜い上に常に全身から何か妙な臭いを漂わせている、そういう醜男でした。ハハハ……私の言葉を聞いて、安田はぼりぼりと脇を掻きながら『よし、それじゃあそのとおりにしよう。必ずあの矮躯を蹴り殺してやるからな』と言いました。はい? 私が安田に声をかけた理由ですか? それは、単に安田が強かったからですよ。彼はちょっと頭の回転が遅いのですが、身のこなしは素早い上に人並外れた膂力もある。身長は六尺以上ありました」
「安田は今回の相撲節の優勝候補でした。私はその日の前からずっと、どうやったら安田に勝てるものだろうと考え続けていたのですが、ついにその日になるまで勝ち筋が見えませんでした。こういうやつなら必ずあの女みたいな矮躯を殺せるだろうと、まあそう思ったわけです。それで、その日はみんな食事を終えて、さっさと寝ました」
「次の日になると、私たちはまた集団を組んで大学寮へ向かいました。まだ夜明け頃です。奇襲といったら朝駆けが基本ですからね。昇りたての朝日の薄い光線が幅の広い朱雀大路を満たしています。空気は清水のように澄んでいました。その日も暑くなりそうでした。昨日は一緒じゃなかった相撲たちも話を聞いて仲間に加わり、私たちの人数は倍以上になっていました。今日こそは大学寮に押し入ってやろう、寮の中を滅茶苦茶に荒らし回ってやろうと、みんな殺気立っていました。もし向こうが抵抗してくることがあっても構うものか、正面から踏み越えてやろうと、みんなで言いあっていました」
「ほどなくして、私たちは大学寮まで来ました。すると驚いたことに、向こうはもう万全の準備をしてこちらを待ち構えていたのです。彼らも昨日より人数を集めていて、がっちりと肩を組んで門の前を守備しています。こちら側に内通者でもいたのでしょうか、どうして彼らが私たちの奇襲を察知できたのか、今でも分かりません。ハハハ……あれには本当に……ハハハ……困りましたよ」
「私たちが近づくと、彼らは一斉に声を上げて、『相撲ども、泣きを見る前にとっとと帰れ!』と言ってきます。学生たちの前に、昨日のあの女の子のような小さな学生が立っているのが見えました。どうやらこの学生が指揮官となって仲間たちを率いているようです。小さな学生が右腕をさっと挙げると学生たちが声を張り上げ、さっと下げると静かになります」
「戦いにおいては指揮官を潰すのに限る。私は安田に目配せをしました。安田は頷くと、一直線に小さな学生に向かって突き進んでいきました。戦意が高まると、安田の独特の体臭は強くなります。ぷんぷんと異臭を放ちながら、安田は袴の括り紐を高々と上げて歩いていきます。私は、さて向こうはどうするのかと見ていました。安田は同じ相撲の私からしても同種の人類とは思えないほど大きな体躯をした男です。だから、てっきり向こうは逃げ出すものだと私は思っていました」
「ですが、あの小さな学生は逃げませんでした。そればかりか、向こうの方も袖まくりをして、一直線に安田に向かって進んでくるではありませんか。女の子のように可愛らしい顔には静かな戦意が漲っていて、やる気満々という感じです」
「期せずして、その場は安田と小さな学生との一騎打ちということになってしまいました。路上が土俵になってしまったのです。こちらも、向こうも、固唾を飲んで二人の戦いを見ています。いつの間にか喧騒は止んで、沈黙があたりを支配していました」
「先に攻撃をかけたのは安田でした。安田は私に言われたとおり、小さな学生を蹴り殺そうとして足を高く上げました。私はその時、心の中で『マズい!』と思いました。いかに相手は素人の学生で、こちらは本職の相撲とは言っても、流石にその動きは相手のことを舐めすぎでした。隙が大きすぎたからです」
「次に起こったのは、私の危惧したとおりの展開でした。小さな学生は安田が足を踏み下ろすのを見計らって、身を屈めてそれを避けたのです。周囲からどよめきが漏れました。まさか避けられると思っていなかったのか、安田は少し体勢を崩しました。それを逃さず、小さな学生は安田の足を掴みます。学生たちが声援を送り始めました」
「それでも、私としては、ああ、相手は所詮素人だなと思いました。足を掴んだところで力がなければ相手を倒すことはできません。相撲において、体格差というものは覆しようのない絶対的な差なのです。多少は技の心得があったとしても、それだけで自分よりも大きな体格をした相手を倒すことはできません。それが相撲というものなのです」
「しかし、その次の展開は、まったく予想外のことでした」
「小さな学生は、いったいどこにそれだけの力を秘めていたのか、大きな安田の足を掴んで地面に引き倒したのです。安田は受け身を取ることもできず地面に崩れ落ちました。そればかりではなく、学生は倒れた安田の両足を掴んで腋に挟むと、自分を回転の中心軸として、安田をぶんぶんと円を描くように振り回し始めました。見事な大回転です。安田は悲鳴を上げています。彼は必死になって『やめてくれ! 助けてくれ!』と叫んでいるのです。それでも小さな学生は聞き入れません」
「やがて小さな学生は、充分に勢いがついたところで安田を投げました。安田は三丈ほど宙を飛びました。そして相撲の集団の中へ墜落しました。見ると、何人もの相撲が巻き添えになって折り重なって倒れています。頭のどこかを打ったのか、安田はぴくりとも動きません」
「しばらく沈黙があたりを満たしていました。ですが、それもすぐに破れました。安田を投げ飛ばした小さな学生が無言で腕を差し上げ、そして振り下ろすと、学生たちが一斉に『相撲どもをやっつけろ!』と叫んで突撃してきたのです。向こうは勝ちに乗じています。一方で、こちらは絶対に負けることがないと思っていた安田が破れたのですから、すでに半分ほど士気を阻喪していました。それからはもう、乱戦です。学生たちは手に手に木の棒やどこかから引き抜いてきた杭を持っていて、それで私たちを殴ってくるのです。それに対してこちらは素手ですから、防戦するので精一杯でした」
「みんなが私に向かって『成村、成村! お前、なんとかしろ!』と叫びます。成り行きで私が相撲たちの指揮官ということになっていたので、そのようにみんなが言うのは当然なのですが、こちらとしては自分の身を守るのが精一杯で、とてもではありませんが指揮のことにまで気を配れません。そうこうしていると、あの小さな学生が私の姿を見つけて、一直線に突っ込んでくるではありませんか。小さな学生はこちらを指さしながら叫んでいます。『あの成村とかいうやつが相撲どもの大将だぞ! あいつをやっつけるんだ!』 その声を聞いて、十人ほどの学生が小さな学生に続いて私に向かって走り始めました」
「それで、私はどうしたのかというと……逃げました。ハハハ……ええ、私は恐ろしくなって、その場から逃げ出したんです。ハハハ……まったく勝てる気がしませんでした。あれほど強い安田を一瞬にして倒した相手です。こちらが勝てる道筋はまったく見えませんでした」
「それ以上に、私は小さな学生が浮かべている表情に恐怖していたのです。その時、小さな学生は笑っていました……犬歯を剥き出しにして喜びを満面に示していたのです。そんな顔は、それまで見たことがありませんでした。『まだまだ、大っぴらに、誰にも憚ることなく暴力を振るえるぞ』と、そういう顔をしていました。これから自分は暴力の捌け口にされるのだと一度思ったら、もう立ち向かう勇気も気力も消え果てていました」
「私は全速力で走って逃げました。私が逃げ出したことで他の相撲たちも総崩れになり、『わっ』と叫んで逃げ出しましたが、私はそれに構っていることができません。逃げているうちに、他の学生たちはいなくなりましたが、あの小さな学生だけはなおも私を追ってきます。朱雀大路を走り抜け、朱雀門まで着くと、私は脇の小さな門へと逃げ込みました。ここまで逃げれば大丈夫だろうと思っていたのですが、小さな学生は決して私を逃さないのです。ハハハ……いや、まいったまいった……ハハハ……」
「まだまだ追ってくるので、私はさらに逃げて、ついに式部省の土塀に辿り着きました。振り返ると、すぐ後ろにあの学生が迫っているのが見えました。とても逃げられないと思って、私は土塀を跳び越えることにしました。もう無我夢中でした。跳躍して、土塀にヤモリみたいに張り付いて、塀の上に自分の大きくて重い体を乗せて、早く乗り越えようと足をばたばたさせていると、学生が私の右足のかかとをむんずと掴むのを感じました」
「学生は掴んだ右足を、履いた沓ごと思いっきり引っ張りました。その瞬間、私も土塀の向こうへと体を投げていました。ええ、その後どうなったのか、予想がつくと思いますが、結果としては私の右足のかかとがなくなりました。ええ、かかとの肉をまるごと失ったのですよ。学生が沓ごと肉を引きちぎったのです。恐ろしいほどの力でした。築地の向こう側に墜落した私は泣き叫びました。足からは止めどもなく赤い血が噴き出しています。しかし、私が泣き叫んでいたのは何も右足の激痛のためだけではありませんでした。私はそれ以上に恐怖していました。いつ、そこの土塀の上にあの小さな学生が現れるものかと思うと、私はもう魂すら失ってしまいそうでした」
「そして、それはほどなくして現れました。小さな学生の二本の腕がべたりと土塀の上にひっつくのが見えました。手にはもぎとったばかりの血に塗れた私の右足のかかとを持っています。その次に現れたのは、冠を被った頭部です。最初、顔は無表情でした。綺麗な顔でした。汗一つかいていません。次の瞬間、痛みと恐怖で泣き叫んでいる私を見つけると、小さな学生は口元をきゅーっと歪めました。ええ、三日月そっくりな口の形になりました。傷ついて震えている私を見て笑っているんです。それで、しばらくの間、私のことを無言で見つめていました」
「やがて、騒ぎを聞きつけて式部省の人間が走ってくるような気配がしました。その方向へちょっと顔を向けると、小さな学生は私の方へ向き直り、その手に持っていた私の右足のかかとを投げつけました。そして、土塀の向こうへとまた消えていったのです。私は目の前に落ちた右足の肉片を手に取って見てみました。鋭利な刃物で切り取ったかのように、肉はすっぱりと切れていました」
「駆けつけてきた式部省の人間たちは親切でした。私が事情を話すと、彼らは応急処置を施してくれた上、何も言わずに近衛府までの車まで仕立ててくれました。血はなかなか止まりませんでしたし、歩くこともままならなかったのですが、なんとか私は帰りつくことができました。ハハハ……不幸中の幸いですね。ハハハ……宿舎には相撲たち全員が戻っていました。みんな大なり小なり傷を負っていました。安田も担架に載せられて帰っていました。まだ意識が戻っていませんでしたが、その日の午後に無事に息を吹き返しました。しかし、胸の骨が折れていたので、相撲節への参加は見合わせざるを得ませんでした」
「みんなの中では私が最も重傷でした。それで良かったと思います。もし、みんなを置いて逃げ出した者が無傷で帰ってきたら……きっと無事では済まなかったでしょう。ハハハ……」
「やがて、近衛府の中将がやってきて、私たちに事情聴取をしました。私は最初から最後まで包み隠さずに経緯を報告しました。中将は私に対して『それでは、どうかな。成村は、その小さな学生は良い相撲になると思うかな?』と訊きました。私は『きっと良い相撲になると思います』と答えましたが、中将は首を左右に振って『私はそうは思わない。その者はちょっと暴力的すぎる。力に優れている者を相撲と呼ぶことはできるだろうが、殊更に暴力を好む者を相撲と呼ぶわけにはいかないのだ』と言いました。今でも、あの時の中将の言葉は正しかったと思います。ハハハ……」
「それでも中将はいちおう宣旨を申請して、あの小さな学生をあちこち探し求めました。しかし結局、あの学生が何者であったのかは分からずじまいだったそうです。私もその後、何回か中将に呼ばれて、『お前、本当にその学生のことを知らないのか?』と尋ねられましたが……どうして私が知っているわけがあるのでしょう。知るわけがありません。ハハハ……」
「どんなところに優れた力量の持ち主がいるか分からない。決して慢心してはならない。それが私が事件から得た教訓でしたね。ハハハ……これで私の話はおしまいです。私は可能な限り、本当のことだけをお話ししましたよ……」
「えっ? その年の相撲節ですか? あなたも知ってのとおり、私が優勝しましたよ。怪我をものともせずに。それが何か?」
「何? どうして右足のかかとの肉がなくなっている状態で勝てたのですって? それは……ハハハ……すぐに肉をくっつけたからですよ。ほら、言ったでしょう? 刀ですっぱり斬られたみたいになっていたと。だから肉がすんなりくっついたのですよ。血はたくさん出ましたが、私はもともと傷の治りが非常にはやい体質なので、相撲節本番には間に合ったというわけです。神仏の御加護もあったのかもしれません。ハハハ……」
「いやいや、まさか、そんな……確かにあの学生は私のかかとの肉を引きちぎりましたよ。信じられないほどすごい力だったのですから。ですから、私が本当は怪我をしていなかったとか、そのようなことはありません。ええ、ありませんよ。それは邪推というやつです。私は確かにあの時、あの小さな学生によって傷を負わされていました。幸い、すぐに治ったから良かったものの、もしもっと傷が深ければ、私も安田のように相撲節に出場することはできなかったでしょう」
「……なにか言いたそうな顔をしていますね。ええ、あなたのように推測する人は当時も多くいましたよ。私が競争相手を蹴落とすために私がわざと大学寮との乱闘を演出したのだとか、私が安田をあの小さな学生にけしかけて怪我をさせて、自分だけはうまうまと漁夫の利を得たのだとか……どれも根拠のないデタラメですよ。あなたもそのようなくだらない意見に与してはいけません」
「仮にもしそうだったとしても、それではどうして私は大学寮の中に安田を倒すほど強い学生がいるのを知っていたのでしょう? あの小さな学生は、その後誰も見つけ出すことができなかったほどの謎の存在だったのです。それをどうして私が知っていたというのですか」
「ほら、どうしてもそこで矛盾が生じるでしょう? ハハハ……私にあらぬ嫌疑をかけてきた連中も、そこで躓いたんです。どうやらあなたも同じようですね。ハハハ……」
「その年の相撲節は、不慮の事故で負った重い怪我にも拘わらず、真髪成村が優勝した。そのようにわが国の相撲界は記録するでしょうね。そしておそらくそれは、今後も永久に変わりません。ハハハ……」
「そして、あの小さな学生が誰であったのかを知る人はもう誰もいないのです。あれから長い時間が経ってしまいましたからね。当時の関係者で生きているのはこの私だけです。それで良いではありませんか。ハハハ……」
「ちなみに、私に相撲を教えてくれたのは光遠という人でした。非常に力が強い相撲で、特に大回転が得意技でした。とても優しい人でしたが、しょっちゅうクソという言葉を挟むので勘違いされやすい人でした。腹違いのとても頭の良い弟がいて、官吏になるために大学寮で勉強をしているというのが自慢でしたね。ハハハ……なんでこんな話を最後にしたのか、ですって? ハハハ……なぜでしょうね……私もたぶん、もうすぐ死ぬからでしょうね。ハハハ……」
(「相撲」おわり)