「はい、この言葉遣いからもお
「腕が良いというのにはもちろん秘訣がありまして……私の家には代々受け継がれている秘伝の書があるのですよ。そこには『風を
「まあ、そうやって書かれていること自体は簡単で分かりやすいのですが、実際にこの技を身につけるとなると非常に難しい。私などは子どもの頃からこの技の修練をさせられて、数年後になってからようやく身につけることができたわけで……しかし、これは一度身につけたら死ぬまで決して忘れない技でもあります。今でも私は風の匂いを嗅ぎ分けることができますよ。習慣になってしまっているんです」
「そんな
「こうして料理人になる前は、私も家業に携わる一員として狩猟をしておりました。
「山脈の中で最高峰を誇っているのが
「実はこの
「陽界の方も山々はそれなりに険しいのですが、陰界と比べれば平坦地のようなものです。陰界の方はもう、ものすごく山が険しいのです。昼と夜の区別もなく空は常に紫色で、緑色の分厚い雲が渦を巻いています。いつも怪しい風が吹いていて、しかも凍えるように寒いのです。山々は空を割るように聳え立っていて、急峻な斜面には剃り残した毛のような樹木が何本か生えているだけ、あとはすべて岩石が剥き出しになっています。山の麓や谷はすべて深い森です。森の樹々は高さ
「ある日のことでした。いつものように私は陽界の方で仕事をしたのですが、その日に限って獲物がまったくなかったのです。風を捉えて匂いを嗅いでみても、まったく生き物の気配がしない。このままではどうしようもないということになったので、私は食糧を多めに持って陰界の方へ行くことにしました。実はこれまで陰界について長々と説明をしてきたのですが、家では『滅多なことがない限り陰界には行くな』ということになっていました。滅多なことというのは、そこへ行って獲物を得ないと飢え死するとか、そういう非常事態のことです。そういう非常事態以外では
「陽界から歩いていき、ほどなくして陰界に入りました。私は荒涼とした山の中を歩き続けました。体力を節約するためにもなるべく尾根の上を歩きたかったのですが、そこは常に強風が吹き荒んでいるので歩くわけにはいきません。難渋しながら
「すでに陰界は夜になっていました。陰界は陽界ほど昼夜の違いがはっきりとしていないのですが、なんとなく空が明るいか暗いかで察しがつきます。私はどこかで一眠りしようと思い、風が当たらなくて安全そうな場所がないかと探し始めました。そこは山の麓の森の外れでした。見上げるほどに高い樹々が周囲に生えています」
「すると、遠くの方に何かぴかぴかと、光るものが見えたのです」
「そのようなものを陰界で見るのは初めてでした。いったいあれはなんだろうと思って、私はしばらくそれを観察しました。どうやらそれは、私のいる場所から
「そのうち、火は太陽のように輝き始めました。陽界の太陽そっくりです。ほどなくして火は巨大な火の玉になりました。それのみならず、そこから怪しげな風が轟々と音を立てて吹き寄せてくるのです。この風はいったいなんだろうと、私はいつもの習慣から風を捉えてその匂いを嗅いでみました。秘伝の書には詳しく、あらゆる匂いとそれに対応する動物について書いてあるのですが、その時私が嗅いだ匂いはどれにも当てはまらないものでした。上等の線香が燃えるような、しかしどこか魚の生臭さのような、動物の血が混ざっているような、それでいて砂のように乾燥しているような、雨が降った後に湿っている石の表面の苔のような……そういういわく形容しがたい匂いです。あまり良い匂いではありませんでした。一言で名をつけるなら……それは恐怖の匂いでした。死の間際に動物が発する匂いに似ていたのです。しかしこれも、強いて言うならという感じです。あれは、もう『あれ』としか言いようのない匂いでした」
「そんな匂いを嗅いでいると、私はにわかにゾッとしました。何か自分にとって未知な事態が起こっている。そう思いました。あの太陽のような火から絶対に目を離してはいけないと思い、私は近くに生えていた一本の高い樹の
「私は火を観察していました。早く消えてくれれば良いのだがと思っていたのですが、そんな思いに反するように火はどんどん大きくなってきます。いえ、大きくなってくるのではありません。実のところ、それは山の頂上から下りて、こちらに近づいてきていたのです。近づいてくるから大きくなっているように見えたのですね。私はどきどきしながら、なおもその火を見ていました」
「近づいてくるにつれて、その火の正体が明らかになりました。それは石碑だったのです。大きな石碑でした。縦、横共に
「真っ黒な石碑の上部には虎が彫刻されていました。鋭い牙の生えた口を開けて、今にもこちらに向かって踊りかかろうとしている大きな虎です。その虎の彫刻が真っ赤な火を放っていて、その光が周囲を照らしているのでした。数万人が一斉に
「とんでもないものを見てしまったと思い、私はとにかく身を潜ませるのに必死でした。それでも私はそっとそれを観察し続けました。私が驚いたのは、その石碑が空中を浮遊していることでした。石碑は音もなく空を漂いながら山の中をあちこちと彷徨っているのです。それだけではありません。石碑が発する熱に炙られて穴や茂みの中に隠れていた動物が逃げ出すと、石碑は彫刻された猛虎の両目から虹色に輝く光線を放って、動物を焼き殺すのです。その時になって私は改めて、自分の生命の危機を感じました。石碑は、どういうわけかはわかりませんが、陰界に住まう生き物を殺戮して回っているのです」
「やがて石碑は私が隠れている樹の下までやってきました。私がいるところは地上から
「これで逃れることができたと思い、しかしまだ不安でしたから、私は銃を抱えたまましばらく息を殺して樹の上に潜んでいました。ややあって、安心したからでしょうか空腹を覚えたので、私は樹から下りて食事をすることにしました。樹から下りようとすると、また怪しい風が吹いてきました。私は風の匂いを嗅いでみました。するとそれは古井戸の水の匂い……つまり毒蛇の匂いだったのです。私は、いったいどこに毒蛇がいるのだろうと、辺りを見回しました」
「ふと、空を見上げました。すると、なんということでしょうか……今でも思い出すと体が震えます。空には毒蛇の大群がいたのです。馬鹿でかい毒蛇が何千、何万、何千万も……空を覆い尽くすほどの大群です。大きな蛇の太さは車輪ほどもあり、小さなものでも太さが一斗
「その蛇の大群が空を飛び回り、そして方向を転じて、私の隠れている樹に向かって一直線に突っ込んでくるではありませんか。私は咄嗟に、樹の下に下りて走って逃げるか、それとも樹の上に留まって隠れ続けるか迷いました。しかしあまり時間はありません。蛇の大群はもうすぐそこまで迫っています。結局、私は、蛇はまだ私を見つけていないはずだと思い決めて、そのまま隠れ続けることにしました。それに、もし下に下りて走ったところで、空をすごい速さで走る蛇の群れには簡単に追いつかれてしまうのは明白でした」
「蛇の大群はやがて私の樹にまで到達しました。このままでは見つかってしまう。私は覚悟をして銃を握り締めました。しかし突然、蛇の大群は私の目の前で方向を転じて、空へ向かって
「途端に激しく鋭い痛みが走りました。あっと思って左耳を触ってみると、耳はもうなくなっています。真っ赤な血が止めどなく流れ出ていました。私は持っていた布を使って応急処置を施しました。手当てをしつつ、私は蛇たちがどこへ飛んでいくのかを見ていました。蛇たちは紫色の空の緑色の分厚い雲を突き抜けると、また下降し、低い高度を飛び回っています。蛇の群れは、遠くから見ると一匹の巨大な蛇そっくりでした。それが山肌を舐めるようにして飛んでいるのです」
「その時でした。私は突然、膨大な熱量を感じました。はっとして視線を転じると、あの石碑が目の前にいるのです」
「私はその時初めて、石碑に目があることに気づきました。磨き抜かれた真っ黒な石碑の表面、猛虎の彫刻のその真下に、生きている人間とそっくりな目がふたつあるのです。目は冷ややかで厳しい色を
「ですが、石碑は私に対して何もしませんでした。石碑は視線を私から外すと、空を飛んでいく蛇の大群に向き直りました。そして、蛇の大群に向かって虹色に輝く光線を放ったのです。光線はだんだん太くなっていき、そのうち蛇の大群をまるごと飲み込みました。光線を受けた蛇たちは皮膚が蒸発し、皮が脱落して、真っ白に焼かれた生身を地上に向かって振り落としていきます。それはまるで万条の白絹が空を舞っているかのような光景でした」
「バラバラと音を立てて、焼かれた蛇は地上に落ちてきたのですが、数が無数であるだけに地上は瞬く間に蛇の死体で覆われました。石碑はそこへ空中を浮遊して近づいていくと……蛇たちを食べ始めたのです。そう、食べたのですよ。樹上の私からははっきりとその光景が見えました。あの両目の下に、それまで隠されていた大きな口が開いて、それが蛇を噛み砕き、飲み込んでいくのです。石碑が蛇を貪り食らう音だけが陰界の山の中で響いていました」
「どれだけ長い時間が経ったのか、やがて蛇の死体はすべてなくなりました。そして、石碑も食べるものがなくなったのを見てとると、いずこへともなく、どこか遠くへと行ってしまいました」
「私は翌日になるまで樹上に留まりました。一刻も早く陰界から出て陽界へと戻りたかったのですが、また毒蛇の大群が来たり石碑に遭遇したりしたらと思うとなかなか決心が付かなかったのです。ですが、左耳がまた激しく痛みだしていました。もう居ても立っても居られないほどの痛みです。このまま樹上にいたら死んでしまうと思い、私は思いきって樹を下りることにしました」
「急いで帰りの道を探しましたが、耳の痛みで混乱していたこともあり、また昨日の石碑と蛇の大群との戦いで山が荒らされていたこともあり、道はまったく分かりませんでした。途方に暮れながらも、とにかく山を下りていこうと歩いていくと、向こうから一人の老人がやってくるのが見えました。ゆったりとした白い服を纏っていて、髪の毛も髭も真っ白です。足には何も履いていません。私の方が老人を先に見つけたと思っていたのですが、実はそうではなく、老人の方が先に私を見つけていたようです。老人はまっすぐ私のところまでやってきました」
「老人は私に言いました。『私はずっと昔からこの山に住んでいる者だ。あんたは陽界の人間だな?』 私は『はい、そうです』と答えました。すると老人は言いました。『あんた、とんでもないものを見ただろう。あんたはあの石碑を見たな? そうだろう?』 私は『はい、そうです。あの石碑はいったいなんですか?』と尋ねました」
「老人は答えました。『あれは
「『ついに
「老人はさらに話し続けました。『ふたつの石碑のうち、一つは大きく、もう一つは小さい。あんたが遭ったのは小さな方だな。だからあんたは死なずに済んだ。小さな方は膨大な熱量を発していて、生き物とあれば蛇であろうとなかろうとすべて皆殺しにするのだが、周りの草木を燃やし尽くすほどの威力はもっていない。もし大きな方だったらあんたは焼き殺されていただろう。大きな石碑が動くと周囲
「私はふと疑問に思うことがあったので、老人に尋ねました。『お話はよく分かりました。ところでご老人は先ほど、石碑は生き物とあればすべて皆殺しにするとおっしゃいましたが、私はなぜか石碑に見逃されたのです。あれはなんでだったのでしょうか?』 老人はすぐに答えました。『わしは生き物ならばなんでもと先ほど言ったが、その中には人間は含まれておらん。それはそうであろう、あの
「そして老人は、私の左耳を見て言いました。『ところであんたの左耳だが、もうこの陰界の蛇の毒に当たってしまっている。元通りになることはない。それどころか、耳から全身にかけて毒が回りつつある。あんた、このまま陽界に出て太陽の光を浴びたら死ぬぞ。心配するな、これを塗ってやる』 そう言うと老人は襟元から軟膏を取り出して傷を治療してくれました。そればかりでなく、私に帰りの道を教えてもくれたのです」
「別れ際、私は老人に言いました。『あなたもここに一人では寂しいでしょう。私と一緒に陽界へいらっしゃってはいかがですか。あなたは私の命の恩人です。ぜひ一緒にいらっしゃってください』 すると老人は悲しそうに首を左右に振るのです。『そういうわけにはいかん。わしはあの二つの石碑がある限りこの陰界に留まらねばならんのでな』 私が『それはなぜですか?』と尋ねると、老人は答えました。『わしは
「その後、私は無事に陽界に戻ることができました。陰界にいたのは五日間にも満たない期間でしたが、陽界ではもう一ヶ月が経過していました。家に帰ると、家族は私が死んだものと思って葬式の準備をしていました。私はそれきり銃を捨てて、料理人として生きることにしました。もう息子にも狩猟を継げとは言いません。それでも、私の一族はまだ四川で猟師をしているはずですよ」
「今でも風が吹くと、私は思わずそれを捉えて匂いを嗅いでしまいます。そして、どの匂いも私がよく知っている匂いでホッとするんです。特に私は人間の匂いが好きですね。時々私は都会に繰り出して、人で満ちている大通りの真ん中に立って風の匂いを嗅ぎます。それで、自分はこうして陽界の中で無事に生きている、元気に生きていると実感するんです。私はまた、料理も好きです。どのような料理であっても必ず幸せな匂いがしていますからね」
「ええ、陰界で嗅いだ石碑のあの匂いだけは、今でも忘れることができません。今も鼻腔の裏にこびりついているような気がしてならないんです。私が猟師をやめて、数ある職業の中でも料理人を選んだのは、料理という幸せな匂いであの匂いを塗りつぶそうと思ったからです。しかし、おそらくですが、私は一生あの匂いを忘れることはできないのでしょうね」
(「石碑」おわり)
参考文献 袁枚『子不語2』(手代木公助訳、平凡社、2009年)271頁-274頁。
石碑が自動殺戮機械となってあの世の蛇の大群を殺して回っている……非常に面白い話だったので題材として選びました。調べてみると禹王は数多くの怪物退治でも有名とのことです。おそらくは治水事業と関係しているのでしょう。これは我が国における八岐大蛇とスサノオノミコトの話と類似しています。禹王を題材にして話をまた書いても良いですね。