その路線の、その駅を利用することはあまりない。私は普段バスを使っているからだ。仕事が遅くなったり、あるいは一日の最後にちょっと歩いて運動不足を解消したい時に、私はあえてその路線に乗ってその駅で降りる。だから私は、その駅の昼の姿を知らない。
駅の北側は公園、南側は浄水場になっている。私は駅を出たら南側へと向かう。それが家のある方向だからだ。駅前広場は閑散としている。チェーン店の居酒屋と、フランチャイズのレストラン以外はどの店も閉まっている。不景気のせいなのかもしれないが、あるいは元からこの土地が寂れた場所なのかもしれない。
改札を左に出て高架下へ出る。そこは駐輪場になっていて、さらに奥の方には古ぼけた店構えの中華料理店がある。メニューボードには怪しげな日本語が書いてあって、何を言わんとしているのか、分かるようで分からない。店の中からは青白い光が漏れている。ちょっと覗くと、人が動いている影のようなものが見える。だが、店内に本当に人がいるのかは分からない。
その日も私は、中華料理店の傍を通り抜けて、高架下から浄水場の正面に出た。
その時、何か音を聞いたような気がした。
初めは耳鳴りだと思った。金属と金属を打ち合わせているような音だった。しばらく耳鳴りは続いた。だが、私は無視をしてまた歩き出した。耳鳴りなどよくあることだった。それに暗い夜空から数滴の雨粒が落ちてきていて、怪しい風も吹き始めていた。私は早く家に帰りたかった。
浄水場は軽金属の高い柵で囲まれていた。中の様子はまったく分からない。柵は焦茶色に塗られていて、もしそこが浄水場であることを示す看板がなかったのならば、そこが工場であると言われても、または倉庫であると言われてもまったく判別はできないだろう。私は車道を渡り、浄水場の周囲に設けられた遊歩道へと向かう。遊歩道は煉瓦で舗装がされている。煉瓦と煉瓦の隙間には雑草が生えていた。
左側にはどこまでも浄水場の柵が続いていて、右側には住宅が並んでいる。最初に見えてくる家は、どうも奇妙な家だった。日本家屋風だが、入り口付近の作りはどこか西洋的で、しかも小料理屋か居酒屋のような雰囲気を醸し出している。だが決して店ではない。看板もなく、メニューボードもない。道に向かって広がっているガラス窓の向こうは塗りつぶしたような闇で、中の様子はまったく分からない。
提灯を見ているとまた耳鳴りがした。やはりそれは金属音のようだった。先ほどよりもはっきりとそれを聞くことができたので、私はもはやそれを耳鳴りだとは思わなかった。だが、それがどこから鳴っているのか、私には分からなかった。どこか遠いところから鳴っているようにも思われた。また顔に雨粒が当たった。私はまた歩き始めた。
提灯の下がったその家を通り過ぎると、次に来るのは西洋風だった。つまらない、無趣味な、なんということはない家で、小さな庭と鉄製の門とガレージがついている。ガレージには銀灰色のシートに包まった乗用車が一台あった。庭先にはいくつもの鉢植えが置いてあったが、どれも植物は枯れ果てていた。夏の間に伸び放題に伸びた後、栄養不足と水不足に見舞われ、最終的には冬の寒さで枯れてしまったような、そういう鉢植えしかなかった。それは枯れた植物というよりむしろ生命の残骸だった。鉄製の門は建て付けが悪いのか、風に揺られて錆びた音を薄く立てていた。
枯れた鉢植えに目を
いつしか風はもっと強くなっていた。雨粒も大きく、強くなっていた。見上げた夜の空はどこか
風が耳を打つようになった。金属音はますます頻繁に聞こえてきた。この風に乗ってどこか遠くで鳴らされている金属音が私の耳へとやって来ているのは明らかだった。工場の建設現場が終わると、ちょうど左側に坂道があって、それを登っていくと川を渡る橋に辿り着く。私は坂道を登り始めた。車止めの丸っこい白いフェンスが黒い空間の中でぼんやりと存在を主張していた。
坂道のさらに左側にはソーラーパネルが並んでいた。これが浄水場に附属する施設なのか、あるいはまったく別の施設なのか、私には分からなかった。坂道は長かった。ソーラーパネルも数え切れないほど並んでいた。パネルの設置台の周りに生えている草は綺麗に刈られていた。いったい誰が草を刈るのだろうと思った時、また金属音が聞こえてきた。金属音を聞いているうちに、私は、誰が草を刈るのかということについて自分が実のところまったく興味を抱いていないことに気がついた。私は先を急いだ。
坂道の上は、鉄橋の入り口だった。視界は広く開けていた。川は広く、緩く蛇行しながら東西方向に伸びていた。大型車両が通行できるほど大きな鉄橋が二本と、歩行者と軽車両が通行できるような小さな橋の三本が、私の立っているところから確認できた。私が渡ろうとしているのは、二本の大きな鉄橋のうちの一つだった。鉄骨を組み合わせた橋はライトグリーンに塗装されていて、橋の上は黒いアスファルトで舗装がされていた。私の他に通行者はおらず、また車両も通らなかった。私はふと、この鉄橋を建てた者は、私のためだけにこの鉄橋を建てたのではないかと思った。私の周りには誰もいなかった。
川の岸はコンクリートで護岸されていて、その上には桜の木が植えられていた。桜は
鉄橋の中心まで来た時、一段と強い風が吹いた。その瞬間、あの金属音が何か切迫感を伴ったようなリズムで私の耳の中で反響した。まるで僧侶が使う
今度は、金属音は止まなかった。音はいつまでも続いていて、私が坂道を下りていくのに比例して大きくなっていった。私は、この先に音を発しているものがあるのではないかと思った。だが、本当に音の正体を知りたいと自分が思っているのか、私には分からなかった。
坂道の左側には川と護岸と桜並木があって、右側には野球場と公園があった。私以外には誰も人はいなかった。金属音はさらに強く、大きくなっていた。雨粒はいまや断続的に私の顔に降り注いでいる。私は傘を持っていなかった。
唐突に、私はそれに辿り着いた。
それは坂道の麓にあった。一本の錆びた鉄柱があり、その中ほどから何か白い紐のようなものが伸びていた。私は歩度を早めることなく、そのままのスピードで鉄柱に近づいた。遠くからでは分からなかったが、鉄柱から伸びている白い紐は一本だけではなかった。それは何本もあった。それはビニール紐だった。鉄柱の中ほどにビニール紐が結び付けられていた。無数のビニール紐が垂れ下がっていた。
私は見た。無数の白い紐が垂れ下がっているその先端に、鍵が結び付けられていた。多種多様な鍵だった。小さな鍵、ロッカーの鍵、自転車の鍵、ドアの鍵、金庫の鍵、自動車の鍵、南京錠の鍵、おもちゃの鍵……すべての紐の先に鍵があった。どの紐にも鍵がついていた。
風が吹いた。紐がクラゲの触手のように揺れ、鍵も揺れた。鍵が鉄柱に当たる度に、あの聞き慣れた金属音が鳴り響いた。無数の紐が一体となってクラゲのように
私はしばらく鍵を見ていた。鍵を見ながら金属音を聞いていた。
遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえた。雨はさらに激しくなっていた。私は濡れてしまった眼鏡のレンズをハンカチで拭くと、鉄柱を通り過ぎてまた歩き始めた。
背後から金属音が聞こえることは、もうなかった。
(「鍵」おわり)
今回も4,000字くらいになってしまった! 2000字くらいで収めたいのですが……ちなみに今回は作者自身が体験したことに脚色を加えた上で小説にしてあります。