「水怪」
仕事で江西省にいた頃、私は一人の男と知り合いだった。随分と変わった男だった。
私の官舎から少し離れたところに大きな瓢箪型をした池があった。池の水質は良く、水辺には緑の草木が生えていて、その間を白い水鳥が泳いでいる。朝は水面がきらきらとした美しい光を放ち、夕方になると肺臓を浄化するかのような清涼な風が吹き渡る。市の人間はしょっちゅうこの池に来て、水辺で憩ったり、周囲を散策したり、あるいは釣りに興じたりしていた。
その男は、この池で漁をしていた。男の歳はだいたい四十歳くらい、全体的に痩せていて、腕も足も古木のように筋張っている。簡単な上着以外には褌しか身につけていない。一見すると浮浪者のようにも見えなくもないが、市の外れに小さな家を持っていた。老いた母と二人暮らしをしているとのことだった。妻と子は流行り病で死んでしまったらしい。顔つきはどこか茫洋としているが、言葉遣いはしっかりとしている。声をかけるとにこやかな顔をして挨拶を返してくる。
男の漁の方法は非常に変わっていた。男は網も釣り竿も銛も使わない。素手で獲物を捕えるのだ。ただし、ただ素手で捕まえるのではない。特殊な呪文を唱えるのである。ぶつぶつと呪文を唱えながら、男は水辺をふらふらとした足取りで歩き回る。呪文の内容は分からない。男にその呪文の意味はなんだと聞いたところ、なんと男自体もその意味するところを知らないとのことだった。父から教えられたのだという。そしてその父もその父から、その父もまたその父からというように、この呪文は教え継がれてきたらしい。
男が呪文を唱えながら水辺を歩いていく。すると、見る間に水辺には波が沸き立って、魚だの鼈だのが無数に集まってくる。その時の水面は真っ黒になったかのようになっている。そして男は、何の造作もなく手を伸ばして魚や鼈を捕まえるのだった。そして、漁を終えると家へと帰っていく。しかし男は決して多くを獲り過ぎることはない。男にとって必要な分だけを獲って、それを食べたり、あるいは市で売って金に換えて生活するのである。
私は一度、男に向かって、どうしてもっと多く獲らないのかと尋ねた。もっと多く獲れば金持ちになれるだろうに。すると、男はとんでもないというような顔をして答えた。この呪文は生きるのに必要な分以上に生き物を獲ると大変なことになると言われているのです。父も私に、このことだけは絶対に守るように口を酸っぱくして言っていました。私も、この呪文を使って儲けようとは思っていません。私は他に生きる方法を知らないのでやむを得ずこの呪文に頼っているだけです。本当は生き物の命を奪うのもあまり好きではないのです。私は男の生き方に感心した。この男は足ることを知っている。そのことを告げると、また男は恐縮したような顔をして言うのだった。そうではありません。私は単に、怖いだけです。もし決まりを破ったらどうなるのかと、そのことだけを怖れています……
男が池の水辺で漁を始めると、多くの人間が見物に来る。見物人たちは男の周りに生き物が集まってくるのを興味深そうに見ている。ただし、誰もその「漁夫の利」に与ろうという者はいなかった。男の方も、さっさと仕事を終えるとさっさと帰っていく。男の仕事は大抵十分か十五分くらいで終わってしまう。市の人間にとって、男の漁は何も特別なことではなく、ごく普通の日常の光景の一つに過ぎないようだった。
ある日の朝、私が仕事へ行く途中、男が市から外へ出ようとしているのに出会った。車の上から私が声をかけると、男も頭を下げて挨拶を返してきた。どこへ行くのか尋ねてみると、市から少し離れたところにある大きな湖に行くのだという。私の家にはいつも病気がちの老母がいるのですが、最近になって空咳が止まらなくなってしまいました。薬を買おうと思っているのですが、池で獲れるものを売るだけでは足りそうにありません。これから大きな湖に行って、大きな獲物を狙おうと思っているのです。そうすれば、薬を買うだけのお金が手に入るはずなので……私と男は別れた。
その日の夕刻、私が仕事から帰ってくると、市の入口に多くの人が集まって騒いでいるのが見えた。何事かと思って近くまで車をやってみると、なんとあの男が戸板に載せられて運ばれているところだった。男はなぜか頭に褌を巻いていた。顔色は土気色になっていて、じっと目を閉じている。上着は破れていて、肩から首にかけてびっしりと傷を負っており、かなり出血していた。まるで何かに引っかかれたような鋭い傷跡だった。
男は意識がはっきりしないようだった。これ以上その場に留まっても何も意味がないと思い、私はそっとその場から離れた。家に帰ってから私は僮を呼んで、男と、男の母の二人分の薬代を包んで、男の家へと届けさせた。
数日が経ってから池に行ってみると、また男が水辺を歩いているところに出会った。どうやらこれからいつもの仕事にかかるようだった。男はまだ首付近に包帯を巻いていたが至極元気そうで、顔色もずっと良くなっている。私に気づくと男は駆け寄ってきて、私に対してしきりに頭を下げた。どうもありがとうございました。いただいたお金で薬を買ったところ、私も母もたちどころに元気になりました。どのようにお礼をしたものか分かりません。あなたは私たちの命の恩人です……
私はあの日、いったい男に何があったのか訊いてみた。すると男は恥ずかしそうに頭を掻きながら答えた。はい、私はあの後、すぐに湖に行きました。いつものように呪文を唱えながら湖の岸辺を歩き回っていると、すぐに大きな魚だの亀だの鼈だのが集まってきました。どれも市近くの池で獲れるものより二回りほど大きいんです。これだけ大きい獲物ならば高く売れるだろうと思って、私は夢中になって捕まえていたのですが……
男は話し続けた。すると、私のすぐ近くでごぼごぼという激しい水音がするのです。はっとなって顔を上げてみると、水面が沸騰しているかのように激しく泡立っていました。次の瞬間、何か大きな影が水の中から飛び出してきたのです。それは一匹の妖怪でした。水怪というやつです。見た目は猴そっくりで、背の高さは大体二尺か三尺あります。皮膚は濃い緑色で、両目は金色に輝いています。手には鋭い爪が生えていて、まるで磨かれた玉のようです。腐りかけの魚のような生臭いにおいがしました。
男の話は続いた。水怪は口を開け、牙を剥き出しにして、私に向かって飛び掛かってきました。ちょっとどうやって言い表したものか分からないほど、ものすごい形相をしているのです。強い憎しみと敵意を感じました。戦ったところで勝てるわけがありませんから、私は履いていた褌を脱ぐと、それを頭に巻いて逃げ出したんです。
私はここで口を出した。なぜ褌を頭に? 男は頷いた。水怪に襲われた時はそのようにせよと、父から教えられたのです。そうすると細かな傷を負うことはあっても、致命傷を負わされることは避けられると……私が頷いて先を促すと、男はまた話し続けた。私は走ったのですが、水怪も足が速く、すぐに追いつかれてしまいました。水怪は鳥の鳴き声のような奇声を上げて私に飛び掛かると、私の肩の上に乗りました。それからはもう、その手の鋭い爪で無茶苦茶に私をひっかくんです。耳を引っ張るし、髪は引っ張るし、額にも掴みかかる。目だけは褌で守っていましたからやられませんでしたが、もしそうしていなかったら目玉をほじくり出されていたでしょう……
男はさらに話した。私もいちおうは抵抗したのですが、抵抗すればするほど水怪は怒り狂って私への攻撃の手を強めるのです。そのうち私は地面に倒れてしまいました。水怪はさらに勝ち誇ったかのように私に馬乗りになると、またひっかいてくるのです。どうやら水怪は頭に巻かれている褌を引き剥がそうとしているようでした。このまま褌を取られたら死ぬだろうなと思いつつ、私はそのうち気を失ってしまいました。
この後のことは、私を助けてくれた人たちから聞いたのですが……男は続きを話した。私が水怪に襲われているのを見て、湖にいた人々が集まって助けに来てくれたのです。多くの人々が駆け寄ってきても、水怪はなおも私の命を絶とうとしていたらしいのですが、みんなが釣り竿や銛や杖で叩いたり突いたりしたところ、水怪は鴉のような鳴き声を上げて逃げていったとのことです。水怪は一丈ほど跳躍した後、また湖の中へと消えていきました。その後、私は人々に介抱されて、この市へと生きて帰ってくることができたのです……
いったい、どうして君は水怪に襲われたのかな。私がそう尋ねると、男はいつものぼんやりとした顔を少し緊張させて、真剣な色を含んだ声で言った。それは、私が呪文を使う時の言いつけを破ったからでしょう。普段から私は魚や鼈を獲っていますが、自分の必要以上は獲りません。しかしあの時の私は、母の病気を治す薬を買うためとはいえ、必要以上に獲り過ぎました。それだけでなく、たくさんの大きな魚と鼈を獲っているうちに、だんだんと楽しい気分になってきていたのも事実です。私はあの時、本当に夢中になって獲っていたのです。自分の仕事が楽しいと感じたのは、あの時が初めてでした。そして、楽しいから必要以上に獲ってしまったのです……
男はさらに言った。魚や鼈は水怪の子孫だと言われています。おそらく水怪は、私が子孫を傷つけて殺すのを許すことができず、復讐に来たのだと思います。その気持ちはよく分かります。私にも以前は子どもがいましたからね……もし褌を巻いて頭を防御していなかったら、きっと私の頭はあの鋭い爪で割られていたでしょう。
私は男に、水怪とは怖い妖怪なのだなと言った。すると男は静かに首を左右に振った。いいえ、水怪というのは本来、とても穏やかで大人しい妖怪なのです。人が生きるのに必要なだけの魚や鼈を獲るだけだったら、水怪は黙って見逃してくれます。自分の子孫なのに、それを許してくれるのですよ。しかし、もし人がその必要以上に獲物を獲ったら……
私は頷いた。私は、君の唱えている呪文も、もしかすると水怪と何か関係があるのかと訊いた。男は頷いた。ええ、お察しのとおり、私が唱えているこの呪文は、もともと水怪から教えてもらったものなのです。私の数代前の先祖が、何かの理由で陸に打ち上げられて難渋している水怪を助けてやった折に、お礼としてこの呪文を教えてもらったそうで……その時、水怪からは、決して必要以上に生き物を獲るなと言われたそうです。さもなければわしらの一族がお前を殺しに行くぞと……
その後、任期が切れるまで私はその市で勤務し続けた。男は元気に仕事を続けた。北の安徽省へ転勤することが決まり、そのことを男に告げると、男はその夜、一匹の大きな鼈を持ってきてくれた。湖に行って獲ってきたと男は言った。私がそのようなことをしてまた水怪に襲われでもしたらどうするのだと冗談半分に言ったら、男の方も笑って大丈夫ですよと言った。大切な人への贈り物として獲るのだったら、水怪も許してくれます。水怪は心が広くて優しい妖怪ですからね。
その鼈は、少し泥の味がしたが、とても美味だった。鶏の胸肉のような淡白さと、上等な魚の脂を合わせたような味わいだった。首を切った時に出た赤い生き血は焼酎で割って飲んだ。これも美味だった。
食べている最中、私は、何だかしきりに脳裏に水怪の姿がちらついてしまって、終始落ち着かない気分だった。それ以来、私は鼈を食べていない。また、もう一度食べようとも思わない。
(「水怪」おわり)
「白鼠」
川西の住人である陳は火夫を生業としていた。性格は粗暴で大酒飲みだったが、勇気があり卑怯を嫌ったので、周りの人間からは信頼されていた。火夫という重労働で鍛えられた肉体はがっしりとしていて、骨格も非常に頑丈だった。
ある夜、陳はいつものように大酒を飲んで酔っ払い、自分の牀の上に仰向けになって眠っていた。その夜、陳は強くて濃い焼酎ではなく、薄くて弱い濁酒を大量に飲んだものだから、酔ってはいても完全に酔い切るというわけでもなく、また眠りの世界にもなかなか沈んでいかなかった。腹の中にはまだ大量の濁酒が残っている感じで、仰向けになっていないと吐いてしまいそうだった。仕方がないので、陳は起きているような起きていないような、そういう中途半端な覚醒状態のままで、じっと目を閉じて臥せていた。
しばらくすると、何か重い物が腹の上に乗っているような感じがした。岩石のように重い何かが自分の腹の上にずっしりと覆い被さっている。いったいなにごとかと思って、陳は目を開けてみた。
すると、一人の老人が自分の腹の上に乗っているのが見えた。老人の髪の毛も髭も真っ白だった。顔つきもしわくちゃで古びている。しょぼしょぼとした二つの目が闇の中で輝いていた。老人は何も言わず、身じろぎ一つしない。ただ無表情のまま、陳の顔をじっと見てくるだけだった。
普通ならば大声をあげるなり振り払うなりするところだったが、その時の陳の意識は朦朧としていた。陳は酔った者に特有の短絡的かつ断定的な思考で、これはきっと同僚の誰かがふざけてこうしているのだろうと思った。彼の同僚の中にこういう老人はいなかったが、彼は確かにそれが同僚の一人だと思った。だから彼はまったく怖がらなかった。ただ、こんな夜に悪ふざけとはいえ面倒なことをするなと思っただけだった。
しかし、こうして腹の上に乗られているというのは問題だった。老人の重みによって胃が強く圧迫されていた。陳は、このままだと胃の中身の濁酒が全部出てしまうのではないかと思った。だんだん吐き気まで漂ってきたので、陳は老人をどこかにやることにした。ちょうど季節は初秋で、その夜は特に肌寒かったこともあり、陳は単の衾を掛け布団としていた。彼は火夫として鍛えられた持ち前の怪力を発揮して衾を押し上げると、それで岩のように重い老人を包み込んでしまい、そのまま押さえ込んでしまった。ようやく楽な体勢を取ると、その後陳はすんなりと眠ることができた。
翌朝の明け方頃、陳は目を覚ました。喉がからからに渇いていて、頭はずきずきと痛む。これは完全な二日酔いになってしまったと思い、とりあえず寝具を片付けてから厠に行こうと思って、彼は衾を引きずった。すると、何やら重みを感じる。いったいなんだと思っていると、衾の中に一匹の白い鼠が入っていた。
白鼠は大きかった。口の先から尻尾の先まで三尺以上はある。鼠は押し潰されて、すでに死んでいた。口からはべったりとした糊のような赤黒い血が出ている。陳は、それではゆうべ自分の上にのしかかっていたあの老人はこの白鼠だったのだと思った。
陳は白鼠の死体を自分の主人に見せた。主人は言った。
「これは『玉策記』にも書かれている妖怪の『仲能』というやつだろう。『捜神記』では、仲能は百歳の白鼠でよく人に憑依をして卜をするとある。一年中の吉凶を詳しく知ることができるそうだ。人相見などは仲能を生け捕りにして、その力を借りて人の吉凶禍福を占うそうだが……これはもう死んでいるからどうしようもないな」
(「白鼠」おわり)
「返事」
魏の第三代皇帝である曹芳の正始年間(西暦240-253年)の話である。河北省中山出身の王周南は、河南省の襄邑県の知事を務めていた。
まだ蜀漢だの呉だのといった独立勢力が盛んに蠢動していた時期である。知事としての仕事は激務を極めていた。その日も王が官邸の広間で朝早くから執務をしていると、壁に開いた穴から一匹の白い鼠が出てきた。
白鼠は大きく、長い髭を生やしている。尖った口の先から尻尾の終端部まで、三尺ほどはあった。鼠はぬるりとした怪しい動きで穴から全身を現すと、執務机に向かって黙々と竹簡に文章を書いている王のそばまで近寄っていき、ちゅうちゅうとわざとらしい鳴き声を上げて、それから人間の言葉で言った。
「王周南よ、汝は某月某日に死ぬことになっておるぞ」
老人のようなかすれ声だった。しかし、王は白鼠の言うことに耳を傾けなかった。彼はただ、今日中に終わるのかよこの仕事と思っていた。それほどまでに仕事が溜まっていたのだった。一向に取り合おうとしない王に向かって、鼠は苛立ったように再度同じことを言った。
「王周南よ、汝は某月某日に死ぬことになっておるぞ」
うるさいなぁと王は思った。死ぬのがなんだ。こっちは仕事で忙しいのだ。そう思った王だったが、返事はしなかった。彼が無視をし続けると、鼠は呆れたように首を左右に振り、長い尻尾を引きずって穴へと帰っていった。
それから鼠はしばらく姿を現さなかった。王は毎日、絶望的なまでに大量の仕事をこなしていた。
やがて、その某月某日になった。王周南は、あの時こそ白鼠を無視したが、その実、それが言っていることにはしっかりと耳を傾けて内容を記憶していた。今日、自分は死ぬことになるのだろうか? 一瞬だけ王はそのようなことを考えたが、その日もいつもと同じく大量の仕事を抱えていたので、王はすぐにそれを忘れてまた仕事に取りかかった。
すると、またあの白鼠が穴から出てきた。穴から突き出された鼻がひくひくとせわしなく動いている。鼠はぬるりとした怪しい動きで穴から全身を現した。なんと今度は頭巾を被っていて、黒い着物まで着ている。執務机に向かって黙々と仕事をしている王のところまで駆け寄ってくると、白鼠はちゅうちゅうとわざとらしい鳴き声を上げて、それから人間の言葉で言った。
「王周南よ、汝は今日の昼ちょうどに死ぬことになっておるぞ」
うるさいなぁと王は思った。なにしろ信じられないほど仕事が溜まっているのである。今日の昼ちょうどに死ぬからなんだ。こっちはすでに死ぬほど忙しいのだ。そう思いつつも、王はまったく返事をしなかった。王が無視をして一切取り合わないでいるのを見ると、白鼠は苛立ったようにまた同じ言葉を繰り返した。
「王周南よ、汝は今日の昼ちょうどに死ぬことになっておるぞ」
そして、そう言い終えるなり、鼠はまた穴へ向かって戻っていった。しかし今度は入ったかと思うとまた出てきて、出てきたかと思うとまた入っていく。白鼠は盛んに行ったり来たりしながら同じ言葉を繰り返した。だが、王周南は何も言わなかった。心の中で、本当に今日中に終わるのかよこの仕事と思いながら、彼はひたすらに竹簡に書かれた文書を処理していった。
やがて昼になった。白鼠は狂ったようにずっと同じ言葉を繰り返しながら穴から出たり入ったりをしていたが、ちょうど真昼になると、別の言葉を口にした。
「王周南よ、汝が我に返事をしないのであるならば、汝の代わりに我が死ぬしかないぞ」
そのように言い終えると、白鼠は突如としてひっくり返り、数秒間だけ手足をぴくぴくと痙攣させた後、まったく動かなくなってしまった。それまで身につけていたはずの頭巾や黒い着物もいつの間にかなくなっている。王周南は横目でちらりと鼠を見て、なんか勝手に倒れているなぁと思ったが、やはりまだまだ処理すべき文書が溜まっていたので、彼は鼠を無視して仕事を続けた。
やがて、夕刻になった。王は何とかその日の仕事を終えた。肩を回して深呼吸をしていると、視界の端に大きな白鼠が転がっているのが見えた。そういえば昼頃に勝手なことを言って勝手に死んだ鼠がいたなぁと思い、王は座席から立ち上がって鼠のところまで行った。
彼は鼠の死骸を持ち上げて検分をした。鼠の死骸には何も変わったところはなかった。鼠はずっしりと重かった。彼は部下を呼んで官邸の庭を掘らせると、そこに鼠の死体を埋めさせた。
「これはいったいなんですか?」と部下の一人が鼠の死体を抱えながら王に尋ねた。「こんなにデカい鼠が官邸に住んでいたのですか?」 王は頷いた。「デカいだけじゃない。人の言葉まで喋ったんだ」 部下は言った。「それなら、明日は鼠退治でもしますか」 王はしばらく考えてから、首を左右に振った。「やめておこう。明日もきっと忙しい。そんなことをしている時間的な余裕はない」
部下たちが土を被せているのを見ながら、王はふと、もし自分が返事をしていたらどうなっていたのだろうかと思った。同時に彼は、明日こなさなければならないであろう仕事のことを考えた。
やっぱり、返事をしておくべきだったかもしれないなぁ。王がそう思った時には、鼠の埋葬はもう終わっていた。
(「返事」おわり)