フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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44. 猟師

 昔、(みやこ)の北西にある愛宕(あたご)の山に、もうずいぶん長い間修行をしている聖人(しょうにん)様がおりました。聖人様は長年修行をしていて、僧房から出たことがありません。聖人様が僧房に入ったのは、聖人様がまだ小さな子どもの頃のことでした。ですから聖人様は間違いなく高徳な僧侶ではありましたけれど、世間知らずでもありました。端的に言えば、聖人様はちょっと馬鹿でした。もちろん学問的な知識は豊かですし、仏様を信仰する気持ちは誰よりも深いのですが、そのようにあることと世間知らずであることとは無理なく併存するのです。

 

 ところで、(みやこ)の西の方にはひとりの猟師がいました。実はこの猟師は、聖人(しょうにん)様とは幼馴染でした。まだ小さい頃は二人で一緒に野山で蛙を引き裂いたり芋虫を千切ったり蟻の巣を水攻めにして遊んだりしたものでした。その頃には聖人様にも童心ゆえの残酷さというものがあったのです。聖人様が僧房に入ってしまった後も、猟師は幼馴染を助けることを忘れず、いつも訪れては食べ物などをさし上げたりしていました。もちろん食べ物といっても聖人様は動物の肉を食べられません。猟師は獲物を都で売って、それを米や麦や豆に替えて持ってくるのです。

 

 さてこの猟師は、やはり幼馴染だったからでしょうか、聖人(しょうにん)様が高徳ではあるけれども世間知らずであることを熟知していました。こんなに世間知らずだったら、いざ僧房から出て世の中に放り出されたら三日も経たずに死んでしまう。そのように猟師は常々思っていました。だから、こういう人はもう一生僧房から出ないで、一生世間と関わり合いにならずにいた方が幸せだろう。そのように思えばこそ、猟師はいつも食べ物を運んできたのです。

 

 幼馴染に対して割と酷い評価を下していた猟師ですが、それでも聖人様の好きなところはたくさんありました。その中でも特に猟師が好んでいたのが、聖人様の読経(どきょう)です。お経の意味はまったく分からないながらも、猟師は聖人様が他念(たねん)なく唱え奉るお経を聞くのが大好きでした。聖人様の声は透き通っていながらも気高く、朗々と響き、獣を殺戮することで鬱っぽくなった気持ちも晴れ晴れとするのです。このお経を聞きたいがために猟師は毎日のように僧房へ食べ物を持ってきたのでした。

 

 しかし、猟師の方にもいろいろと都合というものがありました。ある年の、ある夏のことでした。猟師は不猟に悩んでおりました。その年に限ってなぜか獲物が少ないのです。猟師はなんとかその家族を養う分だけの獲物を得ることはできましたが、とても聖人様の方へ食べ物を持っていく余裕がありませんでした。それで、夏も終わり頃になって獲物の数がまた増えてくると、猟師はようやく聖人様への差し入れを持って僧房を訪れることができたのです。干飯(ほしいい)や乾燥豆などを袋に入れて、猟師は持っていくことにしました。

 

 もしかしたら餓死してるかもなぁと猟師は思いました。まさか聖人様だって自分の差し入れだけに頼って生きているわけでもないだろうと猟師は思っていましたが、それではこれまで自分以外の誰かが聖人様に差し入れしているところを見たことがあるのかといえば、それもないのでした。いや、でも、まさか、流石に餓死はしていないだろう。ちょっと痩せているかもしれないが、流石に飢え死までは……ぐるぐると猟師の頭の中では想念が渦巻きました。流石に飢え死しそうになったら僧房から出るだろう。僧房から出て、愛宕の山を下りて、都で食を求めるくらいのことはできるに違いない……だって、生命の危機だぞ。そう考えてから、猟師は勢いよく首を左右に振りました。いや、あの世間知らずの聖人様にそういう自活の能力はない! 飢え死するか、世間に出て食を求めるかとなったら、簡単に飢え死の方を選ぶ。それがあの聖人様だ! そう思ったので、猟師は急いで僧房まで向かいました。

 

 猟師は僧房に辿り着きました。平たい屋根の小さな僧房は古びて傾いていて、壁面にはびっしりと緑色のつる植物が伸びていました。猟師はどきどきしながら、聖人様、生きていますかと声をかけて僧房の中に入りました。万一死んでいたらこの山の中の誰に声をかけてどういう葬儀をすれば良いのかなぁなどということを直前まで猟師は考えていたのですが、聖人様はちゃんとした姿で僧房の真ん中にいました。ニコニコと笑っていてけっこう元気そうです。猟師はホッとしました。

 

 聖人様は猟師に今日もよく来てくれた、ありがとうと言いました。もう一ヶ月近く会っていないから心配だったよ。狩猟の最中に不慮の事故(アクシデント)にでも遭ったのではないかと思って……猟師は、長い間来れなくて申し訳ありません、今年は妙に獲物の数が少なかったもので……と言い訳をしました。猟師は聖人様の顔を見ました。先ほどはけっこう元気そうだと思ったのですが、よくよく見ると頬はこけて顔色は土気色をしています。猟師は思わず、ところで私が来なかった間は誰に食事の面倒を見てもらっていたのですかと聖人様に聞きました。聖人様はニコニコと笑ったまま答えました。あなたが来なかった間は、誰もここに来ませんでした。幸い仏様の御加護があって、私は飢えも渇きも知らずに過ごすことができました。お経を唱えているとどんどん力が湧いてくるのです……聖人様はその後もいろいろと喋っていましたが、猟師はあまり聞いていませんでした。そして、ああもっと早く来れば良かったと少し後悔しました。

 

 それから二人はしばらく世間話をしました。猟師が近頃、(みやこ)では火薬の値段が上がっていて、一発銃を撃つにも(ぜに)が余計にかかるということを話せば、聖人様はそれでは猟師をやめてあなたも僧房に入りなさいと言い、また猟師が近頃、(みやこ)では米の値段が上がっていて、家族に食事をさせるにも一苦労だということを話せば、聖人様はそれでは家族全員が世俗の生活を捨ててみんな仏道に帰依すれば良いと言います。猟師としてはただ世間話としてそれを話しているだけなのですが、聖人様の方はいちいち真剣に返答(マジレス)してくるので、猟師は内心に多少イライラしたものを覚えました。いつもそうなのです。聖人様はなにかとあれば仏道に入れとばかり言ってくるのです。幼馴染じゃなかったら、それから読経が上手じゃなかったら、俺はとっくの昔にこいつとは縁を切ってるぞ。そのように思いさえもしました。しかし聖人様の方はそんな猟師の心も知らず、いつまでもニコニコとしているのです。

 

 そうこうしている間に、最近あった変わったことに話題は移りました。聖人様が猟師に、あなたは何か変わったことはありませんでしたかと尋ねます。猟師は特に変わったこともなかったので、別に何もありませんでしたと答えました。すると聖人様は、猟師の方へずいと膝を進めて来て、それまでのニコニコ顔をちょっと引き締めて、猟師に言いました。私の方は、近頃、大変尊いことがあるんですよ。ここ何年もの間、一心にお経を唱えて信心を守り続けていたおかげでしょうか、このところ毎晩、普賢菩薩(ふげんぼさつ)様が姿を現しなさいます……猟師は、うわっと思いました。そして、やっぱりもっと早くここに来るべきだったと思いました。いくら高徳な聖人様であっても、普賢菩薩様が目に見えるなどというのは尋常なことではありません。どう考えても栄養失調から来る幻覚症状だと猟師には思われました。

 

 それでも猟師は正面から聖人様の話を否定することはせず、ただそれはとても尊いことでございますと言いました。そしてすかさず、ところで聖人様、お腹は減っていませんかと猟師は尋ねました。聖人様はええ、とてもお腹が減っていますと答えました。それでは今から粥なりなんなりを煮ましょうと言って猟師が立とうとすると、まあまあもっと話を聞いてくださいと言って聖人様は立たせまいとします。聖人様は言いました。普賢菩薩様は大きな真っ白な象に乗って姿を現しなさいます。毎晩、大きな象に乗ってやってきてくださるのですよ。あなたは象を知っていますか。猟師は象という動物についてまったく知りませんでしたが、猟師でありながら動物について詳しくないというのは職業的な矜持(プライド)に関わると思ったので、ええ、まあ、一応はと答えました。聖人様は猟師に言いました。あなたも今日は帰らないでここに残って、象に乗った普賢菩薩様を拝んでいきなさい。

 

 なんだか面倒なことになったなぁと猟師は思いましたが、聖人様のお言葉を無下にするわけにもいきません。猟師はそれはまことに尊いことでございます。それでは今日は私もここに残って、普賢菩薩様を拝み申し上げましょうと答えました。そう答えると、聖人様はまたニコニコとした顔に戻って、それでは夜まで待ちましょうと言いました。そして、何事もなかったかのようにお経を読み始めました。猟師は、夜になるまでに聖人様に食べ物を食べさせようと決意しました。幻覚症状を治すには食べ物を食べるのが一番です。もっと読経を聞いていたいという気持ちを抑えて、猟師は僧房の外にある調理場に行って、お粥を煮ることにしました。

 

 ところで、その僧房には使用人の少年(ボーイ)がいました。聖人様の日常の雑事をこの少年がやっているのです。年齢は十二歳くらいで、頭の出来は中くらいよりちょっと下でした。猟師が調理場でお粥を煮ていると、少年は離れたところからその様子を窺っていました。猟師が少年に気づくと、少年はヘラヘラとした顔をして近寄ってきました。へへ、猟師さん、この夏の間は全然ここに来なかったね。不猟だったのかい。少年の口調はどこかませていました。元は都の路上浮浪児(ストリートチルドレン)だったのですからそれも当然です。そうだよ、今年ばかりはもうダメかと思った。そのように猟師が答えると、少年は、絶対に廃業なんかするなよ。あんたが廃業したら俺も聖人様も飢え死だよと言いました。そして、煮られている粥をじっと見つめるのです。

 

 聖人様は飢え死するかもしれないが、こいつは死なないだろう。そのように猟師は思いましたが、口には出さないでおきました。少年は気の毒なほど痩せていました。前はけっこうぽっちゃりとした体型だったのに、この夏の間に随分と痩せてしまったようです。猟師は、おそらく少年は自分の食事を削って聖人様を助けていたのだろうと思いました。そして、こいつも俺と同じで難儀なやつだなぁとも思いつつ、ふと気になったことを尋ねました。おい、ところでさっき聖人様が、最近は毎晩普賢菩薩(ふげんぼさつ)様が白い象に乗って現れると言っていたが、お前もこの仏様を拝み申し上げたのか。そのように訊くと、少年は鍋の中で湯気を立てている白いお粥を一心に見つめながら、ああ、見た見たと答えます。もう五、六回ほどは見たかな。

 

 それで猟師は、ああ、やはりこれは間違いなく栄養失調からくる幻覚症状だなと確信を深めました。早く何か食わせてやらないと本当に気が狂うかもしれない。猟師は出来上がったお粥を器によそって、早速聖人様と少年に食べさせてやりました。二人ともガツガツと音を立ててお粥を貪り食いました。おかわりを何杯も要求してきます。そんなこともあろうかと思って、猟師はあらかじめ多めにお粥を作っておきました。ですから、聖人様も少年も、満足いくまで食事をすることができたのです。

 

 食事が終わった頃にはもう夜になっていました。聖人様には普賢菩薩様を拝んでいくとは言いましたが、本当のところ猟師は適当な頃合いを見計らって家に帰るつもりでした。明日も仕事があるからです。しかし猟師はいつしか、帰る機会を完全に失っていました。こうなったらもう一晩中付き合うしかないと思って、猟師は腹をくくりました。満腹になって元気を取り戻した聖人様は、朗々と声を張り上げてお経を唱えています。それはいつものように素晴らしい読経でした。やっぱり来た甲斐があったな。そう思って、猟師は聖人様の後ろでじっと静かにしていました。少年は僧房の端の方で手枕をして眠っています。

 

 まさか来るわけがないだろう。猟師はそう思っていました。猟師は夜空を見上げました。金砂(きんさ)銀砂(ぎんさ)のごとき星々が点々と煌めています。今はもう九月(ながつき)二十日(はつか)です。大きな丸い月は煌々と輝いていて、下界は白々と照らされています。秋なので夜は長いのです。時折、夜の愛宕の山の中を風が吹き渡りました。読経の声と風の音を楽しみながら、猟師は長い夜が明けるのをひたすらに待ち続けていました。

 

 夜半を過ぎると、急に雲が出てきました。月が雲に隠されて、月光が遮られました。闇が辺りを包みます。自分の手指すら見えないほどの闇です。猟師は何も見えない状態のまま座っていました。すると突然、周りの山々から激しい強風が吹き始めました。怪しい風でした。どこか獣臭(じゅうしゅう)を含んでいます。何か妙なことになって来たなと猟師は思いました。うすら寒いものも感じます。ことによると、本当に何かが出るのかもしれない。猟師はにわかに緊張し始めました。しかし聖人様は読経を続けたままです。

 

 その時、また雲が急に晴れました。僧房の中に月光が差し込んで、昼間のように明るくなりました。猟師はあっと言いそうになるのを必死にこらえました。猟師は僧房の入口を見ていました。

 

 そこには、なんと、普賢菩薩(ふげんぼさつ)様がいらっしゃるのです。

 

 普賢菩薩様は白い象に乗っていました。白い肌、長い鼻、大きな耳。珍獣でした。なるほど、象というものはこういうものかと猟師は思いました。普賢菩薩様の顔は光り輝いててよく見えませんでしたが、まあ仏様というものはこういうものかなと猟師は思いました。左右に視線をやると、聖人様も少年も阿呆のような顔をして普賢菩薩様を一心に見つめています。してみると、これは幻覚ではないようだ。猟師はそう思いました。しかし、幻覚でもないのに普賢菩薩様がこんなところに降臨するなど、そんなことがあるのかなぁとも猟師は思いました。いくら聖人様が高徳とはいえ、こんな愛宕の山の僧房にわざわざ姿を現すなどということがあるのでしょうか。

 

 やがて、聖人様は泣きながら普賢菩薩様を拝み始めました。そして猟師に言いました。どうですか、あなたも普賢菩薩様を拝み申し上げましたか。猟師は形ばかりに普賢菩薩様に手を合わせつつ答えました。どうして拝まないことがありましょう。猟師は隣を見ました。少年が手を合わせていました。猟師は言いました。ほら、少年もこうして拝み申しております。おお、本当に尊いことです……猟師はまた普賢菩薩様を見ました。あたかも普賢菩薩様自体が月の光になったかのように、白く強い光をこちらに放っています。僧房の中は今や真っ白な光で満ちていました。わざとらしいまでに神々しい雰囲気です。

 

 しかし、猟師の疑念はますます募っていきました。おかしいよな。やっぱりおかしい。仮に普賢菩薩様が本当に降臨することがあるとしよう。長年信仰を守って一心不乱に経を唱えてきた高徳な僧侶の元に普賢菩薩様が降臨することがあるとしよう。それは認めても良い。だが、そうだとしても、その降臨した普賢菩薩様を、何も信心などしていない俺が見ることができるのはおかしいじゃないか。この少年にしたって、もとは都の浮浪児(チンピラ)をしていて、今は食うために聖人様の使用人をしているだけだ。何も信心があるわけではない。そういう人間にも普賢菩薩様が見えるなど、そんなことがあり得るのだろうか。俺なんて、文字が全然読めないから、お経が上下のどちらの方に向いているのかも分からないんだぞ。それに俺は猟師だ。一切の殺生を禁じている仏教の世界観的に、俺は許されない存在だ。そんな猟師の前に普賢菩薩様が現れて、それを見ることができるなど……

 

 あるいはこちらのすべての思惑を超えた理由によってこの普賢菩薩様は今ここに出現しているという可能性もある。こちらが普賢菩薩様が現れるわけがない・見えるわけがないと思っている理由が、そのまますべて普賢菩薩様が現れるべき理由・見えるべき理由となる可能性は、まあいかにも仏教的な論理ではあるが、充分ありうる話だ。だが……

 

 なにか騙されているのではないか? そんな気がしてならない。感覚がそう告げている。

 

 一度そう思ってしまったら、もう猟師はそれを確かめてみたくてたまらなくなりました。都合の良いことに、猟師はその日も銃と火縄と火薬と弾を持ってきていました。それは僧房の外に置いてあったので、猟師はちょっと席を外すと、銃を取りに行きました。そして銃を持ってくると、火薬と弾を装填し、火縄も装着しました。いつでも撃てる状態にして普賢菩薩様の前に戻ると、猟師はおもむろに銃を構えました。

 

 瞬時にも満たない時間でしたが、猟師は迷いました。どっちを撃とうか? 普賢菩薩(ふげんぼさつ)様か、象か? 職業的な猟師としてはどちらも狙いがいのある獲物でした。仮にどちらも何かしらの悪しき存在がこちらを騙そうとして身にまとった偽物(ニセモノ)の姿であるとしても、それでもやはり狩猟(ハント)しがいはあります。

 

 よし、普賢菩薩様にしよう。猟師は決めました。象も捨てがたいが、やはり仏を撃つのはこの機会しかない。仏銃撃の実績解除だ。いや、あれは仏ではないかもしれないが。猟師はあたかも寒夜(かんや)に霜が降るが如き指の動きで引き金を引きました。

 

 実を言うと、猟師がその場を離れて銃を手にし、弾丸を装填し、戻ってきて狙いをつけ、引き金を引くというその一連の流れには、ほんの一分ほどしか時間は経っていませんでした。猟師の動きはあまりにも素早く、スムーズで、かつどこまでも自然だったので、聖人様も少年も猟師を止める(いとま)などありませんでした。普賢菩薩様の方もまた、銃口の先から逃げる時間的な猶予などありませんでした。

 

 凄まじい発砲音があたりにこだましました。間を置かず、放たれた弾丸は正確に普賢菩薩様の胸に命中しました。ものすごい叫び声がし、その瞬間、灯火(ともしび)を急に吹き消したように、それまで放たれていた強くて白い光がふっと消えました。発砲音は山と谷の間で反響してそれ自体が何かの怪物であるかのように凄まじい音になっていきます。その音の中を、何か大きなものが逃げていく音がしました。がさがさと茂みを掻き分けていくような音です。

 

 手応えはあった、と猟師は思いました。しかし、どこに逃げたのだろうか。

 

 そう思っていると、隣で聖人様が大声を上げて泣き叫び始めました。いったいどうして、こんな暴挙に出たのでしょうか。なんであなたはよりにもよって普賢菩薩(ふげんぼさつ)様を銃撃したのですか。猟師としての血に抗いがたく、魅力的な標的をつい撃ってしまったのかもしれません、あんまりです……子どものように泣き叫んでいる聖人様の横で、少年はどこかにやにやした顔をして猟師の顔を眺めています。

 

 猟師は聖人様の肩に優しく手をやって言いました。いやいや、聖人様、落ち着いてください。確かに長年にわたって仏道修行を積まれた聖人様ならば、普賢菩薩様を見ることは可能でしょう。しかし、先ほどの普賢菩薩様は、私のような殺生を職業とする罪深い人間でも見ることができたのです。これは明らかにおかしいでしょう。だからちょっと試してみようと思って一発ぶっぱなしてみたのです。

 

 ちょっと試してみようで普賢菩薩様を射殺する人間がいますか! と聖人様はなおも泣き叫びます。また猟師はまあまあと言って聖人様を宥めました。本当の仏様ならば私の弾丸ごとき当たるわけがないでしょう。それなのに、先ほどのあれには確かに弾が当たりました。ということは、あれは本当の仏様ではないのです。朝になったら血の跡を辿って調べてみましょう。

 

 それでも聖人様はなかなか泣き止みませんでした。そのうち泣き疲れて聖人様は眠ってしまいました。猟師も、朝まではもう何時間も残っていませんでしたが、少し寝ることにしました。寝る前に少年がにやにやとした顔のまま猟師に言いました。ねえおっさん、もしあの普賢菩薩様が大きな獲物だったら、どれくらいの(ぜに)になるだろうね。猟師は言いました。そういうのを捕らぬ狸の皮算用というんだよ。少年はまたにやにやしながら言いました。俺、そろそろ動物性のたんぱく質がほしいんだよ。この僧房だとそういうものは禁忌(タブー)だからな。猟師は面倒くさそうに頷き返しました。ああ、ああ。分かったよ。分かった。

 

 翌朝、猟師は血の跡を辿っていきました。聖人様は僧房に留まりました。少年も聖人様のそばにいるとのことで、猟師には付いてきませんでした。朝日はまだ弱々しく、うすぼんやりとした光の中に愛宕の山全体が包まれています。地面には真っ赤な血が点々と落ちていました。猟師はさっさと先へと進んでいきました。血はさらに山の奥の方、奥の方へと続いています。やがて谷に行きつきました。血は谷の下の方へと続いていました。負傷した獣が再び谷を登れるわけがない。きっとこの下にいるぞ。猟師はそう思い、銃を担ぎ直して、谷の下へ向かいました。

 

 一町ほど谷を下りると、はたしてそこには大きな獣が一匹、胸から血を流して長々と地面に横たわっていました。それは大きな古狸でした。古狸はもう死んでいました。ピクリとも動きません。絶命してから数時間が経過しているようでした。顔は苦痛に歪んでいました。死ぬまでに随分と時間がかかったようです。

 

 猟師は静かに頷くと古狸を肩に担ぎました。そして僧房には戻らず、そのまま山を下っていきました。自分の家に戻って狸を解体して皮を剥ぐと、よく乾かしてから都の市場に持っていきました。

 

 古狸の皮は高値で売れました。猟師は得た金で自分と家族の分の食べ物や日用品、弾や火薬などを買った後、聖人様と少年の分の食べ物も買いました。家に帰って品物を置いた後、猟師は残った狸の肉と、さっき買った食糧を持って、また僧房へと向かいました。

 

 すでに日は傾いていました。朝から働きづめだったので、猟師は疲労感を覚えていました。息を切らしながら歩いていると、猟師は、なんだかこうして労力を払って僧房に食べ物を届けるのが急に馬鹿馬鹿しくなりました。あれだけ熱心に仏道修行をして毎日お経も唱えていたのに、たかが古狸一匹に騙されて、その姿を仏様だと言って涙を流して拝んでいる……幼馴染とはいえ、あの姿はあまりにも滑稽で、かつ無惨でした。普段は事あるごとに仏道に帰依しろと言ってくるのに、実際に仏様が現れると、それが本物であるか偽物であるかの区別もつかない。そんなことを考えているうちに、猟師はそれまで自分が聖人様に抱いていた友情がどんどん冷めていくのを感じました。

 

 よし、これっきりにしよう。僧房の直前まで来た時に猟師はそう思いました。もうあの聖人様と関わるのはこれっきりにしよう。狸に騙されるような世間知らずの馬鹿者を友人にするようなやつは、やはりそいつも馬鹿者なのだ。そして俺は、馬鹿者ではない。

 

 決心を固めてから、猟師は僧房に入りました。少年は隣の山に遊びに行っていていませんでした。聖人様はお経を唱えていました。お経を聞いて何かぎくっとしたような気持ちになった猟師が足を止めると、聖人様は振り返って、いつものニコニコ顔をしました。それで、どうでしたか。そのように聖人様が尋ねてくるので、猟師は短く、あれはやはり古狸でしたよ。皮を剥いで都で売りましたと答えました。

 

 すると聖人様は、尊い普賢菩薩様を騙って人間を騙そうとするのは不届き千万ですが、しかし命を失ったのは気の毒なことです。また、やむを得ず殺生をしてしまったあなたにとっても気の毒なことでした。古狸とあなたのために仏様に祈りましょうと言って、また一心不乱にお経を唱え始めました。

 

 しばらく猟師は、強いて冷ややかな視線を聖人様に注いでいましたが、お経の声を聞いているうちに、なんで自分がそれまで聖人様に対してあれほどまでに腹を立てていたのか不思議に感じ始めました。お経の声は猟師の氷のように頑なな心をほぐしていきました。聖人様の声は美しく、澄み渡っていて、しかしどこか力強いのです。猟師は荷物を床に置くと、そのまま正座しました。彼はじっとお経に耳を傾けました。意味は分からないけれども、お経はどんどん心に染み込んできます。

 

 このお経を聞きたいから、俺は今まで聖人様と付き合ってきたのではなかったか? 猟師は自問自答しました。これほど素晴らしくお経を唱えられる人のことを、俺は馬鹿者だと思っていたのか?

 

 確かに、この人は世間知らずの馬鹿者かもしれない。だが、それならば誰かが、この人を助けなければならない。猟師はひとり頷きました。その誰かとは、やはりこの俺だ。俺がこの人を助けなければならない。 

 

 日がさらに傾きました。燃えるように真っ赤になっています。夕闇の中で(からす)が寂しそうに鳴いていました。もう充分さっぱりした。そのように猟師は思いました。家では家族が待っているでしょう。猟師は帰ることにしました。僧房を出ようとした時、ちょうど聖人様はお経を唱え終わりました。聖人様は(ひたい)に汗を浮べていました。いつもの笑顔を浮かべて、次はいつ来てくれますかと聖人様は猟師に訊いてきました。

 

 猟師は、また明日来ますよと言いました。明日はもっと美味しいものを持ってきます。そう言うと、久しぶりに晴れ晴れとした顔をして、猟師は僧房を出ていきました。

 

(「猟師」おわり)




参考文献 『宇治拾遺物語 全訳注(下)』(高橋貢・増古和子訳、講談社、2018年)

昔話を現代風にアレンジするのは簡単なようで実は難しいです。人物造形というものは常に作家の頭を悩ませます。今回は猟師のキャラ付けをどうするかが鍵でした。それにしてもこの狸、獣のくせになかなか手の込んだことをしますね。普賢菩薩が象に乗っているという情報をどこで得たのか……

また、ミヒャエル・エンデはこれと似たような話(「満月の夜の伝説」)を書いているらしいです。また読んでみたいですね。
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