フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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※今回は二本立てです。


45. 壁虎・生首

「壁虎」

 

「はい、あれは二十五年か三十年前……私がまだ十歳頃だったはずですから、たぶん二十五年前ですね。あの時の雲南(うんなん)省の大水害では本当に多くの人間が死にました。この昆明(こんめい)では特に被害が大きかったです。空からは握りこぶしほどの大きさの(ひょう)が降り、田畑や穀物、家屋に至るまですべてが破壊されました。その後に雹は大粒の雨になって……洪水に飲み込まれた人は数知れません」

 

「私はまだごく幼かったのですが、当時の光景をよく覚えております。(ひょう)が降り始めた時は庭の地面奥深くに掘ってあった地下蔵に逃げ込んで難を逃れたのです。父がそうせよと言ったので……雹が地面に降る激しい音が頭上から響いていました。今でもあの音は忘れられません。雹が終わって雨が降り始めた時には、早々に舟に乗ることができました。ちょうど家が川の渡し場の近くにあったので助かったのです。渡し場の舟も大方は雹に破壊されていました。残っていたのはわずかに二、三隻の舟だったように思います」

 

「想像がつくでしょうか、大きくて鋭い(ひょう)が人に当たると、真っ赤な血煙(ちけむ)りがぱっと舞うんですよ。頭に当たれば頭蓋骨が砕けて灰色の脳みそが露出し、体に当たれば肉を貫通して血が噴出します。掠めただけでも皮膚が裂けるのです。私は、自分の目の前で若い娘さんが雹に当たって死ぬのを見ました。さながら石打ちの刑ですよ。数分前にはしっかりと生きていて人間の形を保っていたものが、ものの数分後には肉片と骨片の混ざった赤い肉塊になっているのです」

 

「天が我々に対して怒りの念と共に懲罰を下している……そのようにしか思えませんでした。まさしく天災です。人間にはどうすることもできません」

 

「しかし……どうやらこの大災害は天災とも言い切れないらしいのです。これは私の父から聞いたのですが……」

 

「あの大水害の前、昆明(こんめい)の近くにある昆明地(こんめいち)という湖のほとりで、農民たちが新しく畑を作るために土を耕しておりました。共同で甘藷(かんしょ)畑を作るつもりだったようです。すると、土の中から一個の鉄の(はこ)が出てきたそうです。父はちょっと学問ができたので、(はこ)を見つけた農民たちに呼ばれてそこへ行きました」

 

「父は(はこ)を見ました。真っ黒な(はこ)は綺麗な正方形をしていて、縦横高さ共に三寸(約9センチ)くらい、鉄製なのでずっしりと重く、古びていました。かなりの年代もののようで、少なくともここ数年に作られたものではないようです。頑丈な造りでした」

 

「なんとも不気味なことに、鉄の匣の上にはお札が貼ってあるのです。お札になにやら文字が書いてあるとのことで、少しは文字を読める父が農民から呼ばれたのでした。しかし悲しいかな、そこに書かれた篆書(てんしょ)体の文字がいったい何を書いているのか、ごく簡単な学問しかしたことのない父には分かりませんでした」

 

「しかしその篆書(てんしょ)体のわきに楷書(かいしょ)体で書いてあるものは父も読むことができました。そこには『至正元年(一三四一年)(よう)真人(しんじん)これを(ふう)ず』と書いてありました。その頃には近くの寺の僧侶も来ていたので、父が『至正元年とはいったいいつのことだ?』と聞くと、それはあの元朝の末期だと僧侶は答えます。そうなると鉄の匣は今から三百年以上も前のものということになるのです」

 

「それにしても(よう)真人(しんじん)とはいったい何者でしょうか。真人(しんじん)道家(どうか)における最高の称号であることは父も知っていました。折よく、僧侶がそれ以上詳しく解説してくれました。道教における最高の道を修得した人のことを真人といい、唐王朝以降では朝廷が道士に与える最高の称号がこの真人となったとのことです。そうなると、この(よう)真人(しんじん)はとても位の高い道士ということになります」

 

「その(よう)真人(しんじん)()()をこの鉄の(はこ)に封じた……父は僧侶に、この匣はいったい善いものなのか悪いものなのかを聞きました。僧侶は答えました。『道教ではしばしば妖怪の祟りを抑えるために、妖怪を器物の中に封じ込めると言われている。これもその一種ではないか。だとしたら、これ以上この(はこ)を弄り続けるのは良くない。私が寺で大切に預かるから、どうかこちらに委ねてくれないか……』」

 

「そのように僧侶が言うと、一人の農民がいきり立ったように言いました。『クソ坊主が、せっかく俺が見つけた宝物を横取りしようたってそうはいかねえぞ!』 ええ、その農民こそ、土中深くに埋まっていたその鉄の匣を見つけ出した張本人でした。元から粗暴な性格で、博打と酒を好むという手に負えない人間です。財産を蕩尽して、持っていた田畑もすべて売り払ってしまったので、仕方なく湖近くの甘藷(かんしょ)畑開墾事業の雇われ人として働いていたのでした」

 

「彼が財産を失ったのは彼自身の責任によるものでしたが、彼はそう考えていなかったのです。彼は周りの人間や村の社会が、彼から財産を不当に奪い取ったのだと信じ込んでいました。非常に被害妄想が強く、浪費癖があるくせに妙なところで吝嗇(りんしょく)で、おまけに誰の話も聞きません。後で父は他の農民から聞いたらしいのですが、その時もその農民は一人で鉄の匣を見つけると、それをすぐに開こうとしたらしいのです。他の農民が『その箱はどこか怪しい。祟りがあったら困る。ここは一度、しっかりとした人に見てもらおう』と言うと、『俺が見つけた宝物を奪うのか、お前たちはまた俺から奪うのか!』と叫んで、随分とごねたらしいのですが……」

 

「農民は僧侶の手から鉄の匣をひったくると、地面に叩きつけて、持っていた農具で思いっきり匣を叩きました。みんなが止める(いとま)もありませんでした。頑丈そうな見た目に反して、簡単に(はこ)は砕かれました。貼ってあったお札も千切れ飛んでいます。農民が(はこ)を拾い上げて、興味津々という感じにその中身を覗きました。しかしすぐに『なんだ、こんなもの』と言って放り出しました。もう興味を失っているようです。放り出された匣が地面に落ちる前に、何とか父はそれを掴むことができました」

 

「今度はみんなが匣の中身を見ました。父は息を呑ました。周りの農民たちも、僧侶も、全員が驚いて声も出ません」

 

「中に入っていたのは、真っ黒な壁虎(ヤモリ)でした」

 

壁虎(ヤモリ)の大きさは一寸(約3センチ)ほどでした。壁虎(ヤモリ)にしてもごく小さいです。異様なのは、壁虎(ヤモリ)がまだ生きていることでした。しきりにその小さな四本の足を蠢かしているのです。ただし体は完全に乾燥しきっていて、それ以上動くことはできないようです。三百年間も土中の匣にいた壁虎(ヤモリ)が死んでいるようでもあり、また死んでいないようでもある……明らかに異常でした」

 

「あの農民が言いました。『せっかく何かのお宝かと思ったのに、死にかけの虫が入ってるだけじゃねえか。つまらねぇ』 そんな農民を無視するように、僧侶は言いました。『諸君らも見て分かると思うが、これはどう考えても善いものではない。今後祟りをなすかもしれない。こうして(はこ)は開いてしまったが、見たところこの壁虎(ヤモリ)()()無害じゃ。わしが引き取って寺で改めて封印しておこう……』」

 

「すると、例の農民は、それまですっかり(はこ)に興味をなくしていたのに、僧侶の言葉を聞いて急に喚き始めました。『いや、ダメだ! その(はこ)は俺のものだ! 捨てるのも売るのも俺の勝手だ! 寺のクソ坊主に勝手にされてたまるか!』 農民は、自分が身を持ち崩して貧乏になったのは、実は裏で寺院が画策したためだと信じていたようです。何かしらの大きな陰謀が自分に加えられている……その陰謀を企てたのは寺院だ。そのように思っていたようですね。だから、特に僧侶に対して反感を抱いていたのです」

 

「それから、農民と僧侶との間で(はこ)の取り合いになりました。もみ合っているうちに、匣が両者の手から零れ落ちて地面に落ちました。落ちた衝撃で中身の壁虎(ヤモリ)も外に飛び出しました。そして、地面にできていた水溜りに壁虎(ヤモリ)が落ちたのです。あっと言って、その場にいる全員が壁虎のことを見ました」

 

「泥水を吸って水分を得た壁虎(ヤモリ)は、最初はそれまでと変わらずわずかに蠢いているだけでしたが、だんだん伸びて長くなっていきました。寸ほどであったのが尺ほどになり、尺ほどであったのが丈ほどになります。瞬く間にそれは大きくなっていくのです。みんな呆気に取られてそれを見ていました。壁虎は大きくなるばかりでなく、その黒い体の表面に鱗や甲羅まで身に纏っていくのです。間近で見ていた父が言うには、『雨の後に地面から(キノコ)がにょきにょきと生えてくるように』鱗が生えたそうです。最後にはその平たいつるっとした(ひたい)から一本の長い角が生えました」

 

壁虎(ヤモリ)はあっという間に大きくなると、一直線に天空に向かって翔けていき、雲の影に消えました。それからにわかに風が強くなり、大粒の雹が降り始め……後は、最初にお話ししたとおりです。雲南省全域が大きな被害を受けました。畑で育っていた農作物も全滅したので、そのせいで冬には餓死者まで出ました。中には、水害よりもあの飢饉の方が多くの死者が出たと言う人もいるほどです」

 

「父が言うには、『俺はあの後、分厚い雲が渦巻く暗黒と化した空の一角で、雷に照らされながら、一角(いっかく)の巨大な黒い(みずち)が、二匹の黄龍と戦っているのを見た』そうです。これを見たのは父だけではありません。大水害で生き残った人々のほとんどが、空で蛟と龍たちの戦いを見たと言っています。ええ、その黒い(みずち)は間違いなく、大きくなったあの壁虎(ヤモリ)でしょう。二匹の黄龍がなぜ出てきたのかは分かりませんが、おそらく天が妖怪を封じ込めようとしたのではないでしょうか。それでも大水害は免れませんでした」

 

「『あの農民が軽率なことをしなければ大水害は起きなかったのに……』 父はそう言いました。『あの農民が僧侶の言うことを聞いて大人しくしておけば、あそこまでの大災害にはならなかった』 父はいつも悔しそうに言っていました。父は、妻と子どもこそ無事でしたが、あの災害で母と弟を失いました。二人とも洪水で流されて、死体は見つからずじまいです。あの農民のせいで大水害が起きたのだと、みんなが言っています。すべてはあの農民のせいだと。数万人の死者は、あの農民がもたらしたのだと……」

 

「しかし私は、また別のことを考えているのです。あの壁虎(ヤモリ)を農民が掘り出し、それを解き放ったのは、はたして農民のせいだったのだろうかと私は疑問に思うのです」

 

「確かに、あの農民は村に対して深い恨みを抱いていました。酒を飲んで酔っぱらうといつも『村のやつらはいつかこの手で皆殺しにしてやる!』と叫んでいたそうです。ですがそのどす黒い感情こそ、妖怪にとっては一番好むものでしょう。匣の中の妖怪はそれを利用するような形で、農民を引き寄せて自分の復活を手伝わせたのではないか。私はそのように思います。偶然掘り当てたにしては、あまりにも何らかの意志が働いていたように私は感じるのです」

 

「父を始め、生き残りたちはみんなあの農民のことを殺してやりたいと言っています。遊び呆けて財産を失ったのも、貧乏になって田畑を売り払ったのも、全部自分のせいじゃないか。それなのに全部村のせいだと決めつけて、ついにはあのような大事件を引き起こしてしまった……そのように言います。私もそのように思わなくもありません」

 

「しかし、あの農民がああいうどうしようもない状態になる前に、誰か一人でも話を聞いてやったり、力を貸してやったりした人がいたのでしょうか。誰か一人でも彼の孤独感や絶望感を理解してやろうとした人はいなかったのでしょうか。彼が村の中で孤立する前に、なんとか救い出してやろうとした人はいなかったのでしょうか。いえ、このようなことを言うと、自分だけは違うなんて顔をするな、善人になったつもりか、知ったふうな口をきくなと反感を買うのですが、私はどうしてもそういうことを思います」

 

「話によると、そもそも初めからあの農民は村から迫害されていたらしいのです。ええ、農民が村の人間を憎んでいたのは、決して故なきことではなかったのですよ。村中が一丸となって彼に理不尽を強いていたのです。それも表立ってそうすることはありません。こそこそと陰湿な嫌がらせをして苦痛を与えていたらしいのです」

 

「しかも、村があの農民を嫌っていたのは、なにも農民自身のせいだったのではないのです。もちろんあの農民は愛されるような人格の持ち主ではありませんでしたし、また周囲から愛されるように努力をしていたわけでもありませんが、それが村から嫌われる原因ではなかったのです。原因は、もっと前の時代にありました。あの農民の祖父に当たる人がかなり強引なやり方で財産を築き、それで村の人間から恨まれていたそうです。ええ、戦乱に乗じて安値で村人たちの農地を買い叩いたのだとか……」

 

「それが、あの農民の代になってようやく家運が衰微してきたので、それを良い機会として村全体が彼を袋叩きにし始めた……それが真相のようです。元からあまり逆境に強い性格ではなかった農民は疎外感に耐えかねてますます放蕩に走った……そして、すべての財産を失ってしまった。そして、彼が破滅へと走るのを、誰も止めなかった。いえ、全員がそれを望んでいたのです。私の父も……認めたくはないことですが、父もどうやらそれを望んでいたようです。自分の父や先祖の悪い点、至らなかったところ、あるいは罪業といったものを認めるのは、まことにつらいものがありますが……」

 

「こうなってくると、誰が悪かったのか分からなくなります。あの農民が悪かったのか、村が悪かったのか、あの農民の祖父が悪かったのか……私が思うに、悪かったのはやはりあの壁虎(ヤモリ)だったのでしょう。私たちはみんな、あの農民も含めて、あの壁虎(ヤモリ)が復活するために利用されたのです……あるいは、村全体に漂っていた悪意が、封じられて死にかけていた妖怪を復活させたのかもしれません。そうなると悪かったのは私たちということになりますが……それでも私は、壁虎が悪かったというふうに思いたいです」

 

「ああ、あの農民の、その後のことですか? 今も生きていますよ」

 

「大粒の(ひょう)が降り始めた時、あの農民は歓喜したようにその場を走り回っていたそうです。『これで村もおしまいだ。あの黒いやつが皆殺しにしてくれるぞ!』 何かに憑りつかれたかのようにそんなことを叫んでいたそうです。不思議なことに、農民はまったく雹に当たりませんでした。やがて洪水になって、一ヶ月近くが経ってようやく水が引いた頃、あの農民が村の真ん中にある祠の上に座り込んでいるのが見つかりました。農民はヘラヘラとした薄ら笑いを浮かべているだけで、一言も口をきかなくなっていました。みんなが殴りつけたり唾を吐きかけたりしても、ヘラヘラと笑ったままです」

 

「今でもあの農民は同じ薄ら笑いを浮かべていますよ。村はずれの崩れかけた民屋(みんおく)に一人で住んでいます。私が毎回の食事と水を持っていってやっているのですが……いえ、なにも私は、村長としての義務だからそうしているのではありません。誰からも愛されていない人、誰からも目をかけてもらっていない人、完全に孤立した人、そういう人をこの村に存在させてはならない。そのように私は信じているからです。私は村長ですから村人全員を幸せにしなければなりません。ええ、全員を、です。そういう意味では、義務的にあの農民を助けているとは言えなくもありませんが……しかし、義務でも良いのです。人は、義務でも良いから他者を許して、愛さなければなりません。さもなければ、また土中の鉄の(はこ)に封じられた妖怪に利用されないとも限りませんからね」

 

「ああ、時鐘(じしょう)が鳴らされましたね。今はちょうど、あの農民に食事を持っていく時間です。どうですか? これから一緒に彼に会いに行きませんか?」

 

(「壁虎」おわり)

 


 

「生首」

 

「俺が四川(しせん)康定(こうてい)にある武器庫の管理人として勤務していた頃の話だが……武器庫の名前は打箭炉(だせんろ)と言った。打箭炉(だせんろ)には刀剣の類が収められていて、火器や煙硝、火薬の類は収められていなかった」

 

「勤務地には母と弟の二人の家族と一緒に赴任した。千総(せんそう)という下級の武官ではあるが、母と弟を養うくらいならできる。しかし赴任してから二ヶ月間、康定(こうてい)ではじめじめとした雨がずっと続いた。思ったよりも仕事は面白くないし、(まち)には遊ぶ場所もないし、おまけに母は病気になるしで、俺の気分はどんどん腐っていくようだった」

 

「だが二ヶ月目にしてようやく雨が止んだんだ。空には久しく拝んでいなかった太陽が姿を現して、燦燦(さんさん)と光を注いでいる。ちょうどその日は休日だった。俺は嬉しくなって外へ出て、長椅子を家から持ち出して、そこで横になって日光浴をしていたんだ。暖かい光に包まれて、うとうととして、俺は半分眠りに落ちていた」

 

「すると突然、濛々(もうもう)と砂塵が天空を覆い始めた。怒号するような風の声も聞こえる。風に応えて、わさわさわさと木々の梢が音を立てている。いったい何が起こっているんだと思っている間に、俺は長椅子から転がり落ちていた。立ち上がろうとするが、どうしてもしっかり立つことができない。もんどり打って倒れて、(ひたい)を長椅子の角にぶつけて、それでも体はやたらと転がり回る。誰かが俺の辮髪(べんぱつ)を上から掴んでは放り投げているような感じで、どんどん体には傷が増えていった」

 

「寝ぼけていた俺も流石に、ああこれは地震が起きているんだなと気づいた。ただの地震じゃない、大地震だ。近くの家の中には病気の母がいる。大揺れに揺れながら、俺は大声で母に大丈夫かと呼びかけた。母からの返事はない。だが、家が崩れない限り母が死ぬこともなかろうと思って、俺は揺れが収まるまでじっと耐えることにした」

 

「まもなく揺れは収まった。俺はあたりを見回した。(まち)の中の家屋は全部崩れ落ちていて、生き埋めになった人々が呻き声や悲鳴を上げている。ところどころで小さな火災が起きていて、薄く煙も上がっていた。俺は自分の家を見た。なんとも幸いなことに、俺の家はちょっと壁面に亀裂が入っている程度で、全然壊れていなかった。母も(とこ)の下に隠れていて無事だった。俺は母に早く(まち)から出て近くの丘へ行くように言った。それで、役目柄(やくめがら)打箭炉(だせんろ)を見に行かないわけにもいかないんで、俺は上着を羽織って底の分厚い(くつ)を履いた。揺れに乗じて盗賊が出ないとも限らない。盗賊は必ず打箭炉(だせんろ)を襲って武器を得ようとするだろう。俺はそう思ったのさ」

 

(まち)は混乱の度合いを深めていた。小刻みに余震が続いていて、生き残った人たちが懸命になって生き埋めになった家族を助け出そうとしているのだが、揺れのせいでなかなかそれができない。火災はどんどん大きくなっている。俺は(まち)を突っ切って城門へと向かった。すると、これまた奇跡的なことだが、弟に会うことができた。城外に出かけていたところ大きな揺れがあったので、家が気になって帰ってきたという。なんと馬鹿なことをと思ったが、今更どうすることもできない。俺はこれから職場に行くから、お前は母さんを守れと言おうとしたら、また怪しい風が吹き始めた」

 

「あっと思ったね。そして、俺は死を覚悟した。というのは、俺は辺境暮らしが長くて地震に慣れている同僚から、本震の来る予兆として怪しい風が吹くといつかの日に聞かされていたからさ。地震には最初の揺れと揺れ戻し……その揺れ戻しのことを本震というのだが、その二つがある。そして、大抵の場合、本震は最初の揺れよりも大きい。だから俺は弟に、また大きな揺れが来るぞと言った。たぶん、次の揺れの時に俺たちは死ぬ。もうどうしようもない。そう言うと、弟は『死ぬ時は兄さんと一緒です』と言う。ちょうど道に一本の縄が落ちていたから、俺と弟はそれで互いを結び付けて、固く抱擁し合った」

 

「ほどなくしてまた揺れが来た。予想した通り、先ほどの揺れを数倍したかのような激しい揺れだった。俺と弟は二人とも地面に倒れて、ごろごろと転がり回った。黄色い砂塵が巻き起こる。土地には十数丈にもわたって亀裂が生じる。亀裂に人が飲み込まれていく。亀裂からは黒い噴気が出てくる。火事はますます大きくなる。炎は紫と緑色を帯びていた。銅と鉄が燃えているんだな。次第に亀裂からはなにやら得体のしれない黒い水まで噴き出してきた。その臭気たるや凄まじいものがある。芬々(ふんぷん)として生臭い。地獄というものはおそらくこのようなものだろう。そう思いながら俺は大地震の光景を目に焼き付けていた」

 

「そして、俺はその時、確かにあれを見たんだ」

 

「空中に巨大な生首が浮遊していた。大きさは車輪ほどもあったかな。若い男の生首なんだ。それが空中数丈のところに浮かんでいて、辺りを睥睨している。目は爛々と輝いていて妖気を含んでいる。完全な無表情だ。ぞっとしたね。生首は揺れの間、ずっと空中に浮かんでいた。何を言うでもなく、感情を浮べるでもなく、ただ揺れている世界を見つめているだけなんだ。いったいいつ、どこからあのようなものが現れたのか……」

 

「やがて、揺れは終わった。生首は、初めからそこに存在していなかったかのように、その場から消えていた」

 

「俺と弟は生きていた。こうなったらもう打箭炉(だせんろ)に行くどころではなかった。俺と弟は急いで家へと向かった。だが、今度こそ家は完全に潰れていたよ。母は瓦礫の下敷きになって死んでいた。俺と弟は泣きながら母の遺体を回収して、それから家具や物品などを掘り出した。母の葬儀には時間がかかったよ。なにせ、(まち)のほとんどの人間が死んでいたからな」

 

「それにしても、あの生首はいったい何だったのか……後になって弟に聞いてみると、なんと弟も生首を見ていたという。しかし弟の見た生首は、大きさこそ俺の見たものとほぼ同じだったが、その他はまったく違っていて、若い女の血塗れの生首だったという」

 

「気になって、俺は(まち)の他の生き残りのやつらにも聞いて回った。空中に生首が浮かんでいるのを見たというやつは大勢いたよ。しかし生首の様態については全員で言うことが食い違っている。老人だったり、中年の女だったり、にきび面の少年だったり……それどころか、二つ三つも生首が浮かんでいたと言うやつもいた。中には空を埋め尽くすほどいたとも言うやつもいる始末で……こうなってくるとわけがわからない」

 

「地震の時に現れる生首について、俺は機会があれば他の地方でも話を聞こうと思っている。幸い、今後も辺境暮らしは続きそうだからな」

 

(「生首」おわり)




参考文献 袁枚『子不語4(全5巻)』(手代木公助訳、平凡社、2009年)65-67頁、83-84頁。

今回は天災にまつわる二本立てとなりました。「ヤモリ」のことを中国語では「壁虎」というのを初めて知りました。これも調べてみれば面白そうな話が出てきそうですね。「生首」の方はまた後で少し加筆するかもしれません。
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