「小さい頃から私にはちょっとした特殊な能力があった。それがあるだけで人生が劇的に良くなるわけでも、人を支配する者になれるわけでもないが、少なくとも自分の身を健やかに保つ程度には役立つ能力……そう言って差し支えないと思う」
「それは、ふとした瞬間にどこからともなく囁かれる声を聞くことができる、という能力だ。言うなればそれは天の声といったところだが、それも単に聞くだけであって……こちらから天に尋ねるわけではない。また、いつその声が発せられるかも分からない。能力といって良いのかは甚だ微妙なところだ。私は、こうして話をする都合上『能力』と言っているだけで、普段はこれについて格別に能力だと思っているわけではない」
「天の声が聞こえるようになったのは十歳になるかならないかの頃だった。ある日、家の近くの小川へ、村の子どもたちが連れ立って遊びに行くことにした。私はその日、年長の子どもから泳ぎを習うことになっていた」
「川に着くというその直前になって、どこからともなく『やめておけ、やめておけ、流されるぞ、流されるぞ』という声が聞こえる。男の声とも女の声ともつかない、年老いているとも若い声ともいえない、そういう不思議な声だった。いったい誰がそのようなことを言っているのかと思って周りの子どもたちに尋ねてみるが、なんと誰もそのような声は聞こえないという。また声がする。私は探す。どこにも声の主は見当たらない」
「私はなんとなく怖くなって、今日は川に行かないと言った。それで、そのまま家に帰った。家に帰ってからしばらくして、大人たちが大騒ぎをしている。何かと思って聞いてみれば、なんと川に遊びに行った子どもたちが深みにはまり、溺れて流されたというではないか。結局、六人が流されて五人が死んだ」
「私は不思議なこともあるものだと思って、そのことを祖父に話した。祖父はそれを天声だと言った。先祖が私にしか聞こえない天の声を発して、私を守ってくれているのだと言うのだ。これからも何か声が聞こえてきた時は、それに従うのが良いと祖父は言った」
「その後もたびたび似たようなことがあった。天の声に従うと、どんな時でも危険を避けることができた。壁が崩れるのに巻き込まれそうになったり、穴に落ちかけたり、奔馬に蹴られそうになったり……いずれの場合も天の声は『足を止めろ』とか、『とまれ』とか、『行くな』とか、そういう命令をしてくる。声が響くのはいつも突然だが、立ち止まって思案するだけの時間的な猶予はあった。声のおかげで私は怪我をすることもなく順調に成長していった」
「二十一歳の時に、私は天子をお守りする禁軍に入隊した。天子と朝廷の御威光は四海の隅々にまで行き渡っていて、戦乱も紛争も絶えて久しかったが、禁軍は有事にあっても最精鋭としての実力を発揮できるよう、常に猛訓練に励んでいた。私たちは毎日中隊単位でまとまっては騎馬で駆けて、馬上から銃を射撃する訓練をしていた。厳しい訓練が続いたが、私は快活に軍隊生活を楽しんでいた。二十一歳の若者が生命力を燃焼させる場所としては、禁軍はうってつけだったと言えるだろう」
「軍務に励んでいる時には、不思議なことに天の声は聞こえなかった。この頃になると私は自分で危険を察知してそれに対処できるようになっていたから、おそらく天の声もそこまで頻繁に声をかけなくとも良くなったのだろうと思う」
「しかし、久しぶりに天の声に大いに助けられる時がやってきた」
「その日はちょうど休暇の初日だった。私は数日間、泊まりで狩りに行くことにした。禁軍に所属する者として、余暇でも狩猟をするのは奨励されていた。また、私はその数ヶ月前から鷹を飼い始めていた。凛々しい顔をした、すっきりとした尾羽の可愛らしい鷹で、非常に鋭く旋回をする。ちょうど基礎的な躾と訓練が終わったところだったから、その日は鷹に初めての狩りをさせるつもりだった」
「私は七人の従僕を連れて官舎を出ると都の南西部へ向かい、豊台地区に入った。豊台を流れる盧溝河はその日も濁った灰色の川面を示していた。河にかかる盧溝橋は十一もの橋洞を備えた石造りの立派なものだった。私と従僕たちはそれぞれ馬に乗って盧溝橋を渡った。カツカツという乾いた蹄の音が晴天の下にこだまする。風は穏やかで大気も爽やかだ。絶好の狩り日和だと思って、私は気分がどんどん高まるのを覚えた。盧溝橋の欄干には様々な意匠で作られた獅子の像が置いてあった。私は試しに従僕の一人である張に獅子の数を数えてみろと言ったが、張は数を百までしか数えられない。中ほどまでいかないうちに、張が泣きそうな声で『九十八、九十九、百……百よりたくさん!』と言ったから、従僕たちはみんな大笑いをした」
「私も笑いたい気持ちになって、もっとこの従僕をからかってやろうとも思った。『張、お前は学校に入り直して算術の初歩からやり直した方が良いな。子どもたちを師として教えを乞うのが良い』 ごく軽い気持ちで、そう言ってやろうかと思った。その瞬間、声が響いた。『やめておけ、やめておけ。溺れるぞ、溺れるぞ』 私はぎくっとした。よくよく張の顔を見ると、みんなから数が数えられないのを揶揄われて、どこか思いつめたような、怒ったような、恨みを含んだような顔をしている。普段は快活でにこやかな男であるだけに、その表情を見て私はぞっとした」
「もし、ここでからかったら、張が暴れて私を盧溝橋から下の盧溝河へと突き落とすかもしれない。そうなったら泳ぎのできない私は溺れるだろう。天の声が『溺れるぞ、溺れるぞ』と言っているのは、このことに違いない。私はそう思った」
「私は声に従うことにした。私は張をからかい続ける周りの従僕たちに『やめろ』と言った。『数が数えられないからと言って、それが何だというのだ。お前たちの中には裁縫ができない者もいるだろう。字が上手く書けない者もいるだろう。料理ができない者もいるだろう。人はみな得意不得意があって、決して完全ではないのだ。完全ではないからこそ団結して助け合って生きていくのだ』 みんなは途端にしゅんとなった。私はさらに言った。『確かに張は数が数えられないが、その分、人並み以上に水泳が達者だ。軍務に就く者にとって水泳が得意であることは、数が数えられること以上に価値のあることだ。あまり張をからかってはいけない。いつの日か、張の泳ぎによって助けられることもあるかもしれないのだから』」
「私がこのように長く言葉を費やしたのは、やはり天の声が怖かったからだが、その甲斐あってか張の顔色はみるみるうちに良くなった。そればかりか張は私に馬を寄せて、一時たりともそばを離れない。私を守ろうという姿勢を見せていた。私は、やはり天の声に従って良かったと思った」
「しかし、久しぶりに天の声が聞こえてきたことで、私は少しばかり不安のような感情を抱いた。この休暇は上手くいくだろうか? だが、泊まりで狩猟に行くと決めた時、天の声は聞こえてこなかった。そうであるならば、この休暇はきっと無事に終えることができるだろう。そのように考えると気分が落ち着いた。私はさらに馬を走らせた」
「盧溝橋を渡り、さらに西へ向かい、平原を進んで行った。広大な平原のことゆえ私たち以外に人はいない。遠くには薄い緑色をした林が見えた。馬が進むと、草むらから雀の群れが飛び立った。どれも林の方へ飛び去っていく。鷹の最初の獲物としては小さなものだが、実力を試すには充分だろうと思って、私は鷹を放つことにした。鷹が低く飛翔すると、まだ草むらに残っていた雀たちも驚いて逃げ去り始めた。鷹は冷静な飛び方で林の方へ雀たちを追っていく。次第に姿は見えなくなった。私はまた鷹を収めるために馬を走らせた」
「行くと、林が案外深いことに気づいた。遠くからだとぼつぼつと木が生えているようにしか見えなかったが、近くからだとそれは紛れもなく森だった。奥まで見通すことができない。丈の高い下草がびっしりと生えていた。樹々の梢は繁っており、太陽の光を妨げている。森の中からは怪しい風が吹いていた。都からほど近い場所にこのような森があるのを知らなかったから、私は従僕たちに『ここはどのような場所か? この森は何というのか?』と尋ねてみた。だが、従僕たちはみんな首をかしげるだけだった。みんな、この森を知らないのだ」
「しかし、この森の奥へと鷹が飛んでいったのは間違いない。手塩にかけて育てた可愛い鷹であるからなんとしてでも連れて帰らなければならない。森は妖気を含んでいて、鬼が出そうな雰囲気を漂わせていたが、禁軍に所属する者がたかがその程度のことを怖れて逃げ帰るわけにもいかない。私はもう一度だけ、森に入るべきか、入らざるべきか自分で自分に尋ねてみた。それで、声が響いてくるのを待った。しかし、声は聞こえてこなかった。これならば大丈夫だろう。そう思って私は森に入ると、奥に進んでいった」
「すると、ほんの少し進んだところで、私は人を見かけた。若い男のようだった。なんとその男は左の臂に鷹を止まらせているではないか。鷹は間違いなく私の鷹だった。男は左の臂に鷹を止まらせて、右手でその羽を優しく撫でている。鷹の扱いに慣れた手つきだった。鷹の方も随分と落ち着いた様子で、逃げる気配もない。私は、ありがたい、おそらくあの人は私たちと同じく狩りに来た人だろうと思った。そして、挨拶をしなければならぬと思って、私は馬を進めた」
「しかし、馬が前へと進まなくなった。こちらが急かしても宥めても馬はどうしても足を進めない。いったいどうしたのだろうと思って、少し苛立ちの気持ちが強くなった。ちょっと力を入れて腹を蹴ろうとした時、声がした。『やめておけ、やめておけ。落馬するぞ。落馬して、踏み殺されるぞ』 はっとして、私は馬を急かすのをやめた。よく観察すると、馬は何かに怯えているようだった」
「いったい何に怯えているのかと思いつつも、ふとあの男と鷹の方へ目をやると、なんと男の顔は剥き出しの髑髏ではないか。よくよく見ると、男の手から足までは全部、肉のついていない真っ白な骨だった。骨が動いているのだ。驚いて、私は後ろに続いている従僕たちにも男を観察させた。すると、全員が怯えたような声で、あれは骨ですという。私の幻覚ではないようだった」
「骸骨の男が私の鷹を撫でている。間違いない、あれは鬼だ。身の毛もよだつ光景だったが、鷹を放って逃げたというのでは臆病者の謗りは免れない。私は馬から下りると銃に弾を込めて、そっと音を立てないように下草の茂みの中を這って進んでいった。従僕たちには離れたところで待機するように命じておいた。私は、骸骨の男が銃の射程内に入ると、男の頭部を狙って銃を放とうとした。弾丸を命中させられる自信ならばあった。私は立ち上がろうとした」
「だが、その瞬間、また声が響いた。『撃つな、撃つな。あれは死なない。あれは死なない。お前に祟りをなすぞ。祟りをなすぞ。当てるな、当てるな……』 そう言われてみると、鬼が銃で死ぬなど聞いたことがない。だが、鷹はなんとしても取り返したい。私はしばらく考えた。そして、声が『当てるな』というからには、当てないようにして銃を撃てば良いのだと気づいた。私は立ち上がると、骸骨の男の頭部よりやや上の空間を狙って銃を撃った」
「森の中で鋭い銃声が轟き、残響音を伴って弾丸が飛び去ると、骸骨の男は灯火を息で吹き消したかのようにぱっと消えた。消えるのと同時に、私の鷹は驚いて飛び立った。だが、私が指笛を吹いて呼んでやると、鷹はまた舞い戻ってきた。従僕たちも私の元へ寄ってくる。私が骸骨の男を追い払い、無事に鷹を取り戻したことをみんな喜んでくれた。しかし、これからまた狩りを続行するか、それともこのまま帰るかが問題だった。従僕たち全員が帰りたそうな顔をしている。鬼を見たのだからそれも当然だ。だが私は、せっかくの休暇と狩猟を骸骨の男ごときに台無しにされたくなかった。また、この森の正体も見定めておきたかった。都のほど近くに鬼が出るような森があるというのは問題だった。れっきとした満洲正黄旗人として、守護すべき都の周囲の地形はすべて知っておく必要がある」
「私は声を待った。今日だけでもう三回も声に助けられている。ここで声が響いてくるのならばそれはこの先、生命の危機があるということだ。声が響いてこないのならば問題はない。声は響いてこなかった。そこで私は、さらに森の奥へ進むことにした。従僕たちも、私が行くと言ったら、みんな黙ってついてきてくれた」
「昼なお暗い森の中を一里ほど進んだところで、急に視界が開けた。そこには立派な高殿が建っていた。六階層に分かれていて、それぞれに立派な屋根がついている。屋根はぴかぴかと輝く銅で葺かれていた。建物には細かな彫刻が施してあって、彩色は派手ながらも下品ではない。全体的に上品な色調だった。高殿の周囲にも背の低い楼や建物が建っている。ぐるりと高い塀で囲まれていた。私は、どうも非常に身分の高い方がここにお住まいになっているらしいと思った。あるいは別荘の類かもしれないが、いずれにせよ挨拶もしないでこの森で狩りを続けることは許されない。ちょっと行くと正門が見えたので、私は従僕たちと一緒にそこまで馬を進めた」
「下馬していると、正門に一人の老婦人が現れた。ゆったりとした動きで私たちの方へと歩みを進めてくる。老婦人は大きな髻に白灰色の髪の毛を結い、杏黄色の上質な仕立ての衣を身に纏っていた。錦の靴と白絹の靴下を履いている。その後ろからは婢女数人が従ってついてきていた。こちらを見つめる老婦人の目つきは穏やかで、知性と思いやりも感じられる。私は、まだ言葉も交わさないうちから、この老婦人に好意を持った」
「私たちが礼をすると、老婦人もまた礼を返した。そして、こちらが想像したとおりの穏やかで温かみのある声でこう言った。『あなたは伊家の若君でしょう?』 私は、はい、私は伊学庭と申しますと答えた。老婦人は目元に笑みを湛えて言った。『やっぱり。私はそなたの中表姑です。よくぞここまで来てくださいました。せっかくですから、我が家に立ち寄っていきなさい』 私は改めて礼をして、『都を守護する禁軍にて私は勤務しておりますので、こちら様のお住まいのことは存じ上げないでおりました。この際御挨拶申し上げたいと思います』と言った。すると老婦人は頷いて、私の従僕たちにも声をかけて『あなたたちも一緒に屋敷に入って休みなさい』と招き入れる。声も響いてこなかったので、私たちはその言葉に素直に従うことにした」
「骸骨の男に遭遇した後でもあり、また妖気を漂わせた森の中に忽然とこのように立派な屋敷があることと言い、怪しいと思えば怪しいことはこの上なかった。しかし、その時の私は特に怪しいとも思っていなかった。老婦人が私の中表姑だと言ってからは、ああそうなのかと心の底から納得していた。天の声も特に私を制止してくるわけではない。屋敷の中にも特に変わったところはなかった。敷地内には埃を含まない清浄な空気が満ちていて、中庭には清らかな水が満ちている池があり、草木は瑞々しく色とりどりの花々は控えめに香気を放っている」
「やがて私たちは邸内に入った。奥深くまで進んでから、老婦人は応接間に入り、上品な造りの塌の上で趺坐すると、私と親しく世間話をし始めた。『禁軍ではどのような役目についておられるのですか』『中隊を率いております』『それでは中隊長ということですね』『いえ、まだ入隊したばかりですので、見習いも同然です』『お住まいはどちらに』『都に官舎がありますれば、そこに』『今日はどういった御用でこちらにいらっしゃったのですか』『いえ御用ではなく、休暇を頂いたので狩猟のために参った次第で』……そのように話していると、老婦人は『ああ、そうだ。娘にも挨拶をさせましょう』と言って、婢女をやって呼びにやらせた」
「部屋に入ってきたのは、なんとも美しい娘だった。歳は十七か十八くらい、肌は雪のように真っ白で、生まれてこの方太陽の光を浴びたことがないのではないかと思われるほどだった。目はぱっちりとしているがどこか恥じらいも含んでいて、形の良い唇には薄く紅が塗られている。小柄でなよやかな体つきには、しかし健康的なものも感じられた。思わず私はその娘に見惚れていた。老婦人は言う。『これはそなたの従妹ですよ。今年で十八歳になります』 娘は老婦人の隣に座った。何も言わないが、私のことをじっと見つめてくる。私は胸が高鳴って、とても平静な心ではいられなかった」
「なおも世間話をしつつ、私がちらちらと娘に視線をやっているのに気付いたのか、老婦人は半ば笑いながら言った。『ここまで遠乗りしてきて喉が渇いているでしょう。瓜を召し上がってはいかがですか。この屋敷の庭で手慰みに育てたものです』 私はありがたく頂戴することにした。ほどなくして婢女たちが瓜を運んできたが、なんとその大きさは通常の倍以上もある。老婦人は、私の従僕にも瓜を振る舞った。従僕たちはみんなそれを押し頂いて、それから別室へと案内されていく。従僕の一人一人に、綺麗な婢女たちがついていった」
「すると、老婦人は今度はなにやら、お付きの者に目配せをした。お付きの者が私に、こちらへどうぞと言って、左側の部屋へと案内してくれた。なんと、娘も一緒についてくる。これは、老婦人が私に気を遣ってくれたのだろうと思った」
「私は部屋で娘と二人きりだった。娘は一言も口をきかないし、私も気恥ずかしいので何も言わないままだった。ただ、娘は私にぴったりと体を寄せてきて離れようとしない。服越しに娘の柔らかな体を感じることができた。得も言われぬ良い香りもする。ややあって、娘は瓜を割ってくれた。手ずから私に食べさせようとしてくれる。私はそれを食べようとした」
「その途端、声が響いた。これまでに聞いたこともないほど大きな声だった。『やめろ、死ぬぞ! やめろ、死ぬぞ!』 私はびっくりして、その場から飛び上がりそうになった。まだ声が響いている。『やめろ、死ぬぞ! やめろ、死ぬぞ!』 それほどまでに切迫感のこもった声を聞くのは初めてだった。私は驚き、恐怖していた。そんな私の様子を見て、娘は不思議そうな顔をした。そして、私を守るようにしてそっと両腕で抱いてくれた」
「そのまましばらくじっとしていた。そのうち、娘が私から離れて、部屋の隅に置いてある牀の上へと移動した。いったい何をしているのかと思って見ていると、娘は服をはだけさせて、私に向かって素肌を見せ始めた。意外と娘の体つきは豊かだった。大きく膨らんだ白い胸には青い静脈が浮かんでいる。顔はほんのりと赤くなっていて、潤んだ目で私を見つめてくる。娘は明らかに私を誘っていた。どうして初対面の私にここまで好意を示しているのか分からなかったが、私は向こうがその気であるならば抱こうと思った」
「その瞬間だった。また声が響いた。『やめろ、死ぬぞ! やめろ、腐るぞ! 腐って死ぬぞ! やめろ……!』 銅鑼が乱打されているようだった。声は私の頭の中で大きく反響し続けている。腐って死ぬ。その意味は少し判然としなかったが、私はもはや娘を抱く意志を失っていた。ただし、抱かないにしても上手に振る舞う必要がある。どうしたものかと思案し始めた、その時だった」
「突然、屋敷の入口からご主人様がお帰りになられましたという声がする。娘は、はっとしたような顔をして、牀から立ち上がると着物を着直した。そして、何事もなかったような顔をして私に部屋を出るように促す。私は一緒に部屋を出た。老婦人はいなくなっていたが、お付きの者が私たちを待っていて、別の大きな部屋へと案内してくれた。そこへ通されて、座に座ってしばらく待っていると、乗馬服に身を固めた大きな男が室内に入ってきた」
「男は五十歳くらいで、筋骨隆々のたくましい肉体は部屋全体を圧するかのような威容を誇っている。顔は日焼けして赤く、眉は太くて目は輝いていた。自信に満ちた表情を浮かべていて、私に対しては親しげな様子を隠さない。頭には珊瑚の飾りと孔雀の尾羽のついた冠を被っている。男は笑顔を浮かべて私に対して手を伸ばしてくるので、私も手を伸ばした。男と私は握手をして、それから席に着いた」
「『私はこの家の主人の馬と申すものです』と男は丁寧に名乗った。私も名乗りを返した。それからは主人と二人でしばらく世間話をした。話が軍務から狩猟のことへと及ぶと、主人は言った。『そういえば先ほど、林の奥で非常に綺麗な鷹を見つけたのだ。まだ若い鷹で、凛々しい顔をしており、すっきりとした尾羽を持っていた。雀か何か、小鳥を追いかけてきたのだろうか、林の中を低く鋭く飛んできたので、私が試しに口笛を吹いてみると、なんと私の臂に向かって飛んでくるではないか』 ここまで話を聞いて、私はどきっとした。いや、まさか、そんなはずはあるまいと思ったが、私はそのまま席に着いたまま、主人の話に相槌を入れていた」
「主人はさらに話した。『鷹は私の右の臂にさっと止まった。よく訓練された動きだった。こちらが左手で羽を撫でてやると、気持ち良さそうな顔をする。これは良い鷹だ、いったい誰の鷹だろうか、できることならば譲り受けたいものだと思っていたのだが……その時、突然、どこからともなく銃声が響いてきて、私の頭上を弾丸が掠めたのだ。あと少しのところで弾は私に当たるところだった。急いでその場を離れたのだが、惜しいことに鷹もその時逃げてしまった。あれは本当に惜しかった……それにしても、あの時私を銃撃したのはいったい誰だったのか……』」
「それで、私もついに確信した。この男は間違いなくあの骸骨の男だと。そして、あの骸骨の男がこの家の主人であるならば、この家の者たちもみんなこの世のものではあるまいと思った。私が黙っていると、男は言った。『客人は顔色が優れないが、ひどくお疲れなのではないか。今日はこのまま我が屋敷に投宿なさって、明日また出立なさるのが良かろう。あるいは明日、私と共に狩りに出るのも面白かろう』」
「主人のその言葉を聞いた直後だった。爆発したかのように天の声が頭の中で響いた。『泊まるな、泊まるな、泊まるな、死ぬぞ、死ぬぞ、死ぬぞ……!』 頭が割れそうなほどに痛んだ。それほどまでに声は大きかった。言われるまでもなく、私は泊まる気などなかった。私は主人に対して好意を謝しつつ、それでは今日はこちらに宿をお借りすると言い、ところで厠はどこかと訊ねた。主人は下男を呼んで私を厠に案内させた」
「厠に行くと、窓が開いていた。ちょうどひと一人が通り抜けられるくらいの大きさだった。私はそこから這い出ると、一目散に走って正門へ向かった。もしかしたら馬は厩舎へと連れていかれてそこにいないかもしれないと思ったが、幸いなことに馬はまだ馬具を纏ったままそこにいた。私は馬に飛び乗り、他の馬も引き連れて、そのまま屋敷の庭へと突き進んだ。馬を走らせながら私は銃に弾丸を装填し、発射しながら、従僕たちの名前を呼んだ」
「すると、従僕たちが屋敷の中から転がり出てきた。ありがたいことにみんな揃っている。全員が馬に飛び乗ったのを確認すると、私は屋敷から走り出た。屋敷の中からはしきりに私の名を呼ぶ声がする。また天の声が私の頭の中で響いていた。『止まるな、止まるな、止まるな、死ぬぞ、死ぬぞ、死ぬぞ……』 私は足を止めなかった。私と従僕たちはそのまま森を駆け抜けた。振り返って森をもう一度見てみると、なんとそこに森はなかった。ただ枯れた松の木立があるだけで、黄色い乾いた砂が地面を覆っている」
「それでもなおしばらく駆けてから、私はやっと馬を止めて、従僕たちの顔を見た。七人いる従僕たちはみんな死灰のような顔色をしている。私は、屋敷で何か変わったことはしなかったかと尋ねた。すると、七人のうち三人が、あの瓜を食べたという。その三人は特に酷い顔色をしていた。刃物で刺されたように腹が痛むとしきりに言う。他に変わったことはなかったかと尋ねると、別の三人が婢女を抱いたという。抱いた直後から陰部が痛痒くてたまらないとしきりに訴える。残った一人は、あの百までしか数えられない従僕の張だった。張は瓜も食べなかったし女も抱かなかったと言った」
「私たちはすぐに都に帰った。しかし、瓜を食べた三人は帰ってから二日以内にみんな死んでしまった。検死をした医師が言うには全員内臓が腐っていたとのことだった。また女を抱いた三人も一ヶ月が経たないうちにみんな死んでしまった。全員、性器が先端から腐り落ちていて、そこから毒を発して死んだとのことだった」
「私はその後、土地の者にあの屋敷のことについて尋ねた。すると土地の者はこう答えた。『あの枯れた松林には馬家の墓地があります。昔、馬将軍という人が陣中で死んだところに、その夫人と娘も一緒に葬ってあるのです』 私は家に問い合わせて、私の家が馬家なる一族と繋がりがあるか、またそこに中表姑がいるか確認した。そのような事実はないとのことだった」
「かなり後年になって、私は朝廷より雲貴総督に命じられ、総督府のある雲南省の曲靖へと赴任することになった。赴任途中に大河を渡ったのだが、そこは前日来の大雨で増水しており、急流に押し流されて船が転覆してしまった。水中に投げ出された時、私は、この船に乗る前に声は聞こえなかったから、ついに天は私を見放して声をかけなくなったのだと思った」
「しかし、同じ船に乗っていた一人の若者が私を抱えて泳ぎ、岸にまで運んでくれた。若者の顔にはどこか見覚えがあったが、いったい誰であるのかは分からない。私が礼を言い、どこの者かと問うと、若者は答えた。『閣下、私はかつてあなたの従僕であった張の息子でございます。不幸にして父は私が幼い頃に病で死にましたが、死の直前まで私に『伊閣下には大恩がある。数が数えられない俺に美質があると閣下は認めてくださった。お前は常に閣下に従って、もし危難が見舞うことがあれば身を挺して閣下をお救いするのだ』と申しておりました』」
「そこで私は、二十一歳の時に盧溝橋の上で聞こえた天の声が『溺れるぞ』と言っていたのは、まさにこのことを指していたのだと悟った。あの時、あそこで張に向かって揶揄いの言葉をかけていたら……私は赴任前に死んでいただろう」
「年老いた現在では、めっきり声も聞こえなくなった。私もほどなくして、声を聞く側ではなく声を発する側になるのだと思う。私はそれが楽しみだ」
(「声」おわり)